日銀がマイナス金利政策を導入してから、2月16日で1年になります。デフレ脱却の「切り札」として導入された異例の政策は、経済のある部分には活気を与えた一方で、さまざまな“副作用”が現れました。導入から7か月後には軌道修正を余儀なくされた「マイナス金利政策」は、日本経済に何をもたらしたのでしょうか。そして、今後、政策はうまく機能し、物価上昇率2%の目標を達成することはできるのでしょうか。
(経済部・新井俊毅記者・峯田知幸記者)
「経済活動をサポートした」
「昨年の前半は、世界経済が減速し、国際金融市場が不安定化するなど、わが国経済は逆風に見舞われた。こうした中で、マイナス金利のもとでの極めて緩和的な金融環境は、企業や家計の経済活動をサポートした」
日銀の黒田総裁は、1月31日に開かれた金融政策決定会合のあとの記者会見で、マイナス金利政策が日本経済に与えた“効能”を強調しました。導入を決めた当初から、黒田総裁が「中央銀行の歴史の中で、おそらく最も強力な枠組み」と強気な発言を繰り返してきたマイナス金利政策。“金利がマイナス”という未体験の手法は、日本経済にさまざまな波紋を広げました。
住宅ローンや社債市場に活気
マイナス金利政策の恩恵を受けた代表例は、住宅ローン市場です。各金融機関が、住宅ローン金利を過去最低の水準まで引き下げた結果、借り換えの申し込みが急増。大手銀行5行の合計で見ると、政策が導入された翌3月には、1か月間の借り換えの申し込みが前の年の同じ月の3.6倍に増えました。
企業が資金を集めるために発行する社債の市場にも、明らかな変化がありました。証券最大手の野村証券によると、去年1年間に企業が発行した社債の額は10兆3000億円余りと、前年より一気に33%も増加。特に償還までの期間が長い社債を発行する企業が目立ちました。金利が低いという企業にとって有利な条件のうちに、少しでも資金を調達しようというわけです。
お金を借りる個人や企業の負担を軽減するという部分で、マイナス金利政策の効果はてきめんだった、と言ってよさそうです。
想定超えた“運用難”
しかし、劇薬には副作用がつきもの。マイナス金利政策も例外ではありませんでした。
金利の大幅な低下は、金融機関や個人の資産運用を難しくしたのです。政策の導入初日の去年2月16日、長期金利の代表的な指標とされる、満期までの期間が10年の国債の利回りは、プラス0.04%まで低下しました。その後、6月に起きたイギリスのEU離脱決定などで、投資家の間でリスクを避ける姿勢が強まりました。
比較的、安全な資産とされる日本国債が買われ、国債の利回り=長期金利はぐんぐんと低下。去年7月にはマイナス0.3%まで下がりました。日銀の幹部からは「金利は想定を超えて下がっている」と焦りにも似た言葉が聞こえてきました。
国債利回りの大幅な低下は、銀行や保険会社、それに、年金基金などの資産運用を難しくしました。この結果、生命保険会社の間では、一部の保険商品を値上げしたり、販売をとりやめたりする動きが広がりました。
こうした流れは、消費者に不安をもたらします。「マイナス金利政策の影響は、導入前に念入りにシミュレーションした」と胸を張っていた日銀にとっては大きな誤算でした。
軌道修正 目標はなお遠く
想定を超えた金利の低下による副作用を抑える必要に迫られた日銀は、去年9月、マイナス金利政策を残しつつ、政策の枠組みを大きく変えました。
新たに、長期金利にも誘導目標を設けることにしたのです。日銀が自信を持って導入したマイナス金利政策は、7か月で軌道修正を余儀なくされることになりました。
経済のさまざまな場面に大きな影響を及ぼした未曽有の政策。ただ、究極の目的が「物価上昇率2%の実現」であることを考えると、効果は限定的だったといわざるをえません。肝心の消費者物価指数は去年12月まで10か月連続でマイナス圏に低迷したままです。
大丈夫? “賃貸バブル”
では、軌道修正が施されたマイナス金利政策に心配はないのでしょうか?
実は、ここに来て、日銀が懸念を持って注目する現象があります。その1つが、活況に沸く賃貸住宅の市場です。
国土交通省によりますと、去年1年間に全国で着工された住宅のうち、賃貸住宅を示す「貸家」は、41万8543戸に上り、1年前より10.5%増加しました。資金を借りやすくなった個人などが、節税や投資の一環として、賃貸住宅を建設したり購入したりする動きが活発化しているのです。
1月下旬に東京都内で開かれた不動産投資セミナーをのぞいてみると、大勢の投資家が集まり、会場は熱気に包まれていました。しかし、一部の投資家は“過熱気味”の市場を警戒しています。
20年近い投資経験を持つ埼玉県の森田正治さん(68)は「確実に居住者が見込めるリスクの小さい物件が見つかりにくくなっている。競争激化で家賃も下落していて、本当によい物件を見つけるのは難しくなっている」と話していました。
投資がさらに過熱し、いわば“賃貸バブル”とも言える状況が生まれれば、その後、資産価値が急落する事態になりかねないと、日銀は警戒を強めています。
1月16日に日銀が開いた支店長会議では、各支店から賃貸住宅市場についての報告が相次ぎました。
「実質的な家賃相場ははっきりと下落している(栃木県の状況を本店が報告)」「家賃の値崩れや入居率低下が目立ってきている(高知支店)」「入居者獲得に向けた家賃の引き下げ競争が生じている」(釧路支店)
政策による“物価下落”も
では、家賃の下落は、実際どの程度進んでいるのでしょうか。日銀の支店長会議で事例にあがった栃木県の複数の不動産業者に話を聞きました。
「需給バランスが崩れ、空室を埋めるには家賃を引き下げたり、敷金礼金を免除したりする動きが出ている。エリアによって違いもあるが、1Kタイプで月の家賃を5000円程度引き下げたケースもある」
業者が語ったのは、賃貸住宅が供給過剰となり、家賃を下げざるをえない実態です。物価上昇を目指す日銀の政策が、皮肉にも、物価を押し下げる圧力に変わりはじめているとも言えます。
トランプ相場VS日銀
さらに、ここに来て、日銀にとって難題となりつつあるのが長期金利の操作です。日銀は、去年9月の“軌道修正”で、長期金利の目標を0%程度に設定しました。
しかし、去年秋のアメリカ大統領選挙以降の“トランプ相場”で、世界的に金利が上昇。2月3日には、一時、プラス0.15%まで上昇。この日、日銀は、金利の上昇を国債の買い増しで押さえこむことができず、特定の金利で無制限に国債を買い入れる「指値オペ」と呼ばれる手段に踏み切ることになりました。
かつては、日銀自身が操作はできないと説明してきた長期金利。上がりすぎれば景気を冷やしかねず、下がりすぎれば副作用が現れるこの難物を、日銀は完全にコントロールしていけるのか。そのために、どれだけ多くのコストをかけることになるのかは予断を許しません。
金融政策の“限界論”も
そして今、日銀の金融政策に対する「限界論」が注目を集めています。
なかでも、アベノミクスの理論的な支柱とされる浜田宏一内閣官房参与が、これまでの持論を撤回したことは大きな波紋を呼びました。浜田氏はこれまで、金融政策によって市場に資金を大量に投入すればデフレの問題は解決するとしてきました。しかし、最近になって、金利がほぼゼロの状態で大規模緩和を続けてもデフレを止めることは難しいことがわかったとして、財政の拡大がデフレ脱却につながると主張を転換したのです。
浜田氏に影響を与えたのは、2011年にノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学のクリストファー・シムズ教授です。シムズ氏は、2月1日に東京都内で行った講演で、「物価を押し上げるには金融政策だけではなく、財政政策も必要だ。一時的に財政出動を拡大しても、人々が『いずれ緊縮財政になる』と思ってしまっては効果がない」と述べ、2%の物価目標と財政政策を関連づけることも選択肢だという考えを示しました。
金融政策の“限界”について、日銀ウォッチャーとして知られる調査会社、東短リサーチの加藤出チーフエコノミストは「家計や企業は将来に不安を抱え、金利が下がってもなかなか借金を増やそうとしなかった。成長戦略、構造改革を進めて日本経済の将来に自信が持てる環境にしないと、いくら低い金利を日銀が用意しても利用しようという気にはならない。デフレ脱却は日銀だけで取り組めることではない」と指摘しています。
原点への回帰を
異例のマイナス金利政策は、消費者物価を見るかぎりは、思うように効果を発揮できずに導入から1年がたとうとしています。日本経済の復活、物価上昇率2%を実現する決定的な処方箋は「異例の政策」ではなく、産業競争力の強化や、将来のくらしを展望できる環境整備といった、より基本点な部分にあることがはっきりした1年だったのではないでしょうか。
- 経済部
- 新井俊毅 記者
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