自分のケースを話す前に書く病気のこと、今回の複雑性PTSDで、とりあえず終わりにしたいと思います。
複雑性PTSD(=CPTSD)は、今のところDSMなどではっきり病気として区切られてはおらず、あくまで概念として少しずつ考えてこられているくくりです。
なので、はっきりした定義がない部分もあるので、とりわけ、この病気については、わたしなりの学んだことからの見解を書きますので、もし、間違っていたり、おかしいなと思うことがありましたら、ご指摘いただければと思います。
そもそもPTSDとは
PTSDという言葉は、最近は日本でも有名になって、知っている方も増えてきているみたいです。
正しくは心的外傷後ストレス障害と呼ばれ、その略でPTSDと呼ばれています。
PTSDが有名になったきっかけは、アメリカのベトナム戦争後と言われていて、戦争から帰ってきた兵士たちの中に、同じような症状を訴える人たちがたくさん出てきて、それからいろいろと研究や考察がなされて、PTSDという概念が広まったようです。
PTSDは、DSMにも載っている、精神科領域の病気のひとつです。
命にかかわるような出来事、戦争体験、事故や事件に巻き込まれること、災害に遭うことなどによって、それがトラウマを形成し、さまざまな症状を引き起こします。
そのような命にかかわる出来事に遭えば、誰もが一時は取り乱し、恐怖や不安でいっぱいになり、一時的に辛い症状に悩まされることはありますが、それが時間が経ってもよくならず、症状が続く状態がPTSDだと言われています。
思い出そうとしなくても、その感じた命の危険を何度も何度も反復して、また同じことが起きるんじゃないかと恐怖でいっぱいになったり、実際には、もう過ぎ去った危険であっても、目の前でもう一度同じ危険が繰り返されてしまっているように感じたりします。
常に危険と隣り合わせの気持ちで、神経が常に高ぶっていて、不眠やイライラを慢性的に抱えることもあります。
その時の危険だった事やモノを避けるようになり、気持ちが麻痺して、感情というものを感じられなくなったりすることもあります。
どんな人にとっても、命の危険にさらされた人はとても強いショックを受け、トラウマも形成されますが、その結果、症状が強く出て、日常生活に支障を及ぼすほどになってしまうと、PTSDとして治療をしたり、専門家に相談した方がいい可能性が高いです。
一応、これがPTSDの簡単な概略ですが、このPTSDは基本的に、大きな命の危険を1度だけ感じた時のあとに起きる症状とされていました。
しかし、たとえば、虐待、長期監禁、長期のいじめなどのように、1回きりの経験ではなく、慢性的に命の危険にさらされている人たちは、PTSDと同じような症状が出つつも、それ以外にも慢性的なトラウマの人に共通点があるということが、だんだんわかるようになってきて、そのため、普通のPTSDと区別して、慢性的に危険な環境を経験した人のPTSDを、複雑性PTSDと呼ぶようになりました。
複雑性PTSD(=CPTSD)の特徴
CPTSDは、DSMという精神科の診断マニュアルの中では、まだ病名として認定されておらず、しかし、最近は多くの医者も、そのCPTSDの概念には賛成を示している方がいるようです。
普通のPTSDに加えて、CPTSDの患者さんは、過度の自己肯定力の低下(自己肯定力がない)、PTSDの感情の麻痺をさらに超えて、離人感や解離が起きる、慢性的に抑うつ状態が続くなど、いくつか従来のPTSDでは見られない特徴がみられることが分かりました。
命の危険を感じるという体験も、一度きりの体験と、慢性的に何年、何十年と危険を感じ続けてきた体験では、もちろん、違いが出るのは当たり前のように思います。
ただ、CPTSDのような慢性的に危険にさらされた環境にいた場合、他の病気と併発していたり、他の病気になったりする場合もあるので、純粋にCPTSDだけである、ということは、あまりないようです。
例えば、以前に書いた境界性パーソナリティ障害は、機能不全家族に育った患者さんがかなり多く、他にも、解離性障害や解離性同一性障害などを引き起こすこともあり、そういったものも含めてのCPTSDなのかなという感じをわたしは受けています。
ちなみに、上に書いた離人感というのは、自分をもう一人の自分が別のところから見ている感覚で、現実感がなく、客観的に現実の自分を違う自分が見ているように感じるような症状をいい、解離というのは、離人感以上に自分自身の感情や痛みが切り離され、現実に起きていることは麻痺して何も感じず、その間の記憶がなくなってしまうことを言います。
その解離がたびたび起きるようになると解離性障害と言われ、その解離が起きるたびに、人格が交代する、昔でいうところの多重人格が、今の解離性同一性障害です。
これらは、虐待を受けていた患者さんが有意に多く、トラウマも根強く、治療も大変困難を極めることがあります。
このように、従来のPTSDと、トラウマの形成によって症状が起きるという点は同じでも、1度の経験で出来上がるトラウマと、何度も反復して慢性的に出来上がったトラウマでは種類が異なるということで、その区別のために、PTSDとCPTSDが区別されるようになってきたようです。
過覚醒とフラッシュバック
過覚醒というのは、脳がリラックスせず、常に危険を感知して、自分の身を守るために臨戦態勢をずっと続けている状態のことを言います。
誰もが、たとえば誰かと大喧嘩をしたときだったり、誰かから大きな叱責を受けたり責められたりしたとき、脳が一時的に興奮することがありますよね。
あの興奮の状態が、ずっと続いているのが、過覚醒状態です。
当然、それがずっと続いていれば、脳は疲れ切ってしまいます。
でも、それを自分で止めることも出来ず、慢性的な不眠に陥ったり、眠っても悪夢で飛び起きてしまったり…。
そして、フラッシュバックは、とても大変な症状のひとつです。
誰でも、嫌な記憶や思い出したくない記憶を、思い出した時には嫌な気分になるものですが、フラッシュバックは、ただ思い出すというものではありません。
フラッシュバックの恐ろしいところは、脳がトラウマの原因になった時の、五感が目の前でもう一度繰り返され、実際には何も起きてないのに、本人にとっては目の前で本当にそれが起きているように感じます。
なので、恐怖でひきつってフリーズ状態になってしまったり、恐ろしさで叫んでしまったり、息ができなくなってしまったりと、普通の人が普通に思い出す嫌な思い出とは、まったく別の症状になります。
今は、トラウマとかフラッシュバックという言葉が知られるようになって、PTSDに限らず、嫌な出来事やそれを思い出すことをトラウマやフラッシュバックという言葉で気軽に使われることがありますが、本来の言葉の意味は、こういうものになります。
トリガーを避ける
トリガーというのは、トラウマのきっかけだったもので、フラッシュバックを誘発してしまうような物事のことで、PTSD、CPTSDの人はそのトリガーを避けるようになります。
事件のあった場所に近づかないとか、例えば男性に被害を受けた女性は男性恐怖症になって男性を避けるとか、そういったことです。
わたしも、いくつかのトリガーは自分でわかっているので、それは避けるようにしています。
でも、難しいのは、社会生活を健全に営む上で、トリガーすべてをよけられるかというと、そうではない場合もあります。
仕事であれば、トリガーであってもその場所に行かなければいけないとか、男性と会わなければいけないとか、誰かとの会話の中でトリガーになるキーワードが出てきてフラッシュバックを誘発してしまうとか…。
そういう意味で、CPTSDの人にとって、場合によっては社会生活を営むことが難しくなる場合もありますし、難しいからこそ、それが病気であるという所以でもあると思います。
離人感と解離
あまりにも苦しい体験を、記憶の奥に押し込んでしまい、そういった体験をしたことが表の記憶に出てこないというケースも、CPTSDにはよくあります。
実際には虐待を受けていたのに、その時のことを覚えていないということもあります。
離人感は、現実の今いる自分から、もうひとりの自分が離れて自分を見ているような感覚で、現実の自分は痛みや苦しみを持っているのですが、もうひとりの自分がその痛みや苦しみを切り離して、まるで幽体離脱のように、客観的に自分を見ているような状況が多いです。
わたしも離人感が症状としてあったことがありますが、それを言葉で説明するのはすごく難しい。
わたしの場合は、わたしの意識は現実ではない方のわたしで、痛みや苦しみといった感情が麻痺して何も感じない状態でした。
自分はひとりだし、自分は自分しかいないのに、自分が自分でないような感覚になります。
また、さらにそれが進むと、解離と呼ばれる症状が起きます。
解離は、完全に現実の自分ともうひとりの自分が分裂してしまった状態で、解離が起きている時の記憶が、自分自身にないことが多いです。
わたしは一時期解離が頻繁に起き、気がついたらとんでもない場所にいたとか、警察に保護されたこともあります。
その時、解離している時の自分は、一応普通に話をすることもできるし、周りはその人が解離が起きているとはわかりません。
わたしの場合も、警察に保護された時も、聞かれたことにはきちんと答え、普通に話をしていました。
でも、そのことをわたしは、解離がなくなった時には覚えていませんでした。
これも、トラウマから逃げるための防衛本能だと思われていて、解離がさらに進むと、解離性遁走という、普段の現実の生活から、急に失踪してしまい、他のどこかで別人として仕事をしながら生きてしまったりすることもあります。
その場合、新しい地での生活は普通に営まれているのですが、解離がなくなると、元いた自分の環境を思い出して、びっくりするということもあるようです。
また、解離性同一性障害になると、トラウマから逃げるために、防衛本能で自分を守るために、本来の傷ついて苦しんでいる自分(=主人格)がいなくなり、他の人格が次々と形成されて、主人格を守るようになります。
そこまでいくと、本当に別人のような人格が次々と現れ、治療して、そのバラバラな人格をもう一度主人格だけにする再統合をするのですが、その治療はとても難しいと言われています。
言語化でイメージを言葉に
PTSDの治療法には様々なものがあり、これが絶対に有効である、というような治療法は見つかっていません。
なので、その辺は、ある程度主治医の考え方によって治療が変わってくると思います。
わたしが受けている治療をひとつだけ紹介します。
それは言語化作業をする、ということです。
フラッシュバックが起きて、トラウマが目の前でもう一度起きて再体験する時には、相手の声色、相手の表情、その時の空気の匂い、雰囲気、自分の手足の震え、こぼれる涙、心臓の鼓動など、本当に、体験した通りのことが突然その場で襲ってきます。
主治医によると、このようなトラウマは、脳の中で、まだ、整理できていない、生のままの記憶なのだそうです。
通常、人は、物事を覚えているといっても、それは言語で覚えています。
こういうことを経験した、こういうことがあったということを思い出す時には、脳の中では、言葉や文章でそれを思い出しています。
だからこそ、人間の記憶というのは曖昧で、どうしても、どんな人でも主観が入り、実際にあったことに主観が混じった状態で、記憶として蓄積されます。
わたしもそうです、このブログに書いている自分のことは、ほとんどが、わたしが覚えていることやわたしが考えたことを書いていますが、それが現実に過去にあったこととまったく同じかといえば、そうではありません。
少なからず、わたしの脳の中で言葉に置き換えて、自分の主観も混じった上で、思い出して書いています。
それは自覚があろうとなかろうと、誰でもそうです。
でも、フラッシュバックを引き起こすトラウマは、言葉にならないものです。
わたしの場合で言えば、目の前でまるで映画のように、あの時のトラウマがそのまま再現されて、わたしはその映画の登場人物になっているような感覚です。
誰々がこう言った、その時はこういう状況であった、という言語はありません。
音も、声も、痛みも、苦しみも、言葉ではなく、ただただ、ありのまま、今、全身で感じているというような状態です。
なので、先生曰く、そのトラウマは言語はならないまま、脳の一部分で、映像や感覚として、丸ごと、整理されないままに脳に刻み込まれているといいます。
その生のまま、言葉にならずに五感のまま残っている記憶を、言葉に置き換えるという作業が言語化作業で、それをすることによって、少しずつ感覚だった記憶が、他の普通の記憶のように、言葉で説明できる記憶に変えていくことで、フラッシュバックが減っていくと言われています。
しかし、言語化作業というのは難しくて、言葉にするためには一度、生の記憶を思い出しながら言葉にするわけですから、その途中でまたフラッシュバックが起きてしまったり、日々の生活が成り立たなくなるほど苦しくて辛い時間を過ごすことになったりもします。
なので、わたしはもともと、文章を書くのが好きなので言語化作業は努力して続けてきていますし、ある意味、このブログを書くこと自体も言語化作業がの一環だと言えるわけですが、やはり、辛い時があります。
親のこともそうですし、わたしは性犯罪被害者なので、その事件のことも、まだ、完全に言語化はできていないし、今はパパと過ごした14年間の嫌な記憶も、まだ、うまく過去は過去と思うことはできず、正直、離婚についての記事を書く時は身を切られるような思いで書くこともあります。
でも、それでも、日常生活に支障が出ないギリギリのところで、言語化を続けていくことは、必ずいつか、今よりもフラッシュバックが減っていくと信じて、頑張っているところです。
トラウマの治療で難しいのは、記憶を思い出さないようにして、蓋をすることは、一見それが楽なように見えても、実際には蓋をしていても、そこにあるものが消えるわけではないので、かえって悪化することもありますし、記憶の抑圧が無意識に現実の今の自分に影響を及ぼすことがあります。
集中的にCPTSDの治療だけに専念できる環境にあれば(入院しているとか、長期休養ができる状態)トラウマをわざと一度すべて開いて、専門家と一緒にひとつずつ整理していくということも可能で、それがある意味では一番いい方法なのかもしれません。
わたしの場合は、子育てがあるので、基本的にそういった集中的な治療はできません。
子育てに支障が出てしまったら困るので。
なので、今は言語化作業が唯一できることかなという感じです。
駆け足でPTSDという概念について説明しました。
CPTSDは慢性的な危険を感じ続けるという経験、という意味で、CPTSDになる人は周りにそう多くはないかもしれませんが、PTSDは、いつ、どこで、誰がかかるかはわかりません。
同じ経験をしても、PTSDになる人もいればならない人もいることは事実ですが、PTSDになった人が心が弱いわけではありませんし、PTSDであることを、責めたり、むやみに励ましたり、早くトラウマを忘れなさいということは、セカンドレイプにあたります。
そうすることで、PTSDの人はより傷を増やすことになり、当然、そうすれば治療はさらに進まなくなります。
見守ってもらえるような環境が、一番大事なのかなと思います。
「わたしと心の病気」のシリーズのまとめはこちらから。