開けてしまった密室
第11話・中町尚吾
第11話・中町尚吾
この事件は殺人事件であるか?
大川によってもたらされたこの命題に一番乗り気だったのは、意外にも真名戸先生だった。彼は自身の元法医学者という立場をフルに活用し、実際に現場に足を踏み入れ、情報収集しに行く気だった。
「警察や救急隊はまず、仁川先生の持病の容態について聞きたがるだろう。私が必要になる。私は捜査当局と繋がりが持てる。つまり私は、一般人が知ることのできない情報を知ることができる」
どうだい、私的捜査には必要不可欠だろう? そう肩をすくめる真名戸先生を、俺は黙って見つめているしかなかった。そりゃ確かに、私的捜査という点では文句のつけようのないくらい便利な存在になるだろう。しかし、問題はその私的捜査をどの規模で行うか、なのだ。先ほど俺が考えていたような、安全確保のための殺人説調査であればそこまでの権限は必要ない。真名戸先生が持っている権限は、どちらかといえば事件を解く探偵にこそふさわしい特権だ。
俺は最初、真名戸先生を止めるべきかどうか迷った。しかしド素人である俺とは違い、彼は死体の権威であるし、彼が現場に行けば捜査に役立つことも多いだろう。病死、事故、殺人のどれであるかは分からんが、仁川先生の正確な死因が明らかにはなるはずだ。
結局俺はどういうわけか真名戸先生に引っ張られるようにしてまたあの蒸された部屋に引き返すことになった。ついて来たいだろう? という先生の目線を否定しきれなかったのである。実際、興味が全くないわけでもなかった。しかし内心、心配の方が大きかったのだ。もう真夜中一時になろうとしていた。俺は部屋の鍵を持っていない。大川のやつが先に部屋にいて、しかも眠らずにいてくれることを祈るばかりだった。ベッドで眠りたいし、せめてスーツは着替えたい。
そんな感じで渋々ついていった仁川先生の部屋では、警察や救急隊の人たちがいろいろ調べ回っていた。真名戸さんはその様子を見て一瞬、怪訝そうな顔をした。
「鑑識が来ているな」
どうやらそのようだった。部屋の入り口からは、時折焚かれるフラッシュの明かりが漏れていた。
「高見くんが手配してくれたのかもな。ひとまず調べる、という方針を警察に伝えてくれたのかもしれない」
真名戸先生は一人でそう納得すると現場へと入った。俺はどうすべきだろうかと束の間、迷いはしたが、結局真名戸さんにくっついて中に入った。しかし彼に見習って、部屋の入り口付近から必要以上に中に踏み込まぬよう、細心の注意を払っていた。
「亡くなった仁川康之氏を診ていた真名戸という医者だ」
先生がそう名乗ると、早速室内にいた救急隊員たちが反応を示した。仁川先生の持病について、詳しい話を聞きたいと申し出てきた。
「ええ、もちろん。医務室に行けばカルテがあるので持ってこよう。ただ、ひとまず現時点での君たちの見立てを教えてもらっていいか」
「現時点では、心不全による死亡としか……」
「それは実質上、何も分かっていないということかね?」
後で知ったのだが、心不全による死亡、というのは原因不明の死体に用いられるある種のスラングらしい。
「いえ、ご遺体の特徴を見る限りだと、という意味です。聞くところによれば、ジゴキシンを服用されていたのだとか?」
この時、真名戸先生の顔は一瞬だけだが確かに曇った。
「ああ、処方していた」
「となるとやはり、持病の心臓病が、ということになりそうですね。詳しくはカルテを見ないと分かりませんが」
「ふむ、そうか」
真名戸さんは今の問答で救急隊に興味を失くしたのか、今度は室内を調べまわる鑑識班を見つめると、言った。
「何の調査をしているんだい」
「あ、えーっとですね」
「おや、真名戸先生、これはこれは」
ちょうどいいタイミングで、禿頭の刑事が一人、蒸された部屋の入り口にやってきた。半袖のワイシャツから出た両手をポケットに突っ込んで、どこか気障な雰囲気を漂わせた人だった。
「新谷さん。お久しぶりですな」真名戸先生が挨拶をする。
「ちょうど今、部屋に帰る高見さんを見送ったところでして」
新谷とかいう刑事はにこりと笑って一礼する。
「高見さんからの要請で一度調べることになりまして。病死と決めるのは早計かもしれないのだとか。通報をいただいた段階で既にその話が出ていたので、鑑識班をすぐに手配しました」
新谷さんは上司に報告するかのように丁寧な口調だった。真名戸先生も、その扱いには慣れているようで、「ふむふむ」ともっともらしく頷いた。
「指紋をとっているのかね?」
「ええ。ひとまず調べておけと言われても、何を調べていいのかまだ見当もついておりませんでね。形式的にでも捜査をして、いろいろ資料を集めておこうと。指紋みたいな目につきにくい証拠はうっかり消してしまいかねませんから。こうしてすぐに保存を」
指紋。世の推理小説ファンを沸き立たせる魔法の二文字である。この証拠物件については、過去にいろいろな作家、評論家の間で議論が交わされている。犯行現場で見つかる一番オーソドックスな証拠だからだ。
これは推理小説を読んでいるうちに身についた知識だが、指紋には実にさまざまな証拠能力がある。例えば、指紋というのは、なくても証拠になるのである。第一発見者のふりをして警察を呼んだ犯人が、手袋をしたまま電話をしてしまったため、受話器につくはずの指紋がないという理由で怪しまれ、逮捕されてしまった。この話は有名すぎる推理クイズの一つだろう。あるはずの指紋がないから怪しまれる。これが一つ目のケース。
二つ目のケース。例えば犯人が手袋をして殺人を犯し、部屋から出て行ったとする。その時当然、ドアノブに触れる。ところがそのドアノブには元々部屋の持ち主の指紋がべったりとついており(当然だろう)、犯人はその指紋の上から手袋でドアノブに触れたことになる。つまり、知らず知らずのうちに部屋の持ち主の指紋を拭ってしまったことになるのだ。実はこれも立派な〈痕跡〉になる。残っているはずの指紋まで消してしまったというケースだ。他にも犯人ではなく探偵の指紋が手がかりになる場合や、そもそも指紋を防ぐはずの手袋の裏側についた指紋が手がかりになる場合なんかもある。
「本件は高見さんと私が中心となって動いていく方針です。明日の朝にはある程度のことは分かるようになるかと思います」
新谷さんは締めくくるようにそう言った。真名戸さんが頷く。
「そうか。それじゃ、私たちはお邪魔にならんようお暇しよう……ああ、そうだ。カルテを取って来るんだったね」
「お願いします」
新谷さんが深々と頭を下げる。真名戸先生は出口へと向かった。俺も後へついていった。暗い廊下に出ると、先生はそのまま医務室へと向うつもりらしく、一階へ続く階段のところで俺たちは別れた。俺はめまいがするほどくたびれていたので、真っ直ぐ部屋へ向かった。三階まで上ったことは覚えているが、後のことはあまり記憶にない。倒れ込むようにしてドアを開けたのを何となく覚えている。
翌朝午前七時。
意外にも、大川は俺が部屋に戻るまで起きて待っていてくれたから、無事に朝までベッドで過ごすことができた。ふかふかのベッドで十分な睡眠をとった翌朝、俺たち樫鳥湖荘の客人は、高見さんの召集で玄関ホールへと集められた。召使や住人たちも、同様に集められていた。昨日の一件でびしょびしょになったからか、床からは絨毯が綺麗に取り払われて、大理石の床が露わになっていた。
「皆さん。お忙しい中恐縮ですが、一つお願いがあってこうして集まってもらいました。実は、当局は本件について、さらなる調査の必要性があると判断しました。つきましては、本来このパーティが予定されていた三日間、皆さんにはこの屋敷に留まってほしいと考えております。ご多忙の中、大変申し訳ないのですが、何卒捜査にご協力願います」
起き抜けで誰もかれもパジャマ姿だったが、高見さんのその発言でどっと沸き上がった。
「何それどういうこと?」「事件性があるということですか?」「詳しく話を聞かせてもらえますか?」皆藤さんや南さんといった出版社の女性陣からそんな声が聞こえてきたところで、俺の隣で立ち尽くしていた大川は、ようやく目が覚めたようだった。起きがけに一言。「晩飯か?」
「……どんだけ寝る気だ?」
たぶん、朝飯の間違いだろう。寝起きはたいてい寝ぼけているのが大川だ。元から居眠りが多いので、睡眠に多少問題があると思うのだが、本人は特に気にしていない様子である。普段なら自発的に目覚めるまで放置しておくのだが、昨晩眠らずに待っていてくれたという借りがあるので一応、起こしておくことにした。
「おい、起きろ。どうやら事件らしいぞ」
大川の大好きな「事件」という言葉をチョイスしてみると、やはり効果覿面。彼はぱっちりとあの大きな目を開くと「満州事変?」と聞き返してきた。世界史好きだったもんな、君。資料集とか読み込んでたよね。
「じ、け、ん。事件」
まるで外国人に日本語を教えているような気分。
「事件? 何のことだ」
「昨日の件だ。記憶喪失にでもなったのか」
ここで大川はようやく本格的に覚醒したらしい。彼は寝癖でぼさぼさになった頭を引っかき回すと(何を隠そう、彼は中学時代、横溝正史のファンだったのだ)、「昨日のあれ、事件になったのか?」と聞き返してきた。
「さっきからそう言ってるだろ。何ページ割く気だ?」
誤解のないように言っておくと(何に対する誤解かは明言しない)、俺と大川の間では、ちんたらちんたら間延びした話のことを、つまらん話にくどくどページを割くつまらん小説家になぞらえて「何ページ割く気だ?」と揶揄する文化が成立している。主に、酒の席における奈鶏先生の話などに用いる。
「はぁ? 昨日はさんざん否定していやがったくせにか? ここに来ていきなり?」
「もっと詳しくお願いします!」大川の独り言に張り合っているのか、南さんが声を大きくする。高見さんが苦い顔をして答える。
「昨晩、仁川先生のお部屋を調査していたところ、いくつか不審な点が見られました。事件であるか、事故であるか、現時点では断定できませんが、詳しく調査する必要があります。どうか、ご協力のほどよろしくお願いします」
「三日以上拘束されることはないんだね?」
箕作さんがそう念を押した。彼も寝起きが悪いのか、鼻に乗った眼鏡がずれていて、髪はまるで雀の巣のようだった。縦縞模様のパジャマが何だかマンガのキャラクターみたいで滑稽だった。
「期間についても正確なことは言えません。しかし、三日以内に何らかの結果を出そうとは考えています」
「困るなぁ、こっちも仕事があるんだけど。だいたい、仁川先生はご病気で亡くなられたんじゃないのかい。そこに疑いを持つということは、事故か事件か、どちらかを疑っているということになりそうだけども」
「そのどちらとも断定できません。現時点では」
「何も答えていないじゃないか。それじゃこっちも協力できないよ」
「あの、会社に連絡してもいいですか?」
そうやって大人たちが騒ぎだした頃、一人だけパジャマ姿ではなく立派なジャケットに身を包んだ真名戸先生が、俺たちの方に近づいてきた。小さな眼鏡の奥に深刻そうな光を灯して、一直線に俺たちの方に接近してくる。彼は俺と大川の腕をとると、ひっそり、ホールの隅へと移動した。それからこほんと咳をして、こう言った。
「警察が本件を事件だと断定した理由、知りたいか?」
大川がすぐさま飛びついた。
「もちろん、知りたいです」
「しーっ」真名戸さんは人差し指を唇に当てると、こう囁いた。
「新谷からさっき聞いたんだが、どうやら指紋の問題らしい」
「指紋?」俺は昨夜の光景を思い出した。どこから手を付けていいか分からない捜査。ひとまず、情報収集としての指紋調査。
「不審な指紋があったということですか?」
「そこまでは、分からん。あいつもプロだ。捜査関係者でもない人間に必要以上の情報は漏らさない。ただ……」そこで真名戸さんはもっと声を低くした。
「今後、彼らは本件を殺人事件と見て捜査を進めるらしい」
その一言が重たく俺の胃にのしかかってきた。まるで大きな石の塊でも飲まされたような気分だった。昨日、大川があんなに騒いでいたのにちっとも現実味を帯びなかった殺人という単語が、突然とてつもない存在感を持って俺の前に現れた。
「で、でも、部屋の出入り口には鍵がかかっていたわけですよね?」
「そう。密室だった」真名戸さんは強く頷いた。そして絶望的な一言を放った。「警察は、これを密室殺人と断定した」
密室殺人。その言葉には普段本屋でよく出会っていて、会う度に胸をときめかせたりしたものだが、さすがにこの出会いだけは、一生遠慮しておきたかった。
「密室だった時間は、加守さんが風呂の支度をしに仁川先生の部屋に行った夜十時から、先生が遺体となって発見された夜十一時過ぎの間の一時間強ということになっている。加守さんが風呂の支度をしに行った時は、先生自ら部屋のドアを開けているはずだから彼女が鍵を持っているということはない。唯一、鍵を持っていた人物である菜月さんはパーティの準備やらで忙殺されていて先生の部屋には近づけなかった。彼女がパーティ会場にずっといたことは、出席者全員から証言が得られる。そして……」
真名戸先生は続ける。「さらに不吉な情報がある」
「なんすか」大川が目をキラキラさせて聞く。何でこの境遇に興奮してんだこいつ。頭おかしいだろ。
「島の周辺に人の出入りした形跡はない。湖周辺を監視しているカメラにも、不審な船や人の影はなかったそうだ。この島はおろか、樫鳥湖周辺に怪しい人物は近づいていない」
「マジっすか」
「つまり現状、クローズド・サークルというわけですか」
俺の問いに真名戸先生は冷たい微笑みを浮かべた。
「そうなるな。犯人はこの島の中にいることになる」
「でもそれって、変じゃないですか?」俺は疑問を口にした。
「仮に僕が犯人だったとしたら、そんな自分が容疑者の範囲内に入ってしまうような状況に、わざわざ身を置かないと思うのですが」
「うむ。だからおそらく、このクローズド・サークル自体は犯人にとっても想定外の事態と言えるのではないだろうか」
「そりゃあそうでしょうよ。あの感じだと、どうやら病死に見せかけて殺すつもりだったみたいだし。何があったか知らねぇっすけど、殺人と見破られた段階で向こうの計画も破綻してんじゃねーんすか?」
大川が頭をぼりぼりと引っかき回す。
「まぁ、警察もそう考えた上で、明言を控えているんでしょうけど。犯人に下手なプレッシャー与えても困る、みたいな」
そうだろうな、と真名戸先生が頷いたところで、大川が意地の悪い笑みを浮かべた。あの唇の片側だけを引き攣らせたような笑顔だ。
「ところで真名戸先生。俺たちにその話しちゃっていいんすか? 俺たちだって容疑者でしょ? 犯人かもしれないっすよ?」
「ふっふ。そうだなぁ」先生も不気味に笑った。「しかし私も犯人かもしれんよ」
「そいつは笑えませんや。医学的知識もあるし」
「確かに、病死に見せかけて殺す手段はいくつか知っている」
内容は軽口だったが、しかし深刻な顔をして先生は言った。
「そしてどうやら、犯人もその知識があるらしい。君たち、危ないことをしてはいけないよ。仁川さんから〈探偵系のスタイル〉をあてがってもらった二人だから、危険なことをするんじゃないかと心配でね。古来より、探偵は好奇心に駆られた自殺志願者だからな」
すると大川が言い返す。
「実は先生もその口なんじゃないんすか?」
「かもしれん」真名戸さんは特に悪びれもせずに答えた。「どうせ黙っててもそろそろ死ぬだろうしな。はっは」
「自殺幇助させてもらいますよ。場合によっては心中」大川がまたにやりと笑う。こいつ、悪ノリが過ぎるんだよな。
「ちなみに一つだけいいですか。真名戸さん」
大川が真名戸さんに訊ねた。先生は首を傾げた。
「昨日のパーティの時みたいに、仁川先生が周りの人に〈スタイル〉を当てたことってありますか? もしあったとしたら、加守さんの〈スタイル〉とかって、聞いたことありますか?」
加守さんの〈スタイル〉? そんなの聞いてどうするんだ。俺と同じことを思ったのか、真名戸さんは一瞬、怪訝そうな表情を見せた。しかしすぐに「あるよ」と頷いた。
「加守さんがこの家に来たくらいの頃だったな。仁川さんが、昨日みたいな話の流れで家にいる人間数名に〈スタイル〉を振ってくれたんだ。何系だったか忘れたが、確か彼女が言われていたのは……」
真名戸さんはここで一呼吸置いた。
「『気づかれずに相手に近づき、なすべきことをなす。表情や態度に色はなくつかみどころがない。まるで――〈亡霊〉のようだ』だったかな」
「〈亡霊〉、ですか」大川は目をギョロッとさせた。何か問題でもあるのかね? という風に首を傾げる真名戸さんに、大川はつぶやく。
「いやぁ、〈ボクサー〉とは相性が悪そうだな、ってね」
「〈騎士〉ともそうだろ」俺はつぶやく。〈亡霊〉を『物理攻撃無効』と解釈するなら剣でも拳でも関係ない。大川は続けざまに、俺もちょっと気になっていたことを訊ねた。
「ちなみに、真名戸さんは〈スタイル〉お持ちなんですか?」
「あるよ」真名戸さんは何だか恥ずかしそうに笑った。
「私は〈猟犬〉だそうだ。『探偵系。鋭い嗅覚で問題を見つけ出し、これと決めた相手を徹底的に追い回す。時にはサポート役として探偵に付き添うワトソン系になる』。そういえば昨日、みどりさんが〈魔女〉のスタイルを振られていたから、ついに家にいる者全員が〈スタイル〉を持ったことになるわけだ」
「真名戸さん的には、みどりさんの〈魔女〉のスタイルってどうなのでしょう。的を射ていますか?」
しばらく考えた後、真名戸さんは真剣な顔をして頷いた。
「的を射てると思うよ。あの年齢であの美しさだからね、彼女は。まぁ、だからこそ、時々心配になるんだが……」
そう言って真名戸さんは目線を持ち上げた。俺はつられて彼の見ている方向に目をやった。真名戸さんの目線の先には、高見さんの説得に真摯に耳を傾けるみどりさんがいた。彼は遠くに佇むみどりさんのことを、温かく見守っていた。
午前十時の朝食の席で、真名戸さんがつぶやいた。高見さんによる説得が終わった後のことだった。
「死因はやはり心臓発作ということらしい。意図的に起こされた心臓発作。つまり最初大川くんが疑った通り、安全量を超えて処方薬を飲んだがため死亡した。薬を使った毒殺ということになる」
場所は昨夜のパーティ会場。どうやら普段は大ホール兼食堂として使われているらしい。他の客人たちはどうにも食欲がないらしく、席にいるのは俺と大川と真名戸さん、そして疲れ果てた表情の高見さんしかいなかった。彼は自分の世界に籠りたいのか、俺たちからかなり距離を空けた席に座っていた。
「仁川先生は密室で殺害されたんだ。どこで毒を盛ったか、というのが、大きな問題になってくるな」
真名戸先生は独り言のように言った。
「室内で毒を盛ったのだとしたら、どうやったのか。何か理由をつけて直接飲ませるなりしたのか。あるいは室外で盛られたのか。だとしたらどのタイミングで盛られたのか」
「警察もその観点で捜査を進めているのですか」
俺が訊ねると、真名戸先生は首を横に振りながら言った。
「警察はまず、毒の出所を調べようとしている。仁川さんに処方した薬がきちんと残っているかを確かめるつもりらしい。ジギタリス草から抽出するという手法よりも、処方した薬を悪用するという方が先に考慮すべき手法だからね」
「ちなみに薬の保管はどこに?」俺は訊ねる。
「薬品庫。実験室の中にある。仁川先生の薬の管理は私とみどりさんとで毎週行っていた。つまり、私が処方量を決めて仁川さんに処方し、みどりさんが残量を確認して足りないようなら発注する。薬品の在庫管理は使用目的を問わずみどりさんが一括して行っていた。補充はみどりさんの仕事に関わる薬ならみどりさんが、治療に必要な薬品なら私がそれぞれ発注をかける。どちらも昨日君たちが乗ってきた遊覧船に乗って運ばれてくる」
「メイドさんたちは、仁川先生のお薬を用意する時にわざわざ実験室まで行くんですか?」
「いや、錠剤だから必要量だけを別途ケースに入れて医務室に保管していた。処方量は一週間ごとに経過を見て決めていたから、薬の補充も一週間単位だ。だいたい0.25mg、きっかり一錠を摂取させていたよ。メイドたちは薬を用意する時、曜日の書かれたケースから錠剤をとって仁川さんに渡す。今週もそうだった。ちなみにこの処方量は決定し次第仁川さんにも伝えている。今日は木曜日だから、医務室には今日の分を含め四錠残っていればいい計算になる」
するとスープ用のスプーンを咥えていた大川がつぶやいた。
「でも実際どうなんすかね。病死を装いたい人間が薬をちょろまかして飲ませるだなんて、そんな疑われやすい上に痕跡をごまかしにくい方法とるとは思えねーんすけど」
真名戸さんが神妙な面持ちで頷く。
「確かに。しかし可能性というものは一つ一つ潰していかないと」
その日の朝食は、スクランブル・エッグにソーセージ、コーン・スープにクロワッサンだった。俺は二つに割ったクロワッサンを頬張りながら訪ねた。
「にしても、警察が殺人だと断定した指紋の問題って、どんなのなんでしょう。不審な指紋が見つかったということでしょうか」
「詳しいことは何も聞けなかったからな」真名戸さんが残念そうに目を伏せた。大川がその横で、いっそあいつにでも聞いてみるか? と言いたげに高見さんの方をチラ見していた。こいつといると朝からハラハラする。
「まぁ、指紋についてはいくら考えても結論は出まい。分かるところから考えていこうじゃないか」
「心中街道まっしぐらー」
俺はごめんだけどね。
「まぁ、仁川先生の殺害後、どうやって現場を密室にしたのかという大きな問題はあるが、しかし室外で毒を仕込んだのだとすれば密室もそこまで難しくはない。他の殺害方法と違って、毒は時限的かつ遠隔的に殺人が可能だからな。考えるべきはやはり毒だろう。仁川先生が部屋に入る前、つまり室外のどこかで毒が盛られたんだ」
真名戸さんが推理談義を始めようとしていたその時、ホールの戸が開いて、加守さんが入ってきた。相変わらず姿勢は正しい。
「お、加守さんじゃん」
大川がいろめく。彼女は給仕係をしていたメイドに声をかけると、その場を交替した。
「ちょっとコーンスープおかわりしてくる」
今日もいいおっぱい。あいつがそうつぶやいたのを俺は聞き逃さない。もちろん、真名戸さんも。苦笑した後、先生は言う。
「彼は事件よりも恋かね」
「恋って感じじゃ、ないと思いますけど」
あいつは恋をするとずっと我慢をしていた小便を解放しているような顔になる。今のあいつは違う。今のあいつは性欲のお化け。
「そうか。いや、彼の意見を聞いてみたいと思っていたのだが」
「何についてですか?」
真名戸先生にあてにされるだなんて、あいつも出世したものだ。
「さっき話したどこで毒を盛ったのかについてだよ。毒の混入経路とでも言おうか。彼の第六感による意見を聞いてみたかったんだ」
医者が第六感に頼るなんて困ると思いながら、俺は答える。
「まぁ、真っ先に考えるべきなのは、菜月さんでしょうね」
「ほう」真名戸さんがコーヒーを片手に興味深そうにうなずく。
「昨日は彼女が薬を用意したんでしょう? それも、普段は加守さんが用意するはずだったものを昨日だけ特別に彼女が用意した。犯人は、薬の分量を変えることで毒として利用した。懐疑を挟む余地があるとすれば、まず薬を用意した人物です」
「つまり、菜月さんが薬の量を変えたという説だな?」
「有体に言ってしまえばそういうことです」
「ふうむ」真名戸先生は人差し指で顎を一撫でした。俺は大川が加守さんに話しかけに行く様子を見ていた。自分が容疑をかけている人間と穏やかに挨拶なんてしている。俺なら、怪しいと思っている人物からはある程度距離を置いて、こちらの動向に勘づかれないよう、気を遣うものなのだが……。彼は積極的に自分の手の内を明かす傾向にある。トランプで遊ぶ時も、あえて手札公開でプレイして場の雰囲気を引っ掻き回すこともある。
「しかし君のその説は、おそらく警察も検討するだろう。もう一つ、角度の違う案を持っていたいね。二つ同時に検討しておいて、一方が駄目ならすぐ他方に移れるようにしておきたい」
考え事タイムが終わったのか、真名戸先生はこちらに目線を戻すとそう言った。どうしてそこまで急ぐのだろうか。
「でしたら、食事を調べるしかないです。注射痕がない以上、経口で摂取したと考えるのが妥当でしょうから」
食事の線を疑うなら、薬の作用時間を考えても、パーティの食事に混ぜられたという線が濃厚だ。朝食や昼食に混ぜておいたのが夜中になって作用する、というのは考えにくいと言える。
しかし、異なる二つの薬を利用し、作用時間を操作したという事件が過去に実際、起きている。推理小説ばりの巧妙なトリックを使った事件としてニュースにもなっていた。心臓の働きを弱めるAという薬、心臓の働きを強めるBという薬があったとする。まずAを飲ませた後にBを飲ませると、ほんのわずかの間、AとBがお互いの作用を打ち消しあう。しかし先に投与したAの効果が切れると、Bが作用して被害者を死に至らしめる。この場合、Bの本来の作用時間よりもはるかに長い時間がかかって死亡するため、毒物の特定がしにくくなる。混ぜるな危険というのはどのような薬品にも言えることだが、混ぜることがもたらす危険は何も化学反応のみならず、その作用に大きな変化を与えてしまう点にもある。今回もそうした配合によるトリックを考慮すれば、朝食昼食も疑いの範囲に入れてもよさそうだが……。
「仁川さんは小食でね。この頃は日に一食しか食べていない」
可能性は徐々に狭められている。
「私は食事に薬物が混入した線を調べてみたいと思う。薬の方は、黙っていても新谷くんがやってくれそうだしな。君はどう思う?」
やはりというか。いつの間にやら、俺は真名戸さんと行動を共にする助手役に収まってしまったらしい。まぁ、情報収集をするには絶好のポジションだろう。
「時田さんから話を聞いてみましょうか。料理長さんなら、食事に関することは一通り把握しているでしょうから」
「ああ、時田くんか」しかし真名戸さんはつまらなそうに言った。「彼は、どうだろうな」
「どうしてですか?」俺は訊く。
「料理以外のことには興味がない変人なんだ。今時の若者にありがちなことだよ。自分の関心ごと以外には価値を見出さない」
その理屈だと大川はおっぱい以外に価値を見出さないことになる。
「しかし、今は他に打つ手もない。まずはそこから当たってみるか。今はちょうど昼食の準備で忙しいだろうから、午後二時くらいに行ってみようかね」
腕時計を見た。午前十一時過ぎ。昼が近づいている。窓から見える箱根の空には薄く雲がかかっていて、気のせいか霧も出ているような気がした。八月なのに鳥肌が立った。朝日も少し霞んでいる。
昼食は、ハンバーガーだった。広辞苑ぐらいの厚みのあるハンバーガー。真名戸先生曰く、この手の本格的なハンバーガーは自分で食べやすい大きさに潰してから食べるものらしいのだが、そんな真似をするくらいなら最初から食べやすい厚さにしておいてほしいものだ。本格的なのか何なのか知らんが、ハンバーガーは日本のチェーン店に限る。
そんな面倒くさい昼食の後(言っておくが味はよかった。さすが時田さん)、俺と真名戸さんは調理室を訪れた。
「すみませんね。今ちょっと忙しいもので」
事件について聞きたいことがあると切り出すと、料理長の時田真斗さんは大量の皿を箱から取り出しながらそうつぶやいた。部屋自体、決して狭くはないのだろうが、業務用冷蔵庫やアルミ製食器棚などに埋め尽くされて、人が並んで通行できる場所はほとんどなかった。高校の文化祭の時に、机を並べて作った迷路を思い出した。実際この部屋の見取り図を起こしてみたら迷路みたいになるんじゃないかな。俺は真名戸さんの背後でこっそりと話を聞くしかなかった。
「確かに忙しそうだ。しかし何だね、これは」
時田さんが箱から出しているのは、まだ油汚れがついていたり、すすがれてさえいないような皿だった。真名戸さんが疑問に思うの無理はない。
「昨晩遅く、夜中の一時くらいに警察の方から提出を頼まれまして。パーティで使用した食器や調理器具の類をすべて貸し出しました。料理に異物が混入した形跡を分析したいのだとか」
夜中の一時と言えば俺と真名戸先生が仁川先生の部屋で新谷さんと会った時間だ。あの頃にはもう本格的に捜査が始まっていたのか。
「ついでに昨日仁川先生が薬を服用する時に使われたコップなんかも調べたそうですが、夜通し分析にかけても特に何も見つからなかったとのことなので、ついさっき、返却していただいて、片付けているところです」
驚くべきことに、警察の手は既にここまで回っているようだった。さすが日本の警察。俺たちは完全に出遅れたことになる。
真名戸さんが、解せないような顔をして言った。
「薬を服用する時に使ったコップ? どうしてそんなものを?」
さぁ、という顔をする時田さんの代わりに俺が説明した。
「仁川先生はもともとジゴキシンを服用されていたようですから、少し量を増やせばあっという間に致死量です。水にジゴキシンを融かしておいて、その水で薬を服用させれば、最終的に摂取した量は安全な量より多くなってしまいます」
さっき大ホールで俺が説明した、菜月さんが薬の量を増やした、に該当する選択肢だと思う。コップの水は彼女が用意するのだろうから。
「ふむ、なるほど」
ついでに素朴な疑問を口にする。
「しかしそれより僕が気になるのは、コップやお皿の検査って、そんなに早く済むものなんでしょうか」
「鑑識にある光学分析機を使ったんだろうな。十時間以上あれば、痕跡のあるなしくらいの簡単な分析はできる」
「やっぱり捜査関係なんですね」俺たちの会話を聞いて眉を顰める時田さん。
「昨夜、仁川先生にいったい何があったのかは知りませんが、そこまで詳しく調べるような事態なのでしょうか」
「どうしてそう思う」
「元法医学者の先生が動いているってことはそういうことなんじゃないかなと。つまり……殺人事件とか」
「いや、私が動いていることに大した意味はないのだが……それに、法医学者は事故死や病気による不審死を扱うことだってあるよ」
さっき高見さんは懸命になって事件性を隠したがっていたが……既に殺人事件という噂はこの屋敷中に広まりつつあるらしい。
「僕の皿に毒でも盛られたと思われているのでしょうか」
時田さんは低く唸った。何種類もの包丁がしまわれた革のケースをばたんと閉じる。
「失礼な話です」
どうやら、彼はこの事態に憤りを覚えているようだった。職業上のプライドという、真名戸さんとよく似た理由で。
「言わなくても分かってるんです。鍵のかかった部屋。不自然な死。どう考えたって、何か事件に決まってる」
この人も大川と同じ直感型なのかもしれないな、と俺は思った。
「決めつけるのはよくないよ。高見さんだってまだ判断しかねると言っていたじゃないか」
「あんなのは誤魔化しに決まってます」
「本当に困っているのかもしれないだろう? それに私が見たところでも、仁川先生の死因は心臓発作だよ」
嘘は言ってない。問題は意図的な発作か否かなのだ。
「でも、先生自身納得がいかないところがあるんでしょう。だからこうして屋敷中の人間に聞いて回っているのでは?」
「私は職務を全うしているだけだよ。この屋敷の保健医としてね」
しかし反論する真名戸さんの声は小さい。時田さんは確信したような顔になって言った。
「僕が事件に関して言えることがあるとすれば、犯人はバカだということだけです」
思った方向とは違うが、しかし意外にあっさり彼の口から事件について聞ける展開になった。真名戸先生は目の色を和らげて言った。
「ほう、それはどうしてかな?」
「よりによって毒殺を選ぶなんて。日本には、SPring-8があるのに」時田さんはちらりと俺の方を見る。「そこの彼はまだ幼かったはずだから覚えてないかな。九十年代終盤に関西地方で起きた、毒殺事件」
ふむ。九十年代終盤は俺が小学生になるかならないかくらいの時期だから、確かに記憶は薄い。……が、どっこい。俺は物理学専攻だ。事件のことは知らなくても、SPring-8のことは知っている。SPring-8とは、放射光と呼ばれる特殊な光線を用いて、物質を原子・分子レベルで調べることができる大型研究施設のことである。
「ホームレスに配られた甘酒に青酸が混ぜられ、大勢の人間が死亡した事件。あの時、証拠隠蔽のために洗浄された鍋から、微量な青酸を検出したのがSPring-8でした。鍋を原子レベルで調査することで、洗い落としてもわずかに残る毒の痕跡を見抜いた。あんな捜査方法があったんじゃ、毒殺なんかするよりバットでぶん殴った方がよっぽど完全犯罪だ」
確かに。これから殺人を実行しようとする犯人の選ぶ手段が毒殺だとすれば、SPring-8ほど恐ろしい存在はないだろう。SPring-8は微量な物質も検出できるし、さらにその物質の出所や持ち主を特定することもできる(物質固有のX線を調べることで異同識別することができる)。
しかし厳密に言えば、Spring-8から逃れる手はある。あれはもともと犯罪捜査用に作られたものではないわけだから、捜査に使用するとなればそれなりの根拠が必要になる。『何があるか分からないけど、とりあえずやっとくか』なんてことはできないのだ。あるいは、調査の対象物が手元にない場合も意味がない。当たり前だ。ないものを調査はできない。甘酒の事件も、そもそも鍋を捨てられてしまったらどうしようもなかったのだ。
つまり、犯人にできる回避策は二つ。SPring-8に頼る必要性を感じさせない(毒殺という疑いをそもそも持たせないようにすればいいのではなかろうか)、もしくはそもそも証拠物を残さない(毒殺に使った鍋なんかは廃棄して警察の手に渡らないようにしてしまう)。おそらく今回の犯人は前者をとったのだろう。すなわち、毒殺を疑わせないほど巧妙な手で病死に見せかける。そのために犯人はジゴキシンを使用した殺害方法を考えた。一見すると持病の発作にしか見えないような、悪辣な手段を……いや待て、どっちもとったということも考えられる。今回の事件ではまだ、二つの回避策のうち、「そもそも証拠を残さない」という線を棄却するに十分な情報はまだ出てきていないのだ。犯人が回避策の両方を採用して、万全を期した、ということは考えられる。
そしてそういう観点から考えれば、時田さんがこの作業を無意味だと感じることももっともなのだ。食器や調理器具なんか調べたところで、病死を装うような計画的思考のできる犯人が、そこに痕跡を残しておくようなへまはしないだろう。例えそれが、原子レベルで観測しなければ分からないような証拠であっても。食器を湖に投げ込んで破棄するなり、大量の洗剤で洗いまくるなりして証拠の隠滅を図るはずだ。検査結果なんて出なくて当然。この世に最新科学捜査の猛威がある以上、簡単にそこと分かる場所に毒を混ぜたりはしないのが当然だ。捜査の手が及ばないほど意外な場所なら別として、ひとまず調べてみよう、となりそうな場所に毒を仕込んだりはしないだろう。
とはいえ、確認は必要である。
「あの、一ついいですか」
真名戸先生と時田さんが同時に俺の方を振り返る。
「SPring-8の存在って、一般にどれほど知られているのでしょうか。メジャーな存在じゃなければ、犯人がそれを考慮したとは考えにくいような気もするのですが」
すると真っ先に時田さんが口を開いた。
「有名だよ。少なくとも、あの事件の報道をリアルタイムで見た人は絶対に知っている」
「それにもし知らなくても、犯人だって、人一人を殺そうっていう時には下調べくらいするだろう。この情報化社会だ。過去に起きた毒殺事件がどういう経緯で解決したか、まとめたサイトだってある。あのホームレス事件だってきっと詳しく載っているところがあるだろう。そうしたものから先人たちの失敗を学び、策を練るのが当然だと思わないかね」
いつの間にやら真名戸さんまで時田さんの肩を持つような構図になっていたが、しかしSPring-8がそれほど知られている存在なら(あるいは知られ得る存在なら)、この事件においても考慮の必要が出てくるだろう。事態は思ったより厄介になってきている。
「まぁ、もしかしたら料理に毒を混ぜられた、っていう事実をどうしても認めたくない僕の詭弁なのかもしれないですけど」時田さんはぱたんと空の段ボール箱を閉じた。「でもやっぱり、こんなこと無意味だと思うんです。警察の方々が何を根拠に事件性を疑っているのか僕は知りませんが、それでも多分、こんなところに痕跡は残っていない。きっと、先生は寿命だったんですよ。神様による殺人です。誰も悪くはないんです」
「そうだといいのだがね。しかし、それを証明しないといけない」
「そうですね。僕もこうして命より大事な調理器具や食器を赤の他人に渡してしまったわけだし」
時田さんは風船の空気が抜けるような深い溜息を一つ、ついた。
「話し込んでしまいましたね。まだ聞きたいことはありますか?」
「いや、いいよ」真名戸先生は顔の前で手を振った。
「君はあくまで殺人だと信じているようだが、私は事件を受けて、関係者の心的負担を考えて動いたまでのことだ。心のケアも、保健医としての務めだからね。こうして話を聞けただけでいい」
もっと早くその言い訳が出てくればよかったのに。とはいえ、タイミングとしては悪くない。俺と真名戸さんは料理に毒を仕込む方法について情報収集しに来たのだが、俺たちが当初想定した ①菜月さんが薬の量を増やした。 ②料理か何かに混ぜて摂取させた。という二つの線は、警察による捜査で既に棄却されてしまっていたのだ。収穫ゼロどころか、SPring-8という存在が現れたことで、さらに事件の謎を深める形に終わってしまった。犯人は科学捜査の脅威から逃れる手段を考案したのか? まだ犯人が科学捜査の猛威を考慮したに違いないという確かな根拠はどこにもないが、考慮した場合と考慮していない場合、どちらも考えておいて損はない。
そして、おそらく考慮していない場合というのは高見さん新谷さん率いる警察の人たちが捜査を進めてくれるだろう(そもそもこの二つの大別なく調べているのだろうが、分別がないということは、かの研究施設を考慮に入れていないということである)。と、なれば俺たちは考慮に入れた場合を考察することになるので、自体は格段に難しくなってきたと言える。
俺と真名戸先生は時田さんに礼を言うと調理室を出た。重たいドアが閉じた後、真名戸先生がぼやく。
「犯人が仁川さんに嘘をついて処方量を勝手に増やしたという線は考えられん。あの薬に関しては私の言うことが絶対だということを何度も言って聞かせていたし、週初めの処方量は原則的に変化しないと、しっかり言いつけてある」
途方に暮れる、という表現が的確だろう。真名戸さんはじっと床を見つめたまま歩いていたし、俺は廊下の窓が小さく切り取った外の景色を、何の気なしに見つめながら歩いていた。窓からは湖面が見えた。波の荒い樫鳥湖は、まるで機関銃の一斉射撃のように光を反射している。八月の日差しは容赦なかったが、やはり気温は低く過ごしやすかった。いっそ、夏の間はずっとこっちに引き籠っていたいなどと思ったくらいだ。
「薬もダメ、食事もダメ、か」
前を歩く真名戸先生がつぶやく。俺は言ってやった。
「経口摂取の線は否定されたことになります。食事の線が消えたことで、『部屋の外で毒を盛った』可能性についても棄却されました」
「そのようだな」先生の声に滲む落胆ぶりは深刻だった。
「注射など、無理やり摂取させた線は先生が既に棄却されています。これは仁川先生に直接毒を盛りに行く方法ですから、『部屋の中で毒を盛った』線の棄却にもなります。事実上、毒殺は否定されました」
別に真名戸先生に意地悪をしようと思ったわけではないが、単なる事実確認として、俺はそう述べた。しかし真名戸先生は、苦々しい感情を噛み締めながらも、目に一筋の光を宿しているような顔をしてこう言った。
「いや、人の体内に薬を入れる方法は、まだあるにはある。とても恐ろしい方法だがね。今君が言ったところの、『部屋の外』『部屋の中』のどちらに該当するかは分からないが」
「……吸引ですか?」
俺は一番最初に思いついた方法を口にした。気体化した毒物を吸ってしまうという説だ。しかし先生は、首を横に振った。
「それも確かに恐ろしいが、今回は違うだろうな。ジゴキシンの沸点は九百度以上だからそもそも気化させることが難しい。粉末状にするなどして吸わせたのだとしたら鼻毛に粉末が残る可能性があるわけだ。私の見た限りだと仁川さんの鼻は実に綺麗なものだった。恐ろしい方法というのは他にある」
恐ろしい方法。今まで推理小説で数々の『恐ろしい方法』を目にしてきた俺は、多少のことでは驚かない自信はあった。真名戸先生もその自信を察してくれたのか、一呼吸置いた後、こう続けた。
「例えば、電車で吊り革を利用した人間が全員死んでしまうような場面は想像できるかね」
俺は何も答えなかった。真名戸さんが続けた。
「他の例を挙げよう。呪いのコインのトリックは分かるか? 触れた人間が死んでしまう古の貨幣だ。もちろん、オカルトではない」
今度のも分からなかった。俺は首を振った。
「だろうな。普通、こんな方法はすぐに思いついてほしくはないものだが……しかし、海外のミステリドラマや映画、歴史上の暗殺事件なんかだと、たまにこの手法が使われることもあるらしい」
「どんな方法ですか?」
我慢できなくなって俺は聞いた。真名戸先生は答えた。
「経皮だ。経皮摂取」
漢字の変換に一瞬詰まったが、すぐに皮膚を介して毒が体に入って行くことだと理解すると、俺はこう訊ねた。
「ジギタリス製剤にはそのような摂取方法もあるのですか?」
「ない。基本的に、人の皮膚というのは高性能なフィルターだからね。よほど細かいものじゃない限り、体内には浸透しない」
だったら……と続けようとした俺を、真名戸先生はその場で突然立ち止まることで制した。
「人の皮膚から物質を体内へ浸透させるには、ある特殊な薬品を用いる。本来は皮膚によって拒絶されてしまう物質も、この薬品と混ぜることで、体内に入れることができる」
その特殊な薬品を使ってジゴキシンを皮膚から摂取させたということだろうか。まさに混ぜるな危険というやつだ。本来は皮膚から浸透しないジゴキシンが、その薬品と混ざることで肌を透過するようになるのだから。
「……その薬品の名前は?」
俺の問いかけに、真名戸先生は答えた。低く、唸るような声で。
「DMSO。ジメチルスルホキシド」
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