概要
哲学講師の金井湛君は、かねがね何か人の書かない事を書こうと思っていたが、ある日自分の性欲の歴史を書いてみようと思いたつ。六歳の時に見た絵草紙の話に始り、寄宿舎で上級生を避け、窓の外へ逃げた話、硬派の古賀、美男の児島と結んだ三角同盟から、はじめて吉原に行った事まで科学者的な冷静さで淡々と描かれた自伝体小説であり掲載誌スバルは発禁となって世論をわかせた
AMAZON商品説明より引用
舞台は明治維新前後~明治20年前後。主人公金井(モデルは森鴎外本人)が6歳~21歳あたりを回想し、その性の目覚めと童貞喪失を描いた森鴎外の自伝的小説です。
題名「ヰタ・セクスアリス」とはラテン語で「性的生活」を意味し、その内容の過激さから掲載誌「すばる」が発売禁止になったというエピソードや、誰もがタイトルくらいは聞いた事がある程の知名度から、読む前の時点ですでに期待が相当高まっていました。
性的生活って?
森鴎外本人をモデルとした金井君の回想からなる本編に入る前に、何故この小説を書こうと思ったかと言うプロローグ的な部分があるのですが、ここで早速
人間のあらゆる出来事の発動機は、一として性欲ならざるはなし~
と「人間の全ての行動は性欲を原動力として行われる」みたいな独自の見解がぶっぱなされるので、否応にも本編に対する期待が高まってしまいます。
ところが実際に本編で描かれている金井君の性に対する目覚めと言えば「6歳の時に近所のおばさんと娘が春画を読んでいた」「10歳の時に父親のエロ本を見つけた」「11歳の時にエロい落語を聞いた」など時代のせいもあるのでしょうが、どれもエピソードとしてはショボいのです。
14歳で初めてオナニー、20歳で吉原で童貞喪失するのですが、その描写は非常にあっさりした物で、とても劣情を刺激されるような文章ではなく、文豪の手による仰々しい性描写を期待して読み進めていた私は、非常にガッカリしました。
過激なAVやエロ本に慣れてしまった現代の私からしたら、なぜこの程度の作品が発売禁止になるのか理解できないのですが、当時は自伝的な小説で性体験を語る事は、かなり画期的で衝撃的だったらしく、社会に与える影響が相当大きかったようです。
「ヰタ・セクスアリス」は自意識過剰のブサイクが風俗で童貞を失う話。
また森鴎外本人が主人公のモデルになっているせいか、金井君の性格がまた自意識過剰で言い訳がましい点が、読者の神経を逆撫でするポイントでもあります。
特に20歳になっても依然として女性に縁のない主人公に対し、母親からお見合いを薦められた時には
妻というものを、どうせいつか持つことになるだろう。持つには嫌な奴では困る~しかし女だって嫌な男を持っては困るだろう。生んで貰った親に対して、こう云うのは、恩義に背くようではあるが、女が僕の容貌を見て、好だと思うということは、一寸想像しにくい~僕を見て、あれで我慢をするというようなことは無いにも限るまい~しかしそんな事はこっちから辞退したい~娘はまるで物品扱いを受けている~僕は綺麗なおもちゃを買いに行く気はない
などと、まるで現代のキモオタが言いそうなテンプレートそのままの理論を展開し、童貞を拗らせたからこうなったのか、こんな性格だからこの歳まで童貞なのか、鶏が先か卵か先か、母親からすれば頭が痛くなるような発言に終始してしまうような困った野郎なのです。
吉原で童貞喪失した際も、同行者に手配された車に乗ると勝手に吉原に向かわされ、自分としては車を止め一応拒否したけど、無理やり連れていかれて渋々遊女とセックスしたんですよ~と、どことなく森鴎外本人の保身が図られてるようにも見受けられました。
セックスしたらしたで、後から「やってみたら大した事なかったな~」とか言いつつ、それまで女性とろくに口も利けなかったのに、それ以降自信を持って女性に接する事ができるようになるんだから、そりゃ北方謙三が童貞の悩み相談に「悩む暇があったらソープへ行け」と言いたくなるのも解る気がします。
上記のエピソード以外にも、年齢や季節ごとに起こったしょぼいエロエピソードが幾つもあるのですが、その一つ一つに回りくどい言い訳が付随し、それが金井君の性格をブサイクで自意識過剰の陰キャラと決定づけてしまうのです。
「ヰタ・セクスアリス」の面白さ
はっきり言うと、この作品にエロや過激さを求めたら期待外れに終わるでしょう。ストーリーもたいして面白くはないし、性に関する描写は淡泊だしエピソードはショボい物ばかりです。
では何が魅力なのかと言うと、男ばかりの学校生活と当時の東京の文化を描いた部分でしょうか。
明治時代の男子学生がどんな寮生活を送っていたのか、寮内の先輩後輩の人間関係や、九州出身者を中心とした「硬派」と呼ばれる男色家集団から身を守るために、常に懐刀を携帯していたエピソードは興味深かったです。
仲の良い三人組で東京の街に繰り出して食事をしたり酒を飲んだり、ほんの些細な日常の描写も、当時の文化や風景が文豪森鴎外の紡ぐ絶品な文章で描かれると、それは私の頭の中で鮮明にイメージされ、行った事のない明治時代の東京へと容易に誘ってくれるのです。
中でも最高だったのは、童貞を失った際に
「僕は騎士としてdubを受けたのである」
と表現した点、そしてラストに人間の性欲を表した一文
世間の人は性欲の虎を放し飼いにして、どうかすると、その背にのって、滅亡の谷に落ちる。自分は性欲の虎を馴らして抑えている~ただ馴らしてあるだけで、虎の恐るべき威は衰えてはいないのである。
これは、まさに文豪森鴎外の真骨頂とも言うべき名文で、このフレーズが読めただけで、私はこの「ヰタ・セクスアリス」を読む価値は十分にあると自信を持ってお勧めいたします。
まとめ
金井君の回想の後には、エピローグ的な文章があり、最終的には
これが世間に出されようかと思った。それはむつかしい~我子にも読ませたくはない~文庫の中へばたりと投げ込んでしまった
と結局、この小説は誰にも見せなかったですよ~という体になっていて、我々は出版もされなかった物を読んだことになるのか?と、何だかよく解らないラストになっています。
これは恐らく「とても他人には見せられない恥ずかしい文章やで~」という、当時としては尖った作品を書いた自慢みたいな気持ちから、あのラストになったように感じました。
刺激になれた現代の人からすれば、恥ずかしい内容でも過激な描写でもなんでもないし、難しい漢字や堅い言い回しラテン語の挿入なども多く、この「ヰタ・セクスアリス」は、決して読みやすい文章で書かれた小説ではありません。
しかし森鴎外を通して、当時の東京の風景や人々の暮らしを味わえるという意味ではとても面白い小説だったし、時代を代表する名作なので、図書館に必ず置いてる作品だから借りて読んでみられてはどうでしょうか。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。