最近、一向にブログの更新が滞っている。
もともとは社会正義の存在を信仰して始めたブログなので、社会正義よりも結果、金銭を崇拝する生活に切り替われば更新が難しくなるのは当然のことかもしれない。気がついたら、はてなの契約更新さえも怠っているありさまで、独自ドメインを失っていた。
さて、今回は最近身近におこった事件から人間関係のよいノウハウを学んだので、ひとつ「シェア」してみようと思い、筆を執った。
「正義」の争奪戦
人間関係は、トラブルの発生によって用意にこじれ、解消してしまう。しかし、トラブルが起これば必ず人間関係の断絶に発展するというわけではない。最近の経験から、この分水嶺は「責任」の押し付け合いが解決するか否かにありそうだ、という心証を得た。
一つ例を挙げよう。
もう2年も前のことになるが、実家のある高知から東京に戻る高速バスの便で、小生は2列目の左の席に乗っていた。途中、徳島で別のバスに乗り換えなければならないと知らされ、眠い目をこすりながらも、2番めのバスの同じ席に腰掛け、しばらく経過した後のことだった。
消灯後なので車内は静まり返っており、暗かった。小生は多少窮屈に思いながらも眠りにつこうと、アイマスクを忘れたことを恨めしく思いながらも目を閉じようとしていた。
その時、突如、前の席の背もたれが勢いよく倒れ、眼前10cmの地点まで迫ってきた。たまりかねて、前に座っていた男の肩を叩き、
「ちょっと、おたく、倒し過ぎじゃないですか。最前列だからゆとりもあるでしょう。勘弁して下さいよ」
と苦情を申し述べた。すると男は、
「リクライニングがあるんだから、多少は倒しても良いと思いますがね」といいながら、半分ほど座席を戻してくれた。そこで軽く礼を述べ、一息つきながら睡眠の途に戻ろうとした。
しかし、15分もしないうちにバスは明るい駐車場に停車し、人の動く音が聞こえた。パーキングエリアである。こうなったら眠気も何もあったものじゃないから、小生も外へ出て小用を済ますことにした。
ところが、帰ってみると、いやに席が座りにくい。明らかに先程より狭い。バスは駐車場を離れていたが、慎重に慎重に考慮し、思い出し、やはり男がまた席を倒したのだと判断して、男の肩を叩いた。
しかし男は狸寝入りを決め込んだのか、反応がないので、この際だから男の席を激しく蹴り上げた。すると男は、
「一体何なんですか。リクライニングならさっき戻したでしょう」と述べたので、
「いや、私が休憩に行っている間にまた倒したでしょう。いい加減にしてもらえませんか」
「証拠でもあるんですか」
「席のポケットに入れている荷物が明らかにさっきよりも近くて、寝れたもんじゃないんですよ」
「それは頭上の棚に入れればよいでしょう」
「すでに別のものを入れているんです」
周囲をはばかりながらも、こういった問答が始まった。
男は、小生を無視すれば一晩中座席を蹴り上げられることになるから、交渉のテーブルから降りるわけにはいかなかった。
そのうち、男は小生に、こんな交渉を持ちかけてきた。
「リクライニングはあなたが納得するだけ戻してやるから、私がこっそりと席を倒したと主張したことは撤回して、改めて『席を戻してくれませんか』と頼みなさい。もちろん朝まで、絶対に席を戻すようなことはしない」
小生は少し困惑し、
「それはとにかく言えばいいということですか」
と問うたが、男は「そうだ」と短く返すのみだった。
男は暗闇に目玉を光らせて、わりあい真剣な顔でこちらを睨んでいる。小生は、ここは実利を取ろうと考え、
「わかりました。私の勘違いでした。席を戻してもらえませんか?」
と述べた。
すると男は、おもむろに前に向き直り、リクライニングを半分ほどひっこめた。翌朝になってもリクライニングはそのままで、男は新宿駅で黙々と降りていった。小生はカーテンに映る男の影を見守っていた。
アメリカ人は、「Lier」というレッテルをひどく嫌うという。嘘つきという意味だが、これは簡単に用いれば刃傷沙汰に発展しかねないほどの重大な中傷に使われる言葉らしい。この男も、小生が離れている間にこっそり席を倒したという卑怯さを免れることを、翌朝までリクライニングを広々と倒して快適に眠ることよりも増して選択した。
もちろん、これは匿名のやり取りである。判明しているのはお互い、高知に多少の縁があったというだけで、これは方言を使うことからわかるのである。だがそれ限りのことで、その後の社会生活に一切影響するものではないし、家族にだって知れることではない。
だから、男は、利害損得の感情とは関係なく、小生に一晩の快眠を差し出し、代償として「正義」を要求したのだと思う。
「不正義」を忍受する痛み
この男のことなどもう忘れて久しかったのだが、ひょんなことから、小生は男の気持ちを追体験することになった。
小生が大学を離れてすでに1年になるが、細細としたものとはいえ、一応の関係が続いている相手もあった。そんな友人のひとりから、ある日、哲学について語り合うサークルを立ち上げるから、公認を得るためにも名前を貸してほしいと依頼された。彼を、仮にSと呼ぼう。
小生は元来哲学に希望を持っていた人間だし、断る理由もないので快諾した。一応のミーティングというか会合を持ち、3回ほど色々なことを話し合った。それは損益と交渉のことで占められた生活の中で、限定的にではあるが、知的オアシスの役割を果たさないでもなかった。
しかし、肝心の公認を得た直後、小生にとっては大変な問題が発覚する。Sが大学当局に対して、サークルの説明書きと称してバルメン宣言と日本国憲法を足して2で割ったような謎の文書を提出してしまったことがわかったのだ。
Sがこの文書を長い時間練っていたことは知っていたし、たまに喜々として読ませようとしたこともあった。しかし、小生を含めたサークルを代表するものとして色々社会経験を積んだ大学職員に提出されるものとは考えていなかったから、それは青天の霹靂であった。
権威や権力を持たないものが発する「宣言」など、なんの効力ももたない。そのうえ、知恵ある人の失笑を買うことになる。なぜなら、それは宣言者が、裸の王様のごとく、権威を持っているという妄想に浸っていることの証左に他ならないからだ。
小生はあわててこれの撤回を迫ったが、Sはあの手この手でそれを渋った。Sが会の全員にこの文書の裏書きを求めなかったことだけは明白であったから、他にどんな末節の事情でSに有利なことがあっても結論に変わりはないのだが、Sはその末節を執拗なまでに主張し、小生にその正当性を認めさせようとした。
だが、小生は今やサークルに居場所を求める必要もなかったので、優先順位はあまり高くなかったから、忙しいのにこのことを考えて悶々とするのは嫌であった。そこでこの件については連絡してくれないように頼んだが、Sは毎日、おそらく放課後の17時過ぎになると、かならずこの話をLINEで持ちかけて、1回でも返事すると永遠に付き合わされた。
そこで、小生はSをLINEでブロックした。今は1時間、2時間怠けることで、容易に数万数十万の金や信用を失う立場にある。そのためには、集中力を削ぐものはなんでも遠ざける必要があった。
その問題でしばらくSとは距離を置くことになり、サークルの次回会合の話も流れつつあった。しかしある日、Sは突如としてグループLINEで、彼が考えたらしいイベントの構想を披露し始める。それはメッセージ67件にも渡る長大なものであったから、斜め読みするのが精一杯であったが、会うことも少しはばかられる雰囲気で突然切り出されても反応に困る性質のものであることは明らかであった。
小生は上記の件も未解決であったから心に大きなしこりを感じていてが、件の文書のごとく謎の行動をサークルを代表して行われて、いつのまにかある義務を負わされていたり、ある一大イベントを行う人物の一人として衆人に知られているようなことになったら困るので、とりあえず内容はさておき、今度あったときに皆で話し合いましょうねというだけのコメントを残した。
そうすると、彼はどうも嬉々としたような様子で小生に感謝を述べ、いまだすごい企画を思いついた恍惚の感が抜けきれないような調子で返答をした。
小生にとって、Sの返答は不愉快そのものであった。痛々しい謎文書に代表されてしまったことについて未だ憤りを覚えており、その謝罪もまだないが、社交儀礼*1として返事をしたにすぎないのに、彼の調子からは、小生が感じているしこりもないかのようであった。加害者の余裕を感じさせられたし、再度の暴走の危険も近いと感じた。
そこで、3日ほど考えた後、小生はSにサークルの会長を辞めるように求めた。コミットメントの量からして他に見当たらなかったから、小生に譲るように求めた。
もちろん小生は今更サークルの会長がどうのといった、就活のネタにすらならないような肩書や権威に興味はない。六万円の印紙税がかかるだけ、合同会社代表のほうが重みがある。かといって、この時点の彼への感情からして、突然辞めると言って公認の下限人数を割らせるようなことはしたくなかった。とはいえ、言葉の表面から裏側の感情や要求を読み取る能力において彼は充分でないと感じたし、仕事の妨げになるからやめてくれと言っているのに毎日LINEで言いたいことを言ってくる人物が、対外的に暴走するのを止められる自信もなかった。
すると唯一の選択肢は、小生が一応代表権を譲り受け、会の名義で行動することを許可する権限を掌握するということになる。そうすれば、少なくとも意図しないところで自分を含むサークルが何かをすることになっていたり、SNSで変な政治的立場を取っていたりといったトラブルはなくなると思われた。
集中力とリソースを削がれるようなトラブルさえなければ、小生にとっても悪いサークルではなかったのだ。
しかし、Sは明確な返答を避け続け、なぜそのような話になるのだというような質問から始まって、その他小生の過去の言動に関連する中傷を書き立て始めた。これもチャットによるやり取りであったのだが、SEALDsのようなリベラルとS自身の立場の違いと言ったことを説明し始めたり、求めてもいない自著のレポートを見せようとしたり、もはや要領を得ないことは明らかであった。LINEのときと同様で、ようは自分が相手に見せたいコンテンツが先行しており、相手のニーズを見ようとしないのである。
小生はBrexitのごとく、SからCotrolを取り返せないのであれば、これ以上トラブル因子を抱えるわけにはいかないから、彼がいつまでも是か非かで答えないことに業を煮やして、否だとみなす、と書き残して会話を終えた。
しかし、ことは終わっていなかった。
この後、一切の連絡を謝絶したいと申し出ていたのに、Sはあれこれの方法で小生に連絡を取ろうと試み、色々とSの正義を主張し始めた。
それに対して、小生は最初、それを正面から否定する文句を、ごく短い文面にまとめて返答していた。裁判所が被告人の悪あがきを却下する調子で、意味が無いから検討しない、価値が無いから考慮しない、といった紋切り型の返事で話を切り上げようとした。
ところが、そうすればするほどに、Sの送ってくるメッセージは強い悪臭を放つものになりはじめた。順番は前後するが、とうとう小生は女の人気を落とすまいとして問題の短期解決を図ったことにされたし、もうそのメールを見たくないから詳細は控えさせてもらうが、最後の最後には乖離性人格障害か何かといった精神病の診断名まで与えられてしまった*2。
とにかく小生の色々な言動にS独自の解釈が加えられ、なんでもトラウマで説明してしまうどこかの心理学のごとく、小生の多くの言動が暗色の動機に塗り尽くされてしまった。
もちろん、それは心あたりもない事実無根の塗り絵がほとんどであった。小生は忍耐強く、枝葉末節の反論は避け、それは君だけの想像であると短く返答したり、その主張自体を無視したりした。だが、そうすればするほどに、小生の心に復讐心というヘドロが溜まっていくのを感じた。
警察できびしい尋問を受けているうちに、被疑者はやってもいない犯罪をやったかのように思い込み、その様子を警官のストーリーよりも詳細に想像して、嘘の供述をしてしまうという。中学の時分、足利事件のルポルタージュ本で知ったことだ。
小生は、反論をしなかったがために、あたかもSの創作が事実であるということを小生が認めて、しかもそれはSだけでなく、小生以外のすべての人にとって自明のことになってしまったというような気がしたのである。その気持は刻々と強くなっていって、ついにはかつてのLINE問答にも増して集中力を削ぐまでに育っていった。
「正義」を手放すこと
そこで小生はすこし時間を取って、Sがなぜ延々とニーズのない自説をあらゆる方法で送りつけて来るのかということについて、検討することにした。その結果、Sも小生とおなじように、Sの認識や世界観に反する事実を小生から突きつけられていて、それでも学生は議論をするのが本分のようなものであるから、それらに対して、いちいち反論せずにはいられないのではないか、という仮説に到達した。
小生はSに何も期待できないという判断を固めていたから、特に具体的な塗り絵は突き突けていないものの、一貫してSの言説には今やなんの価値もなく、人間関係の能力もなければ、もはやその言葉には一滴の雫ほどの重みもないのだ、ということをSから連絡があるたびに言っていた。
Sは政治学者タイプで、Sの価値観に合致するものであれば、どんな文献でも熱心に読み解き、一端の学説を披瀝する人間である。Sにとって、言葉は主力商品といってもよいだろう。それを中心にSの言動自体の価値性を否定し続けた小生に対して、そうやって否定している小生を否定するのでもよいし、改めてS自身の正当性を主張するのでも良いから、とりあえず反論のメールを送って、Sの主張を小生を含む全世界が受け容れたかのような感覚を得たいのではないかと推察した。これは、反論を我慢したときとは正反対の開放的な感覚なのである。
そうこうしている間にも、S自身が会長であることに固執したのに、小生がサークルの会長になったという(今でも意図が不明な)デマをTwitterで1,200名前後のフォロワーに拡散するなど、新たなトラブルの火を今にも点火させようとしていた。
そこで、小生は今朝、今までSの価値性を否定したあらゆる連絡は撤回し、配慮が不足したことを謝罪するので、どうか平穏な感情生活を取り戻させてほしい旨の連絡をした。それと同時に、メールシステムの設定を変更して、知る限りのSのメールアドレスを受信拒否した。
だから、結局このメールが功を奏して、Sの復讐心を鎮めたかどうかは全くわからない。だが、小生の心理には多大な変化があった。あれほど毎時歯ぎしりをして、あのゴキブリをどう磨り潰してやろうかと考えていたのが、7割は減じて、穏やかさを取り戻すことができるようになったのだ。
Sは正義を主張することで、小生はSが正義を語る資格や能力自体を否定することで、結局は自分の側が正義であるということを、お互いに認めさせようと努力していた。どう話し合ってもこの正義を譲ることができなかったから、和解の機会もなかった。
だが、職業生活の必要から欲したものとはいえ、メールの上で正義を放棄するという降伏文書に調印したことは、自分は実際このリングから降りたのだということを心に追認させる。そうすると、先程まで重大極まりない問題であったSのこと全般が、非常に遠ざかった風景として感ぜられた。
この調子で、思考実験的に普段から憎んでいるクレーマーのことや、古い敵のこと、嫌味な親類のことなどを思い出しつつ、ただ「小生が悪いのだ」と念じてみると、不思議とそれらの問題が解決し、遠くに去っていくように思われた。
ふつう、正義を取り上げられると、それに応じた制裁が課せられることになる。
しかし、感情的なもつれについては、たとえ自分が悪い、負けたと認めたところで、特段賠償することもない。我々はついこの2つが不可分だと思ってしまうが、思えば、裁判所という制度によって人工的に結び付けられているに過ぎないかもしれない。
だから今は、いっけん二重思考のようであるが、「小生が悪いね、ごめんね、だからまあ仕方がないか」というようなことをふわふわ漠然と思っている。幼稚園から伴ってしかるべきだと教えられてきた謝罪という儀式さえ、改めてする必要を感じない。
少なくとも小生は、自分に甘いのだとおもう。責任が他人にあると思っているうちは、悔い改めろと思わずにいられないから、小生に意に沿わないくせにのうのうと生きている事自体が憎たらしくなるし、なんとか気持ちにでも金品にでも損害を与えて、その苦しむさまを鑑賞したいと思わずにもいられない。
たが、自分に責任があると思えば、自分のことであるから、まあ仕方がなかったねと許す気にもなるのだ。こうすることで、むしろやり場のない怒りに時間と気力を消耗することも減り、自分を高めることに時間を使えるようにもなるのだ。
説明が長くなってしまったが、怒りや憎しみの宛先は多くても、権力意のごとくならずして復讐の機会もなく、日々怒りをたぎらせている者は少なくないのではないかと感じるので、参考になればと思い記してみた。