« 千葉神社 | トップページ | 函館雪景色 »

2016年10月31日 (月)

義経神社

Dsc_0045

  [ イザベラ・バードが歩いた道 ]

Dsc_0053 「日本奥地紀行」(イザベラ・バード/高梨健吉訳/平凡社)から。

 「平取りはこの地方のアイヌ部落のなかで最大のものであり、非常に美しい場所にあって、森や山に囲まれている。村は高い台地に立っており、非常に曲がりくねった川がその麓を流れ、上方には森の茂った山があり、これほど淋しいところはないであろう。

 私たちが部落の中を通っていくと、黄色い犬は吠え、女達は恥ずかしそうに微笑した。男たちは上品な挨拶をした。私たちは酋長の家の前で立ち止まった。もちろん私たちはこの家の思いがけない客であった。

 しかし、酋長の甥のシノンデと、もう二人の男が出てきて、私たちに挨拶をした。彼らは非常に歓待の気持ちをあらわして、伊藤を手伝って馬の荷物を下ろした。実に彼らの歓迎ぶりは熱心なもので、一騒ぎとなり、あちらへ走るものありこちらへ走るものあり、見知らぬ人を一生懸命に歓迎しようとした。」

 「(通訳の伊藤は)シーボルト氏から礼儀正しくせよと言われて文句をいっていたが、私の満足ゆくまでそれを実行してくれた。今では彼は山アイヌ人は思ったよりも良い人間だ、と言っている。「しかし」と彼は付け加えて言った。「彼らの礼儀正しさも日本人から学んだものなのです!」

 彼らは外国婦人を見たことがなく、三人の外国の男性をみただけである。しかし彼らは、日本人場合のように、集まって来たり、じろじろ覗いたりはしない。おそらくは無関心なためもあり、知性が欠けているためかもしれない。

 この三日間、彼らは上品に優しく歓待してくれた。しかもその間彼らは、自分たちの日常生活と仕事をそのまま続けている。私は、日夜この部屋で彼らと一緒に生活をして来たが、彼らは少しも他人の細かい神経にさわるようなことをしなかった。」

 「アイヌ人は礼儀心を日本人から学んだのだという伊藤の説は、全く根拠がない。彼らの礼儀正しさはまったく異種類のものであり、もっと男性的なところがあるが、未開人的であり、文化的とはいえない。」

 「その後に酒<アイヌ民俗の大害>が漆の椀に注がれた。どの椀の上にもりっぱな彫刻を施した酒箸が置かれた。これらの箸はたいそう大切にされている。椀を自分の方に数回振ってから、おのおの男たちは自分の箸をとり、それを酒に浸し、火に向かって6回その滴をかけ、神に対して数回かけた。神というのは木の柱で、削りかけの白い螺旋型の鉋屑が上部から多量に垂れ下がっている。

 アイヌ人は日本人ほどそう簡単には酔っ払わない。なるほど彼らは酒を冷たいままで飲んだが、日本人なら酔ってたわいもなくなるほどの量の三倍も飲んでも、彼らは少しも酔わなかった。」

 「どの家でもお客にたいしては、同じような経緯が払われる。これは未開人の美徳で、文明の大きな波が来たら、それを乗り切るだけの力はないように思われる。私がある住居に入る前に、そこの女は立派な蓆をいく枚か取り出して、私が囲炉裏端に歩いて行くところにその蓆を敷いた。

 彼らは宿泊料を少しも受け取らなかったし、与えた物に対して少しもお返しを求めなかった。そこで私は、なんとかして彼らの手工品を買って彼らの援助にしたいと思った。しかしこれも難しいことであった。彼らは熱心に物をくれようとしたが、私が買いたいというと、自分のものを手放したくないといった。」

 「煙草入れや煙管入れ、柄や鞘に彫刻を施した小刀。これら三つのものに対して、私は二ドル半を出した。彼らはそれを売りたくないと言った。しかし夕方になると彼らはやって来て、それらは1ドル10セントの値打ちしかないから、その値段で売りたいという。彼らはそれ以上のお金を受け取ろうとしなかった。儲けるのは「彼らのならわし」ではないという。」

 「彼らは日本政府に対して奇妙な恐怖ー私にはばかばかしい恐怖とおもわれるのだが、-を抱いている。役人たちが彼らを脅迫して酷い目にあわせているからだ、とシーボルト氏は考えている。それはありうることであろう。しかし、開拓使庁が彼らに好意を持っており、アイヌ人を被征服民族としての圧迫的な束縛から解放し、さらに彼らを人道的に正当に取り扱っていることは、例えばアメリカ政府が北米インデアンを取り扱っているよりもはるかにまさると私は心から思っている。」

 「やがて副酋長が私に、病人に対して親切にしてくれたことに対するお礼として、外国人が今まで誰も訪れたことのない彼らの神社へ案内したい、と言った。しかし彼らは、そうすることをたいへん恐れていて、案内したということを決して日本政府に言ってくれるな、もし知れたらひどい目にあうかもしれないから、と何度も頼むのであった。」

 「副酋長が神社の扉を開けると、みんながうやうやしく頭を下げた。それは漆を塗ってない白木の簡素な神社で、奥の方に広い棚がついていた。その棚には歴史的英雄義経の像が入っている小さな厨子がある。像は真鍮象眼の鎧をつけていた。それから金属製の御幣と一対の銹びた真鍮の蝋燭立てがあり、平底帆船(ジャンク)を色彩で描いてある一枚の日本画がかけてあった。

 それから私はこの山アイヌの偉大な神の説明を聞いた。義経の華々しい戦の手柄のためではなくて、伝説によれば彼がアイヌ人に対して親切であったというだけの理由で、ここに義経の霊をいつまでも絶やさず守っているのを見て、私は何かほろりとしたものを感じた。彼らは神の注意をひくために、三度綱を引いて鈴をならした、そして三度お辞儀をして、酒を六回神に捧げた。このような儀式をしなければ神のもとに近寄ることはできないのである。

 彼らは、私にも彼らの神を拝むように、と言ったが私は、天地の神、死者と生者の神である私自身の神だけしか拝むことはできない、といって断った。彼らは礼儀正しいから、その要求を無理に強いなかった。

 伊藤はどうかといえば、彼にはすでに多くの神々がいるから、今更一人神様を増したところで何ということもないから、彼は拝んだ。すなわち征服民族である自分の民族の偉大な英雄の前で喜んで頭を下げたのであった。」

 「アイヌの最低で最も酷い生活でも、世界の他の多くの原住民たちの生活よりは、相当に高度ですぐれたものではある。それからーこれは私がつけ加える必要がないかもしれぬがーアイヌ人は誠実であるという点を考えるならば、わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいるー彼らはキリスト教徒として生まれて、洗礼を受け、クリスチャンネームをもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっと立派な生活を送っている。

 全体的に見るならば、アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が暑く、老人に対して思いやりがある。

 彼らの最大の悪徳である飲酒は、私たちの場合とは違って、彼らの宗教と相反するものではなく、かえって実際にはその一部分をなすものである。この事情から考えると、飲酒の悪癖を根絶することは極めて困難であろう。」

 「彼らは文明化できない人たちであり、まったくどうにもできない未開人である。それにもかかわらず、彼らは魅力的で、私の心を強くひきつけるものがある。彼らの低くて美しい声の音楽を、彼らの穏やかな茶色の眼の柔らかな光を、彼らの微笑のすばらしい美しさを、私は決して忘れることはあるまいと思う。」

 「私が今まで見たアイヌ人の中で、二人か三人を除いて、すべてが未開人の中で最も獰猛そうに見える。その体格はいかに残忍なことでもやりかねないほどの力強さに満ちている。ところが彼らと話を交わしてみると、その顔つきは明るい微笑に輝き、女のように優しいほほえみとなる。その顔付きは決して忘れることはできない。」

 イザベラ・バードは1878(明治11)年、6月中旬、日光を訪れ奥地旅行に入り、東北、北海道の旅を終えて9月に東京に帰った。

  [ 義経神社 ]

Dsc_0051

 平取の街並みからやや外れた所、沙流川の畔に小高い丘がある。名前は、もちろん「義経山」。丘の全体が「義経公園」になっている。

 平取(びらとり)とは、アイヌ語の(pira utur)で「ガケの間」という意味。

 平取町の町章は、平取という字の形と、源氏の笹竜胆に北斗七星、平和を象徴する鳩のイメージを組み合わせたものらしい。

 「びらとり」のキャッチフレーズは「すずらんの咲くまち」。しかし、今の季節は、街路樹に小粒の赤い実が鈴生りになっている。町の人に木の名前を尋ねると「ナナカマド」と答えた。こちとらの人相風体チラッと窺い「食べられませんよ」と付け加えた。

 義経神社。北海道沙流郡平取町本町。御祭神は源義経。

10dsc_0027 「 義経公御神像 
 
 寛政十年(1798年)に近藤重蔵が東蝦夷地を探検の際、この地のアイヌ民族が源九郎判官義経公を崇敬していることを知り、法橋善啓に義経公の像を作らせ平取の地に寄進安置したと記録に残っております。

 この木造は高さ一尺程で御神像台座の背面には「寛政十一年己未四月二十八日近藤重蔵・藤原守重、比企市朗右衛門・藤原可満」と墨書されており、台座底には「江戸神田住人仏工法橋善啓」と書かれております。」

 「義経公一行は、陸奥から蝦夷地白神(現福島町)に渡り、西海岸を北上、アイヌの集落が栄えていたビラトリ(平取町本町)に一事居住し、住民を外敵より守り、カムイ(神)と尊敬されました。その後、新しく部下に加わった若者や藤原氏残党とともに大陸へ向けて出発したといわれています。」

 「本社にまつわる義経伝説には、義経公の滞在中、アイヌ民族をこよなく愛し、農耕や船の作り方、操法、機織りなどの技能を伝授したことから、住民は義経公を慕い「判官様」または「ホンカンカムイ」と呼んで尊崇していたと伝えられています。」

 (平取町観光協会「びらとり義経公園・義経資料館」パンフレットから)

 「ホンカンカムイ」あるいは「ホーガンカムイ」とは、神話学・文化人類学でいう文化英雄(clture hero)にあたります。

 以下は古川古松軒「東遊雑記」(→松前城)から引用。

 「(酒を飲むに際して)上なる箸を酒の中へ差し入れて、くちのうえにて何やら唱え、一雫ずつ外へちらすことなり。これは蝦夷の法にして、山神・海神を祀りて、その後義経の霊を祭りて、次には松前候、おのれが父母に備う礼という。口髭の長きは箸にて上髭を押し分けて、息つぎもせずに呑みしなり。」

 「世にいう義経公蝦夷渡りの事跡を詳しく訪ね聞きしに、武田悪太郎という商人の案内にてこの地へ渡り給いて、夷人と戦い給い、終に今の松前の地をひらきて武田悪太郎に与え給いしに相違なきとのいい伝えにして、かしこにて戦い、ここにてかくありしと土人のいいならわせし事跡あり。」
 
 「東蝦夷内浦の辺には、弁慶人を集めて栗を植えることを教えしところにて、弁慶畑という地名残りし所もあり」

 「西蝦夷の地にも、弁慶ケ崎と称せられる地ありて、夷人は義経公の名をオキクルミと称し、弁慶の名を
シヤクルミと称して、兄弟と覚えており、弁慶を兄義経公を弟なりと覚え、夷人集まりて昔話などをするに、オキクルミ誰が先祖の家に入り婿に入り給い、なんと称せし者の娘を愛せし給いしことと、いろいろの奇説を語ることにして、文字なきことなれば書きしるせしこともなく、いい伝えのみなり。」

 武田悪太郎とはコシャマインの戦いにおける蛎崎信広のことで、アイヌの反乱の時の伝承と義経伝説とが習合しているようです。

 「オキクルミは「アイヌに様々な生活の方法を教えたカムイとされています。沙流川に降臨してこの地に住み、いつの日かまたカムイの世界に帰っていったのだと伝えられています。」

 「オキクルミの降臨地として主に伝えられるのはハヨピラ(平取り本町)とオキクルミのチャシ(荷負)です」(平取町文化的景観解説シート)

Dsc_2613_2 (←ハヨビラ付近の沙流川)

 イザベラ・バードが訪れた明治11年頃は、ハヨビラに義経像が祀られていたのです。

 近藤重蔵がアイヌに義経像を与えたことについては、徳川氏の氏姓が源氏であったので、アイヌに徳川の威光を知らしめる目的があったからだという説があるが、当たっているようには思えない。

 重蔵は、第一回の蝦夷地探検の後、古松軒に手紙を送り、「雑記」の詳しい記述が大いに役立ったと礼をのべている。オキクルミと義経の伝承が習合し、アイヌの民俗に既に定着していることについては予備知識があったわけで、「ホーガンカムイ」をアレコレ操作しようという意図が近藤重蔵にあったとは考えにくい。木像を贈ったのは、祭り場が貧弱だったのを残念に思ったからではないか。
 
Dsc_0042

Dsc_2606_01 Dsc_0043_01

Dsc_0047

 [ 義経資料館 ]

 義経北行伝説の資料が写真パネルで紹介してあります。天明7(1787)年に出た「絵本義経一代実記」というのがあった。コンニャク版画「義経公北乃方伝記」というのもあった。コンニャク版画が如何なるものであるかは不明。

 平取町の美術愛好家が寄付した藤田嗣治の版画もあります。

Dsc_2608 12dsc_0037_01

Dsc_0001 11dsc_0029

  [ 箱館・船魂神社の童子岩 ]

 箱館市船見町。

 小祠ではあるが、北海道で最古の神社ではないかと言われている。

 義経主従が渡海の際、海が荒れ狂ったので、義経公が船魂明神にいのったところ、嵐がおさまった。箱館に上陸した義経達が喉の渇きを覚えたとき、忽然として童子が岩の上に現れて、指さすところに目をやると、泉がコンコンと湧き出した。その岩が、この岩で童子岩という。

13dsc_2970 14dsc_2974

15dsc_2973

  [ 松前・光善寺の義経山 ]

「津軽海峡を渡って蝦夷地松前に上陸した、渡海の無事を仏に感謝し、阿弥陀千体を一堂に安置した。これが義経山欣求院である。

 その欣求院は明治元年から同2年かけての戊申の役で戦禍を被ったが、阿弥陀像だけは焼け残り、光善寺に合されたと伝えられる。

 この光善寺の境内にある「義経山」の碑はは、義経山欣求院の山号といわれる。

    松前観光協会。」

16dsc_0274 17dsc_0280


|

« 千葉神社 | トップページ | 函館雪景色 »

お寺と神社と古墳」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/500147/64400495

この記事へのトラックバック一覧です: 義経神社:

« 千葉神社 | トップページ | 函館雪景色 »