とある宗教信者の家に生まれた僕の苦悩を包み隠さず話そうと思う

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ずっと隠してきたこと。匿名でブログを書いている今でさえ隠し通してきたこと。

僕はとある宗教信者の家に生まれ落ちた。

これは今後も変わることのない真実であり、僕の最大のコンプレックスでもあります。

家は好きです。親も好きです。でも宗教は別。

正しい教えが人をまっすぐにするとは限りません。神を信じていない者に神の存在を認めさせるのはとても難しいです。

今回はこれまでひた隠しにしてきた「とある宗教信者の家に生まれた僕の苦悩」を話していきたいと思います。

ちなみに今はその呪縛から自力で脱出し、宗教とは何ら関係のない生活を送ってます。

宗教名はここでは出しませんが、キリスト教の類とだけ言っておきます。

生まれたときから僕は宗教信者にされていた

オギャーとこの世に生まれ落ちたその瞬間から僕は宗教信者にされてました。

まだ赤ちゃんですよ? まだ言葉も喋れないうちから「集会」に行かされていました。もちろん強制です。

週に3回訪れる「集会」と家で定期的に行われる「研究」。物心ついたときには宗教が僕の生活の中心にありました。

集会の時間は約2時間。退屈な話をただひたすらに聞かされ、聖書を開き、お祈りをし、賛美歌を歌う。

別に宗教を信仰している人たちを否定するわけじゃないです。ただ僕にとってはただの苦痛でしかなかった。

僕のすべては宗教に基づいて強制的に決められていた

同じ宗教を信仰する人間が100人以上一同に集まり、ありがたい神の教えを皆で勉強する。

僕に近い年齢の子供も10人ほどいて、みんな驚くほど真面目でしたね。

子供なのでそりゃ飽きます。聖書を開き、神の教えを学び、どう生きていくべきなのかを探求する。

正直、どうだっていいです。

観たいテレビ番組もあるし、観たいアニメも映画もありました。読みたい漫画も、描きたい絵も、欲しいモノも、行きたい場所も、やりたいことも、付き合う友達もすべて宗教に基づいて決められてました。

「今日は誰と遊んでいたの?」「どんなことをしたの?」「そんな漫画を読んではダメ」「もっと人に優しくしなさい」「そんな服を着てはダメ」「そんなところに行ってはダメ」

自分のやりたいことは優先できないし、遊ぶ友達さえ制限される始末。これで「まっすぐ育て」っていう方がおかしいじゃありませんか。

「ちょっとおかしいんじゃね?」と思い始めたのは小学3年生頃です。

それまで僕は何の疑問も抱かずに、親に言われるがまま集会に行っていました。

思春期を迎え、ようやっとその宗教に疑問を持ち始めるようになっていったのです。

その生活の中で僕が覚えたことは3つ

強制され、制限される生活を送る上で僕が覚えたことは3つ。

  1. 我慢すること
  2. 逃げること
  3. 親の顔色を伺うこと

逃げられないことは分かってました。すべては強制ですから。

何をするにも、どこへ行くにも、何を買うにも、「それは果たして聖書にとって良いものと言えるのだろうか?」という観点から選ばれてました。

じゃあどうするか?

我慢」するしかないです。本当の自分の声を押し殺し、ひたすらに耐え、自分の考えをも曲げる。

すべては親の言う通りに。すべては聖書の言う通りに。すべては神のお告げのままに。

そんなもん知ったこっちゃないですよ。僕はアニメが見たいんです。僕は友達と遊びたいんです。

それでも訪れる集会のとき。子供にとって2時間の拘束は本当に苦痛です。退屈そのものです。

僕はその場所へ行くのが嫌だった。僕はその場所が嫌いだった。僕は集会のある曜日が憂鬱だった。

次に僕が取った行動は「逃げること」でした。

仮病を使い、口実を考え、相手が折れるまで粘り、言い訳をし、逃げる。

嫌なものからは逃げて当然です。ましてや子供ですよ?

それでも僕は逃げられませんでした。

なぜかというと「親には従順に従うこと」と生まれたときから頭に刷り込まれていたからです。親の言うことは絶対です。

間違ったことをすると尻を叩かれました。今時尻ですよ、尻。Siriだってびっくりです。「尻は嫌だ」というと頬をぶたれました。

僕はそれが嫌で常に親の顔色ばかりうかがってました。

「これはやっても平気かな?」「この友達となら遊んでいいかな?」「この場所になら行ってもいいかな?」「この映画なら観てもいいかな?」「この漫画なら買ってもいいかな?」

それらの行動を続けた子供はどうなるか分かりますか?

人の顔色をうかがうことでしか生きられなくなるんです。人からOKサインが出ないと動けなくなるんです。

自分の心をも騙し、自分にも他の人にも嘘をつき、言葉巧みに騙す。

これらの行動は聖書ではタブーとされていることです。嘘をつくことも、騙すことも。

それでも僕にはその選択肢しかなかったんです。僕の心に浮かぶ「やりたいこと」を隠し、親が喜ぶ行動と考え方をしなければならなかったんです。

小学校のときの僕は「裏表」を巧みに使い分けていた

小学生の僕は「逃げること」を諦め、「我慢すること」に重きをおきました。

「何を言っても、何をしても僕はこの生活から逃れられることはできないんだ」と悟ったんです。

時には真面目に聖書を勉強していた時期もあります。子供のときからそういった環境に置かれていたおかげか、忍耐力も集中力もありました。

ことあるごとに「集会に行かなくていい理由」を探し、言い訳を考え、口実を考えていたんです。

そりゃ話し上手にもなりますよ。「いかに相手を説得するか?」「どうすれば相手が先に折れるか?」を常に考えていたわけですからね。しかも相手は大人で僕はまだ子供ですし。

僕はそういった宗教に染まった生活のストレスを学校生活で発散していました。

話も上手いし、先生にいい顔するのも得意だし、学力はトップ、おまけに運動神経も良かったです。

「なぜ僕がこんな目にあわなくちゃいけないんだ?」「なぜ僕だけが苦しい思いをしなきゃならないんだ?」

僕の精神は歪んでました。

歪みに歪んでました。

世界を呪い、生まれ落ちた環境を呪い、親を呪い、宗教を呪い、自分を呪いました。

その鬱憤を晴らすために、毎日毎日学校でケンカ三昧。相手を挑発し殴りかかってきたところを返り討ちにして、正当防衛を主張し、「仕方なくして暴れた生徒を取り抑えた」という見方に持っていったのです。

裏で工作し、友人をハメ、周りから疎外されるように働いたことさえあります。

学校からの帰り道に「どれだけの件数をバレずにピンポンダッシュできるか?」を悪友と競い合ったり、橋の上から石を落として車に当てたり、駐車場に停めてある車のタイヤをパンクさせたり、毎日のように悪いことをしていました。

聖書の教えを学びながら、それらすべてに反する行動をしていたのです。自分でも最低の人間だったと思います。

それでも通信簿に書かれる言葉は「成績優秀。リーダシップがある。誰にでも分け隔てなく接することができる」でした。

もうね、バカかと。お前たちの目は節穴かと。

しかしそんな行動で僕の生活が変わることもなく、小学校卒業を間近に控えた時期にも集会通いは続いていました。

中学校に上がるのが待ち遠しかった

僕は中学校に上がるのが待ち遠しかったです。その理由は「部活がある」から。

別にやりたい部活も好きなこともありませんでした。

「どうせ自分のやりたいことは批判されるに決まってる」と思い続けてきた結果、自分の好きなことが分からなくなってしまっていたのです。

自分の本当の声が聞こえなくなってしまっていたのです。

それでも部活に入ることを心待ちにしていたのにはワケがあります。

集会に行かなくて済む。

たったこれだけでした。集会に行かなくて済むためにはそれなりのちゃんとした口実が必要でした。

そこで「部活」です。

部活にさえ入っていればそれを口実にして集会に行かなくて済むんじゃないだろうか、と僕は考えたわけです。

結果的に大成功でした。部活から帰ってきて「疲れた」と一言言えば集会に行かなくて済んだのです。

僕は、好きでもない集会に行かなくて済むように好きでもない部活に入ることにしたんです。

そして訪れる僕の終焉

中学校は小学校からそのまま上がってくるシステムなので、周りの友達は僕の本当の姿を知っているわけです。

力と能力で人をコントロールし、言葉巧みに人を騙し、目上の人には良い顔をする人間だ」とね。

聖書から言葉を借りるとするならば、僕は「悪魔サタン」のような人間でした。

面白いですよね。生まれたときから神の教えを学び、敬虔な信者と思われている僕が本当は「悪魔サタン」のような人間だなんて。

本当の姿を知っている友達たちは僕から離れていきました。中学校に上がった僕はすっかりイジメの対象になっていたのです。

すべては僕の行動や態度が原因です。ただでさえ「変な宗教信者の家の子供」なんてレッテルがあるわけですから、皆が僕に対して抱く嫌悪感は必然です。

結果的に僕の中学校の3年間は真っ黒でドロドロした恥ずべき歴史になってしまったのです。

それでも僕はイジメにあったことに感謝してます。

あのとき何も起きず、中学校でも小学校のときと同じような生活を送っていたとしたら僕は本当にクズ人間になっていたかもしれません。

イジメの一件で僕は生まれ変わりました。心の底から人に優しく接するようになりました。

イジメで僕の精神はさらに歪んだ

でも変わらないこともあります。

それは「人の顔色を伺うこと」「本当の自分の声が聞こえない」ということです。

誰にでも優しくできるようにはなったものの、それが本当に僕自身の選択なのか、聖書による行動なのかわからなくなってしまったのです。

いま僕の口から出ている言葉は本気で相手を想ってのものなのか、それとも自分の立場を優位に立たせるためだけの言葉なのか、誰かから評価されるためだけの言葉なのか。

本当の自分の声がまったく聞こえないんです。何をしても楽しいと思わないし、何を食べても美味いと思いません。

意識せずとも相手が喜ぶ言葉を理解できてしまっているんです。相手が喜ぶ態度も理解できる。どこでどういう言葉を投げかければ物事が上手くいくかってことが何となく分かる。

本当の僕は檻に閉じ込められ、聖書から得た善悪の知識だけがぶらぶらと彷徨っているだけなのです。

誰にでも優しくできるけど本当の僕じゃない。人間味がない。生きている感じがしない。

僕はまっすぐ歪んでしまったのです。

高校入学後は晴れて呪縛から解き放たれる

最悪の中学校生活を終え、無事に高校へ進学した僕はこの場所で生まれ変わることを決意しました。

「自分の好きなことをして、自分のやりたいことをして、自分の行きたい場所に行く」。

子供の頃にできなかった分をここで取り戻そうとしたんです。

自由の身になった僕は抑え付けられていたすべてが吹き出し、高校生活ではやりたい放題でした。

髪を染め、タバコを吸い、酒を飲み、ピアスを開け、非行に走る。おまけにその高校は地元でも有名なヤンキー高校だったので、僕の生活はおかしな方向へまっすぐ進みだしてしまったのです。

もちろんこうなると親にも知れます。タバコの匂いはするし、学校からは電話がかかってくるし、髪も染めるし、おまけにバンド活動なんて始めた、とね。

僕からすると昔からこうだっただけなんですけど、ただ親が知らなかっただけなんです。

僕が自分のことを良い子ちゃんに見せてただけのこと。真面目で優等生を演じてただけのこと。

このときの親のショックさと言ったら半端ないと思います。「生まれたときから正しいことを学んでいるはずなのにどうしてこうなってしまったのだろう?」って。

でも僕はそれでよかったと思ってます。

聖書の教えは確かに得ておいて損はありません。一般人よりそういった知識があるのも今では自信になってますし。

それでも僕は自分の声がこのまま聞こえないのは嫌だったんです。このまま機械のように人間性を失ったまま生きていくのは嫌だったんです。

「このままじゃ善悪の判断ができるだけの機械じゃないか」って。

何が悪い、何が良いってことを教えるだけでは子供はまっすぐ育ちません。「なぜダメなのか?」「なぜその行動が良いのか?」ってことをちゃんと教えないと僕のようになります。

人間性が抜け落ちて、ただの善悪判断マシーンが出来上がるだけです。「神の教えのもとに育っているから大丈夫」だなんて思わないほうが良いです。

一人ひとりに自由意志はあるわけで、子供にだって心の声はあります。

僕は「神を信じていない」と親に告げた

このまま宗教からフェードアウトしようとも考えてました。度重なる不祥事に、親との関係を最悪なものになっていましたし、あのときの僕にならフェードアウトも可能でした。

でも僕はちゃんと言うことにしたんです。「僕は神を信じてないよ」って。

「聖書の教えは素晴らしいし、どれも模範にすべきことだと思う。それでも僕は神を信じていない。だから集会にも行かない。僕は自分の声を大切にしたいし、これからも自分の好きなように生きたい」って。

僕はこれだけの言葉で親が納得するとは思ってませんでした。だからこれに一手間加えたんです。

僕の想いに「聖書の言葉」をプラスしたわけです。ちょっと卑怯だけど、こうでもしないと親は納得しないから。

聖書の一節を引用し、「この一節ではこう言ってるよね? だから僕もそうするんだ」というように。聖書の教えに合致と僕の言動が一致していれば僕の言葉も説得力を増します。

生まれてから聖書に入り浸っていた僕だけができる説得方法です。

これによって、僕は晴れて自由の身になったわけでございます。

でも僕は母を責めることはできません。

そもそも僕の母が宗教にハマるようになったのは僕の兄が亡くなってからでしたからね。

10年経った今でも消えない苦悩

宗教から離れて10年ほどが経ちますが、その教えとかつての生活は未だに僕の心を苦しめ続けてます。

集会に通っていた曜日になると今でも少し胸がキュッとなりますし、宗教三昧の生活を思い出すと少し息が苦しくなります。「普通の暮らしをしていたらどうだったろう?」と考えることも何度もあります。

世の中にあるイベントごとには「宗教上の理由で」一切行ったことがなかったですし、今でも本当の自分の声がどれか分かりません。

裏表を使い分けているつもりはないのに「二面性がある人間」と見られ、ことあるごとに悪者扱いにされ、本当の自分の声を知らないからうわべだけの人間関係になってしまうのです。

すべて宗教が悪いというわけじゃないけれど、僕の心を作ったのは宗教だと思ってます。

変にまっすぐなところも、変に真面目なところも、変に勘がいいのも、変に気を遣ってしまうのも、変に勘ぐってしまうのも、少なからず宗教が関係していると思ってます。

人と関わるよりも、こうしてブログを書いている方が気楽で自分に正直になれる気がするんです。

今は僕の心の治療期間

僕は宗教に別れを告げてから好きなように生きてきました。

バンドをやったり、死ぬほど酒を飲んだり、ちょっと悪そうな友達と遊んだり、好きな人と付き合ったり、楽しいこともバカなこともたくさんしてきました。

今は自転車で日本一周をするためにリゾートバイトでお金を稼ぎに来てます。こうして1年以上にわたって好き勝手にブログも書いてます。

そのおかげか、だいぶ僕の心は落ち着いてきました。集会に行かなくてもいいし、宗教のことを考えずに映画も観れるし、漫画も読めます。

聖書の教えを気にせずに自分の好きなことができますし、行動することもできるし、好きな服を着ることもできます。

今は「僕の心の治療期間」です。

良かったことももちろんありますが、宗教が僕の心に与えたダメージが相当大きいです。

おそらくこの心の内を親が知ったら卒倒してしまうでしょう。でも正しい教えを学んできた僕が出した答えなのだから間違いはないです。

どれだけ逃げても、どれだけ隠しても、聖書から学んだことは僕の心から消えることはありません。

赤ちゃんの頃から10数年にわたって刷り込まれた教えは、薄まることはあっても必ずまた顔を出してきます。

もし誰かと結婚するとしても「信者以外の人」とは結婚しづらいという問題があります。

これも本当に馬鹿馬鹿しいので、そのうち無宗教のロシア人でも連れてこうかなって思ってます。

果たして神は存在するのか?

神が本当にいるならば、なぜ神の教えを学んでいた僕がこれほどまで辛い思いをしなかればならないのでしょう?

なぜ僕の大切な友人をこの世から連れ去ってしまうのでしょう?

確かに神のような存在はいてもおかしくはないと僕は思ってます。

川も山も海も空も虫も動物も宇宙も人も。偶然だけでできたとは思えないほど緻密で美しいです。

聖書を学んでいたことがあるから神を信じているわけでは決してなくて、これは「僕は神を信じていないんだ」と宗教から離れてから思ったことです。

この世のすべては、すべてが精密にプログラミングされていて、どれもが絶妙に噛み合ってます。

もし仮にこの世界を設計したプログラマーがいるとするならばそれが「神」という存在なのでしょう。もしいるんなら一度お会いしたい。

神に会えたらそのときはまた記事にしますね。

まとめ

以上、『とある宗教信者の家に生まれた僕の苦悩を包み隠さず話そうと思う』でした。

僕がこの体験を急に話そうと思ったのかというと、すべてはブログのおかげ。

僕はこれまで悩みとか考えとかコンプレックスをブログに書き綴ってきました。

書くことで僕は救われていたんです。自分の心の本当の声を探していた。

そのカケラみたいなものを文字にすると不思議と心が軽くなっていくのが分かったんです。

だからこの僕の最大のコンプレックスも文字にすることで、記事にすることで何か変わるんじゃないかと思ったわけです。

親友にも恋人にも話したことはなかったですからね。

話したら少しスッキリしました。

ありがとう、ブログ。

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