読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

猫になりたい

将来の夢は猫になることです。


[広告]

【一周年記念】生い立ちを嘘で塗り固めます

2016年2月11日、ブログを開設しました。1年はあっという間でした。

 

ブログのおかげで色々な方と出会えるきっかけになりました。勢いで始めたのに、自分でも思っていた以上でした。いつも読んでくださっている方々に改めて御礼申し上げます。

 

今年に入ってから、インフルエンザになったり、日本舞踊の舞台があったり、本業では異動の話が出たり、副業が一段落したり、大学では本格的に卒論に取り組んだり、家中の物を捨てたくなる断捨離欲が高まったりと色々ありました。そのせいか、考えることが多すぎてブログを書く余裕がありませんでした。という言い訳です。

 

さて、一周年といういい機会なので、今まであまり語ってこなかった生い立ちについて嘘で語ろうと思います。今から書くことはほぼ嘘です。たまに本当のことも書きますが、基本的に嘘です。嘘で塗り固めます。

 

父と母の出会い

今まで言っていませんでしたが、父はアラブ人です。父の父、つまり私の祖父は石油王です。祖父は新たな油田を探して来いと父に言いつけました。父は油田を探すために世界各国を旅し、最後に北海道を訪れました。父は日本の文化と北海道の自然に惹かれ、数週間ほど滞在していたそうです。

 

父が札幌市の川沿いを歩いていると、川の中で大量の鮭を素手で捕獲している女性を見つけました。彼女は産卵のために川を遡上する鮭を捕まえてはバケツに放り込んでいました。イクラが大好物だったのだそうです。

 

それが父と母の出会いです。残念ながら油田は見つけられませんでしたが、父は北海道で母と鮭とイクラを見つけたのです。

 

結婚、そして子供たち

北海道で出会った父と母。父はアラブの石油王の息子であり、いつかは祖父の後を継いで石油王となる身です。しかし、父は母と日本で暮らす道を選びました。祖父は父を勘当しました。父はそれでも日本に残ったのです。

 

父は生活費を稼ぐためにありとあらゆる仕事をしました。工事現場、ウェイター、刺身の上にタンポポを乗せる、などなど、精一杯働いたそうです。

 

やがて二人は結婚し、最初の子供を授かります。それが私の兄です。ある日、母は町に買い物へ行った帰りに突然産気づき、通りがかった馬小屋で兄を出産します。兄が生まれたのは深夜でした。兄が生まれた瞬間、真っ暗な馬小屋の中に輝くような光が見えたそうです。

 

兄はすくすくと成長しましたが、ハーフ故に近所の友達からいじめられていたようです。兄は十字架を背負わされて小高い丘を上がるという、壮絶ないじめを受けたそうです。結局、いじめっ子のお母さんが駆けつけ、いじめっ子をビンタしていじめは止んだとのことです。

 

父の日本語が上達し、生活も楽になってきたころのこと。姉が生まれました。その頃、父は証券会社に勤めていました。父は才能があったようで、株を転がして生活していたそうです。

 

しかし、仕事が忙しくて父と母はすれ違いの日々。ある日、父と母が大喧嘩をしたそうです。母は書置きを残して岩戸に閉じこもってしまいました。父がどんなに謝っても母は出て来てくれません。見かねた姉が岩戸に前に父と兄を呼び、面白い動きをしたそうです。笑い転げる父と兄の声が気になった母は、岩戸をそっと開けて外の様子を窺い始めました。姉はその瞬間を見逃しませんでした。母を引きずり出して仲直りすることができたそうです。

 

私の子供時代

そんな機転が利く姉が生まれてから数年後、私が生まれました。私が生まれた頃、父は40歳を超えていました。年を取ってからの子供だったからか、父はかわいがってくれました。目に入れても痛くないほどかわいい!と言いながら、目に入れて痛がっていたそうです。

 

父とは週末になるとよく二人で遊びに行きました。遊園地へ行った時は父をだまして回転するジェットコースターに乗せて寿命を縮めてみたり、動物園に行った時は虎を猫じゃらしでじゃらして手懐けようとしていました。そんな私を見かねて父は金魚を大量に買ってくれました。しかし、水槽の水を変えたら1週間で全滅してしまい、二度とその水槽が使われなかったと記憶しています。

 

中~高校時代

そんな調子で育てられ、末っ子ならではの自由奔放な子に育ちました。小さな頃からピアノやドラムなどを習わせてもらい、音楽に慣れ親しんで来ました。母はクラシックが好きで、特にカラヤンが大好きでした。一度、母が書置きを残して一週間ほどいなくなったことがありましたが、カラヤンのおっかけをしに、ベルリンまで行っていたそうです。

 

そんな母の影響もあってか、中学生になった頃には自分で曲を作っては駅前で歌っていました。友達はあまり理解してくれませんでしたが、家族だけは味方でした。駅前で歌う時、瞼の上に目を書いてみたり、白いバッグに落書きをしてみたり、全身を生肉で覆ってみたり、髪の毛と腋毛をエメラルドグリーンにしてみたり、と自由にさせてくれました。

 

そんな自由奔放な私でしたが、父や母に怒られた記憶はほとんどありません。私はそんなにいい子ではなかったので、父と母が出来た人間だったのでしょう。もしくは諦められていたのかもしれません。

 

そんな感じで自由奔放に次の一年も嘘で塗り固めていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。