・毒の科学
(1)毒とは何か?
フグ毒のテトロドトキシンやトリカブトのアコニチンなど、私たちの身の回りには、毒といわれるものがたくさんあります。これらの毒は化学物質であり、本来、私たちの身体の正常機能には無関係な物質です。このような物質を、生体異物といいます。生体異物が生体内に入ったとき、生体に有害な作用を引き起こしたなら、その物質は毒であるといわれます。しかしながら、必ずしも「生体異物=毒」という関係が成り立つわけではありません。生体異物は、薬になることだってあるのです。生体異物が生体内に入ったとき、生体に有益な作用を引き起こしたなら、その物質は逆に薬であるといわれます。
一般的に、毒と薬は、対義語のようにいわれることが多いですが、科学的には、毒と薬の間に明確な違いはなく、ともに生物活性に影響を与える作用があるという点では、本質的には全く同じものなのです。したがって、使いようによっては、毒が薬になったり、薬が毒になったりもするのです。毒も薬も含めて、生体異物の危険性というものは、一般的に以下のように表すことができます。
危険性=毒性×摂取量×時間
この式は、生体異物の危険性が、単純に毒性だけでは決まらないということを、如実に示しています。一般的に生体異物の危険性を議論するときは、毒性を重視して評価する場合が多いのですが、摂取量と時間の要因も、同じぐらい重要なのです。例えば、毒性の強い物質を摂取しても、それが毒作用を起こす摂取量に達していなければ、中毒は起きません。また、いくら毒性が強くても、それが速やかに代謝されるような物質なら、中毒は起こらないのです。すなわち、生体異物は、有害な摂取量と時間においてのみ毒物であり、逆にいえば、毒性が弱くても、摂取量と時間の影響が大きくなれば、毒になることだってあるのです。
例えば、コーヒーやお茶に含まれているカフェインは、医薬品としても利用されていて、適切に処方すれば、眠気や倦怠感などに効果があります。しかし、過剰に摂取した場合には、強い毒性を発揮し、死に至る危険性を孕んでいます。また、サプリメントというと、「身体に良い」イメージがありますが、こちらも過剰摂取は、身体に悪影響を及ぼすことがあります。つまり、あらゆる物質は、多かれ少なかれ何かしらの毒性を持っており、使用量や使用方法次第で、毒にも薬にもなるのです。
例えば、私たちが生きていくために必要不可欠な水や食塩でも、一度に多く摂取しすぎれば、水中毒や食塩中毒を引き起こして、最悪の場合死に至ります。実際に2007年に、アメリカの水飲みコンテストに参加した28歳の女性が、水中毒によって急死しています。この女性は、15分ごとに225 mLの水を飲み、合計7.6 Lを飲み干しました。水を短時間のうちに大量に摂取すると、腎臓が水分を処理しきれなくなり、水分が増えて、血液中のナトリウム濃度が低下します。これによって低ナトリウム血症を引き起こし、頭痛や嘔吐、呼吸困難などの症状が現れ、最悪の場合死に至るのです。水の致死量は、成人男性で10〜20 Lとされていますが、5〜8 L程度での死亡例もあります。
(2)薬物としての毒と薬
毒と薬は表裏一体の関係であり、どんな薬にも、毒性はあります。薬の有益な作用を主作用、有害な作用を副作用として、薬は副作用よりも、主作用の方が現れやすいというだけの話です。したがって、どんな薬でも、摂取量が増えれば副作用が出やすくなりますし、摂取量を誤れば、死ぬことだってあるのです。一般的に薬物では、毒と薬の量的関係は、次の図.1のようになります。
図.1 毒と薬の量的関係
薬物を摂取しても、何の作用の現れない摂取量を無効量といい、摂取量を徐々に増やして、ある摂取量に達すると、初めて薬効作用を現すようになります。一般的に「薬」といわれる薬物は、この薬効作用が現れる摂取量になるようにコントロールされているのです。薬用量からさらに摂取量を増やしていくと、中毒症状が出るようになり、そこからさらに摂取量を増やせば、致死量に達します。たとえ猛毒といわれる薬物でも、この致死量に達していなければ、死ぬことはありません。
このような薬物の作用が現れる摂取量を、毒物学ではそれぞれED(effective
dose:有効量)、TD(toxic
dose:中毒量)、LD(lethal
dose:致死量)と表現します。毒物学に少しでも興味のある人ならば、LD50なんかは見たことがあるのではないでしょうか?LD50はlethal
dose 50%の略称のことで、日本語では半数致死量といい、この量を投与すると、半数の動物が毒作用で死んでしまうという意味です。つまり、LD50の値が小さいほど毒性が強く、LD50の値が大きいほど毒性が弱いということになります。LD50は、毒物の急性毒性を評価するのによく用いられ、例えば、LD50=10
mg/kg(ヒト/経口)という毒物を、体重60
kgの人が600
mg(10 mg/kg×60 kg)飲んでしまうと、摂取した人の10人に5人は、死んでしまうということになります。
ただし、飽くまでこの数値は、毒性の強さを比較するための目安に過ぎません。致死量の基準には、実験動物によって得られた数値が使用されますが、動物愛護の立場から、使用動物の数を減らすため、おおよそのLD50を求めるようになっています。また、動物種や投与方法によって効果の出方が異なるため、LD50値には、使用した動物種と投与方法を書き添えることになっています。したがって、人の半数致死量のデータは少ないのですが、人は雑食性で、なおかつ普段からありとあらゆる化学物質に触れているせいで、実験に使用する動物よりも、毒物に対しての耐性が非常に強いと思われます。ラットやマウスの致死量を人に投与しても、少し具合が悪くなる程度で、何ともないなんてことはよくあることです。一般的に人のLD50は、動物の数倍が目安とされていますが、実際はかなりの摂取量まで耐えられるのではないでしょうか。しかし、毒の効きやすさには固体差があり、LD50値よりもずっと少量で死亡する固体も存在するので、注意が必要です。
また、LD50と同様の意味で、ED50やTD50も求められ、一般的な薬物では、図.1の関係から、ED50<TD50<LD50という関係が導き出せます。薬物を評価するときに、人間に害しかないような薬物は、TD50とLD50だけを見て評価しますが、医薬用の薬を評価するときは、ED50とLD50を見て評価します。LD50とED50の比を治療係数といい、以下のように表します。
一般的な薬物では、ED50<LD50という関係があるので、治療係数は1より大きくなり、この治療係数が大きい薬物ほど毒性が現れる危険性が少なく、小さいものほどその使用に注意が必要な薬物となります。例えば、解熱鎮痛剤として有名なアスピリン(アセチルサリチル酸)の治療係数は約100であり、薬用量の100倍の量を摂取しないと、致死量には達しないということになります。通常の服用で100倍量を摂取するなんてことはまず考えられないので、アスピリンは比較的安全な薬物ということができますね。それに対して、心不全の治療などに使用するジゴキシンの治療係数は2〜3程度であり、これは非常にコントロールの難しい薬物であるということになります。このような薬は、少しでも投与量を誤ったら、致死量に簡単に達してしまうのです。
図.2 薬物の使用量-効果曲線
図.2に、薬物の使用量-効果曲線を示しました。経口的に摂取した薬物は、そのすべてが作用点に到達して、薬効作用を示す訳ではありません。身体に入った薬物は、まずは消化管で吸収され、門脈や肝臓を通り、その一部は代謝され、体循環に送り込まれて、作用点に到達するのです。したがって、薬の効果は、使用量に相関はするものの、比例するわけではなく、図.2で示すようなシグモイドカーブとなるのです。
ED50<TD50<LD50の関係より、グラフの順は、どの薬物も図.2のようになりますが、その間隔は薬物によって様々です。アスピリンのような治療係数の大きな薬物は、グラフの間隔が離れおり、治療係数の小さなジゴキシンのような薬物は、グラフの間隔が狭くなっているのです。また、薬物によっては、ED50とTD50が被っている場合もあります。副作用が出やすい薬物は、この傾向が強いのです。その場合は、副作用を抑えるために他の薬を投与したりするので、病院に行って「やけに薬が多いなあ」と思ったら、こういうことだと思ってください。
また、先ほどからTD50を副作用として扱っていますが、この「副作用」が実は少し厄介なのです。激しい頭痛がするとか、胃に穴が空くとか、そういう分かりやすい症状なら、「有害な副作用」として片付けられます。しかしながら、例えば、アレルギー性鼻炎の治療薬であるレスタミン(ジフェンヒドラミン)の副作用は、「眠たくなる」なのです。レスタミンを飲んで自動車を運転する人にとっては、「眠くなる」は有害な副作用ですが、不眠症の人にとっては、むしろ都合が良い副作用なのです。こういう場合は、TDとは評価せず、EDとして見ることになります。それ故に、TDは状況によってEDにもなる、不透明な存在となる訳です。
実際に、レスタミンの「副作用」を生かした睡眠改善薬のドリエルが、2003年4月にエスエス製薬から発売されています。値段もドリエルの方がずっと高いのですが、薬の名前と主張する効能が違うだけで、有効成分は両者とも同じ塩酸ジフェンヒドラミンなのだから滑稽です。薬には、意外とこのようなトリックが多く、有効成分が同じなのに、薬の名前が違うだけで、値段が倍ぐらい違うなんてこともよくあります。その辺りは、薬の用途特許が切れていなくて、ジェネリック医薬品(特許が切れた医薬品を他の製薬会社が安価で供給する医薬品)を使うことができないなどの、商業的な要因が絡んできたりもするので、難しい話なのですけどね。薬を選ぶときは、薬剤師と相談したり、裏の成分表を一度確認したりしてみることをおすすめします。
(3)生体と薬毒物
化学物質が体内に入るには、様々な経路があります。口から薬などの錠剤を摂取する場合は、経口投与と呼ばれます。口から入った化学物質は、「ADME」(アドメ)と呼ばれる過程を経て、身体の中を通過していきます。ADMEとは、「吸収(Absorption)」「分布(Distribution)」「代謝(Metabolism)」「排泄(Excretion)」の頭文字を並べた造語で、化学物質の体内における動態を語る際によく用いられます。すなわち、毒や薬は、胃や腸などの消化管から吸収され、門脈を通って、肝臓に入ります。そこで分解や解毒されたのち、残りの一部が血液によって各臓器や器官に運ばれ、それぞれの毒性を発揮することとなるのです。
薬物の多くが、経口で摂取すると、注射などより効きにくくなる理由はここにあります。肝臓がファイアーフォールのような働きをして、薬物が血中に拡散する前に、物性を弱めてしまうのです。肝臓の代謝の仕組みは、薬物を水溶性に変換する方向に働きます。身体に入った薬物は、脂溶性のものも多く、体内の脂肪組織に馴染んで、そのまま貯留してしまうことによって、毒性が生じる危険性があります。また、飽くまで薬物は生体にとって「異物」ですから、代謝によって物性が変わったとしても、いつまでも体内にいては、不都合が生じる可能性もあります。それ故に、体内に取り込んだ薬物は、できるだけ早く体外へ排出することが望ましいのです。薬物の代謝とは、そのような目的で、体外へ排出されやすいように薬物の構造を化学変化させる仕組みです。不要となった薬物は、腎臓でろ過され、尿や便などにまぎれて、身体の外へ排泄されます。
また、注射によって薬物を投与する方法には、静脈内注射や皮下注射、筋肉注射が行われます。これらは消化液の影響を受けず、肝臓も通過しないため、投与された物質は化学変化を受けにくく、吸収も速やかに行われるため、薬物の効果が強く現れやすいのです。しかし、これは逆にいえば、薬物の血中濃度をコントロールしやすいということでもあるので、医療現場ではよく用いられる手段です。日本国内では、古くから覚醒剤乱用の投与形態が静脈注射ですが、これは経口摂取よりも効果が強く得られやすいためだと思われます。
さらに、病原菌や毒ガスのように、呼吸によって肺から吸収されて、血中に入るとういう経路もあります。また、皮膚をただれさせる糜爛(びらん)性の毒ガスなどは、皮膚からも直接吸収されます。皮膚から吸収される有害物質は、総じて「経皮毒」と呼ばれますが、日常生活の中にも、経皮毒性のある物質は少なくありません。化粧品の保湿剤や乳化剤として含まれるプロピレングリコールや、合成洗剤のラウリル硫酸ナトリウムも、量によっては皮膚組織や角質層を破壊する作用があるのです。ネックレスやピアスなどで皮膚の炎症を起こす金属アレルギーも、こういう意味では、経皮毒ということができます。毒は皮膚から吸収されると、直接血管やリンパ管などの全身循環系に入るので、注射と同様に薬物の効果が強く現れやすいです。基本的に、皮膚は多くの薬物や毒物から生体を護る障壁となっていますが、ある種の薬毒物は、経皮吸収により毒性を現します。経皮毒性がある物質を扱う際には、注意しなければなりません。
図.3 化学物質の主な侵入経路
このように、化学物質の人体への侵入経路は様々であり、先にも説明したように、同じ薬毒物でもその経路によって効き方にも違いが現れるのです。例えば、東南アジア原産のマチンの種子に含まれるストリキニーネという毒のラットに対するLD50値は、経口では約20
mg/kgなのに対して、皮下注射ではわずか1.2
mg/kgです。注射により肝臓を通さないというだけで、毒性は17倍近くも跳ね上がるのです。
ちなみに、このストリキニーネは、熱帯アジアで矢毒として長らく狩猟に用いられてきた毒物です。獲物の血中に直接毒を注射する矢毒としての利用法は、効き目という観点から見ても、極めて合理的であるといえます。矢毒で仕留めた獲物を食べても中毒にならないということが、薬理学的に興味深いところで、これは経口摂取をすると、肝臓によって毒が代謝され、毒性が弱まるということを意味しています。先人は、おそらく経験からこのことを知っていたのでしょうね。
(4)毒はなぜ毒になるのか?
毒はなぜ毒なのでしょうか?循環論に陥ってしまいそうな命題ですが、毒が毒として機能するのは、体内に侵入したときに、毒の分子が身体の細胞に様々な影響を与えるからです。それは、神経伝達を阻害したり、タンパク質を変性させたり、エネルギー代謝を阻害したりと、毒によって様々です。毒が毒であることの基本法則として、「毒は身体にとって重要な分子に似ている」ことが多いです。例えば、一酸化炭素が毒となるのは、酸素の代わりに一酸化炭素がヘモグロビンと結合するからです。これは、一酸化炭素が、身体にとって重要である酸素の分子に形が似ているため、ヘモグロビンが誤って、一酸化炭素分子と結合してしまうのです。つまり、生物にとって、「無害な生体分子に似ている分子は毒になる」という、毒の基本法則が成り立つのです。
さらに、もう1つの毒の基本法則として、「毒は反応性が非常に高い分子である」ことが考えられます。例えば、フッ素や塩素などのハロゲンは、反応性が非常に高く、身体の細胞と化学反応を滅茶苦茶に進行させるため有毒になります。他には、塩酸や硫酸などの強酸は、タンパク質を激しく変性させるために毒となります。強塩基も、これと同様に有毒です。また、分子ではありませんが、放射線の一種であるγ線が有毒なのも、これと同じ理由です。γ線は、エネルギーが非常に大きな電磁波なので、γ線を受けると、身体中で化学反応が進行して、活性酸素などを発生させ、DNAを損傷させたりして、強い毒性を現すのです。つまり、生物にとって、「身体の細胞との反応性が高い分子は毒になる」という、毒の基本法則も成り立つのです。
図.4 毒の基本法則
以上の2つの基本法則が、毒が毒として機能する大まかな理由になります。しかし、私たちは、毒を評価する上で、「急性毒性」という言葉を知っています。これは、毒物学ではLD(lethal dose:致死量)で表され、例えば、LD50=10 mg/kg(ヒト/経口)とあったら、体重60 kgの人は、その毒を600 mg経口摂取したら1/2の確率で死亡してしまうということになります。毒が毒として機能することは理解できると思いますが、なぜ人は毒で死んでしまうのでしょうか?
毒で人が死ぬ理由を考える前に、まず「死」というものを定義しておきましょう。生物学的な「死」には大きく分けて、細胞死と個体死の2種類があります。これに組織死を加えることもありますが、これは細胞死に加えることとします。私たちが日常生活で一般的に使う「死」というものは、個体死です。それに対して、細胞死とは、私たちの身体を構成している細胞が死ぬことです。
私たちの身体は、約37兆個の細胞から構成されており、その1つ1つの細胞が生きているのです。私たちの身体は、小さな生命体の集合ともいうことができると思います。それでは、その細胞が死んでしまったら、集合体である個体も死んでしまうのでしょうか?細胞の死は、個体の死の必要条件ですが、十分条件ではありません。例えば、腕や足は、たくさんの細胞が集合して構成されていますが、それらの細胞が死んで、腕や足が無くなったとしても、個体は生きていくことができます。個体死は、脳や心臓、あるいは肺の細胞が死ぬことによって、引き起こされるのです。個体は、これらの器官が1つでも欠ければ、生きていくことはできません。一般的に個体死というものは、脳・心臓・肺のすべての機能が停止した場合と考えられており、医師が死亡確認の際に、呼吸・脈拍・対光反射の消失を確認することは、これに由来しているのです。個体が衰弱などで個体死を迎える場合、そのプロセスは、一般的に次の図.5のようになります。
図.5 個体死のプロセス
一般的な定義では、脳機能の停止を以て、個体の「死」としているものの、このプロセスは速やかに進むため、例えば、心臓機能が先に停止しても、すぐに他の2つも機能を停止します。つまり、個体死のプロセスとしては、その順番はあまり重要ではなく、どれか1つの機能でも停止してしまったら、生命の危険があるのです。しかしながら、医療技術の発達によって、脳機能が停止しても、肺や心臓の機能が停止しない場合があります。これは脳死と呼ばれ、心肺機能に致命的な損傷はないものの、何らかの事故などで、頭部に強い衝撃を受けた場合、もしくは、くも膜下出血などの脳の病気が原因で発生することが多いです。日本では、脳死を個体死とする旨を法律に記載していませんが、ここでは脳死も個体死とすることにしましょう。
これより、個体死は、肺・心臓・脳の細胞のいずれかが死ぬと引き起こされるということが分かります。つまり、毒が個体死を引き起こす理由は、毒が体循環によってこれらの細胞に送り込まれ、そこで毒作用を及ぼして、これらの細胞を死滅させてしまうからです。細胞は、毒によって死滅すると、その部分は正常に機能しなくなるため、その分臓器の機能低下がもたらされます。特に、神経細胞や心筋のように再生しない組織が死滅すると、その部分の機能は永久に失われることになります。このような組織が毒にやられると、致命的です。このように、毒によって損傷を受けた細胞が死滅することをネクローシス(壊死)といい、毒はネクローシスによって、臓器の機能低下を著しく進行させるため、致死量を摂取すると、直ちに個体死に至るのです。
毒がこのようなネクローシスを引き起こすプロセスには、様々なものがありますが、個体への毒作用の観点から、毒を大きく分類すると、神経毒・血液毒・細胞毒の3種類の毒に分類することができます。
表.1 個体への毒作用による分類(田中真知「へんな毒すごい毒」技術評論社より一部改め引用)
神経毒は、体内に吸収されると、主として神経系にダメージを与えるものです。フグ毒のテトロドトキシンやトリカブトのアコニチン、オウム真理教によって犯罪に使われたサリン、さらにタバコに含まれるニコチンなどが、これにあたります。神経毒は、呼吸や心臓の運動を司る自律神経系の神経伝達まで阻害してしまうので、呼吸困難や心不全を引き起こし、個体を死に至らせるのです。神経毒は、毒作用が死に直結するので、「猛毒」と呼ばれる毒が多いです。
血液毒は、血液に毒作用を及ぼすもので、赤血球や血管系の細胞にダメージを与えます。血液毒で赤血球がやられると、細胞に酸素を運搬できなくなり、結果的に大規模なネクローシスを引き起こすことになるのです。脳や心臓などの細胞が血液毒にやられると、致命的です。また、マムシやハブの毒には、タンパク質分解酵素が含まれており、血液凝固を阻害して、出血を促進するため、出血多量で死に至ることもあります。ヒトの血液は、一般的な体重60 kgの成人男性で約5 Lあるといわれており、そのうち約30%(約1.5 L)の血液を失うと、生命の危機です。これは、血液が少なくなることによって血圧が急激に下がり、末端である脳に血液が循環しにくくなり、脳が酸素不足となって、ネクローシスを引き起こしてしまうからです。
細胞毒は、細胞膜を破壊したり、特定の酵素の働きを妨げてエネルギー代謝やタンパク質合成を阻害したり、またはDNAの遺伝情報を狂わせてガンを引き起こしたりするものです。これは、いわゆる発ガン性物質と呼ばれるものや、サリドマイドなど催奇形成物質がこれにあたります。このように、細胞毒は、一見すると直ちに死に至るような毒には思えないかもしれません。しかし、ある種の細胞毒は、神経毒に匹敵するぐらい毒性が高いのです。
例えば、トウゴマの種子に含まれるリシンは、タンパク質合成を阻害する細胞毒として知られていますが、その人体における推定のLD50値は、わずか0.03 mg/kgとされており、青酸カリ(LD50=7 mg/kg)の約200倍も毒性が強いのです。リシンが微量でこれほどまでに強い毒性を現す理由は、リシンにはタンパク質合成を阻害する作用だけではなく、細胞のアポトーシスを引き起こす作用があるとされているからです。アポトーシスは、プログラム細胞死の1つであり、簡単にいえば、「細胞の自殺」のようなものです。テトロドトキシンなどの一般の毒物は、細胞を損傷させてネクローシスを引き起こすのに対して、リシンなどの一部の特殊な毒物は、無傷な細胞まで次々と自殺させてしまうので、たとえ微量でも、致命的な猛毒となるのです。
(5)いろいろな毒
毒と薬は表裏一体ですが、毒は薬とは異なり、生体が毒に接触、もしくは毒を体内に摂取した場合に、化学的または物理的な作用で、生体機能を一時的、あるいは永久的に著しく害し、生命の危険を招くに至らせる化学物質であるということができます。もちろん、先までに説明したように、毒が薬となる場合もあるし、逆も然りであるので、一義的に毒と薬を定義することは、困難なのですけどね。
しかしながら、法規上では「毒物及び劇物取締法」によって毒物・劇物・特定毒物が、また「薬事法」によって毒薬・劇薬が明確に規定されているのです。つまり、一般的には、毒と薬という概念は、分けて考えられている訳です。毒と薬とを分けるにあたっては、動物に対する毒性試験を行い、その化学物質の急性毒性や皮膚や粘膜に対する刺激性、中毒症状の発現時間、重篤度、生体に対する障害の性質と程度、吸収・分布・代謝・排泄などの動態、蓄積性および生物学的半減期、生体内代謝物の毒性と他の物質との相互作用など、様々な観点から薬物を評価していきます。こうして毒性が強いと認められた薬物が、毒物・劇薬・特定毒物となる訳です。
「毒物及び劇物取締法」に規定されている薬物は、素人が大量に所持していると、違法となります。また、毒物は、素人が簡単には手に入れられないようになっているので、毒物を使った犯罪などの抑止になっている訳です。毒物と劇物は、毒性の強さから、一般的に以下のように分けられています。
表.2 実験動物での評価 ※数値はLD50
言葉のイメージから、意外に思う人もいるかもしれませんが、毒物と劇物では、毒物の方がより毒性が高く危険です。また、劇物には、ヒトにおける事故例を基礎として、毒性の検討を行い、判定することもあり、例えば、有機溶剤のトルエンやキシレンは、毒性が比較的低く、劇物の基準を満たさないものの、いわゆる「シンナー遊び」の横行が社会問題となったために、劇薬に指定されました。
また、毒物のうち、殺鼠剤のモノフルオロ酢酸などのように、毒性が極めて強く、その物質が広く使用される他、または使用されると考えられているもので、危害発生の恐れが著しいものは、特定毒物とされています。このように社会では、毒物を規制する法律はいくつか存在しています。
しかしながら、実際に毒物を規制するのには、まだまだ不完全であり、世の中には、「毒物及び劇物取締法」に記載されてない毒物もたくさんあります。毒性や危険性が高くても、ごく限られた用途にしか使用されず、社会的な問題を起こしていない物質は、取り締まりの対象として指定されていないのです。例えば、トリカブトのアコニチンや、トウゴマのリシンなどの毒物は、一般的に猛毒とされているのですが、これらの法律では、毒物として記載されていません。なぜなら、これらの毒物は天然物であり、取り締まるのは、事実上不可能だからです。
現行の「毒物及び劇物取締法」では、毒物を取り締まるとしては、抜け道が多いのが現状なのです。一口に毒と言っても、その種類はごまんとあります。すべての毒を法律で規制しろというのは、不可能といっても過言ではありません。毒を起源から分類すると、一般的には、次の図.6のようになります。
図.6 いろいろな毒の分類(田中真知「へんな毒すごい毒」技術評論社より一部改め引用)
毒の分類についていえることは、毒は自然由来のものが、圧倒的に多いということです。また、生物が作り出す毒の方が、人工的な毒よりも毒性が強いことが多いです。生物が作り出す毒の多くは、進化の過程で身に付けたものです。毒は、生物学的には下等な生物が持っているとされ、ある種は、強い者に捕食されないように身を護るため、またある種は、毒を使って獲物を捕食するために毒を保有し始めました。
ちなみに、毒の中で一番毒性が強いものはボツリヌストキシンで、そのLD50値は、わずか0.0005 mg/kgです。この数値は実験動物に対するものですが、もしヒトに対する毒性が同程度とすれば、この毒素1 gは、約3,3000人ものヒト(平均体重60 kgとする)の命を危うくするという計算になります。ボツリヌストキシンは、ボツリヌス菌から生産される毒素であり、地上最強の毒素として名高いです。ボツリヌス菌は嫌気性菌であり、酸素が存在しているところで生育できず、ハムやソーセージなどの密閉された加工食品の中で繁殖します。ちなみに、「ボツリヌス」の語源は「ソーセージ」という意味のラテン語です。日本では、真空パックのカラシレンコンが原因になった、ボツリヌストキシンによる大規模食中毒事故が1984年に発生しました。
また、毒の名称で「〜トキシン」というものがしばしば使用されますが、これは英語でいう生物毒が「トキシン」(toxin)だからです。マイトトキシンやテトロドトキシンなど、生物由来の毒にしばしば使われるワードですね。次の表.3に、各物質の経口投与による急性毒性のLD50値を示します。
表.3 各物質の経口投与によるLD50値
ここで注意しなければならないことは、「LD50値が低い=人間にとって脅威」とは、必ずしもならないことです。LD50値を目安とした比較は、飽くまで急性毒性についてのものであり、毒物を長期的に摂取した際の慢性毒性などには、当てはまらないからです。先も説明したように、毒物は総合的に毒性を評価しなければならず、人間にとって脅威であるかどうかは、急性毒性だけでは決まらないのです。
その証拠に、タバコに含まれるニコチンは、青酸カリに匹敵する急性毒性がありますが、タバコを吸ってニコチン中毒で急死したという人は、聞いたことがありません。これは、タバコの煙に含まれるニコチンが微量であり、致死量のニコチンを一度に摂取するということは、普通ではありえないからです。このような場合は、むしろ慢性毒性を議論するべきであり、タバコと肺ガンの関連性は、現在でも議論されています。なお、タバコを誤食した際には、急性毒性が現れる場合があるので、ニコチンは毒物であるという意識は、持っていた方が良いでしょう。
なお、ニコチンは水によく溶解するため、誤ってタバコを飲み込んでしまったときは、水やミルクを飲ませるとかえって危険です。このような場合には、ニコチンを吸着する活性炭を飲ませたりすると良いです。タバコは決して子供の目や手の届くところに置いてはいけません。また、大人も特に酒席などで空き缶をタバコの吸い殻入れにしたりする場合、万が一にも誤飲せぬよう十分な注意が必要です。
(6)毒殺事件
毒殺事件という言葉を聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、帝銀事件や地下鉄サリン事件、毒物カレー事件などの忌々しい事件の数々だと思います。毒殺の最も恐ろしい点は、被害者が意識することなく毒作用が現れ、急死してしまうことでしょう。犯人が毒殺を企んだなら、それを察知して、回避することは難しいのです。毒殺には周到な準備が必要不可欠で、科学な知識も必要になります。そこには、犯人の歪んだ性向や性格が見え隠れしているのです。ここでは、日本や世界で起きた有名な毒殺事件をいくつか紹介していきましょう。
(i)帝銀事件
「1948年1月26日、銀行の閉店直後の午後3時すぎ、東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に、予防薬を飲んでもらいたい」、「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人に、青酸化合物を飲ませた。その結果、11人が直後に死亡、さらに搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。犯人は、現金16万円(現在の価値で約2千万円)と他小切手などを奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため、混乱が生じて初動捜査が遅れ、身柄は確保できなかった。
男は全員に飲ませることができるよう、遅効性の薬品を使用した上で、手本として自分が最初に飲み、さらには「歯のエナメル質を痛めるから舌を出して飲むように」などと伝えて確実に嚥下させたり、第一薬と第二薬の2回に分けて飲ませたりと、巧みな手口を用いたことが、生存者たちによって明らかにされた。男が自ら飲んだことで、行員らは男を信用した。また、当時の日本は、上下水道が未整備で、伝染病が人々を恐れさせていた背景がある。16人全員がほぼ同時に第一薬を飲んだが、ウィスキーを飲んだときのような、胸が焼けるような感覚が襲った。約1分後、第二薬を男から渡され、苦しい思いをしていた16人は、競うように飲んだ。行員の一人が「口をゆすぎたい」と申し出たが、男は許可した。全員が台所の水場などへ行くが、さらに気分は悪くなり、やがて全員が気を失った。」(Wikipediaより一部改め引用)
この犯行で使用されたのが、青酸カリ(LD50=7 mg/kg)であるとされています。体重60 kgの人なら、0.4 gも摂取すれば、死に至る危険性もあるぐらいの強力な毒物です。帝銀事件では、未だに多くの謎が解明されていませんが、2回に分けて服毒させているという点から、シアン化物でも、アセトンシアノヒドリンなどの、胃の中で塩基と反応することで、青酸ガスが発生するような高度な配合であったという説があります。さらに、服毒した人のほとんどが死亡している点から、致死量の何倍もの青酸カリを摂取させた疑いがあります。普通なら、このような致死量の何倍もの毒物を飲ませようと思っても、なかなか上手くいきませんが、「薬」と演技で偽って飲ませているところが、巧妙な手口であったといえます。
図.7 アセトンシアノヒドリンの分解反応
青酸カリといえば、毒物の王様であり、テレビや映画などでは、青酸カリを飲んだ人間が、痙攣を起こして息絶える場面がよく描かれます。後から捜査にやってきた刑事が、被害者の口元からアーモンド臭がしているのに気づいて、「青酸カリか・・・・・・」とつぶやくのも、刑事物の定番です。これは、青酸カリKCNが次の化学反応より胃液HClと反応することで、青酸ガスHCNが胃の中で発生し、収穫前のアーモンドに似た、甘酸っぱい匂いを周囲に漂わせるからです。ただ、この青酸ガスは毒性が非常に強いため、青酸中毒で倒れている人を見かけても、決して臭いをかいではいけません。私は、ドラマの刑事はよく青酸中毒にならないなと感心しています。
KCN + HCl → HCN + KCl
アーモンド臭のする化合物というのは案外多くて、ベンズアルデヒドやベンゾニトリルなんかも、甘酸っぱいアーモンド臭がします。ベンズアルデヒドは、杏仁豆腐やビワ酒に含まれているため、これらの甘い臭いが、いわゆるアーモンド臭になります。ちなみに、杏仁豆腐やビワ酒などにベンズアルデヒドが含まれているのは、アミダクリンを含むアンズやビワなどの未成熟な果実や種子を材料としているからです。アミダクリンは青酸配糖体の一種であり、加水分解されると、ベンズアルデヒドと青酸ガスを発生させます。これが、杏仁豆腐やビワ酒に共通する、独特な芳香を作り出しているのです。ただし、青酸ガスは猛毒ではありますが、長期間保存することで分解して無毒化されるので、杏仁豆腐やビワ酒を嗜んでも、青酸中毒なることはありません。
青酸カリが毒になるメカニズムは、まず青酸カリKCNが経口で胃に入ると、胃酸HClと反応して青酸ガスHCNを発生させます。このガスは、すぐに胃の粘膜から吸収され、静脈を伝わって全身を回ります。このときに、イオン化したシアン化物イオンCN- が、シトクロムオキシターゼと酸素O2の代わりに結合することで、毒性を現すのです。毒性を現すメカニズムは、一酸化炭素COと非常によく似ています。このように、酸素の代わりに青酸が結合することで、細胞に酸素を運べなくなってしまい、こうして細胞呼吸ができなくなって、脳や心臓の細胞がやられると、死に至るのです。
図.8
青酸カリの結晶(画像はこちらからお借りしました)
ところで、中には青酸で死ななかった人物もいます。帝政ロシア末期を揺るがした怪僧グリゴリー・ラスプーチンです。ラスプーチンは、アレクサンドラ皇后に寵愛され、第一次世界大戦の頃には、ロシア政府内でのラスプーチン体制は盤石なものとなっていたといいます。しかし、そのためもあってか、宮廷貴族たちは危機感を抱き、遂にラスプーチン暗殺計画が立てられました。
1916年12月29日の夜、ユスポフ侯爵邸に招かれたラスプーチンは、地下の食堂に案内され、青酸カリKCNをまぶした食事でもてなされました。しかし、ラスプーチンは態度に変化を示さず、周囲を驚愕させました。食後に祈りを捧げていたラスプーチンは、背後から鉄製の重い燭台で頭蓋骨が砕けるまで激しく殴打され、大型拳銃で2発の銃弾を撃ち込まれました。ラスプーチンは反撃に出ますが、さらに2発の銃弾を受け、倒れたところに殴る蹴るの暴行を受けて、窓から道路に放り出されました。それでも息が残っていたので、絨毯で簀巻きにされ、凍り付いたネヴァ川まで引きずられ、氷を割って開けた穴に押し込まれました。3日後にラスプーチンの遺体が発見され、警察の検視の結果、肺に水が入っていたことから死因は溺死とされました。川に投げ込まれたときも、まだ息があったのです。それが事実なら、ラスプーチンは無酸症だったのではないでしょうか。青酸カリKCNは、胃酸で分解されて毒性を現しますが、無酸症ならば化学反応を起こさず、死に至らないからです。
(ii)和歌山毒物カレー事件
「1998年7月25日、和歌山県和歌山市園部地区で行われた夏祭りで、カレーを食べた67人が、腹痛や吐き気などを訴えて病院に搬送され、4人が死亡した。当初、保健所は腐敗したカレーによる集団食中毒によるものと判断したが、和歌山県警は吐瀉物を検査し、青酸の反応が出たことから、青酸中毒によるものと判断。しかし、症状が青酸中毒と合致しないという指摘を医療関係者から受け、警察庁の科学警察研究所が改めて調査して、亜ヒ酸の混入が判明した。カレーの入った鍋の中には200 g近くの亜ヒ酸が投入されており、ある試算によれば、一人当たり20〜120 mgの摂取量だったとされている。」(Wikipediaより一部改め引用)
この犯行で使用されたのが、亜ヒ酸(LD50=10mg/kg)であるといわれています。亜ヒ酸はヒ素の酸化物で、その致死量は、青酸カリに匹敵するほどの猛毒です。亜ヒ酸As(OH)3は以下の化学反応より、三酸化二ヒ素As2O3を水H2Oと反応させることで生成します。
As2O3 + 3H2O → 2As(OH)3
ヒ素は、古来より毒薬として使用されてきた歴史があります。ヒ素は、中世から近世のヨーロッパでは、毒殺の常套手段であり、かのナポレオンも、ヒ素によって毒殺された可能性が指摘されています。亜ヒ酸は、無味無臭で水に溶けやすいため、被害者に察知されることなく、毒殺を可能にするのです。昔は、現在と違って検出手段がなかったため、料理や飲料などに混合されると、ヒ素を検出することは非常に困難になり、完全犯罪に近い犯行を可能にしました。しかし、科学技術の発展とともに、分析技術は発展し、現在では、人体から容易にヒ素の暴露量を測定できるようになりました。また、ヒ素中毒はその痕跡が残り易いため、現代において毒殺用としてのヒ素は、「愚者の毒物」とも呼ばれています。
しかしながら、相手に気付かれにくいという点と、入手の手軽さにおいて、毒物としては非常に優れており、青酸カリなんかよりもよっぽど危険な毒物です。よく映画やドラマなんかで、紅茶に青酸カリが入っていて、それに口を付けた瞬間即死するような描写がありますが、現実にはそんなことはありません。即死するような量を紅茶に混ぜようなんて思ったら、それこそ致死量の何倍もの量を加えないといけないので、それだけ混ぜたら、味も激的に変わってしまい、すぐに露見してしまいます。それに、青酸カリKCNには潮解性があり、空気中では、以下の化学反応よりシアン化水素HCNを放出しながら、炭酸カリウムK2CO3に変化していきます。
2KCN + CO2 + H2O → K2CO3 + 2HCN
青酸カリは無臭ですが、空気中では、発生する青酸ガスによりアーモンド臭がするので、匂いでもすぐに露見します。さらに、炭酸カリウムになると毒性が極めて低くなってしまい、紅茶なんかに入れたら、砂糖やレモンとも反応するので、もはや毒ではなくなってしまいます。和歌山毒物カレー事件では、捜査の最初は、青酸カリが疑われていましたが、そもそもカレーなんかに混ぜたら、匂いで食べる前にすぐに露見してしまうでしょう。また、仮に食べてしまっても、青酸カリは強アルカリ性で、苦味が強烈です。一口食べて、間違いなくカレーの異変に気付くはずです。そういう意味で、「相手に気付かれにくい」という点では、ヒ素は恐ろしい毒物なのです。
和歌山毒物カレー事件は、犯人の林眞須美の逮捕によって、いったん終息しました。その後、林眞須美は、最高裁判所で死刑判決を受けましたが、現在でも、事件への関与を否定しています。その理由は、立証がすべて状況から推測した、間接証拠によっている点にあります。つまり、林眞須美がヒ素をカレーに混入した犯行現場を目撃した証人や、本人の自供といった直接証拠がないのです。現場や被害者の家が捜索され、ヒ素の入ったカレーを始め、様々なサンプルが鑑定にかけられました。その結果分かったのは、被疑者が所持していたとみられるシロアリ駆除剤のヒ素と、カレーに混入していたヒ素が、同質・同等のものであるということでした。これらを証拠にして、死刑判決が下っていますが、解釈によっては、別の犯人が林眞須美の所持していたヒ素を使って、犯行に及んだことを否定できないのです。
ちなみに、ヒ素が毒になるメカニズムは、ファンデルワールス半径や電気陰性度など様々な点で、リンと物性が似ているからです。リンは、タンパク質や細胞膜、DNAなどを構成する重要な元素の1つで、人体に欠かせない元素です。ヒ素は、リンの代わりに生体と相互作用をし、また酵素タンパク質のSH基と結合して、その機能を阻害することで毒性を現すと考えられています。このような毒性から、ヒ素は、地球上のほぼすべての生物に対して毒性を現します。
2010年12月、NASA宇宙生物学研究所が、「リンが不足した環境では代謝系や細胞の構成要素をヒ素で代替しているバクテリアを発見した」と発表し、生物学において革命が起きたと大騒ぎになりましたが、あれも結局のところは勘違いだったという結論になりました。ヒ素が猛毒であるという事実は、今後も揺るがないことでしょう。
図.9 三酸化二ヒ素の結晶
(iii)トリカブト保険金殺人事件
「1986年5月20日、新婚旅行で沖縄を訪れていた神谷力(当時51歳)の妻が、宿泊先の石垣島のホテルで突然、激しい吐き気と嘔吐に襲われ、腹痛や手足の麻痺などを訴えた。救急車で病院に搬送中、彼女は心肺停止に陥り、病院に到着後まもなく死亡した。解剖の結果、死因は急性心筋梗塞とされた。
しかし、その後の医師の調査から、亡くなった妻の血液から、トリカブトに含まれる有毒成分であるアコニチンが検出された。神谷は逮捕され、疑惑を追及されたが、妻が死亡したとき、自身は遠隔地にいたというアリバイを主張した。また、状況証拠は山ほど出てきたが、確証はなく、さらに、死因であるアコニチンは即効性の毒物であることもあり、その死亡に至る時間があまりにも長く謎とされ、マスコミはこのトリックを暴こうと盛り上がった。
後日、被害者の血液からフグ毒のテトロドトキシンが発見され、実験でこの2つを同時に服用すると、アコニチンの中毒作用が抑制され、拮抗作用が起こることが判明した。これにより、神谷のアリバイは崩れ、最高裁で無期懲役が確定した。」(Wikipediaより一部改め引用)
この犯行で使用されたのが、アコニチン(LD50=0.3
mg/kg)とテトロドトキシン(LD50=0.01 mg/kg)という、2種類のアルカロイドです。アルカロイドとは、タンパク質を構成するアミノ酸や、アミノ酸からなるペプチドやタンパク質、そしてDNAやRNAの正体である高分子の核酸類などを除いた、分子の中に窒素を含む有機化合物の総称です。アルカロイドは強い薬理活性を持つ物質が多く、アセチルコリンやノルアドレナリンといった神経伝達に関わる物質も、アルカロイドの仲間です。モルヒネやコカインなどのドラッグもアルカロイドであり、アルカロイドの種類は、現在分かっているだけでも、3万種類以上といわれています。強い薬理活性を持つとはいえ、使い方によっては、医薬品として極めて有用なものも多く、植物由来の医薬品のほとんどは、アルカロイドなのです。
この事件のトリックは、2種類のアルカロイドの毒が拮抗して、毒性が打ち消しあったために実現したものです。アコニチンとテトロドトキシンは、どちらも神経毒性があり、アコニチンは「ナトリウムチャネルを活性化」して、神経伝達を阻害することで毒性を現すのに対し、テトロドトキシンは「ナトリウムチャネルを遮断」して、神経伝達を阻害することで毒性を現すのです。このため、アコニチンとテトロドトキシンの両方を混合して服用すると、その両方の毒性が打ち消し合い、外見上、特に大きな変化は見られなくなるのです。しかし、テトロドトキシンの生物学的半減期(血中濃度が1/2になるまでの時間)はアコニチンより短いため、テトロドトキシンの効果が切れるや否や、アコニチンの強烈な毒作用が起こり、その結果、アリバイを作っておいて、「遅効性の即死」をもたらすことができるのです。
しかし、実際のところ、アコニチンとテトロドトキシンの分量比によって、アコニチンの毒作用が発現する時間を遅らせることは、非常に難しいと考えられています。神谷は事件の2年前から、自宅のアパートでマウスを集めて、動物実験を繰り返していたことが判明しているので、神谷はその分量比を、動物実験によって割り出していたのかもしれません。神谷には過去に二人の妻がおり、いずれも若くして謎の心不全で亡くなっていたこと、また妻には受取人を自身にした1億8,500万円もの巨額の生命保険金がかけられていたことが、どうも不審であるとして警察の捜査が進んだので、これがもし普通の殺人事件だったら、恐らく最初の心不全による死亡という所見で、捜査は終了していたでしょう。このように考えると、毒殺は怖いですね。
図.10 猛毒を持つトリカブトとフグ
なお、テトロドトキシンの化学的な研究を行い、その命名をしたのは、日本最初の薬学博士である田原良純でした。やがて、純粋なテトロドトキシンが得られ、その化学構造が解明されることになります。テトロドトキシンの化学構造が、日本およびアメリカの別々の研究グループによって発表された(化学構造の結論は同じでした)のは、1964年の春に京都で開催された、国際天然物化学シンポジウムにおいてでした。
その後、フグ以外の生物の有毒成分として、テトロドトキシンが得られる例が、いくつか知られるようになりました。アメリカのカリフォルニアイモリの卵や、オーストラリアのヒョウモンダコの分泌する神経毒、オウギカニ科のスベスベマンジュウガニ、中南米コスタリカ産のカエルの皮、さらに、微生物の「Pseudomonas sp.」の培養物からも、テトロドトキシンが得られました。このように、テトロドトキシンが系統発生的にかけ離れた動物種間に分布していることから、1983年頃から、海産物の薬理研究者たちの間では、「テトロドトキシンは微生物に由来するのではないか」という疑いが持たれ始めました。結局、実際のテトロドトキシンの生産者は、現在では、フグの体内に寄生する微生物であると結論されています。実際に、フグを閉鎖系(外界から隔離した環境)で孵化させ、飼育すると、毒を持たないことが分かっています。
(iv)埼玉県本庄市保険金殺人事件
「金融業を営む主犯が、自身が経営する飲食店のホステス3人に対して、偽装結婚させた常連客に、保険金殺人をした疑惑として報道される。捜査は、当初は物証がなく難航する。しかし、最終的には、ホステス3人の証言をきっかけに、主犯とホステス3人を殺人罪や詐欺罪などで起訴し、4人の有罪判決が確定する。共犯者の自供から、被害者となった2人の男性には、長期にわたって酒と大量のアセトアミノフェンを飲ませていたことが明らかになった。」(Wikipediaより一部改め引用)
この犯行で使用されたのが、アセトアミノフェン(LD50=300
mg/kg)とエタノール(LD50=8,000
mg/kg)です。アセトアミノフェンは、アセチルサリチル酸と同じく解熱鎮痛剤の一種であり、胃を刺激せず、興奮や眠気などの副作用がなく、さらに依存性や抵抗性、および禁断症状に関する問題が完全にないという利点を持つことから、医療現場では、鎮痛剤として様々な用途で使用されている薬物です。アセトアミノフェンは、驚いたことに、人間の尿の中から見つかりました。鎮静剤を服用した人の小便を濃縮したところ、苦い味のする白色の結晶が残り、それが後に、アセチルサリチル酸のような副作用のない鎮痛薬を探していた研究者によって、優れた鎮痛効果を持つ物質として報告されたのです。研究者が、尿の中の結晶を舐めてみた成果です。
エタノールは、アルコール飲料の主成分であり、中枢神経系を抑制する作用があるため、人に「酔い」という作用をもたらします。エタノールは、早期には抑制神経系に対して抑制が働くため、興奮を助長して、人を気持ち良くさせるのですが、飲み過ぎると、呼吸機能まで抑制してしまい、急性アルコール中毒などで、人を死に至らせる恐れもあります。エタノールの致死量は8,000
mg/kgなので、体重60
kgの人なら、480
gのエタノールで命を落とす可能性もある訳です。これは、ビール大瓶7本、あるいはウィスキーをボトル1本飲めば、優に超えてしまう値です。もちろん、エタノールに対する耐性は個人差が大きいので、一概にはいえませんが、大酒飲みにとっては、「エタノールこそ地上最強の毒」であるともいえるのです。
ただ、アセトアミノフェンにしてもエタノールにしても、どちらも大量に摂取しない限り、人体に対して毒とはならない物質です。なぜ2つの物質を同時に飲ませただけで、人を死に至らせるような毒性を発揮したのでしょうか?これには、2つの物質の代謝の仕組みに答えがあります。
アセトアミノフェンは、経口摂取されると、大部分は肝臓で代謝され、無毒化されて、尿中に排出されます。しかし、アセトアミノフェンの一部は、シトクロムP450という酵素によって代謝され、毒性を有する中間代謝産物を生じさせるのです。このように、異物代謝の過程で毒性が一時的に増すことを、代謝的活性化といいます。ただ、通常ならば、この中間代謝産物も肝臓によって処理されるので、毒性を現すことはほとんどありません。
しかしながら、エタノールも一緒に摂取するということになれば、状況は変わってくるのです。エタノールも、経口摂取されると肝臓で代謝され、最終的には二酸化炭素と水にまで分解されます。アセトアミノフェンとエタノールを同時に摂取すると、肝臓の代謝の一部の機能が、エタノールの処理に回され、毒性のあるアセトアミノフェンの中間代謝産物の処理が、十分にできなくなってしまうのです。その結果、中間代謝物の濃度がどんどん大きくなり、肝臓毒性を現すこととなるのです。
さらに、この事件の場合は、被害者が大酒飲みでした。酒が強い人というのは、常習的に飲酒をしている場合が多いので、シトクロムP450が活性化していて、エタノールを分解する機能が優れていることが多いのです。したがって、アセトアミノフェンを摂取したときも、普通の人よりもシトクロムP450によってアセトアミノフェンが代謝される割合が多くなり、毒性のある中間代謝産物が多く生じたと考えられます。
図.11 アセトアミノフェンの構造式
(v)マルコフ暗殺事件
「1978年9月7日の夕刻、ロンドンにあるBBCの放送局に向かっていたブルガリア人の政治家ゲオルギー・マルコフは、国立劇場の側を歩いていたとき、右の太ももに鋭い痛みを覚えた。思わず振り向くと、見知らぬ男が傘を拾いながら謝罪をしていた。そのときは、傘の先端が当たったものとマルコフは納得した。痛みは直ぐに消え、マルコフはそのまま放送局に到着し、その日の仕事を終えた。痛みのことなど、すでに忘れかけていた。
ところが、翌日の明け方、激しい発熱のため、彼は起き上がれなくなった。症状は急激に悪化し、病院に運び込まれたときには、すでに白血球が異常に増加して、敗血症に陥っていた。そして、手の施しようがないまま、4日後にマルコフは息を引き取った。
死因には不審な点が多く、遺体を調べた結果、マルコフの大腿部から、直径1.7mmの弾丸が発見された。そして驚くべきことに、この弾丸には小穴が空いており、その内部からは、毒物が検出されたのだった。分析によると、それはトウダイグサ科の植物であるトウゴマの種子から取れる、猛毒タンパク質「リシン」であったのだ。
マルコフは、1969年に本国の共産政権に反対してイギリスへ亡命し、以降、BBCワールドサービスなどでアナウンサーとして働き、ブルガリアの政権を非難していた。この事件は、ブルガリアの共産党が、ソ連のユーリ・アンドロポフ書記長に依頼してKGBの支援を取り付け、ブルガリア内務省のエージェントが行った犯行だと考えられている。」(Wikipediaより一部改め引用)
この犯行に使用されたのが、トウゴマの種子から取れるリシンです。リシンは、地上最強の毒といわれるボツリヌストキシンに匹敵するほどの猛毒であり、その人体における推定の最低致死量は、わずか0.03 mg/kgとされています。トウゴマの種子から取れる植物成分なので、うっかりアルカロイドだと思ってしまいがちですが、その実体は、分子量65,000という巨大なタンパク質分子なのです。必須アミノ酸の中にも、「リシン」というアミノ酸がありますが、そちらは英語にすると「Lysine」で、毒の方は「Ricin」です。日本語では区別しづらいですが、全くの別物なので注意してください。
リシン分子は、AサブユニットとBサブユニットからなり、細胞内に入れないはずの巨大な分子でありながら、エンドサイトーシスという方法で、細胞内に侵入します。このエンドサイトーシスというのは、細胞表面の受容体にタンパク質が結合し、それを細胞が生きていくのに必要なタンパク質と勘違いして、細胞内に送り込んでしまう能動的な輸送のことです。リシンは、Bサブユニットを細胞表面の受容体に結合させ、エンドサイトーシスによって、Aサブユニットを細胞内に送り込みます。このAサブユニットが、細胞内で毒性を現す訳です。つまり、リシンは「毒作用を現す部分」と「細胞に侵入するための鍵に当たる部分」の2つを持っているのです。
リシンのAサブユニットは、細胞内に侵入すると、タンパク質を合成するための要となるリボソームに対して、毒性を現します。リボソームは、通常RNAの情報を読み取ってタンパク質を合成するのですが、リシンのAサブユニットは、なんとそのRNAにそっくりなのです。そっくりといっても、所詮は別の物質なので、リシンでタンパク質を合成できるはずもなく、結果的に、タンパク質合成を阻害して、ネクローシスを引き起こす訳です。それ故に、リシンは即効性のある神経毒とは異なり、服用してから毒作用が発現するまでに時間がかかります。量や投与方法にもよりますが、死に至るまで、36時間から72時間ほどかかるとされています。
リシンは、酸やアルカリに対しても安定であり、入手が容易であるため、化学兵器として使用されたこともあるぐらいです。また、2013年には、アメリカのオバマ大統領などに、リシンが混入された封書が送られる事件が起こりました。このときは、ホワイトハウス近くの郵便施設で発見されて、未遂に終わり、容疑者は逮捕されました。
リシンが神経毒に匹敵するぐらいの強い急性毒性を持つ理由は、アポトーシスを誘導するからであるといわれています。アポトーシスは、簡単にいえば「自殺プログラム」であり、通常は個体をより良い状態に保つために引き起こされるものです。しかし、リシンはアポトーシスを暴走させ、関係のない細胞までどんどん自殺させるために、猛毒になると考えられています。このアポトーシスに関しては、まだ分かっていないことも多く、まだまだ発展途上な分野です。このプログラムを解明できれば、ガン細胞を選択的に殺したり、体つきを変化させたり、老化を止めたりと、色々なことができるようになるかもしれません。
図.12 トウゴマの種子
(vi)リトビネンコ・ポロニウム事件
「2006年11月1日、イギリスに亡命し、プーチン政権を批判していたロシア連邦保安庁元中佐のアレクサンドル・リトビネンコは、プーチン政権に批判的な報道姿勢で知られたジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤの射殺事件の真相を究明するために、イタリア人教授のマリオ・スカラメッラと名乗る人物と、ロンドンのピカデリーサーカス周辺の寿司屋で会食をしていた。
しかし、会食後、彼は急激に体調が悪化し、病院に収容された。そして、面会相手のマリオ・スカラメッラは、「武器密輸」および「国家機密漏洩」の罪状で、イタリアのナポリの空港で逮捕された。リトビネンコは、集中治療室に収容されていたが、11月23日に死亡した。事件当初は、脱毛などの症状から、タリウムによる中毒であると思われていたが、彼の体内から、ウランの100億倍の比放射能を有する放射性物質の「ポロニウム210」が大量に検出されたことから、一気に陰謀論が世界を圧巻した。
ポロニウム210が体内に取り込まれた場合、α線を被曝することになる。大量のポロニウム210を人工的に作るには、原子力施設など大がかりな設備が必要とされる。実際に入手運用しようとすれば、最低でも2,500万ドルはかかるだろうとされており、ロシア政府の関与が疑われたが、政府は「ロシア政府が関与するなどあり得ない。全くばかげたことだ」 と反駁した。」(Wikipediaより一部改め引用)
この犯行で使用されたのが、原子番号84のPoの同位体である「ポロニウム210」です。「ポロニウム」という名は、発見者であるキュリー夫人の祖国ポーランドにちなんでいます。ポロニウムは、天然では、ラドン222の原子核崩壊でごくわずかにしか生じない稀少な金属で、安定な同位体が存在せず、すべての同位体が放射能を持つ元素です。その製造方法は、まずビスマス209に中性子線を当てて、ビスマス210を作り、このビスマス210が数日かけてβ崩壊して、ポロニウム210となります。製造には、加速器や原子炉などの設備が必要不可欠で、経費もかなり必要になるので、個人が入手運用するのは、まず不可能です。
このポロニウム210は、ウランの100億倍のα線を放出し、半減期が138.4日と長く安定しているため、強放射性毒性を生かした運用が可能になります。また、その99%以上がα崩壊のみで崩壊し、γ線をほとんど放出しないため、ポロニウム210を容器などに入れてしまえば、γ線計測により検出することは不可能であり、運搬者が被爆しない点でも、放射性暗殺用薬物として適した特徴があります。
このポロニウム210こそ、現在のところ、人類が作ることのできる「最も有毒な物質」といわれており、その致死量は、わずか0.000000007
mgとされています。地上最強の毒物であるボツリヌストキシンの致死量が0.0005
mg/kgで、体重60
kgの人の致死量に換算すると、だいたい0.03
mgになりますから、ポロニウム210は、桁違いに毒性が強いということが分かります。地上最強の毒は、実は放射性同位体であったという訳です。
放射線の毒性については、放射線が細胞を通過するとき、細胞内の分子をいきなりイオン化させたり、細胞内でいきなり活性酸素を発生させたり、細胞内でいきなり水素イオンや水酸化物イオンといった酸やアルカリを発生させたりするのが、毒になる主な原因です。このようにして、身体中でネクローシスを引き起こし、被爆者を死に至らせるのです。
ちなみに、葉タバコにはポロニウム210が含まれています。葉タバコは、成長するときに土壌中からポロニウム210を吸い上げ、それを葉に蓄積させるのです。葉タバコから製造されるタバコの喫煙や、受動喫煙によって、ポロニウム210は人体に吸入されます。世界的には、「1日に30本のタバコを吸う人は、年間36 mSvの被曝をしている」との意見が主流のようです。喫煙で生じる肺ガンの2%程度は、ポロニウム210が原因とする意見もありますが、タバコには他の発ガン性物質も多種大量に含まれているため、これが主な原因とはいえないでしょう。
・参考文献
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