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AIが人の仕事を奪ったら、人は「間違える」ことが仕事になる──ポスト資本主義時代の起業術

AIが普及するにつれ、私たちの仕事を少しづつ侵食していくのは間違いない。ただ、それが不幸なことかどうかは別の話だ。なぜなら、人工知能の普及によって私たちの仕事の意味が、むしろつまびらかになるからである。

文: 竹田茂

本稿はポスト資本主義時代の起業術を伝えるメディア『42/54』の提供記事です。

過去に自分がしてきた行為・仕事・創作活動、あるいは思考や発言などは、多くの場合、「若気の至り」に満ち溢れた大言壮語だったりする。すでに十分、大人(?)なはずの筆者でさえ今これを書いている自分を数年後の自分が観察したら、つまらない駄文書きやがったな、と感じるだろう。未来の自分が観察する現在の自分は、常に恥ずかしくて間違っている。私たちは、死ぬまで間違い続ける存在なのかもしれない。少なくとも筆者自身は、間違いなく間違い続けるだろう。

20年以上勤務した会社を離れて会社を作るという判断は本当に正しいのか、辞めて後悔しないのか、などと自問自答していた42歳の頃の筆者も、今となっては過去の存在である。些細なことで悩んでいた過去の自分は愛おしくもあり懐かしくもあるが、統合失調症の権威でもある東京都医学総合研究所 病院等連携研究センター長の糸川昌成氏によれば、人間の脳にダメージを与えやすいのは「反省と後悔」だという。

脳に報酬を与えたい場合は、その行動の後に気持ちよくなることだけに専念するのが正しいらしい。すでに動かすことのできない過去の出来事について、あれこれ悩んだり反省したりするという行為が無意味・無価値なのは、実感としても理解できる。

人工知能は人の仕事を奪うか?

さて、人工知能による仕事剥奪論争は相変わらず引きも切らないが、ここはひとつ冷静になって、そもそも人工知能は何をやっているのかを考えてみよう。人工知能とは、

「十分に大量なデータを十分に高速なコンピュータに食わせ、論理・統計・確率のいずれか、もしくはすべてに関連した演算を多重的に駆使することで、ある状況における最適解を一つだけ見つけること」

と定義してもさほど間違いではなかろう。そのような処理で済むオペレーションは、人がやるよりもコンピュータの方が正確でしかも安上がりなので、該当する仕事に従事している人がその職を失う可能性は高い。

ただ実際にはある特定の職種、例えば長距離ドライバー、ホテルの受付、銀行の融資担当、スーパーのレジなどが、突然消えるというよりも、私たちの仕事の一部を人工知能が代替し始め、ある程度の時間をかけてその領域を広げていくと考えるほうが現実的だ。もっとも、この「ある程度の時間」が人間の皮膚感覚を超えるスピードで押し寄せてくるのがデジタルテクノロジーの怖いところではある。

さて、浮いた時間を私たちは別のことに使い始め、気がついたら全く別の仕事で禄を食んでいる自分を発見するだろう。その時「あの頃の“人工知能で仕事がなくなる騒動”は一体何だったのだろう」と今を振り返ることになるはずだ。

今の仕事がなくなれば別の仕事でメシを食うだけの話と考えれば、人工知能が遠因だろうとそうでなかろうと、零細企業なら普段からやっていることの延長に過ぎない。起業時にイメージしていたことと全く違うことを生業としている我々にしてみれば、予想しなかったことでメシを食うのは当たり前なのである。

間違うことが、仕事になる

先日、ソニーCSL(コンピュータサイエンス研究所)の北野宏明所長とこのような話をしていた時に、「そんな状況に追い込まれた人間は一体何をするのか」という筆者からの問いかけに対し「おそらく、“間違うことそれ自体“が仕事になるのではないか」と答えてくれた(この時のインタビューは『自動運転の論点』で近々公開の予定)。

ここで彼が言うところの「間違い」という言葉は、普段私たちが使っている同じ言葉の語感からは相当かけ離れていることに留意してほしい。現在のコンピュータが最も苦手なのは「適度に間違うこと」で、そこにこそ人間のクリエイティビティの源泉があると言ってもいい。芸術分野がわかりやすいサンプルだ。

例えば、ある巨匠の絵画を模倣するところから絵の勉強を始めたとしよう。完全な模倣ならコンピューターに任せた方がいい。人の場合は完全な模倣を試みても、必ずどこかに歪みのようなものが少なからず生じるはずで、意図せず適度に間違えることになる。ただ、その間違いに自分らしさを発見する。

当然、そのクリエイティビティは論理的な演算から導き出されたわけではなく、本人の意思とも無関係な偶然の産物である。そしてそれを産み出した本人自身が事後的にそれを自分の個性だと感じ、武器として実装し、オリジナリティ溢れる作品を展開していく、そのようなきっかけになる可能性が高い。

あるいは「エベレストに登ってみたい」という気持ちも、おそらくは間違いである。この場合、登頂に成功したか失敗したかはどうでもよい(前述の脳の報酬系のことを考えると成功した方がよい可能性は高い)。エベレストに登ろうという思い自体がそもそも間違っていて、それこそが人間らしい「仕事」なのである。

人工知能がどんなに発達しても、おそらく無理だろうと思われているのが意味(semantics)の理解である。その行為や結果にどんな意味があるのかを人工知能は考えることができない。したがってコンピュータは自発的にエベレストに登ろうとはしないだろう。

何しろ人の仕事が「間違えること」だったりするくらいだから、自分でも根拠の希薄な「好き」という気持ちだけで実行した「間違い」の意味をコンピュータに解読させるのは困難だろうし、私たちは私たちで、適度に間違えるコンピュータなど恐ろしくて使いたくないはずである。つまり、適度に間違えることこそ、人がやるべきことなのだ。

誰からも頼まれていないのに会社を作ったり、あるいは誰にも指示されていないのに転職してみたり、そして誰にも強制されていないのに一つの会社にしがみついてみたり、というすべてのことが間違いの結果としての産物なのである。

「間違い」と「遊び」

この「間違える」という行為と「遊ぶ」という行為には、同じような無用性がある。むしろ、この二つの言葉は同じ意味と言ってもいいくらいだ。

遊びについてはロジェ・カイヨワの『遊びと人間』という名著(原作『Les jeux et les hommes』は1958年発表)を是非参照してほしい。彼によれば、遊びとは「自由で、隔離され、未確定で、かつ規則性があり、非生産的な虚構」であり、「競争、偶然、模擬、眩暈(めまい)」という4分類ができるとしている。

間違いだらけの遊びという行為が、そのまま仕事の定義になっても何ら不思議ではないことに気がついた方も多いのではないか。ただし、意味不明な間違いという行為がたまに「イノベーション」として礼賛されることもあるのが厄介なところでもある。

シュンペーターが言うところのイノベーションは、「従来とは異なる形での新しい結合」のことを言う。簡単に言えば予想しなかった要素が結合することで、従来には存在しなかった意味を発生させ、市場ができることを指す。これが日本語では「技術革新」と翻訳されたことで誤解を招いているようだが、シュンペーターの定義自体もイノベーションのすべてをカバーしているようには思えない。

確かに、新幹線の京都への到着が10分早くなったり、スマホが少し軽くなったり、コンピューターの処理速度が早くなったり、髭剃りの切れ味が鋭くなったり、というようなことは一般にはイノベーションだとは認識されない。現在の価値の延長上にある機能強化に過ぎず、原理を変更しているわけではないからだ。

しかし、現在価値の強化がイノベーションではない、と決めつけるのは早計だろう。東京から京都へ30分程度で到着するようになったとしたら、いろいろな意味で私たちの生活に大きな影響を与える可能性があるだろうし、機能を限定(新結合というよりはむしろ引き算である)することでライフスタイルを劇的に変えてしまった「ウォークマン」(1979年に初代発売)のようなケースもある。

台所用品でさえ100g軽いだけで世界観が変わることがある。速さ、軽さ、薄さ、堅牢性などは、ある閾値を超えるとそのものが持っていた性質が変質することがあるのだ。これは(「“品質が高い”とは何を指すのか」でも書いたが)創発特性という物質や社会が持つ性質による。ある性質を持っている物質や生物の振る舞いは、それが集まる数によって個々の性質が変容してしまうことがよく知られている。

クルマのデザインでも、空気抵抗(Cd値)にこだわるデザイナーは多いが、普通のドライバーが空気抵抗を問題にするようなスピードを出すことはない。下手をするとその場で逮捕される。しかし、当のデザイナーにしてみればそんなことはどうでもよくて、とにかく抵抗を減らしてみて、そしてある閾値を超えた時に「何か別のものが見えてくる可能性」を信じているのだと思う。行為としては間違っているのだが、クリエイティビティの源泉というのは案外そういうところにあるのではないか。

社会的コストを劇的に下げるイノベーション

アイデアひとつで世の中の原理をガラッと変えてしまうのは確かにスマートでカッコいいが、実際のイノベーションは、日々延々と同じことを繰り返していく中で、ちょっと手が滑った時、つまり間違えたときに発見・発明されることが多いようにも思う。

また、イノベーションは市場に受け入れられて初めてイノベーションとして評価される、という言い方をする経営学の学者も多い。つまり儲かってナンボじゃないとイノベーションではない、ということらしいが、これからのイノベーションに求められているのは儲かるかどうかではなく、社会的コストを桁違いに下げるものになるはずだ。

資本自体が小さくてもその中身(カロリー)が濃厚なもの、をイメージしていただきたい。そのような意味において自然資本(大気、水、森林、河川、海岸・海洋、土壌、地熱その他)、社会資本(道路、交通機関、上下水道、電力、ガス、など)、制度資本(教育、医療・健康、金融、司法、行政、など)、そして関係資本(人的関係資本。家族・親友といった人間関係)を根底から組み替えていくような技術や制度設計の刷新をイノベーションと呼ぶようになるだろう。

参考文献

  • 『科学者が脳と心をつなぐとき』 糸川昌成(2016) 認定NPO法人地域精神保健福祉機構; 初版版
  • 『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ、多田道太郎・塚崎幹夫訳(1990) 講談社学術文庫
  • 『社会的共通資本』宇沢弘文(2000) 岩波書店
本稿はポスト資本主義時代の起業術を伝えるメディア『42/54』の提供記事です。

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