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こちら孤島のまどからお便りしています

円野まどの恥の多い日々の記録

私をバカというお父さんが、いやだった

〒 みなさま

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電車でバレンタインってもう古いよねうけるみたいな話が聞こえてきて、衝撃を受けている円野まどですこんにちは・・・!

私は買っていないのですが冷蔵庫にたまにはんぺんが入っています。

先週、誰がいれているのかなあと思いながら食べました。そしたらまた今日はんぺんが入っていました・・・。風邪で熱があったので料理ができず、どうしてもおなかがすいて食べてしまったことは冷蔵庫の中に付箋を貼って一言謝罪を残しておいたのですが、その紙はなくなっていました。

家に3人くらいしか出入りしないのに、なんだかちょっと楽しいことになっています。

直接聞け!と思われた方、申し訳ありません・・・。そのうち聞いてみます・・・!

それでは今日は大学生の時の思い出を話したいと思います。

長いので読まないでも全然大丈夫ですよ!最近時々コメントで雑談を書いてくださる方がいてそれがとてもうれしいですから(`・v・´)

*大学生のころのこと

 

私は大学生の時、起きているときはバイトをしているか学校にいることが殆どでした。

また別な時に詳しく話そうと考えて居るのでざっくりと話すと、私は父の望まない進路へ進み、そしてそのことで家を出て一人暮らしをしていました。

受験をするときも合格する時も色んな摩擦がありました。

お前なんかが受かるわけがない、身の程知らずめ口を開くなと叫ぶ父親の前で姉が私の耳をふさぎ、受験料を渡して遠ざけました。

こう書くと強権的な父親に聞こえてしまうと思うのですが、表現の不器用な人で私がそれを真に受けてしまっていただけなんです。愚かなのは私のほうでした。

母と姉の説得で父は私の学生生活の半分を出してくれていました。望めば多分、全額出してくれたと思います。ただその頃私は、自分がいないほうが家族のためになるということに拘っていて、生活費は自分で捻出すると申し出たのです。

大学はその時、生きてきた中で一番楽しいのではないかと思いました。

相変わらず誰かと親しくなるということは殆どしなかったのですが、大学では色々なことを好きなだけ知ろうとしてもいいということに衝撃を受けました。

それでなくても嫌われていたので、何か目立ったことをしないようにずっと密かになりたいと思っていたのにここでは人がたくさんいて、何をしても「密か」です。

自分で勝手に作った枷が外れるといいますか、自分がやってみたかったことが膨れ上がるように目の前に下りてきました。

ただ人が歩いているのを見るだけで楽しく、私は好きな本を選び、特定の書店を愛し、建物のひび割れに歴史を感じて時間をすごしたり、それまで隠れて行っていたすべての好きなことを当たり前に行うことができるようになりました。

誰かに監視をされず、批判の的にならない生活があることを知りました。

世界中がありとあらゆるきれいなもので埋め尽くされているように感じ、私は朝起きて夜中に帰宅して、へとへとになっても、ただ静かに好きな絵を抱きしめて眠れるだけで何もかも満ちた気持ちになりました。

食事は多分、二日に一度くらいでした。食費に困っていたわけではないのですが食欲があまりわきませんでした。生活の情報量で充足していたのかもしれません。

飲み物をのむだけでおなかがいっぱいになり、たまにロイヤルホストというファミレスでヨーグルトジャーマニーを食べていました。

特に問題があったのは試験前でした。私は、学ぶことは好きなのですが「その時学びたいこと」を勉強するのが好きで、試験となると必修科目として取り組み難い話も当然入ってくるわけです。試験はともかく、レポートが問題でした。理解をしていたとしても相当量の文章を書いて提出しなくてはいけないのです。つまり、相応の時間を作らなくてはいけないです。

私はわりと妄想に時間が割かれる上に自分にすこぶる甘く、自宅でレポート制作を行うのは困難の極みと申しますか、実現不可能でした。

そういうことで、大学にある宿泊を推奨はしていませんが、24時間使えるPCルームに篭ることにしました。なぜもっと早くから行わなかったのだろうということを卒業まで考えるだらしのない人間でしたが、本当にお世話になりました。

ある時、またレポートをしようとPCルームに向かっていますと「次の日の朝、空いている時間があればバイトに入ってほしい」と言われました。普段とても融通をきかせていただいている分、了解をして私はよーし早くレポート終わらせるぞ!と入室しました。

その時点で18時だったのですが、私はただひたすらテトリスをしてしまい20時になりました。

そして1時間レポートをしたあと、今度はヤフーニュースをざっと読むという暴挙にでました。そしてその後またテトリスをしました。・・・私のダメ人間ぶりが書き起こしている今も胸が痛いですが、とにかくレポートが終わったのは深夜2時でした。

お風呂に入らないのはありえないと思った私は、タクシーで帰宅することにしました。

学生の身分でと不愉快に思われる方がいましたら申し訳ありません。普段ほとんど食べないので、お金自体はもっていました・・・。自宅は新宿の近くにありました。

タクシーはすぐにお願いでき、「(最寄り駅名)に帰りたいので、とりあえず新宿までお願いします。」とお伝えしました。

私はからだが弱いので、子供の頃から救急の場合タクシーに乗ることがたびたびあります。実家にいる時は突然調子が悪くなった時のために、タクシー用のお金を持たされていました。

やはり10代の時は、若いのにタクシーに乗って傲慢な人だと思われないかなということがちょっと気がかりでした。大学生になって、多少大人に見えるようになって緩和されているといいな、とその時も考えていました。

そわそわしていると運転手の方が話しかけてきました。40-50代くらいの男性です。

運転手さん「大学生だよね、遅いねえ、大変だね。」

私「あはは・・・レポートが終わらなくて。」

大学のすぐ傍から乗ったので、そこの学生であることは分かったのだと思います。

大変だねえとなんどもなんども頷いておられました。

運転手さん「でも東京でこんなに遅くなったらお父さんも心配だね?」

と仰られました。心配・・・と怒りで暴れる父を想像しました。なんとなく、なるほど・・・とその時感じるところがありました。

私「そうですね、こんなに遅い日はないようにしたいです。」

運転手さん「うん。それがいいね、色んな人がいるからね。って乗っていただいてるのにごめんね。」

私「いやいや、ありがとうございます。」

運転手さん「私ねえ、地方出身なんですよ。東北のほう、そこに娘と妻がいてね。やっぱりあんな田舎でも、娘のことが心配なんだよね。」

そういって、信号待ちのときお嬢さんの写真を見せてくださいました。

私「そうだったのですか。」

地方ではお仕事の求人がなくて、単身赴任のように東京で働く方がいらっしゃると聞いたことがありました。この方もそうなのかな、一緒に暮らしたいだろうなあと考えていますと運転手さんは続けていいました。

運転手さん「何でこんなんなっちゃったんですかねえ。娘が生まれて、3人で仲良く暮らせると思っていたのに。」

それは絞るような声でした。カチカチと計器の音がする車内に充満するみたいな言葉です。

私「それでも働いていらっしゃるのですから、立派です。ご家族のためですよね。」

今だったら何も言えないのですが、その時はわかったように物をいうことが恥ずかしげもなく出来たのでどーんとお返事ができました。その方を一瞬でもお慰めしたくてかけた言葉でしたが、私は自分で言っておいて父のことを思い出しました。

父は、いわゆるお堅いといわれる職業をしていて、趣味がゴルフとピアノでしたがゴルフのほうは子供心にまったくささらず、会話が続きませんでした。

ただ働くだけで、優しい言葉をちっともかけてくれない ってどこかで思っていました。けど、ただ働くことってすごくすごく大変なんだ。それも、自分が食べる分だけじゃなくて何人かが普通に幸せになれる分だけ働くのってすっごく大変なんだ、と思いました。なのにわたしは、ありがとうって言ったことがないんだなあと沈黙の流れる車内で考えていました。

運転手の方でいえば、きついことを仰るお客さんもたくさんいるだろうし東京で道をいちから覚えるのはとても大変なことだと思いました。それでも、家族の生活を守る為にこの方は出てきて、いやなこともつらいことも時間をお金に換えて頑張っているんだな、と思いました。タクシーでいいや、と思った自分の金銭感覚を省みました。

運転手さん「ほんのすこしだけ、遠回りをしてもいいですか。」

運転手さんは振り返らずにいいました。道が混んでいて通常のルートが通れないという意味にとった私は、了解しました。その後、30分くらい新宿周辺のお嬢さんを東京に呼べたら見せてあげたいものや、買ってあげたいもののお話をしながら夜中でも明るい街を周回しました。お嬢様のことも奥様のことも、愛していらっしゃるのだなとすごく感じました。メーターは止まっていました。

私の家について降りるとき、運転手さんは鞄からがさがさとパインアメを袋ごとだしてきて、差し出しました。

運転手さん「こんなもの、いらないかもしれないけど、いらなかったら捨てちゃって!ありがとうね、お父さんと仲良くね。」

と仰いました。私はいえ、ありがとうございますと頭を下げて車を降りました。

部屋について、袋のあめを1つ掴もうとすると個包装のあめが少しとけてビニールにひっついてしまってなかなか開けられませんでした。

「あーそっか、夏だから昼間暑いんだ。」

お客さん、待っているときは冷房いれないのかな?あめが溶けちゃってる・・と改めて思ったら私はなんだか涙が出てきてしまいました。

何で泣いたのかわからないけど、なんとなくお父さんが毎日仕事をしていることを思いました。大変だ、大変なんだ。大変だったんだね。

色んな気持ちがこみ上げて、めちゃくちゃに泣きました。

そして朝バイトに向かいながらお父さんに電話をしました。

久々に話した父は最初はお金の無心だと思っていたようでまた先に生活態度について苦言を重ねていましたが、ただ話をするために電話したといったら急にトーンが下がりました。

「なんか辛いことでもあったの?」

ちょっと不安そうな声でした。なんだ、心配してる。してるけどうまくいえないんだな、と思うとまたぼとぼと泣きそうになりました。

「いや、いつもありがとう。」

やっぱり涙がでて声にならなかったのですが、父には突然のことで私がなんか追い詰められていると思ったみたいでものすごく焦っていきました。

どうしてそういうことになったんだ、とはじめてこんなに穏やかに話しているんじゃないかなとくらいやさしくたずねてきたので感動さめやらぬ口調で話し始めました。

「昨日遅くなってタクシーで帰って、運転手さんが少し遠回りして送ってくれたんだけど・・・」

少しの沈黙のあと父は最大級の怒鳴り声で

「ばか者!!何してんだ!バカが!」

と言われました。

訳しますと、何を危ないことをしているんだお前は!知らないおじさんに親切にして勘違いされたり何かに巻き込まれたらどうするんだ!という意味の話がボリュームマックスの声で続くのですが電波の悪いふりをして切ろうか迷うほど怒っていました。

なんとかなだめて電話をきったあと、寝不足だけどなんとなく晴れやかな気持ちで思いました。

「お前は子供の頃から誰でも信用するからいやなんだよ!」

といまいましそうに吐き捨てていることを思い出したら、あははと笑いました。

なんだ、ちゃんと心配してくれていたんだ。と。

そういえば私は人見知りのわりに話しかけられるとうれしくて誰にでもニコニコついていくこどもでした。 

 

それではまたお便りいたします!。

長いお話を聞いてくださってありがとうございました。

 

追伸 

ワコムのかえ芯を送ってくださった方、ツイッターを貼りますのでひそかにでもよいので是非教えてください、お礼をお伝えしたいのです。

 

twitter.com

 

追伸2

普段交流なさっている方の中で、記事をお仕事の1つとして、更新をなさっている方もいらっしゃると思います。やらなくてはいけないことが増えているとき、普段交流があるからとどうかご無理をなさらないでくださいね。書きながら、どなたかの楽しいことやよいこと、らくになれることに繋がれたらいいなと思っています(`・v・´)

 

 

 円野まど

 

 

 

 

 

 

 

 

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