東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町。地震発生直後、町役場が放送した防災無線により多くの住民が高台に避難した。当時、防災係長だった阿部清人さん(50)にあの日の緊迫した状況を聞いた。【写真映像報道センター・丹治重人】
【写真】女川町役場(当時)の屋上に迫った津波。流された家屋や漁船が建物に衝突した
防災無線を担当する女川町防災係。1960年発生のチリ地震後の津波を教訓に、地震発生時の訓練を積んでいた。6年前の3月11日、地震の揺れが収まった直後に行動を起こした。阿部さんは「まずは防災無線で住民に情報を呼びかける。絶対に津波が来ると念頭にありました」と振り返る。
地震発生2分後、阿部さんの指示で女性職員が町内全域に防災無線の放送を開始。役場の窓から海の様子を見ていた阿部さんは、これまで見たことのない大きな津波がやってくるのを目撃する。「驚きというより緊張が走った。とんでもない津波を見て、それを早く伝えないといけないと思った」。とっさの判断で防災無線の原稿を書き直した。
従来の原稿では、避難を呼びかける文章を読み終えるのに1分ほど必要だった。阿部さんはとっさに「住民に対して手短な文章で情報を伝えなければ」と考え、避難に必要な部分だけに修正。「指定されている避難所」という文章は「高台」に変更した。短くした防災無線を繰り返し放送した。
その後、津波で役場の2階まで浸水。その間も3階の海が見えない場所にあった無線室では、女性職員が避難の呼び掛けを続けていた。阿部さんが無線室から職員を避難させた直後、津波が押し寄せた。マイクを握り、「逃げろ!」と一言だけ叫んだ。
津波がひざまで押し寄せる中、阿部さんは無線室を飛び出して屋上へ。役場内にいた約100人の町民や職員も無事に避難した。
町の人口約1万人のうち死者・行方不明者は827人。しかし、マニュアル通りでなく、状況に応じて柔軟に防災無線の文言を書き直したことで避難できた人もいただろう。阿部さんはそう思っている。
震災から6年。「災害が来る可能性は今後もないということはない。まずは自分の身は自分で守る。どんなに年をとっても、自分自身で避難できるようにする。東日本大震災の教訓です」と語った。