「比較しろ」って簡単に言いますけどね――質的調査VS量的調査

社会学の中でも質的調査と量的調査の間には壁がある!? 生活史を中心とした質的調査を行っている岸政彦氏と、計量を使った量的調査が専門の筒井淳也氏が「ずっと前から内心思っていたこと」をぶつけ合う。遠慮なしのクロスオーバートーク。(構成/山本菜々子)

 

 

「ウェーバーやってます」

 

筒井 ぼくと岸さんはなかなか、普段は会う機会が少なくて、こうして二人で話をするのははじめてですね。たぶんパーソナリティも違うし。

 

 同じ社会学の中でも、ぼくは生活史を中心とした質的調査、筒井さんは計量を使った量的調査をしています。

 

普段はあまり交流のない二つの分野ですが、今日は、お互いに思っていることを遠慮なく話し合ってみたいと思います。社会調査は質的調査と量的調査に分かれていると、筒井さんは感じていますか。

 

筒井 分かれているんじゃないでしょうか。「あなたは質的の人? 量的の人?」という聞き方をしますよね。もちろん、共通点はありますが、質的と量的を両方やる人は多くないですし。

 

 今は学説をやる人ってかなり減ってて、質的調査が多いですよね。日本本社会学学会の発表のプログラムを見ても明らかです。

 

筒井 そうですね。昔は相手の研究関心を尋ねる時、「あなた誰やってるの?」と聞いてました。今は変わっていますね。

 

 「ウェーバーやってます」って答えたりしてましたね。よく考えたら、「ウェーバーをやる」って謎の言い方ですよね。

 

ぼくの勝手なイメージなんですけど、質的調査と量的調査で二分されている、という簡単な話ではないと思っています。

 

社会調査というのがガバッとあって、その中に参与観察があって、歴史的なテクスト分析があって、総合的なエスノグラフィがあって、生活史があって、そして計量があるんじゃないかなと。質と量で半分に分かれるというよりも、いろんな調査法があって、そのうちの一つに量的研究がある。

 

筒井 そうですね。質的調査が増えているイメージはあります。

 

 そこには、色んな要因があって、質的調査の方が数式を使わずにとっつきやすい。たぶん、社会学に入ってくる人って、「なんでも好きなことができる」ってイメージがあると思うんですよ。地道に計量を勉強するのが苦手なタイプの学生が多いんじゃないか。

 

そして、前にシノドスでも書いたのですが、大学院重点化の影響が大きくて、30代前半で博士号を取る人が多くなって、しかも博論をそのまま出版することが多くなってきました。

 

30歳くらいでまとまったことを書こうとすると、研究費もそんなにないだろうし、現実的にはフィールドワークが多くなるんですね。だから、社会学は今、質的調査が優勢だと思うんです。

 

 

岸政彦氏

岸政彦氏

 

 

質的調査って、後ろ向きじゃない!?

 

 筒井さんや、筒井さんが指導している生徒さんは、質的調査についてどういうイメージを持っていますか。

 

筒井 いまの社会学者はよく言いうじゃないですか。「あなた、どこのフィールド?」って。

 

 ああ、言いますね。

 

筒井 「フィールド」というのは「専門分野」という意味ではなく、ここでは「どこの地域に調査で入っているか」という意味。むりやり僕自身に置き換えてみたら、「カナダと、スウェーデンと、日本と……」みたいな答えになっていますね。まぁ、岸さんなら「沖縄」って答えるかもしれませんが。ぼくらのような量的調査・研究をする人には、特定の「フィールド」がない。

 

つまり、そういう問いかけが成り立つ程度には、「フィールドに入る」ことが質的調査、ということになっていると思います。質的調査をしている大学院生たちをみていると、やはり「フィールドに入る」ことが大前提、そのフィールドの人たちから話を聞いて、そこが抱えている問題を拾い出すのが質的調査だと。

 

 だいたい、そんな感じでしょうね。

 

筒井 それはそれで、面白いと思うんですが……。学会とかにいくと、フィールドワークのデータを使った研究のなかにはレベルが低いかな、と感じる研究もあると思っています。

 

 ありますね……。

 

筒井 たとえば、これは研究者だけではなく学部生の卒論などでほんとによくあるのですが、特定の傾向の人、たとえば男性や学歴の高い人、の方がこういう考えを持ちやすい、というのを知りたいという研究テーマを持ってくるんですね。でも、量的調査だとたいてい学生からしかアンケートは取れないわけです。仕方ないからインタビュー調査をします、というのはありますよね。

 

 あるある(笑)。それはものすごくわかりますね。

 

筒井 量的な方法で決着をつけた方がいい問いに対して、コストがかかってしまうからと、インタビューをする。後ろ向きな動機のように感じます。しかも、論文のおわりに「得られた結果は今後量的に検証する必要がある」みたいなことを書かないで、あたかも少数への聞き取りから「男性の方が◯◯と考えている人は多い」みたいな、量的な問いに決着をつけようとするものが溢れていますよね。

 

 まぁ、ただ、行って見てきただけ、みたいな研究も中にはありますからね。質的研究にレベルの低いものが混ざっていることには同意できるのですが、量的研究にはないんでしょうか。

 

筒井 もちろん量的研究で酷いものをやる人もいますよ。でも、すぐに叱られるんです。

 

 誰が叱るんですか。

 

筒井 指導教官や、学会発表で厳しくツッコまれます。量的研究はレベルの差が分かりやすい分野です。だから、ある程度の水準を満たさないとすぐ叱られますね。他方で、質的研究だと止める人があまりいないのかって思ってしまうんですが、どうなんでしょう。

 

 若手の社会学者が個人で入ると、マイノリティとか人権の問題や差別の問題が多くて、「そこに入っている」というだけで、発言できるところがありますね。研究としては置いといて、このコミュニティに入れたんだ、すごいなぁとなっている。

 

もちろん、一定の成果はありますよ。でも、コミュニケーションがすごく上手で、「この人たちに話を聞けて偉いな」で終わってしまうことの懸念はありますよね。

 

誠実な人ほど、そういうしょうもない研究でも、「行間」を読んでくれるんですよ。問いの立て方や仮説はダメだけど、ここに書いている記述から色んなことが読み取れる、という評の仕方ってよくありますよね。

 

筒井 質的調査では、よく見ますね。

 

 質的調査って、けなされ方とほめられ方が一緒なんですよ。「こんなの科学じゃない、文学だ」とけなされた同じ論文が、「人と理解しあって素晴らしい」とほめられる。なんだか、名人芸みたいなところがあって。でも、名人芸じゃだめだと思うんです。記述から勝手に読み取ってくれるんだけど、それはむずがゆいというか。

 

筒井 「記述しているだけだ」とけなすこともあるし、「その記述は面白い、よくその集団に入り込んだね」とほめられるということですね。

 

 入り込むことで、ほめられることもあれば、入り込み過ぎだとけなされることもある。それと、質的調査だと、自分の師匠と違うフィールドに入ることも多いので、相談なんかしないし、「放し飼い」でやっているのが多いんです。だから、ひどいのが出てきてしまうんでしょうね。

 

 

正しさって、結局なんだろう

 

筒井 弟子が変な学会報告をして、指導教官が恥をかくこととかないんでしょうか。

 

 よくありますよ(笑)。でも、質的調査は、一つのことを間違えて、そのことがその場で間違われて軌道修正していくというよりも、もっと広くて長いスパンなんです。

 

量的調査では、数字が出てきて、この処理はまずいと分かって、そうやって科学になって行くんですよね。質的調査にはそういうプロセスはない。では、質的調査が科学ではないかというと、そうではありません。

 

量的調査の場合、(マートンの言い方でいえば)「科学者共同体」が科学的な思想を共有していて、そのなかで揉まれる。そうするとどんどん科学的なものになっていくだろうと。

 

まあ、そこにはいろんな議論があると思いますが、一般論としては、科学者共同体の中で叩かれていくうちに、最適解に近いものに、全体としてはなっていくだろうと。

 

質的調査にも、いわば「社会問題の共同体」みたいなものがあると思うんです。そこには、研究者だけではなく、当事者、活動家、行政、メディアだったり、いろんな人が緩やかにつながっている。もちろん共同体といってもみんな仲良しという意味ではぜんぜんないですよ。その内部には葛藤や亀裂もあります。ただ、いずれにせよ、そういった人たちが論文を読むことはまれですから、たくさんくだらない論文や報告が出てくるんですが、そのままそんなことを続けていると、後から別のところで叩かれたり、調査が出来なくなっていくんじゃないか。ひとりの質的調査者の研究が、当事者や関係者たちとの関係性のなかで批判されて、広い範囲で、長いスパンでフィルターが効いているんじゃないかとは思っていますね。

 

ぼくもずっと質的調査を見てきて、ものすごくくだらない人は、やっぱりいずれは消えていきます。なんのフィルターもかかっていないように見えて、かかっているんじゃないかと思います。

 

よく、教科書などでは、「質的はおもしろいけどあやふや」「量的は面白くないけど確かだ」と対比されます。でも、まったくあやふやで自由ではなく、その場で言われないだけで、意外と規制がかかっていると思うんです。

 

筒井 じゃあ、質的調査の一団は、自然と流れに任せて進んでいくと、良くなっていくと。

 

 うーん。そう言われてしまうとちょっと自信がなくなりますが……(笑)。良くなればいいなとは思います。

 

ぼくは、量的と質的では、「正しさ」の定義が違う気がするんです。量的な手法では、競合する仮説が複数あるときに、仮説を「減らす」ことをしますよね。ダメなものは棄却していく。たくさんある仮説を減らしていく、一番正しいのが一つだというのが科学的手法としてあると。

 

筒井 いや、必ずしもそういうイメージではないですね。10個あって一つ正しいものを選ぶなんてことはしません。仮説検定の設計上、二つあってどちらかを選ぶことは多いです。仮説検定というのはデータで「白黒をつける」ことなんですね。データがこうだったら白(仮説支持)で、そうじゃなかったらデータがこうだったら黒(仮説棄却)だと。本当は研究の流れでは白が良かったんだけど、黒だったらいさぎよく諦める。

 

このいさぎよさが我々が自らに課している制約なんです。そこを無理やり白にすることは、まぁ、不可能ではないですが、それはやっぱりいかんですね。

 

 基本的には、検証された仮説を残す、ということをしていますよね。でも、ぼくらは、仮説を減らすのではなく、増やしている気がしているんです。

 

たとえば、ハマータウンで労働者階級の子どもたちの研究をすると(ポール・ウィリスは『ハマータウンの野郎ども』のなかで、学校文化を通じた階級格差の再生産を分析した)。たとえばこれをアメリカでやると、地域によって階級よりも人種の方が要因として強い、という結果が出てくる。じゃあ結局、何らかの不平等の再生産において重要なのは階層なのか人種なのかというふうにどっちかをえらぶんじゃなくて、このケースにはこんな解釈があるけど、このケースにおいては、全然違う解釈をするのが好ましい、そうすることで「現実」に近づいていく、という感じです。

 

なんだか、やっていると、限りなく地図をでっかくしていっている感じです。限りなく、実物大で、解像度の高い地図を書こうとしている。地図としては役に立たないかもしれないんですが。

 

筒井 質的と量的のつなぎ方に、質的研究から仮説を引き出してきて、量的なデータで検証するという連携の仕方がありますよね。質的研究の成果、岸さんの言い方だと「解像度の高い地図」の中から、検証するに値するような仮説を抜き出して検証するんです。

 

そういう意味では、量的研究というのは「地図を縮約して世界を記述する」というよりも、世の中で生じている現象の一部を取り出してきて検証する、ということです。この考え方だと、質的研究も量的研究もやっている作業は一緒で、段階が違うという認識も可能です。

 

ついでに、こういう作業をしていると、質的の人の立てた仮説を量的で研究しようとしたら、その仮説が上手く支持されないってことがよくあります。

 

 そうですね。

 

筒井 でも、それは質的研究から引き出された仮説が「間違っていること」を意味しません。われわれは「仮説を棄却する」と言いますが、今回のデータからはその傾向がうまく見つかりませんでしたと言っているだけです。別の事態や、別の地域や、別の要因を組み込むとたぶん出てくる。おそらく一部の集団だけ取り出してみると、仮説は支持される。しかし、ならしてみるとたぶん統計的に強い効果はない、ということです。

 

 

筒井淳也氏

筒井淳也氏

 

 

教科書をつくろう

 

 経済学には「金利を上げたらどうなるか」「金融緩和をしたらどうなるか」といったことが教科書に書かれていて、学部の一年生でみんな基礎的知識を身に付けます。

 

ですが、社会学って、定説や基礎的な公理を学ばない。一年生の必修の授業では、だいたい「社会学とはなんなのか分からない」という問いかけからはじまっていくと思うんです(笑)。ぼくは量的の人に、そういった教科書を積極的に書いて欲しいと思うんです。

 

ものすごく範囲を限定して、ある特定の時期などでもいいんですが、少子化の原因はこれだったとか、そういった蓄積はあると思うんです。

 

筒井 蓄積はありますし、ある程度整理されて絞られていますね。

 

 でも、それは、教科書になってないですよね。質的の教科書って何? って言われた時に、けっこうあるんですよ。でも、量的の教科書って、分析のやり方ばっかり書いているんですよ。多変量解析法はこうだとか。

 

筒井 そりゃそうやろう(笑)。教科書なんだから。

 

 でも、日本で量的調査でこんなことが分かりましたっていう教科書はないですよね。

 

筒井 ああ、それはあまりないですね。今までそれが作られなかった理由は、「(研究の新しい成果を知りたいなら)論文読めばいいじゃん」って思っているからなんですよね。

 

 怠惰な! なんて怠惰な人たちなんだ(笑)

 

筒井 でも、学部生が論文を読むことは少ないので、計量社会学の主要分野の到達点はこうなんだという教科書として出そうとしています。(注:筒井他編『計量社会学入門』として世界思想社から2016年に出版。)

 

 おお、そうなんですか! それは楽しみにしています。

 

筒井 ええ、書こうと思えばかけるんですが……すぐ古くなるのがいやなんですよね。

 

 古くなるのは、あたりまえじゃないですか。

 

筒井 10年経過するとすぐに要因は変わっていきます。だから、教科書を書くモチベーションが湧かないんですよね。

 

 経済学も、理論をアップデートしながら作っているので頑張ってくださいよ。ぼくたちが量的に期待しているのはそこなんですよ。答えを持っているはずですよね。

 

筒井 持っていますよ。

 

 一回でええからそんなこと言ってみたいわ(笑)。いま、筒井先生の研究で持っている答えってなんですか。

 

筒井 女性の労働と少子化についてですね。今まで、女性が労働することは少子化につながるとか、つながらないとか、様々な議論があったと思います。以前は女性が雇用されると子どもをあまりつくらなくなるというマイナスの関係、最近は逆にプラスの関係があるのでは、と考えられています。これには一応、決着がついています。

 

つまり、女性が外で働くと子どもは減ります。しかしシカゴ大学の山口一男先生などの研究をみると、育休などの制度を充実させると、このマイナスの効果が緩和されるという結果がでています。

 

さらに、ここからはぼくの見方なんですが、先進国で少子化を克服した国というのは、若い人の失業率が高くて苦労している国なんです。

 

 よく聞く話と逆ですね。少子化を止めるためには、若年者の雇用を支援して結婚させると言われますし。

 

筒井 ヨーロッパの国をみると、若者が苦労しているときにも出生率が回復しているんです。むしろ生活が苦しいから、若い男と女がくっつくんです。一人で生活していけないから同棲・結婚する。しかもこのとき、女性も働き続ける見込みがないと、カップルをつくらないし、さらに子どもを作ろう、ということにはならない。

 

 なるほど、面白い。たくさんの答えがあるのに、もっとメディアにも発信して欲しいと思います。

 

筒井 うーん。ぼく達からすると、メディアの人たちに聞かれないから、といいたくなるときもありますね。新聞社の人から「これ、どうなんですか」って聞かれたら誠実に答えますけど。でも、研究の最前線でやっている人だと、ブログなんかで情報発信する暇がないこともあるし、ウェブに書いたら書いたで叩かれたりするし。タイトルだけ読んで炎上してしまうケースもありますからね。【次ページにつづく】

 

 

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