5ETV特集「小野田元少尉の帰還 極秘文書が語る日比外交」 2017.03.04

この島の高校ではかつて住民と深い関わりのあった一人の残留日本兵について教えています。
(拍手)ルバング島の密林で終戦後も29年間にわたって戦闘を続けた後に投降しました。
1974年。
帰国した小野田を経済成長の中にあった日本の国民は驚きと熱狂をもって迎えました。
こんなにたくさん私の帰るのを喜んで頂きまして全く何て申し上げていいのだか言葉に詰まってしまってるところ…。
帰還から43年がたった今当時の極秘資料が次々に発掘され救出までの舞台裏が明らかになりました。
帰国直後の聞き取り調査に記された潜伏の生々しい実態。
潜伏中小野田とルバング島民は衝突を繰り返していました。
更に外務省から発掘された700ページに上る極秘文書には島民に与えた被害が記されていました。
被害に対し日本政府は見舞金100万ドルを支払う方針を固めていきます。
そういった一連の動向を見ていると小野田元少尉の救出問題というのが単に通常の残留兵の扱いをはるかに超える極めて政治的あるいは外交的な重要案件だった。
見舞金は更なる波紋を起こします。
贈呈式でフィリピンのマルコス大統領が思わぬ行動に出たのです。
極秘の電報に記されたマルコスの言葉。
なぜマルコスは受け取りを拒んだのか。
背景には戦後フィリピンの人々が抱えてきた日本への複雑な感情がありました。
ルバング島に僅かな金をまいてそれで終わりにされてはフィリピン国民の反応がネガティブになる可能性の方が大きいと。
残留日本兵小野田寛郎の帰還。
新発見の資料から知られざる潜伏生活の実態と日本とフィリピンが繰り広げた外交交渉の舞台裏に迫ります。
南シナ海に浮かぶフィリピン・ルバング島は首都マニラから南西に150キロ。
およそ2万人が暮らしています。
昭和19年の大みそか。
22歳の小野田寛郎は命令によりこの島に着任しました。
島には秘密飛行場があり小野田たちはこの警備にあたりました。
数百人の日本兵は島民の家を兵舎にし食料を徴発しました。
当時を知るウアリスノさんです。
太平洋戦争で南方に戦線を拡大した日本。
1943年に入ると劣勢に陥り玉砕が相次ぎました。
日本本土に向かって北上するアメリカ軍。
日本軍との主戦場となったのがかつてアメリカが統治していたフィリピンでした。
1944年10月のレイテ戦では物量に勝るアメリカ軍を前に日本兵の97%が死亡しました。
フィリピン戦線で最大の被害が出たのが首都マニラの市街戦でした。
多数の民間人が日米の戦いに巻き込まれ命を落とします。
太平洋戦争で100万人以上のフィリピン人が亡くなったと言われています。
小野田のいるルバング島は南北10キロ東西30キロ中央部を密林に覆われています。
アメリカ軍の攻撃が始まったのは1945年2月末の事でした。
僅か3日間の戦闘で日本軍はほぼ壊滅。
生き残った日本兵も大部分がアメリカ軍に投降していきました。
一方小野田は追跡を逃れ森に向かいます。
ここから29年にわたる潜伏生活が始まりました。
(玉音放送)しかしルバング島のジャングルにその知らせは届きませんでした。
この時森の中には4人の日本兵が残っていました。
彼らは投降を拒み続けました。
なぜ4人は潜伏を続けたのか。
最近広島市立大学の永井均教授が新たな資料を発掘しました。
厚生省援護局の職員が帰国直後の小野田に秘密裏に行った聞き取り調査の記録です。
ここから読み取れるのはその小野田元少尉が戦争はまだ継続してるんだというそういう主観があって。
注目すべき点の一つは攻撃の根拠として「ルバング島全島がわれわれの占領地である」というような記載。
小野田元少尉がルバング島を自分たちの占領した地域であるというふうに捉えていたという事を率直に書いている。
そしてそこに入ってくる住民たちはある意味敵として捉えて攻撃の対象としていたという事がこの一文からも読み取る事ができると思います。
小野田の潜伏の目的は島の占領だったのです。
更に「占領」は日本軍の再上陸に備えるためだと繰り返し強調していました。
小野田が語った潜伏生活の実態です。
ブロール地区は小野田が占領していた森と隣接した集落です。
10歳の頃自宅を日本兵に燃やされました。
集落は日本兵による襲撃を度々受けていました。
山の中に潜む日本兵は「山賊」と呼ばれ恐れられました。
住民は果物やヤシの実をとりにいく事もできなくなりました。
小野田たちは次第に住民と敵対していったのです。
終戦から5年目。
小野田たちの生活に異変が起きました。
行動を共にしていた赤津勇一一等兵がフィリピン警察軍に投降し日本に送り返されたのです。
帰国した赤津によって小野田ら残留日本兵の存在が国と家族に伝えられました。
知らせを受けた小野田の兄敏郎はフィリピンに救出隊の入国を申し入れます。
その半年後日本の外務省にフィリピン政府からの返事が届きました。
日米の戦闘で国土が破壊されたフィリピンでは戦後日本人の入国が厳しく制限されていました。
マニラ湾にはまだ日本の艦船の残骸が浮かんでいました。
1951年日本の戦後賠償と国際社会への復帰を話し合うサンフランシスコ講和会議が開かれます。
会議を主導するアメリカは日本に過大な経済負担を与えないよう関係各国に賠償の放棄を働きかけていました。
参加国の多くがアメリカの意向に同調していきます。
そうした中賠償の支払いを強く求めたのがフィリピンのロムロ代表でした。
結局日本はフィリピンをはじめアジアの国々との賠償を個別に話し合う事となりました。
厳しい対日感情の中小野田の救出隊の派遣は見送られました。
島では潜伏を続ける日本兵への反発が高まり警察軍が討伐に乗り出します。
ロドルフォ・カハヨンさんの父親も討伐隊の一人でした。
カナルスさんの父親は35歳の時日本兵に銃撃され亡くなりました。
父のラファエルさんは5人の子供たちを大学に進学させる事を目指して働いていました。
なぜ小野田は住民と敵対しながら命懸けで任務を続けたのか。
後年NHKの番組でこう答えています。
ああいう結果になるまで戦い続けるしかやりようがなかったんですよね。
その次はやっぱり僕の性質で負けたくないと。
特に戦争負けたら死ななきゃいけないから本能的に死ぬのは誰でも嫌でしょうけど。
ルバング島に赴く前小野田は特殊な訓練を受けていました。
現在の静岡県浜松市二俣にあった陸軍中野学校の分校。
小野田はここで3か月の特訓を受けていました。
スパイ養成機関だった陸軍中野学校の中で二俣分校では特にゲリラ戦の幹部を養成していました。
当時の教科書には小野田のルバング島での行動を思わせる言葉が記されています。
特に小野田に影響を与えたのが中野学校でたたき込まれた独特の教えでした。
あこんにちは。
ああどうも。
これはね戸惑いましたね正直なところ。
という事はね「戦陣訓」というのがあったんですね。
その「戦陣訓」には「命を惜しんではいかん。
いつでも命を投げ出せ」といつでも死ねという事で。
軍人の心得「戦陣訓」では捕虜になる事は死に勝る恥とされました。
それをもう徹底的にやられたわけですね。
主力の撤退後も任務を継続するよう教えられていました。
反撃に備え敵陣内で情報を集めます。
小野田君なんかがルバングへ渡る時は…師団長からの命令をもらっとったわけです。
これは小野田に下された命令です。
「ルバング島におけるゲリラ戦を強化せよ」。
途中で死ぬ事は許されませんでした。
味方の再上陸を待ち続ける小野田。
終戦から9年目。
その存在が再び日本に知れ渡る出来事が起きます。
島の南にあるゴンチン海岸。
小野田はこの海岸を味方の再上陸に最も適した場所だと考え占領していました。
そこで銃撃戦が起きたのです。
射殺された…残留日本兵の存在を知りながら救出できなかった日本政府。
更に追い打ちをかける知らせが飛び込んできます。
残る2人の日本兵をフィリピンの警察軍が射殺も辞さず討伐するという報道が出たのです。
世論が高まり国会で救出決議案が可決されます。
日本の世論の高まりはフィリピンにも伝えられました。
この時フィリピン側に変化があった事が外交記録により明らかになりました。
残留日本兵に対しジャングルの中に山砲を撃ち込むなどの掃討作戦を考えていたフィリピンの警察軍が作戦を中止するというのです。
理由に挙げられたのは「日比親善」でした。
1950年代フィリピンの対日政策は大きく変わり始めていました。
戦争中の民間人殺害などの罪で収監されていた100人を超える日本人戦犯が帰国を許されたのです。
恩赦を決めたのは…自身も日本軍によって妻と3人の子供を殺されていました。
キリノは恩赦の理由をこう語っています。
キリノの決断の背景には当時国の後ろ盾となっていたアメリカの反共政策がありました。
アジアで台頭してきた中華人民共和国更に核開発を進めるソビエトによって冷戦の緊張が高まっていたのです。
アメリカは反共の防衛ラインとしてフィリピンに日本との関係改善を迫っていました。
講和会議から5年後の1956年。
日本とフィリピンの間で賠償協定が締結されます。
補償額は当初フィリピンが請求した80億ドルから5億5,000万ドルに引き下げられました。
賠償は個人には支払われず生産物の提供や建設工事などのサービスで行われ日本企業進出の足掛かりともなっていきます。
日本に歩み寄りを見せ始めたフィリピン。
近現代の日比関係を専門とするリカルド・ホセ教授は当時の国民の複雑な心境を指摘します。
1950年代に入ると日本とフィリピンは近隣国として友好関係を築くべきだと考える人も出てきました。
ただし反日感情はまだ強く日本人を嫌いフィリピンに来てほしくないと思う人も大勢いました。
アメリカは我々に戦後賠償を諦めさせようとしましたが応じませんでした。
講和会議後も賠償交渉を進めようとしたのです。
賠償協定を締結したあとも納得したわけではありません。
お金で全てを埋め合わせる事はできないのです。
1959年10月。
フィリピン政府の許可を受け厚生省と家族を含めた大捜索団がルバング島に向けて出発しました。
ヘリコプターを使いジャングルの中に投降を呼びかけるビラを散布します。
小野田はこの時ビラや家族による呼びかけには気がついていたと語っています。
陸軍中野学校の同期生は小野田が捜索に応じなかった理由は学校の訓練にあると考えています。
(鈴木)これ見りゃよっぽど思い出すじゃないですか。
これは卒業生が記憶をもとに描いた訓練の絵です。
その中に「伝単」宣伝ビラに関する科目がありました。
(鈴木)これはあれじゃないですか宣伝ビラのようなものじゃないですか。
(井登)ああそうかもしれんね。
(鈴木)宣伝ビラだと思うんだよ。
うそを言うだよ。
その情報を流すだよ。
(井登)その教科にありましてねどういう事か偽の宣伝をせよと。
だから相手をくらますわけですね。
そういう戦略があるわけですね。
だから小野田はね信じなかったというのは「そういう宣伝がよくあるから気をつけよ」いう事を聞いとるもんだからだからうっかりのっていったらえらい目に遭うと。
半年にわたる捜索は実りませんでした。
捜索団の政府代表は一つの判断を下していました。
誠に残念に思っております。
弟どもが現在生存をしておるという情報は何もございませんで…
(敏郎)現地の若い者がココナツの採集をやっております。
これはやはり生存をしないものであると。
小野田と小塚の実家には地元の知事から死亡告知書が送られました。
2人の葬儀は遺骨もないまま行われました。
こうしてルバング島の残留日本兵の捜索は打ち切られたのです。
しかし島での被害はその後も続きました。
捜索打ち切りのあと残留日本兵と思われる人物に友人を撃たれました。
場所は小野田たちが占領していたという…その日ボテさんは友人のデラクルスさんと共に砂浜で休日を過ごしていました。
デラクルスさんが一人で森に入った時事件が起きました。
ボテさんはすぐに助けを呼びデラクルスさんを村の教会に運びました。
知らせを受けたデラクルスさんの妻…当時夫婦には6人の子供がいて7人目をみごもったばかりでした。
クリスティーナさんにはおなかの赤ん坊と幼い子供たちが残されました。
実は日本政府にも残留日本兵が関わったとされる事件が度々報告されていました。
捜索打ち切りの3年後フィリピンの大使館が厚生省に伝えた連絡です。
「いわゆるストラグラーなる者と会っている者があり小野田少尉の写真至急入手お願いいたします」。
厚生省は外務省を通してこう答えました。
「既に大がかりな捜索隊を派遣したうえ調査を打ち切った本件を蒸し返せば収拾つかない事態に発展する事が予測される」。
小野田の写真はマニラに送られませんでした。
マニラの日本大使館に勤務し残留日本兵に関わった…何とかしなきゃならないという思いがあるけれどもそのために特別のオペレーションをやらなきゃいけないでしょう。
それどこの…厚生省がやるのか防衛庁がやるのかねそういう問題と正面から向き合う事が日本政府の中で面倒くさいという事だったんじゃないかな。
まあそういう難しい問題を解きほぐして政府を動かしてという事になると政治問題になるわけでね。
一方フィリピンでもこの時期残留日本兵に関する報道に変化が出ていました。
日本兵の情報は「迷信」だとして「作り話」はやめるべきだという論調です。
このころフィリピンでは日本からの賠償をきっかけとして日本製品の輸入が進み経済による結び付きが生まれ始めていました。
1950年代後半それまでアメリカとの貿易ばかりだったフィリピンは新たなパートナーを探していました。
当時日本の商品は値段が手頃で大量に輸入されるようになり新たな貿易相手として大きな利益をもたらしてくれたのです。
日本と親密な関係を築こうとしているのに残留日本兵のニュースが飛び込んでくるとまだ戦争が続いているかと思ってしまうのです。
復興を果たした日本の姿が世界中に印象づけられました。
翌年のフィリピン。
後に小野田救出の立て役者となるフェルディナンド・マルコスが大統領の座につきます。
マルコスは海外資金を導入し開発を推進しようとしていました。
政権の財務大臣だったセサル・ビラタさん。
マルコスの政策に日本は欠かせない存在だったと言います。
マルコス政権誕生後の1969年。
南北2,100キロにわたる日比友好道路の建設が始まります。
フィリピンで初めての円借款事業でした。
技術協力も推進され日本との関係は急速に緊密になっていきます。
マルコス政権下の最初の5年間で対日貿易額は2億ドルから4億ドルへと倍増しました。
そうした中で小野田が潜伏するルバング島でも開発の計画が持ち上がっていました。
しかしここでも残留日本兵の存在が影を落としていました。
父親も町長を務め開発計画に携わってきました。
住民の要望をもとに道路や学校の建設かんがい施設の整備などが計画されました。
しかしそれは今もほとんど実現されていません。
小野田たちの長期間にわたる潜伏は島の人たちが自由に土地を使う事を難しくしていました。
島の開発は進まないまま小野田の占領は27年目を迎えようとしていました。
1972年10月19日。
小野田は最後の仲間を失います。
この日ルシータ・ビリャルナさんの家族は畑で収穫をしていました。
この時の小野田の証言です。
小塚の遺体はすぐにマニラに送られ大使館員によって身元の確認が行われました。
担当した…もう見て一瞬でこれは小塚金七さんだろうと。
まあ2発当たってましたね。
もう即死ですよね。
だから帝国陸軍というのはまだ生きてたんですよ。
この2人の中ではね。
相手を敵と認識して銃撃戦を戦ったという意味ではそれ以後いないわけだから彼が最後という事になるんでね。
日本政府が認定したわけですからフィリピン側も日本側もなかった事のようにして今までと同様の処遇処置で済ますわけにはいかないと。
厚生省には「なぜ救えなかったのか」「残る1人を絶対助け出せ」という声が連日届けられました。
小野田の救出は日本中から注目されるようになったのです。
今回情報公開請求によって発掘された極秘文書。
そこには小野田救出に至る外交の舞台裏が克明に記録されていました。
小塚の殺害直後。
小野田救出には大きな障害があった事が明らかになりました。
「万一オノダと島民そうぐうの場合オノダがさつ害される恐れもある。
比国人被害者は民法上の損害賠償請求権を有する」。
対応にあたったのは卜部敏男大使。
フィリピンの内情に精通していました。
小野田の帰還を成功させるには大統領であるマルコスの決断が必要でした。
まず卜部はルバング島に向かうヘリコプターの機内で大統領の側近アレハンドロ・メルチョール官房長官に小野田の行為が罪に問われないよう働きかけます。
この2日後マルコス大統領は小野田の救出と帰国に国を挙げて協力すると確約します。
この時マルコスは救出の指揮を警察から空軍に移しました。
山岳特殊作戦のエキスパートです。
大統領は特命を下します。
「小野田を必ず生かして保護しろ」。
ワッチョン中佐は直ちに現場に向かい島の警察や住民に指示を与えました。
自国民に被害を与えた小野田にマルコスが異例の対応をする事ができたのは絶大な権力があったからでした。
情報大臣のフランシスコ・タタドさんはマルコスの力を肌で感じていました。
この年マルコスは共産ゲリラをおさえ込むため国内に戒厳令を布告。
夜間の外出禁止など治安維持に乗り出します。
政府を批判する議会やメディアの活動を制限し権力を一手に握っていったのです。
日本とフィリピンによる過去最大規模の捜索が始まりました。
日本の捜索団は総勢100人を超え1億円の国費が投入されました。
捜索を管轄する厚生省の塩見俊二大臣がルバング島を視察。
フィリピン側の協力に感謝の意を表しました。
1人森に潜み続ける小野田に肉親たちは呼びかけを続けました。
寛ちゃんこの声聞こえてますか?寛ちゃん聞いててくれてますか。
一方捜索隊にはフィリピン側からも300人近くが参加していました。
残留日本兵による被害を受けた島民も加わっていました。
父親を殺害された…半年に及んだ捜索。
しかしこの時も小野田を救出できませんでした。
捜索が続く中でフィリピン政府は一つの問題について日本政府の方針を問いかけてきました。
島民の被害への補償です。
これを受けた卜部大使は外務省に伝えます。
それから3週間後外務大臣大平正芳から返答がありました。
日本は戦後の賠償を被害を受けた個人には支払ってきませんでした。
小野田による被害について見舞金を個人に支払えば過去の方針と矛盾するおそれがありました。
日本がそういう事を公然と受け入れますと言えばフィリピンだけじゃなくてそれ以外の国々でも同じようなケースが続々と出てくる事も考えられるんでね。
そういうやり取りにならずに円満に解決したいというのが日本側の解決。
大平は見舞金を無償援助のプロジェクトにする事を卜部に打診します。
それに対し卜部は……と主張し具体的な構想を伝えました。
支払いの方針が決まりました。
外務省は金額の算定に入りました。
フィリピンの警察軍が発表した被害は死者30人です。
1人当たりの金額の算定にはイスラエルテルアビブの空港で起きた日本人による銃乱射事件への見舞金などが参考とされます。
総額は合わせて100万ドル。
日本円で3億円と決められました。
この構想を卜部は直接電話でマルコス大統領に打診します。
その時の大統領の返答です。
計画を任されたのはルバング島の元町長で当時政府の関係機関に勤めていたフアン・サンチェスさんでした。
卜部たちはルバング島民への配慮を示す事で小野田救出への道筋を作り上げていきました。
1974年2月。
ルバング島にやって来た一人の青年が事態を大きく動かします。
大学を中退したあと放浪の旅を続けていた彼は小野田に興味を抱きルバング島にやって来ました。
鈴木は小野田の目撃情報が多かったロオック町を訪ねました。
鈴木は日本人が一人で捜索を行えば小野田の警戒心が和らぐはずだと考えていました。
そこで森の中に一人テントを張り小野田が現れるのを待ちました。
それを小野田が見つけたのです。
その時撮影した写真です。
鈴木は小野田から「命令を解除されれば投降する」という約束を取り付けます。
鈴木はそれをすぐに日本政府に伝えました。
2週間後の3月9日。
小野田は元上官からの命令解除を受け森を出ます。
29年間の潜伏生活が終わりました。
「尚武集団命令。
大命により作戦任務を解除せらる」。
ようやく小野田の救出に成功した日本とフィリピンの両政府。
残す課題は小野田の罪をどう許すかでした。
この時マルコス大統領は小野田が命令を守り続けていた事に注目します。
マラカニアン宮殿に小野田を招き盛大な投降式で模範的な兵士としてたたえる事にしたのです。
このフィリピン政府の意向を卜部たち日本側も歓迎。
協力して式を準備していきます。
重要視したのが日本軍将校の証し軍刀でした。
投降式の模様は衛星中継で全世界に配信されました。
投降した小野田がそのしるしとして大統領に軍刀をささげます。
それに対し大統領は小野田の軍人としての功績をたたえ軍刀を返す手はずになっていました。
ところが…。
式典にいた日本大使館の田中克之さんはマルコスが刀を返し忘れたところを見ていました。
それがマルコス大統領がですね受け取ったまま横に置いて始められようとしたんですね。
それで小野田さんがね「あれ?ちょっと筋書きと違うな」という顔をされた。
それで卜部大使がそれをご覧になって大統領の方に近づかれてひと言二言おっしゃったら大統領が「あそうか」という感じで刀を返すという。
(拍手)マルコスは大統領権限によって小野田に恩赦を与えます。
こうして小野田は英雄として帰国する事を許されたのです。
卜部大使は外交文書の中でこう振り返っています。
フィリピン国内でも小野田の投降は大きなニュースとなりその忠誠心や国への献身ぶりがたたえられました。
マルコスは小野田と同じようにフィリピン人にも命令に忠実であってほしかったのです。
国民は黙って政府に従えという事です。
マルコスは小野田の救出を通して両国の関係改善を進めましたが国内では「これが私の求める従順な国民の姿だ」と伝えるため小野田を利用したのです。
小野田は政府差し向けの臨時便で羽田空港に降り立ちました。
日本国民に驚きと熱狂をもって迎えられた小野田。
両親と30年ぶりの対面です。
よう…よかったな。
よう生きて帰ってきてくれた。
長い間ご苦労でございました。
あなたは偉い!ありがとうございました。
(拍手)帰国後の小野田の行動は政府によって綿密に決められていました。
皇居への参拝や田中角栄首相との面会が組み込まれました。
最も希望していた戦友の墓参りは後回しにされました。
まあこれで日比関係はうんと友好促進になりますよ。
はい。
小野田の救出から2週間後。
日本側は一連の外交交渉の総仕上げとして3億円の見舞金を贈呈する特使を派遣しました。
当時自民党の総務会長だった鈴木善幸です。
鈴木特使の役目は両国の協力関係を確認し贈呈式でマルコス大統領に見舞金を渡す事でした。
しかし予想外の出来事が起きます。
贈呈式でマルコス大統領が見舞金の受け取りを断ったのです。
マルコスは小野田を許したのは純粋な気持ちからだとして次のように語りました。
見舞金による開発計画を担当していたルバング島のサンチェスさんはこの時贈呈式に参加していました。
通訳を務めた…説得を続ける鈴木特使の姿を鮮明に覚えています。
鈴木特使も「その事は非常によく理解できます」という事でマルコス大統領の発言に対しては感動もしつつ日本国民がこのフィリピン側の今度の行為について本当に感謝してるんですと。
感謝の気持ちを具体的な形で伝えたいというのも分かるでしょうという事を強調されたわけですね。
マルコスの突然の変心はフィリピン側でも誰も予想していませんでした。
なぜ見舞金を受け取らなかったのでしょうか。
卜部大使は後に外務省への報告で大統領の心境の変化についてその理由を次のように推測しています。
当時マルコス大統領の恩赦を伝えた日本の新聞です。
記事では恩赦と日本からの経済協力が並べて報じられていました。
卜部はもう一つの理由も述べています。
ルバング島の遺族の要求に加え3億円の使用方法にさまざまな案が出てマルコスが見苦しいと感じた。
マルコスの変心の背景には賠償問題が影を落としていたと言います。
ルバング島民だけに見舞金を支払えば賠償問題が再燃しかねない。
その懸念がマルコスの受け取り拒否につながったのではないかというのです。
宙に浮いてしまった3億円。
鈴木特使は見舞金を持ち帰るわけにはいきませんでした。
贈呈式の翌日鈴木特使の意向を受けた卜部は大使公邸で予定されていた晩さん会の直前にマルコスを別室に連れ込みます。
マルコスの返答です。
鈴木は次のように発表してよいか確認します。
結局民間の基金が設立される事になりました。
運用を任された比日友好協会です。
基金を使って日本への留学生の支援や語学学校の運営など両国の友好を促進する事業を行っています。
公開された極秘文書から浮かび上がってきた小野田救出をめぐる外交交渉。
それは日本とフィリピンの関係に何をもたらしたのでしょうか。
日本側にも誠意があった事は確かだろうと思いますしそれからフィリピン側において戦後…戦争の被害についてこれをどう受け止めるかという事についての寛容さというものが一つありましたしそれに加えて将来の日本との関係についてのビジョンとか希望というものをきちんと持っておられたと。
その当時の分岐点としての象徴的な意味がこの小野田さんの救出それからその後の感謝金をめぐる日比間のやり取りにあらわれてるのではないかと私はシンボリックな意味として考えてます。
小野田が救出された1974年以降。
マルコス政権の下で日本からのODA政府開発援助が拡大していきます。
両国は経済による結び付きを強めていったのです。
ルバング島から帰国した小野田は1年後ブラジルに移住しました。
そこで荒れ地を開拓し牧場を作りました。
ブラジルに移住を決めるまでの1年間小野田は日本で居場所を見つける事ができませんでした。
小野田はフィリピンからも日本からも離れ新たな生活を始めようとしていました。
できるだけ忘れるようにしてますけどなかなかそうもいかないんです。
だから一番人と関係のない仕事。
幸いブラジルに永住を認めてもらえたし牛飼うというそういう事も一番離れてますからね。
人里離れて本当に真っただ中。
マニラにある…小野田が救出にあたったフィリピン空軍に宛てた直筆の手紙が残されています。
「貴国在留中は自己の判断の誤りによって三十年の長きにわたり多大の御迷惑をおかけ致しまして御詫びの申し上げようもございません」。
小野田は22年ぶりにルバング島を再訪します。
昨日この島から日本に帰ったようないろいろ複雑な気持ちです。
本当に今までできるだけ早くこの島を訪ねていろいろ皆さんとお話したいと思ってたんですけどそれができなかったのが今日できるんですから本当にうれしく思ってます。
小野田はフィリピン空軍の厳重な護衛を受けながら島の集落を回りました。
住民たちが見つめる中自らの蓄えから2万ドルを島に寄付します。
それから18年後の2014年。
小野田は91歳でこの世を去りました。
小野田の投降から43年がたちました。
ルバング島の人々は小野田がいた意味を考え続けています。
(拍手)開発計画が進まなかった島では経済振興のため新たな取り組みを始めました。
小野田が潜伏した森を観光地として売り出す計画です。
小野田がいた事で森は伐採などが行われませんでした。
手付かずの自然とゆかりの地を巡るオノダトレイルなど観光開発に政府は2億円の予算をつけて支援しています。
日本兵に父親を射殺された…被害を受けた島民には見舞金は支払われませんでした。
父親が亡くなってカナルスさんは目標だった大学進学を諦めました。
その後石工などをして4人のきょうだいを育て上げてきました。
戦後29年間小野田元少尉と向き合わざるをえなかったルバング島の人々。
日本とフィリピンが手を携えていく中で戦争がもたらした傷痕をどう受け止めていくのか。
今も私たちに問い続けています。
2017/03/04(土) 23:00〜00:30
NHKEテレ1大阪
ETV特集「小野田元少尉の帰還 極秘文書が語る日比外交」[字]

1974年、ルバング島に残留していた小野田寛郎元少尉が帰還した。舞台裏で日本とフィリピン両政府が極秘に続けていた外交交渉を新発見の資料と証言で明らかにする。

詳細情報
番組内容
1974年、フィリピン・ルバング島に残留していた小野田寛郎元少尉が投降、帰還した。その舞台裏で日本とフィリピン両政府が2年にわたって極秘交渉を繰り広げたことが初公開の外交文書で明らかになった。住民30人の殺害をどう償うかという問題だった。外務省は3億円の見舞金を提示したが、マルコス大統領と鈴木善幸特使の会談で、あらたに基金を設立することで決着する。小野田救出劇を新資料と関係者の証言で明らかにする。
出演者
【語り】中條誠子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸

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