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第3179号 2017年3月3日 新聞掲載

柄谷行人・渡部直己対談 起源と成熟、切断をめぐって
『日本批評大全』(河出書房新社)刊行を機に

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上田秋成『雨月物語』、本居宣長『源氏物語玉の小櫛』から、小林秀雄「様々なる意匠」、大西巨人「俗情との結託」、そして蓮實重彥『夏目漱石論』、柄谷行人『日本近代文学の起源』まで、江戸後期~近現代の批評七十編を精選、解題を付した、渡部直己『日本批評大全』(河出書房新社)が上梓された。日本の批評はいかに展開し、成熟し「切断」と「終焉」を迎えたのか。その歴史と全貌を俯瞰した一冊となっている。刊行を機に、柄谷行人氏と対談をしてもらった。(編集部)

二つの唯物論

渡部
この本を作ろうと思い立った当初から、ラストは柄谷行人と決めていましたので、まず柄谷さんに、『日本近代文学の起源』の収録を口頭でお願いしたところ、ご快諾。のみならず、それ以来、折りに触れて随分励ましていたただきました。おかげでようやく完成までこぎつけという感じです。この場を借りて、改めてお礼を申しあげます。
柄谷
本の企画を聞いた時から、ずっと考えていたことを話します。昔から僕は、批評というものは、何でもやれるものだと思っていた。したがって、今自分がやっていることが批評である。しかし間違いないのは、その多様な「批評」のなかでも、僕はやはり文芸批評から出発したということですね。今は文学と離れて、違うことをやっているように見えるかもしれないが、やはり文芸批評からしか出てこないものをやっているのではないか。では、文芸批評とは一体何なのか。そのことをきちんと考えなければいけないと思いつつ、そのままほったらかにしていたわけですね。渡部さんは、その問題を、ただひとりで考えながらやってきたんじゃないかと思います。
渡部
僕の最初の本(『幻影の杼機 泉鏡花論』)は八三年、いわゆる「ニューアカ」の発火点と重なりますが、その前後に登場した他の人は、いつのまにかそれぞれ別途に就いて、愚直に「文芸批評」にこだわっているのは、僕だけになってしまった気はします。
柄谷
そのことを最初に思ったのは、『日本小説技術史』を読んだ時です。その時、僕には、あなたが書いているような視点が抜けていたと思いましたね。一言でいえば、「小説の技術」に関する問題を十分に考えてこなかった。一応僕も、『日本近代文学の起源』で書いてはいるんですよ。小説の内容についてではなく、その形式性、たとえば「風景」や「告白」という制度について書いている。たとえば、遠近法の問題とか、キリスト教の問題とかを考えた。つまり、「風景」や「告白」という形式的、技術的な制度の方が、見られる対象や告白される「内面」に先だって存在したという観点でやっていたと思います。それはいわば小説の技術を論じることであったといえます。しかし、自分ではそのことを批評の問題としてはあまり考えなかった。むしろ、それを哲学的な問題として考えたんですね。

僕が影響を受けたのは、一九六〇年代からの思想的転回ですね。当時は「構造主義」という言葉で呼ばれていたんですが、それは一種の唯物論です。それまで、観念に対して物をもってくるのが唯物論でしたが、この時期、言語をもってくる唯物論が出てきた。実は、いわゆる唯物論にはそれが抜けている。だから、たとえば、文学作品に関して、その「内容」を論じるけれども、それを成立させている言語、あるいは、技術が論じられないままであった。それに対して、言語という「物」をもってくる唯物論が出てきた。それが六〇年代以降に生じた思想傾向だったと思います。しかし、僕の場合、それは小説の技術論のようなことにはならなかった。渡部さんは、出発点の段階から、既にそのような観点をもって批評を書いてきたのではないですか。
渡部
学生時代にロブ=グリエやリカルドゥーを読んでいたこともありますが、そこはやはり、あとから生まれてきた者の幸運ですよ。柄谷さん、蓮實さんがいたから、はじめから技術論に就けたということだと思います。それに僕の場合、本式の唯物論をちゃんと身につけていたわけでもないので、その分、柄谷さんのおっしゃる唯物的な技術性になじみやすかった面もあります。ともかく、僕にとっての「日本批評」は、蓮實さんと柄谷さんがそれぞれの方向で開いた地平を意味していました。いまもそうです。おふたりの批評を読むことが、とても大きな体験としてあり、その象徴が『日本近代文学の起源』だった。あれだけ明瞭に、「近代文学」の起源を外化したということは、もう既にその文学の歴史が終わってしまったということですよね。その切断力。ここから先は、やわな「文学史」などありえず、したがって何でもありなんだ、と。その解放的な空気を吸い込みながら、僕は批評家になりました。だから逆に、あの切断線に至るまで日本の批評がどんなふうに展開してきたのかを、いま形に残しておきたいと思ったんですね。

で、実際にやってみるといろいろなことに気づく。たとえば、一九八三年に『杼』の二号で、インタビューをさせてもらいましたよね。僕は生意気盛りのテクスト論者で調子に乗って話してると、柄谷さんからひとこと、しかし「君の本読んでると、文学テクストを解放すれば世の中よくなるような気がしてくるぞ」って、グサリと。即なんだかんだ口答えはしましたが、あれには参りました。今から考えると、あれ、戸坂潤ですよね。要するに、あの当時の僕のテクスト論は、柄谷さんの眼から見ると、昭和十年代の「文学主義」の再演みたいなものだったんですね。だから、少し後に『批評とポストモダン』も書かれたんだと、今になって痛感しています。あの時は、柄谷さんが戸坂潤で、僕はちゃちな三木清だった(笑)、しかもマルクスもちゃんと読んでいない三木。
柄谷
先ほど、僕は、いわゆる唯物論には言語という「物」が抜けている、といいました。それは、別の言い方でいえば、言語という生産的活動が抜けているということです。六〇年代から七〇年代にかけて、そのような言語的生産が強調されるようになった。これを「言語論的転回」と呼んでもいいと思います。それは、もうひとつの唯物論なんですよ。しかし、元々あった唯物論がそれで消えてしまうわけではない。むしろ、それが大事になるのです。ところが、言語論的転回以後はむしろ、それまでの唯物論が否定されるようになった。そうなると、言語的唯物論が観念論になる。たとえば、テクストこそ世界だというような話になる。リチャード・ローティがそれを「テクスト的観念論」と呼んだことがありますが。

これは新しい現象ではありません。哲学史では、カントからヘーゲルへの段階で起こったことですね。カントは、物は、たんにあるのではなく、主観の活動を通して認識されるという。したがって、われわれが把握するのは、現象であって、物自体は把握できない。これは、今日でいえば、世界は言語活動を通して把握される、ということです。そのようなカントの考えから生まれると同時に、それを否定したところに、ヘーゲルの観念論が成立します。つまり、精神がこの世界を生産するという考えです。物も精神的活動の産物であって、物自体などはない。それがヘーゲル的観念論です。これは、でたらめなものではない。それは少なくとも、人間の生産的活動をとらえているからです。だから、マルクスは最初、フォイエルバッハに従って、ヘーゲルの観念論を否定したのに、まもなく、『フォイエルバッハに関するテーゼ』で、それを修正した。今まで人間の活動的な側面は、観念論がとらえてきた、唯物論にはそれが欠けていた、と。僕が気づいたのは、そういう古典的哲学の出来事が一九七〇年代にもくりかえされたということです。ただし、僕がそのことを自覚するようになったのは、九〇年代にカントをやるようになってからですが。むしろ、七〇年代には、言語的活動の生産性に注目していた。そのほうがすごいものに見えていたと思います。
渡部
確かにそう見えました。
ヘーゲル的歴史の終焉

柄谷
さっき君がいった『杼』のインタビューで僕がいいたかったのは、「移動」ということだと思います。言語論をやるのはいい。しかし、いつまでも同じようにやっていたのではいけない。いずれ態度を変えなければ駄目だということです。
渡部
そのことを僕が感じたのは、九〇年代に入ってからだったと思います。『批評空間』で、差別や天皇の問題について連載させてもらっていた時期ですね。あれは、僕なりの「態度変更」ではありましたが、ただ、その後がきつかった。あの連載をふたつの本にまとめて(『日本近代文学と〈差別〉』『不敬文学論序説』)、そのあとが問題でした。いわゆる「ゼロ年代」に入って、柄谷さんはご自分の理論を構築なさっていて、たとえば、カ秀実さんは決断主義的な実践の方向へ舵を切る。アニメやコンピューターゲームや、ネットなどの新しい環境のなかに、ひとり取り残されたような気がして、それなりに仕事はしていましたが、このさき一体何をしたらいいのか、じつは、ずっと断続的に途方に暮れてました。
柄谷
僕はいつだったか、あなたに「元に戻ってやった方がいいんじゃないか」と直接いったのを覚えています。
渡部
震災後の反原発デモの時です。たまたま脳梗塞で倒れたりした後で、『日本小説技術史』の目処は立ったはいいが、なぜか恐ろしく弱気になっていて、久しぶりに柄谷さんに会いにいったんですよ。そうしたら僕の窮状をすぐに察して、「初心に戻った方がいいんじゃないか」といってくれた。あれには、とても励まされました。
柄谷
「デモは社交だ」といっていた時期だからね(笑)。
渡部
その「初心」が、さっきいった『日本近代文学の起源』から受けた切断の感覚です。そこへ「戻る」ということが、逆に、そこまでの歴史を「辿る」形で現れたのが、今度の本でした。ですから、ラストは柄谷というのは、はなから動かせないラインでした。
柄谷
そのことは、大分前に聞いていました。それは、本の構成全体に関係してくることですよね。僕の仕事がその本の最後に出てくるという。何かヘーゲル的な「歴史の終焉」という感じがした(笑)。それは嫌だけれど、渡部さんが掴んだ観点から見ると、批評というものは、ずっとつづいていくというタイプのものではなく、終わりのあるものだということですよね。そのこと自体が歴史的である。それは読んでいて感じました。
渡部
ところが今や、その歴史性がみえにくくなっています。僕は確かにひとつの「終わり」から始め、その解放感を生きたことは事実ですが、だからといって、歴史そのものを忘れていたわけではありません。他方、いわゆる「ゼロ世代」になって、解放であったはずのものが、たんなる無葛藤に通じだして、批評は、少なくとも文芸批評は、ひたすら退行をつづける。八〇年代の切断性を謳歌した者のひとりとして、僕はこの傾向にいささか責任を感じて、今回の本を作ったという面もあるのですが、正直いって、書きあげるまでが本当に長かった。毎晩、くたくたになって床に就くたびに、「明けない夜はない」と自分に言い聞かせてやっていました(笑)。ここには七十本収めていて、一日一本書けば七十日で書ける。でも、二日で書いた方が確実にいいものになる。三日ならどうか? そんな感じで、どんどん時間がかかってしまいました。その前に、まず、ひとりの書き手から一本取るのに、同じ書き手のものや他の候補者のものを十本ぐらいは読まなければいけませんし。
柄谷
勉強すればするほど、短く書くのが辛くなるでしょうしね。
渡部
ええ。でも、そこはすぐに慣れました。というか、解題一本六〇〇字の縛りというのは、新鮮な体験で、簡潔な文章を書く魅力に目覚めたりしました。悩ましかったのは、むしろ、作品の配列ですね。七十本で誰を採るかにもとうぜん悩みましたが、採った作品が初出順だとどう並ぶかには、とても気をつかいました。並べ方によって「大全」の印象が変わりますし、個々の作品の光りかたも違う。そこは、いってみれば『古今集』を編んでいるような気になりました。で、頭から読んで来て「六八年」あたりから蓮實・柄谷までいくと、やはり格好いいんですよ。日本の批評もここまできたんだと、それが目に見えるかたちになっていると思います。ともあれ、これで、蓮實さんや柄谷さんをはじめ、僕が読んできた批評に対して、一種の恩返しができた気はしています。 
近世日本文学の起源

柄谷
渡部さんにとっては、『日本小説技術史』を書いたことが大きな転機になったと思うんですが、僕はあれを読んでいて、ひとつ重要な発見をしたんですよ。あの本は、馬琴からはじめています。しかし、馬琴より少し前、上田秋成の頃に、新しい傾向の中国文学が日本に入ってきたわけですね。白話小説といわれるものです。それは口語で書かれた中国の小説で、よく知られているのは『三国志演義』と『水滸伝』です。もちろん口語といっても、かなり文語的であって、日本人には難しい。江戸時代中期にこの白話小説が到来したことについて考えたとき、ふと思いついたことがある。僕らは普通、近代小説は西洋から入ってきたと思っていますね。たとえば、坪内逍遙も英文学者です。そこから日本における近代小説ははじまったと考えられている。しかし、彼はたんに西洋の文学から考えたのではなく、その前に、馬琴の文学と取り組んだ。

僕は『日本近代文学の起源』では、近代日本文学の起源を、国木田独歩に見ています。だから、彼以前に何があったのかについては、よく考えなかったのです。今思うのは、国木田独歩以前にあった日本の文学は、中世・古代的なものではなくて、近世的なものであったということです。そして、それは伝統的なものではなく、やはり海外からの影響によるものであった。それが徳川時代中期に起こった。つまり、中国の近世文学が日本に入ってきて、秋成などがそれに反応したことから起こった。そこに、言うならば「近世日本文学の起源」があったんじゃないか。隠蔽されてきたのは、むしろそれではないか。

国木田以前の人たち、たとえば坪内逍遙や二葉亭四迷は「近世文学」に近いですね。漱石・鴎外もそうです。近年の僕の本(『文学論集』)では、「ルネサンス的」と呼んでいるような作家たちは大体そうです。近代文学と古代・中世文学のあいだに近世文学がある。日本の近世文学は、中国から到来した白話小説と格闘して生まれてきたわけです。白話というのは、たんなる言文一致と違って、文章も豊かで、構造も複雑なものです。日本の近世文学はそれを踏まえていた。明治になって西洋近代文学を受け入れる素地がそこにあった、と思います。
渡部
それ、ちゃんと論証できたら凄い話ですね実際、馬琴にしても、白話小説を和訳することを通して作家になる。読本の高尚化によって戯作の地位向上をはかろうとする。具体的には、自分の読者層を武士階級にまで引き上げようとするわけですよね。そうした意味では、坪内がやったことと似ています。その馬琴の小説技術(「稗史七則」)が、逍遙にも紅葉にも引き継がれるということは、前の本に書きましたが、白話小説そのものにかんしては、さほど深くは考えませんでした。その辺りのことに関しては、我々にとってのミッシングリンクになっていたのかもしれません。ただ、この間の仕事を通して、その部分に体感的に近づけたんじゃないかとは思っています。それも、柄谷さんが歴史を一度切断してくれたおかげですよ。つまり批評的に考えていく時、あるものの起源をどこに見つけるか、実はポイントはどこにおいてもいい。そのポイントから何かを見つけるのが重要であり、僕は『日本近代文学の起源』を読んで、坪内逍遙と二葉亭四迷に起源を求める文学史のカノンから自由になりました。柄谷さんの本は、実質的には国木田独歩からはじめている。つまり、近代文学の「起源」を十年後ろに、しかも、「人情」ではなく「風景」に見出しています。それが見事に方法的な戦略だった。ならば、前にずらすことだってあり得るのじゃないか。そう思って、『日本小説技術史』を書く上で、馬琴を見つけたわけです。同じように今度の本の場合、秋成と宣長を読んでみて、どうもこのあたりが問題だと思ったので、その二人から初めてみたのです。いまのところは、まあ勘働きのようなものですけれど……。
柄谷
たとえば、本居宣長が上田秋成を批判したとき、秋成が中国の白話小説に依拠していることに反撥したのだと思います。それは「からごころ」にすぎない、と。しかし、宣長が「やまとごころ」として持ち上げる『源氏物語』はどうなのか。あれだって日本独自のものではないんですよ。紫式部は、普段から司馬遷を愛読している女性だった。だから漢詩文の教養をひけらかす清少納言を小馬鹿にしていた。紫式部は『史記』みたいな歴史を書こうとしたのだと思います。もちろん、漢語を一切使わないし、内容もまるで違うけれども、気持ちの上では、司馬遷のように書いていた。つまり、それは、秋成・馬琴らが向き合った白話小説とは別のものではあるが、やはり中国に由来するものであった。問題は、西洋に関しては、時代をきちんと区別して語るのに、中国に関してはすべてが一緒くたにされているということです。『史記』も『三国志演義』も同列に語られる。しかし、司馬遷が『三国志演義』とか『水滸伝』のようなものを書くはずがない。
渡部
無意識のコロニアリズムがあって、中国文学ときちんと向き合ってこなかった。そういう反省はありますね。漢文も読めないから、概略的なことしか言えませんし。
柄谷
今のところ、きちんと考えていませんが、これは自分への宿題でもあります。話は、渡部さんの本と随分ずれてしまったけれど。
渡部
いえ、前の本からこの本にむけて流れ込んできたひとつの筋が見えました。福嶋亮大あたりに話したら、きっと飛びついてくるでしょう。僕自身もじつは、次は『源氏』かななどと漠然と考えていましたので、いまのはとても刺激的なポイントですが……それはまあ、しばらく措くとして、かねてよりひとつお聞きしたかったことがあります。九〇年代初頭、『批評空間』で連続的に、浅田彰、蓮實重彥、三浦雅士といった方々と一緒に近代批評の総点検をされてましたよね。『近代日本の批評』三巻本にまとめられる試みで、そこで交わされていた議論や巻末の批評「年譜」は、今回かなり参考にさせてもらいましたが、当時、ああいう仕事をしようと思ったのはなぜですか。『批評とポストモダン』で出された問題との関係でしょうか?
吉本・江藤・蓮實・柄谷

柄谷
よく覚えていません。僕は、九〇年代から定期的にアメリカで教えはじめたので、そのことが関係していたかもしれませんね。ひとつには、自分自身がやっている仕事の歴史的背景を人に知らせる必要があった。その頃から、日本における「批評」あるいは「批評家」について考えざるを得なかった。僕が気づいたのは、日本において「批評」は、小林秀雄以来、フランス哲学の別称だったということです。当時の日本では、哲学とはドイツ哲学のことであったから。そのことに気づいたのは、アメリカでも一九七〇年代に同じような現象があったからです。急に、文芸批評のブームが起こった。実際は、フランス哲学のブームです。ただ、彼らはまもなくそれを「セオリー」と呼ぶようになった。なぜだろうか。いつだったかアメリカで「セオリスト」(理論家)として紹介されたことがあって、ヘエー、俺ってセオリストなのか、と思ったことがあります。一般に、批評家というのは、あまりいい意味ではないですね。英語では、「critic」というのは、悪口みたいなものなんですよ。夫婦喧嘩の時に「You Critic!」と罵るような感じで使われる(笑)。だから、日本で「批評」がもっていた意味は、歴史的状況と関係があります。ただ、今や日本でも、批評家っていうと、悪口でいうような存在になってきているのかな。
渡部
でも、海外はともかく、僕が学生の頃に日本で一番輝いていたのは、批評家でしたよ。そこは小林秀雄の功績を認めざるを得ない。小林のあとに、吉本・江藤、蓮實・柄谷とつづく。僕がおくてだったせいかもしれませんが、七〇年代は、人文系で一番冴えてるのが批評家だと思っていました。最先端の哲学・思想を語ることから、小説の批評や新人の発掘、あるいは、社会批評や文明批評まで、映画・音楽・美術もふくめいろんなことができるのが批評家である、と。もっとも幅が広くて、しかも、それぞれの専門家よりも鋭くないと、その幅を維持できない。そう思ってました。それが、僕自身をふくめ、段々そうじゃなくなってきて、ついには、今や批評自体が消えかけています。
柄谷
近年、東浩紀とかが「批評」についてしきりにいっていますね。僕にはピンと来ないのですが。
渡部
少なくとも、その「批評」の消滅を食い止めようとはしてますね。「ゲンロン」という名の場所と雑誌を作り、ネットもフル活用して、いろいろな書き手を集め、読み手を開拓し、さまざまな企画を作る。その一環として、まさに今いった『近代日本の批評』に倣って、一九七五年から二〇一六年までの日本の批評の総ざらいを、市川真人、大澤聡、福島亮大といった人たちと連続的に討議していました。佐々木敦なども参加している。批評作品個々の重要度を活字の大きさで一目瞭然たらしめるという露骨な年表まで作って(笑)。面白いのは、その年表がまた柄谷さんの『意味という病』で始まってることです。僕の本と逆。で、結果的に、あちらとこちらを併せると、江戸後期から今日までが見渡せる格好になってます。もちろん、偶然ですが。
柄谷
読んで、あなたはどう思います?
渡部
討議の方向性や個々の議論にはいくつか疑問を抱きますが、試み自体は評価できます。東浩紀一個人にかんしては、こんな言い方は失礼かも知れませんが、『批評空間』でデビューした頃から比べると、ずいぶん「大人」になった感じがしますね。良い傾向だとおもって、僕も時々協力してますが、彼らの議論の中心には柄谷さんがいる。他方に、大澤信亮、杉田俊介、浜崎洋介という人たちが『すばる』誌を拠点として、この「ゲンロン」に対抗しようとしているようですが、彼らにとっても柄谷さんが淵源。簡単にいうと、かつての小林秀雄の位置に柄谷さんがいるわけです。どちらにも、蓮實重彥の影が薄いのが、個人的には寂しい限りですが、その『すばる』組の言い分を僕なりに敷衍すると、どうやら、柄谷さんがふたりいて、ひとりは理論的な柄谷であり、もうひとりは実存的な柄谷である、と。大きくいえば、「マルクス的柄谷」と「キルケゴール的柄谷」かな。そのマルクス方向は東さんが引き継いで、キルケゴールの方向は山城むつみさんが引き継いでいる、となります。これは、さほど間違った見方ではないとおもいます。東さんは近頃、「観光」といったキーワードで、理論的に批評を構築する。一方の山城さんは、小林秀雄風の実存的な批評をやっている。それで今の若い三十代四十代ぐらいの世代は、東派と山城派にわかれているようですよ。つまり、柄谷さんが持っていたものが枝分れして、表面的に繁茂しているかにみえます(笑)。
柄谷
その場合、「マルクス系」の方は、あまりマルクス的ではないという感じがするな。
リテラシーの低下

渡部
「マルクス」はもちろん言い過ぎでしたが、でも、なかなか頑張ってますよ。若い世代は、その東さんから入って柄谷さんに遡行するという格好が主流で、そこに対抗軸として、山城経由の小林モードが復活ってとこでしょうか。大雑把な観察ですけれど。
柄谷
そうですか。ただ、今の批評は、現代の思想の先端には届かなくなってしまっているのではないですか。
渡部
僕はあまり共感しませんが、たとえばカンタン・メイヤスーとか「確率」なんていう言葉が聞こえてきますから、現代思想から離れているわけでもないようです。ただ、僕としては、「実存」以前の非常にナイーブな「私」批評の復活のほうが気になります。
柄谷
批評の現状についていえば、それはたんに批評家だけの問題ではなくて、文学作品の問題でもありますよね。端的にいえば、小説が衰えてきている。それを感じたので、僕は二〇世紀最後の年に新人賞の選考委員をやめた。それ以前はもっと文学の現場にコミットしていたと思うんですね。今は、批評といっても、その要素がないような気がするんですよ。渡部さんの分類でいえば、「マルクス系」「キルケゴール系」の両方に、そういう傾向があるんじゃないですか。
渡部
そこは逆に、文学の生産現場が、批評そのものをほとんど必要としなくなってしまったという事情が大きいんですよ。これは明らかなことだと思います。たとえば、今の作家たちのなかには、少し厳しい批評に接すると、悪口をいわれたと思ってしまう者がいる。批判と中傷の区別がつかない。文芸誌から匿名欄がなくなったのもそのせいです。作家たちが、あの「蜂の一刺し」みたいな批判を受け入れなくなった。少なくとも編集現場がそう判断したわけです。しかし、その判断は、作家を悪く甘やかすことにしか通じません。SNS的な自堕落な承認願望を作家たちまでが一部で共有しているかにみえます。したがって批評家などというささくれだった存在自体が求められない。
柄谷
「You Critic!」になってしまうわけね(笑)。
渡部
「ヤな奴!」とか(笑)。しかし、それはいくらなんでもまずいだろうという、ある種の危機感があって、それがこの本を作った一番大きな理由ですね。柄谷さんはご覧になっていないだろうし、僕も時々しか見ないけれど、文芸雑誌における批評の現場って、見るたびにげんなりしますよ。たんなる「感想文」が平気でわらわら載ってますから。稀にいい書き手も見かけますが、総じて甘すぎる。僕が多少襟を正して手にするのは『子午線』という同人誌ですが、そこに書いている中島一夫、石川正義、長濱一眞といった人たちには、文芸誌の編集者たちの目が向かないようですね。何かの間違いとしかおもえぬ書き手を甘やかす一方で。ただ、こうした事態について、身近に思い当たることはあって、学生たちの、つまり批評の若い読み手たちのレヴェルで、ここ二十年ほど、明らかにリテラシーが下がっているという実態がある。僕は、『日本近代文学の起源』をずっと、一種の定点観測として「批評理論」講義の教科書に使い続けています。廃校になったジャーナリスト専門学校から、近大、早稲田ともう三十年近く、ほぼ同じ水準で教えています。学期ごとのテストも、毎年似たような難度で出し続けてますが、そのテストの出来が、確実に下がりつづけてる。昨日まで採点してたので、今年の問題(注=本文のおわりに掲載=編集部)たまたま持ってますけど……お解きになります(笑)?
柄谷
嫌だよ(笑)。
渡部
かなり出来る子もいますが、150~200人の教室全体としては確実に下がり続けていて、受け手の側がこれだと、まともな批評が現れにくいって実感するわけです。ですから、たとえば、『すばる』が今度、「すばるクリティーク賞」という批評の新人賞を作ったんですが、どんなものが出てくるか?というか、その選考委員たち、さきほど名を挙げた人たちですが、彼ら自体が僕からすればほとんど「新人」批評家なんですね。「新人賞」はふつう、新人に与えるものだけれど、あれだと、新人が与える「賞」になってしまう。それが良い方に転がれば幸い、かつて田中和生という人が『群像』新人賞の選考委員になったとき以来の珍事にならなければいいんですが……たとえば、そうした選者たちは、この本におさめた批評文を何本くらい読んでるんでしょうか? そんなことまで、つい気になるんですが、思えばこの気分、我々が近畿大学にいる頃、浅田さんも交えて岡崎乾二郎、カ秀実、奥泉光、島田雅彦といったメンバーで『必読書150』(太田出版)を作ったときの危機感の延長ですね。あそこでも、同じような気持ちが共有されてたと思います。ただ、一切の気兼ねなしで選んだこともあって、ちょっと難しすぎた。僕だって読んでない本が何冊かありましたからね。
柄谷
「これを読まなければ、サルである」という帯が付いていた(笑)。
渡部
そのレヴェルだと、今はたぶん「サル」だらけですよ(笑)。でも、今度の本を手伝ってくれた大澤聡さんあたりは、真に受けて『必読書150』全部読んだみたいですよ。指標になるものを作っておけば、いつか活用する人たちが出てくる。僕の本も、そんな気持ちでした。
柄谷
この本は、きっと役に立つと思いますよ。こういう仕事は、並べればできるように思う人がいるかもしれないけれど、誰にでもできるものではない。あなたの場合、『日本小説技術史』が根底にあったからこそできた仕事だと思う。むろん、そのラインで選んだものと同時に、それ以外のものが沢山入っている。だから、両方の要素があるけれども、根本には、技術史の唯物論があると思います。
渡部
だから、「戦後派」なんていないことになってしまったのかも知れません。この本には、戦後派が出てきませんから。
柄谷
戦後派には、いわば技術論がなかったというわけね。
渡部
そういう偏りはあると思いますが、作ってみると、いろんな先祖が見つかって面白かった。さっきもいいましたが、柄谷さんは戸坂潤と似ていて、そこに小林や夏目漱石が混じってるとか、僕は、正岡子規といいたいところですが、まあ斎藤緑雨だよなあとか(笑)。

「六八年」の批評

柄谷
この「大全」には、文芸批評家だけではなくて、演劇や写真、ジャンルの違う人たちも入っているから、面白いものがいろいろ見られる。僕が知らなかったものもいくつかあった。
渡部
特に「六八年」前後は、文学以外のジャンルの人を多く取り上げています。
柄谷
そういう意味では、あなたも批評の範囲を広げたと思いますね。僕も『近代日本の批評』をやった時、そうしようとしたんですよ。そもそも、『批評空間』というコンセプトは、批評は文学に限らないという考えから来ている。その前身が『季刊思潮』ですが、それは劇作家の鈴木忠志の発案ではじまって、僕と哲学者の市川浩が参加した。以来、編集委員に浅田彰が入り、磯崎新も協力してくれた。彼らは皆、文学の人ではなかった。だから、『批評空間』には、批評をもっと広げていこうという考えがあったと思います。
渡部
「六八年」前後の文章を読んでいると、美術家や写真家、舞踏家たちが、妙に文章がうまいんですよ。土方巽とかね。あの時代の中で、それぞれが緊迫して活動していたからだと思います。逆に、普通の意味での文芸批評家は、ほとんど入っていないのですが、そのへんは、僕の個人的な感触を優先させて貰いました。当時の文芸批評家って、柄谷さんが出てくるまでは、雰囲気がせこかったんですよ(笑)。中平卓馬や高橋悠治たちの文章の方が、よっぽど格好よかった。
柄谷
その点では、この本のセレクションの方が、これからは標準になっていくのかもしれない。むろん、そうではないという人が出てきてもいい。それなら、他にもこういう批評家の活動があったと、書けばいいのであってね。
渡部
そうした点に、不満を持つ人がいても当然だと思います。ただ、一九四〇年代や五〇年代と違って、「六八年」的なものについては僕自身に確かな実感があって、ここで挙げられた人たちの本を一番真剣に読んできた。そういう人たちの本を選んだつもりです。その中で、文芸批評家として、秋山駿だけは捨てられなかったのは、僕がファンだったからです。柄谷さんが出てくるまでは、秋山さんの批評ばかりを読んでた時期があります。本当は彼の『舗石の思想』を入れればよかったんですが、長すぎて無理でした。アンソロジーのつらいところです。江藤淳にしても引用が長すぎるんですよね。『成熟と喪失』、どの章を見ても、引用文が異様に長い(笑)。早く自分の意見をいえという感じで、いらいらしたり。
柄谷
僕は若い時に、江藤淳のことを、文章を書く手本にしていたことがあるんですよ。同じ英文学出身だし、書くことにおいて影響を強く受けた。これも余談だけれど、江藤淳が亡くなった後、福田和也からおもしろい話を聞いたことがあります。江藤がこんなことをいっていたそうです。「柄谷くんというのは実に無礼な男だ。しかし、文章はいい」(笑)。意外だなと思ってね。僕はひとに、文章がいいということで褒められたことがないし。おそらく彼は自分自身の影を、僕の文章の中に見たんでしょうね。実際に僕は影響を受けていたから。
渡部
それはいい話ですね。江藤さんに関しては、僕も初期の頃の批評の方が好きで、そちらを入れたかったんですよ。ただ、そこは配列・組み合わせの問題があって、『成熟と喪失』になりました。というのも、吉本さんからはどうしても「前世代の詩人たち」を取りたかったからで、江藤さんまで初期の頃の批評を選んでしまうと、ふたりとも批評家としての全盛期より前にずれてしまう。その辺りもアンソロジーの難しいところでした。
柄谷
吉本隆明には具体的なアドバイスをもらったことがあります。僕は大学院に入ったとき、田端の駅の辺に下宿したのですが、ちょうど坂道を降りたところに吉本の家があることを知ったんです。それからちょくちょく訪ねていくようになった。彼は、僕に大体こういうことをいいました。「あなたは全部の雑誌に書きなさい。『群像』や『文芸』だけでなく、『新潮』、『文學界』にも。全部に書けるようになった時、やっと一人前だといえる。自分にはそれができない。まず向うから依頼が来ないから。だけど本当は、どこからも依頼されるようにならないといけない。小林秀雄や中野重治がそうでしょう」と。
渡部
それもいい話。それこそ、批評というものが生きていた証拠ですよ。立場をこえて後進に期待がもてたということですね。
柄谷
吉本隆明はその頃、雑誌『試行』をはじめていたんだけれど、僕に『試行』に書けとは、ひと言もいわなかったですね。そして、全部の雑誌に書け、といったのです。そういうこともあって、江藤淳にしても吉本隆明にしても、僕の中では、一般に見られているイメージとはちょっと違う見方がありますね。たとえば、吉本は丸山眞男のことを褒めていた。丸山は別格だといっていた。
渡部
今の批評家は、それだけのキャパを持ち得ないでしょうね。それにしても、いまの二つのエピソード、今日初めてうかがいましたが感慨深いですね。かつて、批評というのは、生きるに値するものだったということがよくわかります。今だとなかなか、そうはなりません。
渡部
批評家同士だけでなく、作家たちに対しても、批評が以前のように働きかけることが難しくなっても来ました。かつて、柄谷さんが中上健次にフォークナーを勧めたら、中上さんがその気になったといったような出来事も、なかなか生じない。しかし、批評の衰退は、小説の衰退なんですから、手をこまねいているわけにもゆかなくて。
柄谷
僕が文学批評をやめた頃はまだ、今後やれそうな人がいくらかいたと思うけど。
渡部
よく、「柄谷さんが『群像』の新人賞の選考委員をやめてから、ひどくなった」という話がでます。さきほどの『ゲンロン』組も『すばる』組の人たちも、異口同音にそういいますし、僕もかなり同意しますね。柄谷さんが、ゼロ年代以降も、十年ぐらい現場で目配りしていたら、今の小説の地図も批評界も随分変わっていたかもしれない。
柄谷
いつまでも人助けはできません(笑)。
渡部
ですよね。僕も本当はそういいたいところですが……なんか、教師根性が染みついていてしまって、ついこんな本を作ってしまうわけです。僕の影響力など、蓮實さんや柄谷さんに比べれば、たかが知れてますが、それでもまあ、無いよりましかってところですかね。 


※「文芸批評理論Ⅱ」十六年度後期テスト(三問六十分中の二問抜粋)
(1)《風景が出現するためには、いわば知覚の様態が変わらなければならないのであり、そのためにはある逆転が必要なのだ》(柄谷行人『日本近代文学の起源』)

ここにいわれる「ある逆転」とはどのようなものか、説明せよ。(200W以内)


(2)《キリスト教は猛獣を支配しようと願うが、その手段は、それを病弱ならしめることである。――弱化せしめるというのが、馴致のための、「文明化」のためのキリスト教的処方である》(ニーチェ『反キリスト者』)

ここにいう「猛獣」は何の比喩か? 柄谷行人に従ってそれを明示した上で、この文章の意義を説明せよ。(200W以内)


*以上、2問の答えを募集します(1問あるいは2問解答のこと)。採点の上、優秀作品は「週刊読書人」あるいは「週刊読書人ウェブ」にて掲載いたします
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