あいさつをしない人の数学勘定
みなさまこんばんは。
年が明けたかと思ったら、あっと言う間に1月も中旬です。
本当に、ジョン・レノンがTime flies so quickly.と歌ったようですね。
昨日から今朝にかけて日が替わる頃、累積訪問者数が20万人に達しました。
これもみなさまのご愛顧のおかげと、感謝いたします。
先ほど、ちょうど20万人目に訪問された方に対し、心の中で「ありがとうございます」とお礼を言わせていただきました。
年が明けたかと思ったら、あっと言う間に1月も中旬です。
本当に、ジョン・レノンがTime flies so quickly.と歌ったようですね。
昨日から今朝にかけて日が替わる頃、累積訪問者数が20万人に達しました。
これもみなさまのご愛顧のおかげと、感謝いたします。
先ほど、ちょうど20万人目に訪問された方に対し、心の中で「ありがとうございます」とお礼を言わせていただきました。
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ところで、FC2のカウンターというのはあまり正確ではないようです。
僕のブログでは、訪問者履歴に記録されているその日のFC2会員さんの訪問者数よりも、カウンターの数の方が少ないことが多いです。
FC2会員以外の方も訪問いただいているのですから、これは変です。
もっとも、そもそも訪問者数というのはどのようにカウントすればよいのか、という問いにぶつかります。
僕の場合は、同じ日の中で同じ人が2回以上クリックしても1回と数える、という設定にしています。
日が違えば、同じ人(というかPCのID?)でもカウントを加算します。
いずれにしても、真の意味の「延べ人数」とは違うわけです。
要するに、細かいことはさておいて、大変多くの方にご愛顧いただいていることを心より感謝申し上げなくてはならない、ということです。
今日書きますあいさつの話は、これまで何度か書いてきましたので、既に”耳にタコ”の方もいらっしゃると思い、すみませんが、今日は数学的なタッチで書きますので、ちょっとは新しい雰囲気で書けるかなと思います。
言うまでもなく、あいさつは人間の営みにおいてすごく大事であり、まさに人間の1日は「あいさつに始まり、あいさつに終わる」と言えましょう。
どの人も等しくあいさつをし合えば、何ら問題はないのですが、問題は、この世にはあいさつをする人としない人の二通りがある、ということです。
あるいは、あいさつをする(しない)にしても、そのする(しない)程度には差がある、ということです。
要するに、一言で言えば、「相手があいさつをしない、あるいは返事をしない、あるいは十分でない」という著しく不快な状況を、人間は必ず1日のうちに何度かは経験しなくてはならない、という事実に尽きます。
なぜこの世にはあいさつをしない、返事をしない、あるいは十分でない人がいるのでしょうか。
極悪非道な人たちでしょうか? それとも単に常識を知らないだけ?
あるいは、何らかの計算か企みがあるのでしょうか?
それとも、よい意味での達観なのでしょうか?
僕にとって、そのことを窺い知る大きなきかっけになったのは、30を少し過ぎた頃の「ある出会い」でした。前の会社にいた時のことです。
その会社には、あいさつをほとんどせず、人のあいさつにもほとんど返事をしない、とってもいやな感じの人がいました。
僕が30ちょっと過ぎの時に、なんとその人の部下になってしまったのでした。すごく憂鬱でした。その人は40代後半でした。
でも、いろいろ話をしてみると、とっても魅力的な人なんです。彼から学んだこともとても多かったです。
そんな彼がある時、言いました。「あいつはあいさつをしないんだよ。あの野郎はあいさつを全くしないんだ。」
僕は耳を疑いました。そして心の中でつぶやきました。「あいさつをしないのはあんただろ。あんたが返事しないからみんなあいさつしないんだよ。」と。
彼はあいさつなどには全く無頓着だと思っていたのに、誰よりもあいさつに関心がある人間だったのでした。
ではなぜ、彼自身はあいさつをしないのでしょうか。
僕は、その謎には即答は全くできませんでした。
相手があいさつをしなかったり、返事しなかったりすると、とてもいやなものです。せっかくのこちらのあいさつがドブに捨てられたかの如くです。
朝の初めにあいさつの返事をしない人がいれば、その日はやや不調になるし、帰る時に最も関係の深い人が返事しなかったら、その日を気持ちよく終われません。
あれ以来、あいさつの悩みは人間共通なのだとつくづく思ってきました。
そして、相手があいさつしなかったり返事しない場合に自分が取るパターンとして、大きく2つに分かれることがわかってきました。
一つは、相手があいさつしまいが返事しまいが、自分はあいさつはしようとする人。もう一つは、自分は絶対にあいさつしなく、返事もしない、という人。
そして時は流れ、50代後半になるにつれ、わかってきたことは、あいさつをしないあるいは返事しない人こそ、自分にはあいさつをしてほしい、と思っていることでした。
この不可解な事象の解明に一役買ってくれたのが、数年前のもう一つの出会いです。
その方は僕より2つ上の方です。同僚です。
その方は、僕が30過ぎの上司以上にあいさつをせず、返事しません。
そして、あの上司同様の考えを持っていました。
彼は、とにかく、相手よりも数秒でも先にはあいさつしたくないのです。
朝は始業時間ギリギリに事務所に入ってきて、蚊の鳴くような声でもごもごとつぶやきます。(一応、部屋に入る時には自分で何か言わなければいけないと思っているようです。)
そして、そんな聞こえないような声に対しても「あいつは返事しない」などと僕に言うのです。
一方で僕は、彼にはお世話になっています。
相談に乗ってくれますし、とてもよい考え方を持っています。
でも、清濁併せ飲んで仕事をガーっと進めることができず、人の欠点が見つかるとそこで100%批判に走り、事態を好転できません。
彼なりの「あいさつ道」があり、「あいつはなってない、こいつもなっていない」となるのです。
彼としては、なにも、全ての人にあいさつをしない道を邁進している風ではなく、自分はよい人の見本であるがごとくの正義感であり、他人の不義理に憂いている間に、いつの間にかあんな風になった感じなのです。
最近数年、彼ととても多くの話をするうちに、ようやく最近、僕として掴みかけたものがあります。
そして僕は、彼におけるあいさつの捉え方として次のような考え方があるように感じています。
まず彼は、人があいさつをしなかったり返事をしないことの不快を、あいさつということのなかで帳消しにしようと考えたようです。
あいさつでは不快のままでも、他のことでプラスを得ようとか、自らがあいさつにプラスをもたらせば相手のあいさつもプラス側へ感化される、といった発想がなかったものと思います。
言ってみれば、リスクテイクを全くせずに、あいさつという枠の中で、相手よりも”相対的”にマイナス側(つまり損をしない側)に立とう、という発想です。
例えば、相手が5というあいさつの状態であれば、自分はそれよりも失礼な状態であるの2の状態になれば、自分は不快な思いをしない、という訳です。
そしてその究極は?
自分のあいさつをゼロにすることです。
すると、相手がどんな失礼なあいさつだろうが、0よりは上です。
仮に相手が2の場合、その比率は2÷0=∞(無限大)です。
つまり、自分は全くあいさつもしなく、返事もしないことこそ、完璧に「あいさつの不快」から逃れられる唯一の方法なのです。
やはりこれは不幸ですね。
やはり、あいさつという枠の中でプラスマイナスを追求すべきでないと思います。
あいさつというのはあくまで社会的規範です。
その人なりのよしあしを、社会的規範という”絶対軸”ではなく、その人を丸ごと飲み込むことにより、”相対軸”で理解することを怠ってはならないと思います。
そして、やはり、あいさつは大事です。
基本は快活に、そして自分からあいさつをするのがよいでしょう。
そして最後に。
ジョン・レノンが歌います。
Isn't he a bit like you and me?
ところで、FC2のカウンターというのはあまり正確ではないようです。
僕のブログでは、訪問者履歴に記録されているその日のFC2会員さんの訪問者数よりも、カウンターの数の方が少ないことが多いです。
FC2会員以外の方も訪問いただいているのですから、これは変です。
もっとも、そもそも訪問者数というのはどのようにカウントすればよいのか、という問いにぶつかります。
僕の場合は、同じ日の中で同じ人が2回以上クリックしても1回と数える、という設定にしています。
日が違えば、同じ人(というかPCのID?)でもカウントを加算します。
いずれにしても、真の意味の「延べ人数」とは違うわけです。
要するに、細かいことはさておいて、大変多くの方にご愛顧いただいていることを心より感謝申し上げなくてはならない、ということです。
今日書きますあいさつの話は、これまで何度か書いてきましたので、既に”耳にタコ”の方もいらっしゃると思い、すみませんが、今日は数学的なタッチで書きますので、ちょっとは新しい雰囲気で書けるかなと思います。
言うまでもなく、あいさつは人間の営みにおいてすごく大事であり、まさに人間の1日は「あいさつに始まり、あいさつに終わる」と言えましょう。
どの人も等しくあいさつをし合えば、何ら問題はないのですが、問題は、この世にはあいさつをする人としない人の二通りがある、ということです。
あるいは、あいさつをする(しない)にしても、そのする(しない)程度には差がある、ということです。
要するに、一言で言えば、「相手があいさつをしない、あるいは返事をしない、あるいは十分でない」という著しく不快な状況を、人間は必ず1日のうちに何度かは経験しなくてはならない、という事実に尽きます。
なぜこの世にはあいさつをしない、返事をしない、あるいは十分でない人がいるのでしょうか。
極悪非道な人たちでしょうか? それとも単に常識を知らないだけ?
あるいは、何らかの計算か企みがあるのでしょうか?
それとも、よい意味での達観なのでしょうか?
僕にとって、そのことを窺い知る大きなきかっけになったのは、30を少し過ぎた頃の「ある出会い」でした。前の会社にいた時のことです。
その会社には、あいさつをほとんどせず、人のあいさつにもほとんど返事をしない、とってもいやな感じの人がいました。
僕が30ちょっと過ぎの時に、なんとその人の部下になってしまったのでした。すごく憂鬱でした。その人は40代後半でした。
でも、いろいろ話をしてみると、とっても魅力的な人なんです。彼から学んだこともとても多かったです。
そんな彼がある時、言いました。「あいつはあいさつをしないんだよ。あの野郎はあいさつを全くしないんだ。」
僕は耳を疑いました。そして心の中でつぶやきました。「あいさつをしないのはあんただろ。あんたが返事しないからみんなあいさつしないんだよ。」と。
彼はあいさつなどには全く無頓着だと思っていたのに、誰よりもあいさつに関心がある人間だったのでした。
ではなぜ、彼自身はあいさつをしないのでしょうか。
僕は、その謎には即答は全くできませんでした。
相手があいさつをしなかったり、返事しなかったりすると、とてもいやなものです。せっかくのこちらのあいさつがドブに捨てられたかの如くです。
朝の初めにあいさつの返事をしない人がいれば、その日はやや不調になるし、帰る時に最も関係の深い人が返事しなかったら、その日を気持ちよく終われません。
あれ以来、あいさつの悩みは人間共通なのだとつくづく思ってきました。
そして、相手があいさつしなかったり返事しない場合に自分が取るパターンとして、大きく2つに分かれることがわかってきました。
一つは、相手があいさつしまいが返事しまいが、自分はあいさつはしようとする人。もう一つは、自分は絶対にあいさつしなく、返事もしない、という人。
そして時は流れ、50代後半になるにつれ、わかってきたことは、あいさつをしないあるいは返事しない人こそ、自分にはあいさつをしてほしい、と思っていることでした。
この不可解な事象の解明に一役買ってくれたのが、数年前のもう一つの出会いです。
その方は僕より2つ上の方です。同僚です。
その方は、僕が30過ぎの上司以上にあいさつをせず、返事しません。
そして、あの上司同様の考えを持っていました。
彼は、とにかく、相手よりも数秒でも先にはあいさつしたくないのです。
朝は始業時間ギリギリに事務所に入ってきて、蚊の鳴くような声でもごもごとつぶやきます。(一応、部屋に入る時には自分で何か言わなければいけないと思っているようです。)
そして、そんな聞こえないような声に対しても「あいつは返事しない」などと僕に言うのです。
一方で僕は、彼にはお世話になっています。
相談に乗ってくれますし、とてもよい考え方を持っています。
でも、清濁併せ飲んで仕事をガーっと進めることができず、人の欠点が見つかるとそこで100%批判に走り、事態を好転できません。
彼なりの「あいさつ道」があり、「あいつはなってない、こいつもなっていない」となるのです。
彼としては、なにも、全ての人にあいさつをしない道を邁進している風ではなく、自分はよい人の見本であるがごとくの正義感であり、他人の不義理に憂いている間に、いつの間にかあんな風になった感じなのです。
最近数年、彼ととても多くの話をするうちに、ようやく最近、僕として掴みかけたものがあります。
そして僕は、彼におけるあいさつの捉え方として次のような考え方があるように感じています。
まず彼は、人があいさつをしなかったり返事をしないことの不快を、あいさつということのなかで帳消しにしようと考えたようです。
あいさつでは不快のままでも、他のことでプラスを得ようとか、自らがあいさつにプラスをもたらせば相手のあいさつもプラス側へ感化される、といった発想がなかったものと思います。
言ってみれば、リスクテイクを全くせずに、あいさつという枠の中で、相手よりも”相対的”にマイナス側(つまり損をしない側)に立とう、という発想です。
例えば、相手が5というあいさつの状態であれば、自分はそれよりも失礼な状態であるの2の状態になれば、自分は不快な思いをしない、という訳です。
そしてその究極は?
自分のあいさつをゼロにすることです。
すると、相手がどんな失礼なあいさつだろうが、0よりは上です。
仮に相手が2の場合、その比率は2÷0=∞(無限大)です。
つまり、自分は全くあいさつもしなく、返事もしないことこそ、完璧に「あいさつの不快」から逃れられる唯一の方法なのです。
やはりこれは不幸ですね。
やはり、あいさつという枠の中でプラスマイナスを追求すべきでないと思います。
あいさつというのはあくまで社会的規範です。
その人なりのよしあしを、社会的規範という”絶対軸”ではなく、その人を丸ごと飲み込むことにより、”相対軸”で理解することを怠ってはならないと思います。
そして、やはり、あいさつは大事です。
基本は快活に、そして自分からあいさつをするのがよいでしょう。
そして最後に。
ジョン・レノンが歌います。
Isn't he a bit like you and me?
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