aikoは常に「あたしとあなた」のことを歌う。
そしてaikoを聴くとき、私は男でありながら「あたし」になっている。この話は何度か書いた。私のなかに住む背の低い女をaikoが引きずりだしてきたという話である。aikoの音楽の前では、私は平気で性別を飛び越えて、「俺はaikoだ」と断言してしまえる。「俺とはaikoの別名だったのだ」と言ってしまえる。
それはまあ、いいだろう(社会的にはよくないが)。
さて、私は男として生きている。つまりaikoの曲を「あなた」の立場で聴くことも可能だということだ。しかし、「あなた」の立場でaikoの曲を聴くことは怖い。
怖さのひとつは、いわゆる「女の計算の怖さ」なんだが、これは今回の主題ではない。それでもいちおう具体例をあげておくと、
愛しい人よ
くるくると表情を変えながら
あたしの手のひらの上にいてね
『恋人同士』
あなたが悲しくなった時
見計らって逢いに行ければ
きっと心を見透かされた様で
あたしが気になるでしょう?
『愛の世界』
女のしたたかさ。
これは怖いっちゃあ怖いが、気軽に共有可能な怖さだという印象がある。「いや~、女って生き物は怖いね~」と簡単に言える怖さだということだ。
しかしaikoが本当に怖くなり、そして凄くなるのは、「あなたはあたしのすべてなの」(『何処へでも行く』)のほうなのだ。女の打算と女の愛、どちらが怖いかといえば、私は女の愛のほうが怖い。女の愛はその極点において、男に神であることを求めるからだ。
aikoにとって、あなたは「すべて」である。だからこそ以下のような歌詞も生まれる。
あなたの首筋に噛みついて
絶対離れはしないよ
『愛の世界』
これは、河原の石にへばりつくヒルの発想ではないのか。『愛の世界』と名づけられた曲に、なぜこんな一節が紛れこんでしまうのか。aikoが怖ろしいのは突然こんなことを言いはじめるところだ。愛をきれいごとで済ませないところだ。強い愛は相手を破壊するほどの力を秘めていると暴露するところだ。「あなた」の立場で聴くと、それが怖い。
『心に乙女』の歌詞について
四枚目のアルバム『秋 そばにいるよ』には、『心に乙女』という曲が収録されている。そこに一切の打算はなく、淡々と愛が歌われる。
宇宙の隅に生きるあたしの大きな愛は
今日まで最大限に注がれて
それは消える事なく
あたしの大きな愛が
あなたを締め付けてゆく
「締め付けてゆく」という言葉のチョイスはやはりおかしくて、これはニシキヘビの動きか何かを記述するときの表現ではないのか。「あたしの大きな愛」を主語とした時、なぜそれが「あなたを締め付けてゆく」に続いてしまうのか。この文脈で「締め付ける」という言葉を使えば、社会的に良い意味にはなるはずがない。
「宇宙の隅に生きるあたしの大きな愛」の時点では、宇宙から見ればちっぽけな自分のなかに何よりも大きな愛があるという話だ。そこまでならば美しい話だ。「それほどあなたのことが好き」と言われれば、喜ぶ男もいるかもしれない。しかしこの文の着地点は、「あなたを締め付けてゆく」だ。それでも素直に喜べるか? 「おまえの愛に締め付けられて最高!」と言えるのか?
歌詞は次のように続く。
もっともっと注いで
「あなたを締め付けてゆく」からの「もっともっと注いで」であり、男の視点でこの歌を聴いたときに自分の中に生まれる感情が「怖い」である。それは自分というものが限界まで絞りとられていく感覚、跡形もなくなるまで絞りとられていく感覚である。
宇宙の隅に生きるあたしの大きな愛は
今日まで最大限に注がれて
しかも、それは「今日まで最大限に注がれた」のだ。にもかかわらず、aikoは「もっともっと注いで」と言っているのだ。それだけの要求を突き付けられても、男は元気よく「注いでやろう!」と言えるのか?
『心に乙女』にはこんな歌詞もある。
今夜もお願いする
「今日も愛してくれる?」
「今夜も」であり「今日も」である。この「も」が怖いのであり、この「も」こそがaikoなのだ。aikoの「も」に終わりはない。翌日もaikoは「今日も愛してくれる?」と言うだろう。その翌日も翌々日も「今日も愛してくれる?」と言うだろう。
aikoの「も」が時とともに磨り減らされることはない。こんな曲がアルバムの最後にぽつんと置かれて、最低限のアレンジで淡々と歌われる。しかもタイトルは『心に乙女』だ。心に乙女があれば何をしてもいいのか!
aikoのしたたかさの背後にあるもの
冒頭に挙げたように、aikoにはしたたかさがある。しかしaikoのしたたかさは、常に「深い愛」に裏付けられている。それが怖いということだ。したたかさの背後に「男の金・地位・見た目」があるならば平凡な話だ。それは取り替え可能だ。年収・肩書・外見はどれも相対的なものだ。それは「男と女」の話だ。
しかしaikoは「あたしとあなた」の話しかしない。aikoは恋愛のことを歌うが、それは常に「男と女」ではなく「あたしとあなた」の話なのである。その証拠に、aikoは200以上ある楽曲のなかで、一度も「男」という言葉を使っていない(私は調べた)。
aikoに「男」はおらず、「あなた」しかいない。「男」は取り替え可能だ。「あなた」は取り替え不能だ。「あなた」はパラメータやスペックに還元できない。だからこそ「首筋に噛みついて絶対に離れない」のであり、「あたしの大きな愛があなたを締め付けてゆく」のだ。他の誰かでもいいとは思えないからこそ、aikoの愛は暴力になるのだ。
私はaikoのように誰かを愛することは良しとする。その時、私は自分の内側にある面倒くさくて重たい部分をaikoに託している。そのとき出てくるのが「俺はaikoだ」という言葉である。しかしその暴力性を自覚するからこそ、aikoのような愛を自分に向けられることを想像すると、ひるむ。それは重いし、きついし、怖い。だから私は「あたし」としてaikoを聴くことはできても、「あなた」として聴くことはできない。
結び
aikoが自分の気持ちの重さを自覚し、そのことに葛藤するとき、力と力のぶつかりあいが曲を盛り上げていく。そのとき生まれるのは壮大なバラードである。それはたとえば、以前書いた『秘密』という曲である。
そしてaikoがただ淡々と気持ちを重くしてゆくとき、簡素なアレンジの小曲が生まれる。それは深夜四時に静かな部屋で歌われるような音楽である。そこに見かけの派手さはなく、ただ「あなた」に向けて重くなる感情だけがある。それが『心に乙女』という曲であり、aikoのもっとも凄く、同時に怖い部分なのである。