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…… 装う事は儀式に似ている。 愛しいあの男を手に入れるために、指先に祈りを込めて眉を描き、面影を抱いて紅をひく。 村はざわざわと波立っていた。 村によそ者が入り込んでくるなんて、何年ぶりだろう…。男どもは意味もなくイライラと動き回り、女達はあの男の横顔を覗くのに懸命になっている。澱んだ井戸の底に落ちて来た小石。 あの男は誰にも渡さない。村の誰にも…媚びを売るしか脳の無い、金髪の甘ったれた小娘にも。 ああ、あの小娘にはさっさとサヨナラしてもらいましょう。私たちの甘美な時間のために。貴方の腕、美しい顔が苦痛に歪む様…迸る血の色。 やはり包帯を巻いて行きましょう。貴方がいい子で降参したら素顔を見せてあげるわ。貴方は私のもの。 …私たちは笑みを交わし頷きあって、鈍く光るチェーンソーの刃に指を沿わせた。 |
男は眠っている。 沼からの湿った風が、腐臭ととも優しい過去、黒く塗りつぶされた未来を綯い交ぜにして運んでくるようだ。風はいつも血の色をしていた。 野良仕事をしている男の傍らで、妻が赤子に乳を含ませている。そんな優しい光景も確かにあった筈なのに、今はもう思い出せない。 男は眠り続けている。 眼前に広がる凄惨な眺めに心を揺さぶられる事も、もう、ない。 ごく平凡に、ささやかな幸せを掌に握りしめて生きて来た筈だった。 妻の不貞を知ってからも、それはゆるぎないものと信じて来た。閉ざされた村の中で、たとえ後ろ指さされ嘲笑の的になっても、自分の前で貞淑な妻を演じてくれさえすれば男はそれで良かった。満ち足りた想いで子供を抱きしめ、穏やかに微笑みあう。真綿にくるまれた幸せ。 だから、どこからか流れ込んで来た新興宗教の連中にも、興味はなかった。教祖と言うにはあまりにも鋭く、野心をたたえた眼。高圧的な物言いが癇に障ったが、村の皆がそうするから自分も入信した。ただそれだけのことで、代わり映えしない日々がこれから先もずっと緩やかに過ぎて行く筈だった。 何が起きたのか、今でもよく分からない。 ただ、妻の情夫が当然のように笑みを浮かべて男の子供を抱き上げた時、男の中で何かが軋んだ音を立てた。ぎりぎりと軋み続けるそれが男を駆り立て、突き動かし続けた。…何も見えない。 歯車は軋み続けた。記憶の底に刻み込まれたのは…恐怖に見開かれた眼。瞳の中の自分から逃れたくてその眼を潰した。男を責め苛む絶叫を小さな体に押し戻そうとか細い喉に手を伸ばした。 風は唐突に止んだ。 嵐に揺さぶられる大木のように、ただ空気だけが泡立っている。…どうやら客人が着いたらしい。 男はのろのろと半身を起こして、麻袋を手に取った。 眼の部分だけが刳り貫かれたそれは罪人の証だった。自分を責め続けるあの眼から逃れる為の、形ばかりの免罪符。 今日こそ何かが変わるかもしれない。異質な何かを連れて、新しい風が吹き込んで来るのかもしれない。 男は緩慢な仕草で麻袋を被り、妻子の血を含んだチェーンソーに手を伸ばした。 |
彼は謳っていた。 吸い込む度に肺を刺す重い冷気の中で、色褪せてしまった空を夢見ながら…もはや輪郭すら朧げな、かつて愛を囁きあった娘の幻を抱く。 嬌声ともため息ともつかない、声にならない声をあげて彼は謳っていた。 娘は、城へ用足しに出たまま戻らなかった。 戻って来たのは、ただの抜け殻……魂の無い、娘のかたちをしたただの人形だった。くるくるとよく動いていた瞳にもはや彼の姿を映す事は無い。柔らかな頬が甘く輝く事も無い。 するりと彼の腕をすり抜けて、娘は去って行く。彼の背後で何事かを囁きあっている村人達もまた、娘と同じ抜け殻に過ぎなかった。 夜半過ぎ、彼は街へと続く道をひた走っていた。 虚空だけを見つめて謳い続ける娘の手を引き彼は急ぐ。夜露に濡れた道には静寂が広がり、虫の声すら聞こえない。月の光りさえ届かぬ闇に自分の吐く息だけが跳ね返ってくる。通い慣れた筈の道が、今牙を剥いて彼を呑み込もうとしていた。路傍の野良犬が彼に哀し気な眼を向けている。 不意に松明の光が彼の目を照らした。 村人のかたちをした無数の人形が、彼に生気のない眼を向けている。娘は謳い続けている。 どんな夢を見ていたというのだろう。 とうに村は死んでいたというのに、どんな幻想を抱いていたというのだろう。彼にはもう、自分が泣いているのか笑っているのか分からなかった。 そこから先の記憶は無い。 あったとしても、それが何になるというのだろう。…先程から頭の中を無数の死出虫が這い回っているようなむず痒さに襲われている。何度も掻き毟ろうとしては巨大な鍵爪に阻まれていた。 自分の双眸が固く繕われていることを彼は知らない。闇を見つめながら彼は謳っている。 誰が謳っていたかさえ定かでないその歌を。 |
先程まで鋭く大気を引き裂いていた銃声が止んで、私は思わず扉に駆け寄っていた。 かつん、かつん…ゆっくりと、だが力強い靴音が近付いて来る。ここからではまだあのひとの姿が見えない。もどかしくて、早く顔が見たくて、あのひとの名前を叫んでいた。 未だ扉越しのあのひとの端正な横顔に疲労が滲んで見えた。解錠を知らせる電子音が甲高く短く響いて扉が開く。 「よ…よばれてとびでて、じゃじゃじゃじゃ〜ん」 目眩がした。 |
海を見ていた。 夜明け前の溟く凪いだ海は、そのままあの日の出来事に連なっている。過去はいつも甘く香り立って私を誘う。 開け放した窓の桟に凭れ掛かって、今なお溟い海を見ていた。 絶望を見つめていた私を眩しく照らし出した希望のひかり。蒼く澄んだ瞳に孤独を映した美しいけだもの。人でないモノに猟りたてられてもなお、生きる力を四肢に漲らせて私を奮い立たせる。 「よく頑張ったな」そう言って、私を受け止めてくれた。血と硝煙に混じった微かな男の汗の匂いに包まれた時、あのひとは特別な存在になった。 唇の端を歪めて笑うシニカルな仕草、伏眼がちに腕を組んで沈思する癖。その長い睫に触れてみたかった。あのひとは赦してくれそうな気もしたけれど、笑って躱されるのが怖くてやっぱりできなかった。 明けない夜は無い。 そう分かっていても、願わずにいられなかった。…ずっとこのままいられたらいいのに。胎内の化け物を、このまま育て続ければあのひとは傍にいてくれるかも知れない。私が化け物になっても、あのひとは躊躇わずこの胸を貫くでしょう。…でも駄目。やっぱり駄目。心に無数の墓標を抱くあのひとに、これ以上血を流して欲しくなかった。 だから、別れ際に秘密のおねだりをした。もう二度と、本当に二度と人生が交わることはないと知っていたから。単なる親愛の情ではなく、妹に対するそれでもない…大人のキス。 誰かを想いながらでも良かった。だけどあのひとの瞳には私が映っていた。その瞬間だけは、ちゃんと私だけを見つめていてくれた。…気が狂いそう。 私のうなじに触れているあのひとのてのひらが熱かった。 突然仄暗い海を一条の光が差し貫いた。 泡立つ波を押し開いて、朝陽が昇る。容赦の無い輝きが、夜の囁きを打ち消して行く。 あれからどれくらい経ったのだろう。 それなりに歳を重ねて、いくつかの恋も乗り越えた。もう思い出せるのは背中越しに手を振るあのひとの後ろ姿だけ。 …ベッドの上に無造作に放っていた花束を手に取る。昨日届いた、差出し人の無いカサブランカの束。すぐに分かった。相変わらずに気障なひと。 「…bye,Leon…」 最期にあのひとの名前を囁いて、花束を海に投げた。泪と一緒に波間に揺れている。けれどもう、街の喧噪の中にあのひとの影を追う事は無い。 あのひとの幻を脱ぎ捨てて、私は今日、花嫁になる。 |
自分の頸が折れる音を聞いた様な気がした。すでに感覚を失った四肢から、もう微かな腐臭が漂い始めている。頭上の岩盤に幾筋ものぬらぬらとした蛞蝓が這った痕が見えた。 貧しかった。 もともと豊かとは云い難い村の中でも、とりわけ貧しかった。どこからか流れ込んで来たよそ者であった所為かも知れない。集落の中で誰にも顧みられる事は無かった。 それでも父がまだ生きている間はまだ良かった。…呑んだくれのどうしようも無いろくでなしではあったが、母のつっかい棒ぐらいの価値はあった。 母は懸命に働いて一家を養っていた。僅かな金を、父が全て酒に換えてしまっても、ひたすらに働き続けた。 ある日、父は目を剥いたまま道端に転がっていた。酒に呑まれて凍死したらしい。何の感情も沸かなかった。それはそこらに散らばっている石くれぐらいのものにしか思えなかった。 父が死んで、貧しさはより一層酷くなった。今度は母が酒に溺れ、暗く陰鬱な影となって幼い兄妹に寄生した。 やっとの思いで稼いで来た僅かな小銭を、捕食動物の小猾さで毟り取って行く。『木の根を齧り泥水を啜る』暮らしならまだマシな方に思えた。ひとかけらのパンに群がる蟻の様に奪い合い、お互いを貪り尽くした。 妹の屍肉をも喰んだ。 餓えて死んだ妹を、哭きながら貪り食った。そうまでして生き延びようとしている事が惨めだった。 片方の肘掛けが取れ、半分腐った揺り椅子に凭れて母が寝穢く眠りこけている。かつての父がそうだったように。 明確な殺意を持って、蹴倒した。手近に転がっていた木片を掴んで、顔目がけて打ち降ろす…何度も、何度も。そのまま外へ飛び出した。 森には霧雨が立ち込めていた。 ずっと教団で養われていた。『より強くなる』実験に否やは無い。もっとも、それすらどうでも良いことのようにも思えた。 実験後の姿に人々は蒼白になったが、鏡の中の自分には満足していた。忌憚の無いばけもの。自分はとっくに人間であることを辞めていたのだから、この異形の姿こそ相応しい。すでに名前もその意味を失っていた。「U-3」と記号で吐き捨てられる方が余程重大な事の様に思われた。 絶対的な力の象徴であった筈の体が、今融けて無くなろうとしている。他者を圧倒する筈の自分が今こうしてひれ伏している。視界の隅に、獲物だった男の背中が足早に去って行くのが映った。次第に遠く、霞んで行くそれを視ながら、何故か妹の屍の事を思い出していた。 せめて、青空が見たかった。 |
彼女が立っているのを、歓喜と失望が入り交じった複雑な想いで見つめていた。 彼女の肌が月光を弾いて仄白く輝いている。濡れた漆黒の瞳、紅いびろうどの唇。美しく芳醇な香りが、罠を仕掛けて微笑んでいる。…エイダ。永遠の幻となって俺の胸に棲みついた女。 自分が不器用なことは承知している。不用意な言葉をかけるべきでないことも。だが、俺はこの少々長過ぎる夜に疲れ、軽い既視感に襲われていた。 「ふ〜じこちゃ……ぐふッッ」 皆まで言わせず、彼女の裏拳が正確に俺の眉間を捉えていた。 |
きしっとなにかが軋んだ様な気がした。…咄嗟に体をひねった私の髪を掠めて、轟音とともに歪んだ鉄柱が大地を貫いている。見上げるとガラス玉のような無機質な眼で、彼が見下ろしていた。 …クラウザー…。 これみよがしに左腕をかざす。槍とも斧ともつかないブレード状に硬質化しているそれは、一個のいきもののように脈打っていた。 笑い出しそうだった。所詮は只の野良犬。あなたも、私も。狼にはなれない。フックショットを取り出そうとした私に、もの言いたげな視線を投げて来た。 「月にかわって、おしおきよ・(ウインクつき)」 ……やっぱり、死んでもらうわ、クラウザー。 |
もう2度と貴方の前に現れることなど無いと思っていた。私は死人なのだから。今のわたしはただの幻…少なくとも、貴方にとっては。たとえ永く溟い夜に気が狂いそうになっても、想い出の函を開くことなど無いと思っていた。貴方の横顔を垣間みるまでは。 ゆっくりと近付く。気配を殺す様な面倒臭い真似はしない。あなたは気付いているのだから。 しなやかな背中を愛撫する代わりに、冷たい銃口を突き付けた。 「女には手を上げない主義なんだ」 懐かしい声が言う。そうしなければ指先が、唇が震えそうになるから余計に力を込めた。 捩じ上げられた腕をそのままに蹴りあげる。仰け反った躯を戻すより疾く、黒光りする銃をこの手に取り戻すより疾く、ナイフが喉元に突き付けられていた。…鈍く月光を反射している刃先は、あなたの6年分の想い…いいえ、わたしの想い。躯の芯から甘く得体の知れない快感が這い上がって来る。 「…エイダ…」 けれど、サングラスを外したわたしを貴方は幾分哀し気に見返した。訝し気に細められた瞳の奥で、ゆらゆらとわたしが揺れている。憂鬱そうにわたしを見据えたまま歩き回る姿が、檻に入れられた狼の様でわたしを苛立たせた。 …仕方の無いひとね、レオン。そうやって、寂寥を抱いたまま今まで蹲っていたの?疵を舐めて欲しい訳ではないでしょうに。 訥々と話しかけながら、貴方がわたしを推し量ろうとしていた。…応える気も起きない。貴方にはもう分かっている筈。わたしが何を求めているのか。 ちらりと床のサングラスに眼をやる。感傷に流されている時間はもうあまり無い。…今更想い出の中に還れる筈も、無い。 閃光と共に身を翻して、別れを告げた。 …さあ、立ち上がって、わたしの金狼。その牙を剥いて、わたしを愉しませて。急がなくちゃ、お姫様が呼んでいるわ。 バルコニーを飛び越えて、夜の帳の中へ駆け込む。 愛しているわ、レオン。…多分、ね。 |
彼女の視線に欺かれて眼を動かした瞬間、彼女は駆け出していた。朝陽が彼女の滑らかな背を煌めかせて、昇る。…最後まで美しい女。 その白い両腕を拡げて彼女がコンクリートを蹴る。ふわりと宙に浮いた刹那、俺は堪らず叫んでいた。 「フェーーードイィィン!!」 耳を聾する雄叫びと共に上昇して来たヘリに、彼女の姿は無かった。 |
夜空を紅に染めて、巨大な石が降って来る。紅く燃えるそれが轟音を立てて地面にめり込む度に熱風が私の頬を炙った。立ち竦む私を庇うように、あのひとが前に出た。 ライフルを構える。 その照準のなかに何を見ているのか、僅かに眉を歪ませてあのひとは何事か呟いている。唇から毀れる言葉をひとことも聞き漏らしたくなくて、懸命に耳を峙てた。 「目標をセンターに入れてスイッチ目標をセンターに入れてスイッチ目標をセンターに入れてスイッチ…」 寒くなった。 |
奴は寧ろゆっくりと昇ってきた。 「あと1つだ、クラウザー」 静かな言葉の陰に逸る心が滲んで見える。…いい眼だ、レオン。血に餓えたけだものの眼。頸筋が熱く脈打ち、皮膚が粟立つのを感じる。銃を投げ捨てた。 「決着をつけるか」 躯に打ち込まれた楔を、今、解き放つ。吼えた。 「デビーーーィィル!!」 奴は固まっていた。 |
もとより神など信じてはいない。 縦んば居たとしてもそれが一体なんだと言うのか。気まぐれに手を差し伸べ、希望の芽を摘み取る。遥か地上を睥睨するだけの存在に、慰めを見いだそうとする方がどうかしている。 軍に入隊したのはそれしか選択肢がなかったからだ。 腐臭の漂うスラムで生まれ育ち、麻薬とアルコールが人間を蝕む様をずっと眺めて来た。ゴミ溜めの中を這いずり回る生活にうんざりしていたが、学も無ければ金も無い。手っ取り早く抜け出す為にはそれが一番の早道だった。 軍での生活は可も無く不可も無いといったところだろうか。取り敢えず衣食住は保証されていたし、様々な人間が集まる場所でのトラブルは致し方無い。ここでも麻薬の匂いが充満しているのには閉口したが、自分が溺れなければ良いだけのことだと割り切る事にした。 2度の出撃がそれを変えた。 能無しの将校共に殺されるのは御免だ。戦場と言うモノを知ろうしない上層部にも。…上へ昇る道が全く閉ざされていた訳では無い。ごく限られた者だけが潜る事の出来る、極めて狭い門ではあったが。だが既に、自分には士官学校の受験資格さえなかった。ハイスクールからやり直すなど、考えるだけ無駄だ。 部隊の安全より自分の面子をとった、どうしようも無い将校を切り裂いたその夜、闇に紛れて脱走した。 傭兵として過ごして来た。 腕さえあれば身元など話題にもならない、犯罪者だらけのこの集団の中に埋没する事は意外に心地良いものだった。裏切りと欺瞞と偽りの友情と…相変わらず社会の底辺で蠢く一介の蛆虫に過ぎないが、それを気に掛ける暇も無い程刺激に溢れた毎日に満足していた。 そうやってどのくらいの年月が流れて行ったのか。 個人の依頼はそう珍しい事ではなかったが、企業の研究施設を急襲する、と言うのは初めてだった。自分の様な傭兵が5人。後は依頼人だと言う男2人。 短髪のクリスとか言う男はともかく、レオンと名乗った金髪の方は気に入らなかった。ひらひらと動く仕草のひとつひとつが富裕層の生まれである事を窺わせる。軽口を叩くその眼が溟く翳っている事も気に障った。 今回の役は道化だ。研究施設を急襲し、サンプル又は内部資料を奪う。施設は徹底的に破壊する。…その後、自分はそれを又強奪し、『依頼人』には消えてもらう。それが今回手を結んだ相手との契約だった。 激しい憎悪は憧憬の裏返しとは、誰の言葉だったか。 今になってその言葉が急に現実味を帯びて感じられる。…先程から鉄扉の向こうで轟いている爆音を他人事のように遠くに聴いていた。 |
ウェスカーの論理は明快だ。強者が世界を掌握すれば良い。 結果、どんな化け物が産み出されようが、この世がどんな終焉を迎えようが興味はない。 生きる事に倦んでいた。 自分が使い勝手の良い捨て駒として扱われている事は承知している。せいぜい愉しませて貰うだけの事だった。 軽薄な容貌とは裏腹に、奴はナイフを佳く使った。銃の扱いも申し分無いようだ。だが、奴には血と硝煙の匂いが染み付く事など無いように思えた。どんな状況にも失われる事の無い清廉さが疎ましかったのかも知れない。 『ラクーンの生き残り』であることへの微かな反感もあった。 それがトラウマであると言うなら、それまでの暮らしが幸福であった事に他ならない。青臭い、絵空事の正義を押し付けられるのも真っ平だ。クリスの、私怨に近い理屈の方がまだ理解できた。 事前の情報通り、施設内はゾンビ共の巣窟となっていた。 腕を吹き飛ばされ、脚を毟り取られても、ノロノロと歯向かって来る。頭を潰さない限り、何度でも何の表情も無い昆虫の眼を剥き出しにして行く手を阻む様は確かに異様だが、取り立てて恐れる程のものでもない。寧ろ、お笑い草だった。 胸に、腹に幾つもの銃痕を穿たれたまま何度でも立ち上がって来るそれは、所詮死体だった。…そこには何の感情も無い。死出の旅への畏怖も、消え行く生命への執着も。 『研究者』達が造り出した化け物共にも同じ事が言えた。獲物を狩り立てる事だけに全てを費やし、生き残る為に足掻く事は決して無い。既に『生命』とは呼べぬシロモノ。 傭兵の一人がその仲間に成り下がった瞬間、躊躇うことなく眉間にナイフを突き立てていた。薄笑いを浮かべてそのまま頭蓋まで貫く。奴は、何も言わず、感情を押し殺した眼でただ、見ていた。 …貴様には分かるまい! 喉元まで込み上げた熱い塊を呑み下した。仲間の骸を踏み潰して生き延びて来た。貴様には生涯理解できまい。 |
予定が狂ったのは、残りの傭兵3人が揃って餌食になった所為だ。生憎奪取した資料をそのうちの一人が持っていた。とうに理性を失っていたそいつは資料を何処かへ投げ出してしまっていたらしい。結局回収することは出来なかった。立派な生ける屍だけがそこに居たと言う寸法だ。 既に施設は劫火の中にあった。「徹底的に破壊する」と言う目的だけは達せられたことになる。脱出するより他無かった。 そろそろ潮時のようだ。そう思い始めた頃、燃え盛る一室でゾンビ共に囲まれていた。 『依頼人』の前から消える良い機会だ。仕事は中途半端に終わるが致し方無い。『依頼人』の始末は未だそこかしこで蠢いている奴等がつけてくれるだろう。ウェスカーには報告の義務がある。 「先に行け」 低く呻きながら後ろ手に手榴弾を取り出す。顔色を変えた2人を半ば強引に外へ押し出した。施錠する。 「クラウザー!」 激しく扉を叩いて奴が一言叫ぶのが聞こえた。…最後まで甘ったれた小僧だ。 壁の一角が崩れ落ちるのを横目で確かめ、片手で銃を乱射しながら口でピンを引き抜いた。スモークと轟音だけのフェイクだが、ウスノロのゾンビ共にはこれで充分だ。『依頼人』にも死んだと思わせる事が出来るだろう。自分も一時的に耳をやられるだろうが大した問題では無い。 脱出ルートを頭で確認しながらそれを群れの中に放り込んだ。 赤茶けた廃墟の中で、風が踊っている。 かなり大規模な遺跡のようだが、とうに擦れた過去の産物に興味は無い。執拗に疼く左腕を無意識に摩りながら立ち上がった。 …自分も時間に置き去りにされた亡霊には違いあるまい。ただ、最後の審判の瞬間だけを待っているのかも知れなかった。 |
出会ってしまった事を少し、後悔している。どうにもならない運命の歯車を悼んでも、詮無い事と分かってはいても。 ふらふらと覚束無い足取りで、貴方が歩いている。このまま行き過ぎようかと躊躇った瞬間、貴方が大きく傾いだから、思わず駆け寄っていた。 「大丈夫?」 振り向いた貴方の貌から、表情が抜け落ちている。思わず後退りながら、どうしてもあなたには強くなれない。わたしの甘い足枷。 見る間に貴方の腕に蚯蚓腫れのように血管が赤黒く浮き上がる。その刹那、頸を掴まれ、躯が持ち上げられていた。 ぎりぎりと頸が軋む音を聴いた様な気がする。こめかみで、血管が大きく脈打っている。なお生きようとする躯の足掻きを全身で感じていた。 …本当は、このまま眠ってしまいたかった。貴方の睫に口吻けて。 けれど今、貴方の紅い瞳にわたしは映っていない。このままでは、貴方のなかのわたしが消えてしまう。 駄目よ、赦さない。行く時は、貴方の胸に消せない疵痕を刻んで逝くわ。 震える指先が、太腿のナイフを探り当てた。 そのまま貴方の脚に突き立てて、膝で腹を蹴る。呻きながら転がった貴方を半ば茫然と見下ろしながら、ひりひり痛む咽を摩った。 「…すまない」 低く呟いて薬を飲み下す。その仕草が酷く艶めいたものに見えて、眼を細めた。 「二手に別れましょう」 不意に込み上げた涙を呑み込んで、背中を向ける。 もしかすると、愛を告げる事など簡単なことなのかも知れない。だけど、それをしたら多分もう逢えない。…寄り添う事など無いわたし達だから。 霞む視界を無理矢理押し開きながら、貴方のてのひらの熱を想っていた。 |
自分にも意志があると云う事を、あるじは知っているのだろうかと訝しむ事がある。 もっとも、それを伝える術を今は持たない。伝えるつもりも毛頭無かった。とうに失った感情の欠片を伝えたところで理解してもらえるとも思っていない。今はただ、黙してあるじに従うだけのことだった。 『何かが欠けている』…そう云われ続けて育った。 人間として生きる為の大切な何かが抜け落ちている。そう云われても、何を感じる事も無い。そうなのかも知れないとぼんやり思っただけだった。 足元に纏わりつく仔猫を、『邪魔だから』蹴り殺した時、それが一変した。 人々の自分を視る目つき、そして自分のなかの何かも。これまで感情の起伏が全くと云って良い程無かった私が、悦びを知った瞬間だった。 昆虫、鳥、猫、犬…目につくもの、手に届くものなら何でも良かった。道具は使わない。自分の掌の中で、暖かな生命だったものがただの冷たい塊へ変わって行く。両眼を見開いて、それを見つめていた。 両親が養子に出したがったのも、当然と云えよう。他に兄弟は無い。ただ一人の息子を、彼等は傍に置く事を拒んだ。 古い城が終の住処となった。 気難しい城主の息子の守役となったのだ。小人症のうえにアルビノとして生まれついた息子を、城主は扱いあぐね、またその気質を憎んでいた。 彼もまた人々から遠ざけられ、疎んじられる存在であり、体裁を重んじる閉塞した家風の中で、明らかに異質だった。あるじと私は急速に近付いていった。お互いのなかにそれぞれ自分を見ていたのかも知れない。広大な庭の片隅で、閉ざされた密室で、小さな生命を奪う事に没頭した。より残酷な方法で、執拗に嬲り殺す。次々と様々なカタチを生み出すあるじに強烈に惹き付けられた。彼は私の唯一の理解者であり、支配者だった。 転機は唐突に訪れた。 あるじを疎み、畏れた城主があるじの廃嫡を望んだのだ。いちはやく聞き付けたあるじは私に城主の排除を命じた。 『人間』は初めてだった。…それを皮切りに幾度と無く行う事にはなったが。 重く垂れ込めた雲の隙間から差し込む弱々しい晩秋の陽光が、それでも中庭を薄く照らしていた事を憶えている。眼の前の蠅を追い払う様な仕草で、あるじはそれを私に命じた。 |
深夜、ひっそりと城主の枕元に佇む。開け放たれた飾り窓から流れ込む月光が、部屋を青白く浮き上がらせていた。 自分が躊躇っている事に苛立っていた。躊躇、苛立…何れもそれまでの私には無かったものだ。一挙に押し寄せてくるそれに急かされて城主の頸を切り裂いた。 悲鳴の代わりに凄まじい血飛沫が上がった。 城主は目を開いたが、既に抵抗する気力は無いようだ。それでも、震える指先を伸ばして来た。降り注ぐ血を全身で受け止めながら、その指先を薙ぎ払うように2度3度と斬りつけ、後退さる。 豪奢な寝台の横に置かれた白磁の花瓶に、赤黒い返り血が濡れて光っていた。 それから、あるじの恐怖政治が始まった。 気に入らぬ者、目に止まった者全てを冷徹に、気まぐれに処断する。私はあるじの忠実な死刑執行人だった。 程無くその莫大な資産と鬱屈した閉鎖性に目を付けた、得体の知れぬ教団が入り込んで来た。どのような伝手であるじに取り入ったのかは知らぬ。気付いた時には、あるじはサドラーと名乗る教導者に心酔し、持ち得る全てを注ぎ込もうとしていた。繰り返し行われる人体実験に、あるじはどのような夢を描いていたのか。あるいは矮小な自らの体躯を造り変えようとでもしていたのかも知れないが。 その実験のひとつが完成を見た時、私は人間である事を放棄しようと考えた。 あの夜、城主を斬殺したあの瞬間から、皮肉にも私のなかで感情が芽吹き始めていた。その事に恐怖していた。『恐怖』…これも私が初めて得たものだったが、今更そんなものは必要無い。何処までも無感動な一個のモノでありたかった。 だのに、私はあるじを憎んだ。私にローブを着る様命じたあるじを。慚じる事など何も無い。U-3の様な無様な出来損ないとは違う、優美な完成型の私の姿を白日の元に晒して歩きたかった。 恐怖は消えたが、代わりに圧倒的な優越感が私を支配していた。あるじでさえ、卑小な俗物にしか見えない。私は、感情に翻弄される、もっとも人間らしい人間となっていた。 エージェントが液体窒素のボンベを倒しているのを確認したが、敢えて避けなかった。苦し紛れの閃きなのか、それとも策を弄した結果なのかは分からない。終止符を打てるかも知れない、その『希望』が初めて私のなかで頭を擡げた。 振り返った私の眼に、重火器を構える彼の姿がぼんやりと映った。 |
焔の中に娘の姿を探していた。…私の可愛い娘。 はにかむ様に微笑うと方頬に靨が浮かぶ。その靨をつついて、よくからかったものだ。 …ほら、かくれんぼはお終いだよ、早く出ておいで…。 朽ちゆく村の守人、それが私だ。 既に外界へ向かって羽撃こうとしている鳥を繋ぎ止めおく事は難しい。霧と重い曇り空に閉じ込められているこの村では尚の事…若者達は街へと流れ出していた。中にはこの村で生まれ育ち、恋をして留まる者もいないでは無いが、ごく稀な事と云えるだろう。 それでも、街の喧噪に打ちのめされて戻って来る者もいる。あるいは、妻子を連れて逃れてくる者も。それが一層村を閉ざされたものにしていたのかも知れぬが、それら全てを受け入れ穏やかな暮らしを保つのが私の役目だった…その日迄は。 城で何があったのかを知る者は無い。 急な呼び出しを受け出向くと、そこには色素の抜け落ちた、青白い小さな躯の新しい城主が待っていた。それ迄の、頑固だが実直な城主に息子が居るのは知っていたが、目の当たりにするのは初めてだ。『あれは廃嫡にする』と吐き捨てる様に云ってのけた城主の横顔を思い出す。 極端に回りくどい話し方、下から媚びる様に見上げる目つきには狂気が宿っている。その口を吐いて出る手前勝手な理屈も、正気の沙汰とは思えぬ…しかし、彼は新しい支配者だった。 新興宗教の布教を扶ける様に命ぜられたが、私にそのつもりは無い。だが、その場で異議を唱える等出来よう筈もなかった。口先だけの約定ではあったが、承諾した私に彼は満足げに頷いた。 乗り気で無かったと云えど、教団が堂々と広場で説教するのを妨げる訳にはいかぬ。歯噛みしながら眺めている間に、ひとりふたりと傾倒する者が現れ始めた。 「神の力が宿る種」を接種しはじめた頃から、それは顕著になったように思える。初めは、街に復讐を誓い、力を求めた若者達から、少し疲れた老人達へ。 かつて無い憤りを覚えていた。その様な真似をせずとも、ここは穏やかに、しかし確実に死にゆく村だったのだ。 |
村人のひとりが、妻子をチェーンソーで斬り殺すなどと云う異様な出来事があったその夜、娘は消えた。。 もの柔らかな、どちらかと云えば気弱な男のあまりの行状に衝撃を受けていた私は。迂闊にも家の事迄思い至らずにいたのだ。 遅くに出来た、ひと粒だねの娘だった。持ちうる全てを捧げ、慈しんで来た可愛い娘。 家中を隈無く探したが、見つかる筈も無い。半狂乱の妻を宥め乍ら、闇の中へ飛び出していた。 村は静まり返っている。普段でも、日が暮れると皆、門戸を閉ざし外出する事とて無いが、それにしても静かな夜だった。 一軒一軒尋ねて回ったが、村人達はただ首を振るばかりだった。皆何かを恐れる様に口を噤み、手伝いを申し出る者も無い。応答の無い家さえあった。 一度だけ娘の手を引いて通った、街へと続く道へも出てみた。この辺りでは、民家から毀れ出る灯りも届かない。…あれは臆病な娘だ。暗がりを恐れる娘が向かったとは考えにくいが、それでも藁をも縋る思いだった。街で手に入れた縫いぐるみに頬擦りし乍ら飛び跳ねる様に歩いていた娘。疲れて座り込んだ娘を抱き上げ、娘の好きな歌を歌い乍ら歩いた。 何時からこの村では虫の声さえ聴けなくなったのかと訝しみ乍ら、娘の痕跡を必死になって探す。珍しく雲の無い夜、星の瞬きを頼りに…ふと振り返った視界の隅に、城が映った。 木立の彼方に星空を背にして鬱蒼と聳えたっている。白銀に輝くシルエットが、却ってそれをより陰鬱なものに見せていた。 脳裏に閃くものがあった。 下から睨めつける様に見上げる、狂気を宿した瞳。嘲る様な笑みを刻んだ口元…城へ続く道を、ひたすらに走った。 |
刎ね橋は降りている。 いつもなら固く閉ざされている城門が開いていた。訪いを入れる事も忘れて飛び込んだ私の目に、倒れている人影が映った。…首の無い妻の遺骸。 娘がそれでも家に戻るかも知れないと、残る様に云った筈なのに何故と云う疑問、独りで家に置くべきでは無かったと云う悔恨、様々な感情が一気に押し寄せて立っている事も叶わなかった。 「出来ればこの様な真似はしたくなかったのですがね」 座り込んだ私の耳に、『城主』の声が雷鳴の様に轟く。 「従わない方にはそれ相応の罰を受けて頂かねばなりません」 音も無く、異形の影が降り立つ。ローブの下に、紅く光る眼を認めた瞬間、私は堪らず吼えていた。 脳を貫く、焼け付く様な痛み。びしゃ、と音を立てて落ちたのは左目の眼球だった。震える手で押さえた眼窩から、尚も滝の様に血が溢れ出して来る。 遠のく意識を留めようと膝を掴み、蹲って震え続けている私の前に、何かが投げ落とされた。 殆ど原形を留めていない、小さな肉塊。それが何であるかを理解し難かったのは、苛み続ける眼の痛みの所為では無い。ずたずたに引き裂かれたそれの、辛うじて残っている小さな踵に、見紛う筈の無い娘の靴が引っかかっていた。 泪すら出ない。…血塗れの手を伸ばして靴を拾った。 呪縛が解けた躯を無理矢理捩じ曲げて、『城主』に向かう。口を突いて出るのは訳の分からない咆哮ばかりだ。 掴み掛かった私の腕を、誰かが押さえた。そのまま地に顔を押しつけられる。頸筋にひんやりとした感覚があった。鈍い痛みと共に流れ込んで来る異質な物の存在を追い乍ら、どんよりとした夢の中に墜ちて行った。 夢から醒めた時、燃えているのは自分の躯だった。 熱で溶け始めた窓ガラスに醜い自分の姿が映っている。上半身のみの躯、あちこちから突き出し、伸びている触手…愕然とした。これでは娘が怖がるだろう。歪な触手では抱きしめる事さえできない。いっその事何も残らぬ様に全て燃やし尽くして貰いたいものだ。こうして生き存えている事が贖罪だと云うのなら、ここらで終わりにしても良いだろう。 静かに目蓋を閉じる。 今からでも追い付けるだろうか。妻は私を受け入れてくれるだろうか。…あの可愛い靨をまた、この指で突く事が赦されるだろうか。 …ほら、見つけた。早くお家に帰ろう…。 |
重く垂れ込めた雲を切り裂いて一筋の稲妻が疾った。 大気を震わす大音響と共に、大粒の雨が落ちて来る。止む事を知らぬ滝のように、それは激しく車体を叩いた。草臥れたミニクーパーは、それでも無表情に俺を運んでいる。…くそ、ワイパーが持って行かれそうだ。 雨が激しさを増す毎に立ち込めて来る霧が行く手を閉ざす。白く煙ったフロントガラスの向こうに眼を凝らしながら、たった今別れたばかりの女の事を考えていた。 姿に似合わぬ低く嗄れた声で、女は謳う様に囁いた。 象牙色の肌を揺らめかせて、俺を誘う。東洋人独特の切れ長の眼を伏せて、くちづけてきた。娼婦らしからぬ、ぎこちない仕草だった。女の鳶色の瞳に映る俺自身を見つめ返しながら抱き寄せる。腰に手を回すと女は小さく声を上げた。 滑らかな背中を撫でて再びくちづけ、そのまま褥に押し倒す。娼婦がくちびるを許す事は無いー…そんな科白が頭を掠めたが、どうでも良くなっていた。 女の中に幻を見ている。決して俺とは交わる事の無い彼女の幻を。彼女と俺とは平行線のままだ。近付く事はあっても交錯する事は無い。先の任務で思い知った筈だった。 大統領令嬢の護衛の筈が救出に代わり、俺は再び悪夢を見る事になった。その過程で彼女と再会したが、嫣然と微笑む彼女はもう、俺の知る彼女とは別人の様にも思えた。『知っている』と思っていた事自体が俺の思い上がりだったのかも知れない。彼女が女である以上、俺には理解し難い生き物だ。強く惹かれる理由を探しても仕方が無い。 その肌を貪りながら、俺に組み敷かれ嬌声を上げている女を見下ろす。右目の泣き黒子をぺろりと舐めてまたくちづけた。 …女もまた、俺のなかに誰かの幻を見ている様な気がしていた。 |
白い闇に薄く反射しているヘッドライトが人影を映した様な気がして車を止めた。 ハンドルに凭れたまま片手でダッシュボードを探る。すぐに冷たく固いブローニングの感触があった。取り出してそのままドアを開け、周囲を窺う。雨は小止みになった様だが、稲妻は時折霧を青白く照らし出している。 背筋を冷たい汗が濡らしていた。 街までは4、5マイルと言ったところか。森を抜ける国道に他車の気配は無い。もっとも、この辺りでは皆この道を避けている様だ。人でないモノの存在が囁かれている。 実際、頭を潰された死体、芋虫の如く手足の無い死体等が発見されてセンセーショナルな記事になっていた。共通点は『男』そして『泣き黒子のある娼婦の客』…三流タブロイド紙の記事に踊らされてわざわざ辺鄙な田舎に出向くとは、俺もどうかしている。記事は暗にアンブレラもしくはそれに類するものの存在をも匂わせてはいたが…。悪夢に決着を着けたいのか、それとも悪夢の続きを見たがっているのか自分でも良く分からないでいる。 ぱしゃ、と微かな音を聴いた。 降りつのる雨を蹴散らして躍りかかって来る影を認め、咄嗟に車外へ転がり出ていた。背後でぐわしゃ、と轟音が響く。振り向けばミニクーパーは完全に押し潰されていた。屋根だった箇所に蹲っていた影が立ち上がる。 …女だった。つい先程までこの腕の中で喘いでいた、女だった。 生まれたままの姿を惜し気も無く雨に晒している。長い黒髪がその肢体に纏わりついていた。俺を見下ろす鳶色の筈の瞳が…紅かった。 「ーー…なの?」 雨が邪魔をして低い声が上手く聞き取れない。女は夢見る様な目つきで俺を見つめている。不意に、口元が歪んだ。 「わたしのあのひとを殺したのは貴方なの!?」 泪の代わりに血が頬を伝っている。女の整った貌に幾筋もの血管が浮き上がってくるのを半ば茫然と見ていた。 『泣き黒子のある娼婦の客』が犠牲になる、と言うのは本当だったらしい。出来れば次の犠牲者になるのは避けたいところだったが、生憎ブローニングのマガジンには10発、チャンバーの弾を合わせて11発しか残っていない。車の後部に投げ出していたM870は女が車ごと潰してしまった。 ー…好奇心猫を殺す、か。泣けるぜ。 自分の馬鹿さ加減に笑い出しそうだった。 |
地に堕ちた、嘗ての戦友の事を思い出していた。 その身に寄生体を宿らせ、醜い理想を目指した男ー…ジャック・クラウザー…。 それと同じモノが今、女の右腕にある。ブレード状に硬質化したそれは、俺を恐怖させるに充分な代物だ。女が腕を振り上げる度にあちこちから血を噴き上げているところを見ると、まだ不完全なモノらしい。が、この際何の慰めにもならないだろう。 あれと同じモノを女が持っていると言う事は、あの教団絡みなのか?しかし、女の存在以外にそれらしい兆しは無い。欧州の閉ざされた村とは違い、ここは街もそう遠くは無い。何処かに綻びが出ていそうなものだがー… ち、と舌打ちをした。やはり雨音が邪魔をして女の気配を捉えきれない。女の視界を避けて木立へ潜り込んだのは失敗だったかも知れない。 ひらりと不自然に舞い降りて来た木の葉に、反射的に身体を捻る。次の瞬間、ひゅ、と俺の頬を切り女のブレードが樹に突き刺さっていた。 「あのひとはどこ?」 口調だけは相変わらず、低く謳っている様だ。ぼんやりとした視線は焦点を結んでいない。樹に突き刺さった腕をそのままに、空いた片手で掴み掛かってくるのを仰け反って避けた。倒れ込む。そのままブローニングを一発だけ女に向かって撃ち、低木の繁みに跳び込んだ。 「あのひとを返して…」 か細い声を振払って、低木の中を這う様に逃げ場を探す。ともかく移動し続けて機会を窺うより仕方あるまい。 女の動きが訓練されたもので無い事が救いだった。体系づけられたものでは無く、有り余る力を頼りに彷徨っている様だ。 …『あのひと』とはやはり女の愛した男のことだろうか。 胸の奥に仄暗い嫉妬の炎が灯るー…名前すら知らない、只の行きずりに過ぎない女。その女を愛したとでも言うのだろうか。たった一度、束の間肌を重ねただけの娼婦に情が湧いた、とでも?……馬鹿げてる。 繁みを抜け出して女の背後に廻る。迷いがそのまま銃口に出た。 後頭部を狙った筈の弾は女の黒髪を一房切り落として銃声と共に消えた。女が凄艶な笑みを浮かべて振り返る。 「……あなた…」 わざわざこちらの居場所を教えてやった様なものだ。女のこめかみからは血飛沫が上がっているが、致命傷にはなり得ない。 「ーーーっっ!」 もう一発撃ち込んで女の視界から消えようと、ブローニングを構え直した俺の肩を、何かが貫いた。堪らず膝を付いた俺の肩からずるりと抜けたそれは、女の触手だった。女の背中から、女郎蜘蛛の足の様な触手が4本、まるで肉の削げ落ちた翼の様に生えている。それにも見覚えがあった。…狂気の教導者が持っていたモノと同じだ。 クラウザーの腕、サドラーの触手…訳が分からない。これで嘗て対峙した教団の奴等と同類だと確信したが、依然女の背後に何も見えない。 |
満足気にゆらゆらと女が近付いて来る。その無防備な足を狙った。間違い無く膝を撃ち抜く。 よろける女を尻目に、再び木立の中へ跳び込んだ。…たったそれだけの事で、息が上がっていた。はあはあと忙しない自分の呼吸が耳障りだ。 肩の傷に触れる。鋭い痛みに呻いたが、思った程の出血では無い。まともに動いているところを見ると、骨にも大した損傷は無さそうだった。 気付かない間に雨は上がっていた。辺りを白い闇に閉じ込めていた霧もじきに晴れるだろう。 「…あのひとはどこ…?」 それでも女の声が切れ切れに追いかけて来る。 女の仕草のひとつひとつがフラッシュバックして、俺はまともに戦える自信を無くしていた。躯のあちこちに情事の余韻が残っているような気さえしている。…地獄でクラウザーが腹を抱えて笑っていることだろう。 「わたしのからだを返して…」 不意に頭上から声が降り注いだ。 見上げる前に飛び出していた。ふわり、と猫の様に女が舞い降りて来る。四つん這いになったまま、女の喉から咆哮が絞り出された。 相変わらずその眼の焦点はぼやけたままだ。正気では無いのかも知れない。 このまま殺されてやっても良い様な気になっていたが、体は無意識に飛びかかってきた女を避けていた。女のブレードが脇腹を掠める。訓練された通りの機械的な動作で、発砲していた。 弾は女の喉元を貫いていた。 ごふっ、と鈍い濁音と共に女が血を吐く…が、同時にぽつんと開いた小さな銃創の周りの組織がうねうねと波立った。見る間に傷を塞ぎにかかっている。到底現実のものとは思えない。 「…ねえ…あなた…」 女の囁きが甘い。 しなやかに擦り寄り、力の抜けた俺の掌からブローニングを取り上げる。女は艶やかに笑いながらそれを自分のこめかみに押し当てた。引金を引こうとしてー…女の貌が苦悶に歪む。 女の心臓を突き破って、触手が伸びる。ばりばりと女の殻を喰い破って、何かが出て来ようとしていた。咄嗟に屈み込んで、ブローニングを拾う。女の躯が朽木の様に静かに倒れた。 これが女の寄生体と言う訳か。女の躯を貪り尽くして、今、生まれ落ちようとしている。双頭の寄生体…それ自体はか弱く、何の力も持たない。 女の寄生体は、既に腐臭を放ち始めていた。 寄生体自身の生命力の限界だったのか、宿主である女の躯の限界だったのか、ブローニングを3発撃ち込んだところでそれは動かなくなった。頭を踏み潰す。急速に溶け始めたそれをただ無言で見つめていた。 「……ルイ、ス…あなた…」 片目だけを見開いて、女が呟いている。…ルイス? ルイス…よくある名だ。そう珍しいものでは無い。俺が考えているのとは全くの別人なのかも知れない。だが、女の姿を目の当たりにした今では他に無い様に思えた。ルイス・セラ…。陽気な言動に紛らわせて、暗い澱を瞳に沈めていた男。教団では寄生体の研究をしていた筈だ。 女が望んで犠牲になったのか、それともルイスがそれを望んだのか。或いは教団の命令だったのか。…本当に、女の情夫はルイスだったのか。後から後から疑問が湧いて来るが、もうそれを確かめることは出来ない。 女の躯が溶け始めていた。 それでも崩れた腕を震わせて、甘える様に差し伸べて来る。くちづけを求める仕草が、哀しかった。 女が塵となって風に攫われて行くのを見送ってから、国道へとよろめき出た。 濡れた路面に構わず、ミニクーパーの傍らにずるずると座り込む。そのまま背中を凭れて立て膝をつく。とうにやめたが、こんな時はやはり煙草が恋しい。持っている筈も無い煙草を探しているのに気付いて苦笑した。結局何もかも謎のままだ。 他にも女の様に教団に打ち棄てられた実験体がいるのかも知れない。だとしたら、物語はまだ終わっていない。が、今の俺にはどうでも良いことだった。 街までは後4、5マイルと言ったところか。森を抜ける国道に相変わらず他車の気配は無い。水溜まりに映った俺の姿をぼんやりと見下ろすー…なんてザマだ。 Tシャツもジーンズも血と泥にまみれ、かぎざきだらけ。頬には赤黒く乾いた血がこびりついているし、前髪は泥で半分固まっていた。仮にたまたま車が通りかかったところで、厄介事を持ち込まれるのはご免だろう。誰かにピックアップしてもらえる期待は薄い。 歩く他無さそうだ。 「ーー泣ける、ぜ…」 明るく澄み始めた空を仰いだ。 |
ブローバックする筈のスライドは戻らず、トリガーは情けない音を立てて弾切れを知らせて寄越した。 投げ捨てようとしたスチェッキンを、思い直してそのままベルトに挟む。思いがけない拾いものだ。インチキなアストラより余程役に立つ。 代わりに戦利品の中からミニミを取り上げて乱射した。暗い室内で、銃口から迸る閃光が影を狂った様に踊らせている。 出来るだけスマートに事を運びたかったが、見つかっちまったものは仕方ねェ。往々にして思い通りには行かないのが世の常と言うヤツだ。どこかで帳尻合わせをしなくてはならないだろうが、まあ良い。 かき集めた武器をバックパックに詰め込む。銃声を聞き付けて幾らでも湧いて出て来る邪教徒達に良い加減頭に来て、手榴弾のピンを抜いた。咥えたままだった煙草と一緒に群れの中へ放り込む。巨大な飾り窓から夜の只中へ飛び出した俺の背中を、轟音と爆風が追いかけて来た。 村へ潜り込んで半年になろうとしている。 新興宗教が右翼化するのは良くある事と言えるだろう。だが、村には教会がひとつあるきり、狂信者の存在を窺わせる物は無い。テロと結びつきそうな物も。どうにかして本部が喜びそうな報告を持って帰りたかったのだが。天気も住人もどんよりと暗い。こんな場所からはさっさとおさらばしたいものだった。 油断ならない状況ではあるが、退屈はしていた。生気の無い村人達は、周りに一切の関心を抱いていない様だ。よそ者を排除しようとする場合にのみ、恐ろしい程の熱心さでそれに臨むが、始めからの住人の様な顔をして紛れ込んでいる分には格段訝しまれる事も無い。そもそも連中には考えるアタマなど無い様だ。虚ろな目つきを装い、のろまな仕草を真似て歩きながら、本部にどう報告したものか考えていた。 城にいる連中の方は少々厄介だ。 ま、教団の本拠地と言って良いせいだろうか。少しは知恵が廻るらしく、ローブを被って誤魔化すと言う訳にはいかなかった。物陰に潜んでやり過ごすにしても、数が多い。時にはエモノを持っている事さえあった。ー…そのエモノ、武器の流入が目に付いて、こそこそと嗅ぎ回るハメになっちまったんだが。 国境付近で捕まった間抜けな武器商人からアシがついた。 猟銃程度ならチビの城主の趣味で収まったろう。だが、RPG10基の密輸入はやり過ぎだ。ここはベイルートやバグダットなんかじゃ無い。護身用にRPGがいるか?呑気なDGASも流石に何かあると踏んで、俺を寄越した。本部は、場合によっては虎の子のUEIまで動かすつもりの様だ。実績を作りたがっているUEIも、喜んで乗って来るだろう。 教団に入り込んでいるのは事前の情報で確認済みだったが、ルイス・セラと行き会わせたのは全くの偶然だった。ばったり、本当にばったり城の回廊で出くわしたのだ。だが、天佑とも言える偶然だった。奴とは旧知の仲だ。 警官時代のー…戦友とでも言っておくか。もっとも、奴はすぐに辞めた。先を読み過ぎる臆病な男…だがそれは時に大きな長所だ。小狡く生き残る術に繋がる。 城の見取り図、武器の保管庫、抜け道…奴の知り得る限りの情報を入手した。代わりに奴は保護を求めて来たが、良い加減な言葉ではぐらかす。今の任務はあくまでも「監視」だ。下手な手出しはするなと経験が言っている。奴がどんな目的で入り込んだのか知らないし、知りたくも無い。余計な荷物は背負いたくないー…が、引き上げる際には拾ってやっても良いとは思っていた。 (続) ※DGAS … Direcci y n General de Administraci y n de la Seguridad ー 内務省国家保安総局 ※UEI … UEI & GAR Unidad Especial de Intervencion GruposAntiterroristas Rurales ー 国家警察部隊ガーディア・シビルの対テロ部隊 |
合衆国のエージェントとか言う若造が介入して来た事で状況は複雑化した。 大統領の娘が攫われるとは、とんだ笑い話だ。だが、本部の寄越した連絡はもっと笑えた。 「援護せよ。身分は明かさず、かつ接触した事実は残せ」 …なんだってんだ。悪い冗談にしか思えねェ。 援護せよ、とはともかく「身分は明かさず、かつ接触した事実は残せ」とは一体何の了見だ。政府は合衆国に恩を着せて、「高度な政治的取り引き」とやらをするつもりなんだろう。どうせ良いトコロでジョーカーを出すんだろうが…援護するつもりならさっさとUEIでも特殊部隊でも寄越せばいい。エラいさんの言う事はいつだって支離滅裂だ。現場の事などてんで頭に無いんだろうさ。 他国のエージェントと接触するのはただでさえ気が重い。まして「身分を明かさず」接触か。こんな所で声をかけたって、不審がられるに決まってる。余計な詮索をされるだろう。馬鹿正直にDGASの人間だと名乗るか?…ありもしない身の上話をでっち上げるのも面倒だしな。 ふと思い出したのが、国境で捕まったあの武器商人の事だった。 幸い商品には事欠かない。奴等が仕入れたブツが山積みになっているーーどうせ横流しするつもりでいたのだ。問題は若造が金を持っているかどうかだが。 ま、良い。若造が文無しでも、使いきれなかった分を捌けば儲けは出るだろう。幾つ掠め取ろうと、台帳には載っていない商品だ。遠慮することは無い。 ブツの調達はこちらも命がけ、せいぜい派手にやらせて貰うとしよう。それで攪乱できりゃこれも立派な「援護」だ。若造が腕利きである事を祈るぜ。必要経費もでない様じゃ困る。 上手く行きゃ、これを最後に引退できるだろう。汚れ仕事にもそろそろ疲れた。高く売り付けて退職金を稼ぎたいところだ。 とは言ったものの、若造がくたばっちまったんじゃ、話にならない。 黙って「消える」ーー辞表を出したところで、端金を掴まされて一生監視がつくーーつもりなら、どうあっても「援護」は成功させておいた方が無難だ。若造が失敗すればこっちの捜索も厳しくなる。 なかなかどうして骨の折れる仕事じゃあったが、殊の外実入もあったと言える。紅いドレスの東洋美人も客についたしな。若造とはどう言う巡り合わせがあるのか知らないが、「援護」の手助けもして貰ったようなもんだ。 邪魔な扮装を取り払って、煙草に火を灯す。 ー…俺も結構なお人好しだぜ…。 途中でバイバイするつもりだったが、結局最後まで付き合っちまった。こんな離れ小島までな。だが、ここまでだ。 若造は上手くお姫様と合流できた様だし、東洋美人のお姐ちゃんの素振りじゃ、どうやらこの島に細工をしているらしい。ま、大方気前良く吹き飛ばすとか、そんなもんなんだろうが。俺の「仕事」も終わり、そろそろ店仕舞いだ。 唇の端に煙草を載せたまま、スチェッキンの弾倉を確かめる。スライドを引いておいて、またベルトに挟み込んだ。予備弾倉は持っちゃいないが、目的は道を拓くことだけだ。後は手榴弾を2個だけ取った。「残り物」は潔く諦める事にする。余分な荷物は邪魔だ。どうせボートには積めるだけのブツを積んだままにしてあるんだ、余計な欲はかかない事さ。 根元まで灰になった煙草を、弾き落とした。 空を赤く染めて、島が燃えている。 時々思い出した様に、遠く轟く爆音が海と一緒に俺のボートを揺らす。まったく、あのお姐ちゃんも派手にやったもんだ。苦笑しながら双眼鏡を覗く俺の視界には長く尾をひくジェットスキーの航跡があった。若造も無事、お姫様とランデブーを決め込んだ様だ。 さて…何処へ流れて行くか。エンジンをかけて船首を回した。若造にももう二度と会う事は無いだろう。…すれ違う事がもし、あったら声をかけてみても面白いかもな。 「 Welcome! 」 独り空に呟いて、爆笑した。 |
ガキッ、と硬い音がして、今度は右のドアミラーを持って行かれた。 反撃しようにも、ベネリの弾はとっくに切れている。手許にあるのは愛用のブローニングと手榴弾が1つ。『奴等』の執拗さには良い加減うんざりしているが、車相手にブローニングは現実的では無い。他に運転手がいれば「狙う」事も可能だろうが、生憎ひとりきりだ。運転しながら…?俺は軽業師じゃない。 州境近くで、3台に囲まれた。グレーのBMWが背後についたと思ったら、いきなり突風の様な銃撃だ。タイヤが無事だったことは奇跡と言えるんじゃないか?蛇行と反転、当てずっぽうの銃撃を繰り返して2台は潰したが…残り1台と言う所でこのザマだ。どうにか振り切りたかったが、この辺りは脇道も無い。見通しの良い一本道だった。 フロントガラスは既に無い。恐らく後部も穴だらけにされている事だろう。 上目遣いにルームミラーで『奴等』の様子を窺う。お供を連れて歩くのは俺の趣味じゃない…そろそろお引き取り願いたい。距離を測りながら、手榴弾のピン部分を咥えた。スピードを少し、落とす。タイミングが肝心だ。 『奴等』が近付いたのを見計らって、サイドブレーキを引く。クラッチを切って強引にステアを回すと、派手なスキール音がしてリアが流れた。煙幕の様なリアタイヤからの煙と共にメルセデスが180度ターンする。ブレーキを下ろして加速すると、泡を食った様な連中と目が合った。 シフトチェンジ。今度は手榴弾の本体を握ってピンから引き抜く。…5、4、……すれ違い様、『奴等』が身を乗り出して銃を構えているその窓へ、放り込んでやった。更に加速する。 ーーステアを握りしめ、爆風に煽られる車体を立て直しながら、レンタカー会社へ何と言い訳したものか考えていた。 部屋の空気が震えた様な気がして眼を開けた。 そのまま枕の下に手を差し入れて、ブローニングを掴む。かしゃかしゃと何かが触れあう音…何処からか流れ込んで来る風が、ブラインドを揺らしている様だ。消し忘れたフロアライトが、コンクリートの床に頼りな気な光を落としている。 部屋の隅のスツールに、人影があった。惜し気も無く剥き出しにして組んでいる白い脚が扇情的だった。ぽっかりと中空に浮かぶ満月の光が差し込んでいるが、逆光で貌は見えない。…その肌から微かに匂い立つ甘く切ない香りは知っている。 「 ー…エイダ、か…? 」 上体を起こすと、ひんやりとした冷気が素肌を撫でた。 「何処から入った」 摩天楼のペントハウス。入り口は1つだけ、窓は全て嵌め殺しになっている筈だ。 彼女は呆れた様に扉の方へ顎をしゃくってみせた。 「…開いてたわ、不用心ね…レオン?」 額に手をあてた。まだうまく頭が働かない…くそ、夕べの酒が残っている。施錠したかどうかさえ、記憶に無かった。 「…殺風景な部屋」 ぽつりと言う。確かにそうだろう。部屋を見回してみても、家具らしい物はこのベッドと、彼女が座っているスツール、それにフロアライトだけだ。あとは2台のトレーニングマシンと山積みになっている雑誌、脱ぎ捨てたシャツとジャケット、投げ出したボストンバッグ。申し訳程度に付いているキッチンには埃が積もっている。シンクには夕べ空けたジンの壜。部屋の造りからして、「ペントハウス」とは名ばかりのワンルーム、コンクリートで囲まれただけの空間だ。もっとも、任務中にこの部屋へ戻る事はまず無い。 「ー…それで?何の用だ」 「ご挨拶ね」 ふらりとエイダが立ち上がった。足元が少々覚束無い。そこで初めて、彼女の顔色が尋常で無く青白い事に気付いた。 「ーー別、に…。顔を見に来ただけ」 ぎし、とスプリングが鳴る音がやけに生々しく鼓膜を打った。ベッドに上がって来た彼女が俺の顔を覗き込むー…黒曜石の瞳が、揺れている。そのまま口吻けて来た。 くちびるも、吐息も、その躯も、何もかもが熱い。思わず抱き寄せようとしてーー声を荒げた。 「エイダ!」 彼女の背に回した俺の掌が赤黒く濡れていた。 |
乱暴に腕を掴んで、背中を探る。夜目にもはっきりと夥しい血が濡れて光っていた。シャツにぽつんと穴の開いた箇所がある。肩甲骨のすぐ下と左脇腹に硬い感触も。…弾丸、か?悲鳴をあげるのに構わず瑕に触れ、シャツを引き裂く。 「…たかかっ、たのに」 「どうせ血で使い物にならんだろう」 どちらの瑕も弾はめり込んだだけで止まっている。が、周囲の肉はもう締まり始めていて、このままでは取り出せない。 「待ってろ」 うつ伏せに寝かせてベッドから降りた。「仕事」用のボストンバッグに救急キットが入っている筈だ。 救急キットのケースとナイフ、ライターを取ってフロアライトを引き寄せた。 「痛むぞ。噛んでろ」 抗う気を無くしたらしいエイダに、同じくバッグから取り出したタオルを差し出す。顔を顰めたが、それでも素直にそれを咥えた。生憎キットの中にモルヒネは無かった。麻酔無しで弾を取り出すとなると相当痛むだろう。暴れて舌でも噛まれたら事だ。手早く掌を消毒し、ついでに彼女の背中に消毒薬の残りをぶちまけてナイフをライターの火で炙った。一気にそれを突き立てる。 「 ーーーっ!!!」 跳ね上がった彼女の背中を左腕で押さえつける。半ば伸しかかる様にして周囲の肉を切り開き、弾を取り出した。吐息が洩れる。瑕口に消毒綿を押し当て、更にその上からガーゼで蓋をする。続いて脇腹も同様にーー…彼女は失神した様だ。ぐんにゃりと力の抜けた躯を持て余しながら、丁寧に包帯を巻いた。 次いで止血剤を取り出す。彼女を抱き上げると、頤を掴んで口を少し開けさせ、水と一緒に口移しで飲ませた。ごくりと彼女の喉が動くのを確かめて再びうつ伏せに寝かせる…閉じた睫毛が震え、不機嫌そうに眉が動いた。 何時の間にか眠っていたらしい。朝陽が小煩く瞼をノックして、渋々ながら目を覚ました。 既にエイダの姿は無かった。…俺のジャケットも。苦笑してベッドから降りる。明るい室内に、血痕だけが夜の名残を留めている。…呆れた女だぜ、まったく。 澱んだ頭をすっきりさせたかった。キッチンに移動して頭から水を被る。軽く水気を払って振り向きーーそれに気付いた。 <政府はラクーンの生き残りを消しにかかってる> 扉に近い窓に口紅の置き手紙。 ーー政府が?俺達を…? だが、謎解きは後回しにした方が良さそうだ。窓の向こう、数ブロック先にこちらへ向かって来るパトカーが4台…パトカー自体はこの街でも珍しいものでは無い。だが、サイレンも鳴らさず、回転灯も点いていないのが気に入らなかった。嫌な予感程当たるものだ。 ブローニングをジーンズの腰に挟み、シャツを拾ってベンチプレスのセットを退けた。気持ち程度の床下収納だが、階下の通風口へ出られる。入居した時点で隔壁をブチ抜いて繋げた。ビルの構造は頭に入っている。豪奢な見かけな割りに安普請だ。 「退路は常に確保しておくものだ」…そう教えてくれたのはクラウザー、あんただったな。ふと脳裏を掠めた戦友に語りかけながら、通風口から廊下へ滑り降りた。通風口の格子をまた嵌め直しておいて、3基あるエレベーターを全て呼び、廊下の端、奥まった箇所の非常用窓を開けた。5階までザイルを渡してある。そこまで降りれば隣接したビルに跳び移って地下鉄の駅に出られる…上手く行けば、の話だが。パトカーに素人の警官しか乗っていない事を祈るぜ。 警官や特殊部隊程度ならまだ良い。カンパニー(CIA)には『汚れ仕事』専門の連中がわんさと居る。俺は奴等の顔を知らないが、連中は俺を知っている。人込みに紛れて近付かれても、気付いた時には消されているだろう。木の葉を隠すなら森の中、と言うが今回に限っては都会の方が危険そうだ。ー…差し当たっては、まず、幾つかの貸し倉庫に分けて保管している武器と現金を取りに行かなければならないが…。 ーー泣けるぜ、まったく。 胸に呟いてザイルを掴み、壁を蹴った。 |
穴だらけのメルセデスは結局、乗り捨てた。あんなモノで移動してたんじゃ、目立って仕方無い。レンタカー会社への言い訳も思い付かなかった…どうせ保険には加入しているんだろう。損はさせていない筈だ。 バスターミナルーーだたっ広い空き地に仮設トイレと小さな店がひとつあるきりだがーーには6台のバスが止まって休憩中だった。人波に混じり、もとからの乗客の振りをしてグレイハウンドに乗り込む。比較的混み合っている便を選んだ。運転手はポルノ雑誌に夢中だ。横を通り過ぎた俺を振り返って見る事もしなかった。 10数マイル引き返す事になるが、ノースカロライナには『スポンサー』所有の別荘がある。追っ手は上手く俺が州を越えたと考えてくれるだろうか。 『スポンサー』…地下に潜って、仲間と対アンブレラ活動を展開していた時現れた貴重な資金提供者だ。純粋な正義感からか、欲得ずくか…恐らくは後者だろうが。アンブレラの瓦解と共に仲間とも別れたが、クリスーーラクーン市警S.T.A.R.Sの隊員だった男だーーは執念深くウェスカーを追っている筈だった。合流出来ればそれに越した事は無いが、足取りぐらいは掴めるかも知れない。 武器も調達したかった。ブローニング一挺、しかも予備弾倉すら持っていない状態では心許無い。弾切れのベネリもメルセデスのシートに置いてきていた。物騒なものをぶら下げて歩いていては通報されてしまう。逮捕された挙げ句消されては適わない。 とっくに『スポンサー』はスポンサーでは無くなっているかも知れないが、とにかく勝手の分かる場所で一度体を休めたい。カンパニーが『スポンサー』の存在を勘付いていない方に賭けた。 別荘は何もかも昔のままだった。 腐りかけたテラスも、中庭の鮮やかな緑の木々も。人の出入りは久しく無いらしく、玄関には海からの風が砂を降り積もらせていた。庭を回り込んで、一通り様子を窺う…細工された様な跡は見つからない。尚も周囲に気を配りながら、裏にある地下への出入り口へ向かった。 錆び付いた扉が耳障りな音を立てた。思わず怯んだが、周囲は静けさを保っている。地下へ伸びている階段に銃口を向けたが、ここにも人の気配は無い。中へ入って、扉を閉じる。 暗がりに眼を慣らしながら、ゆっくりと進んだ。 地下室を出、リビングを通り抜けて階段へ…2階の一室を塒にしていた。最後に部屋を出た時、FA-MASと手榴弾を数個隠したままにしている。何事も無ければ、そのままになっている筈だ。 カーテン越しに差し込む光が埃を反射して光っていた。廊下にも足跡は無い。開け放たれたままになっている扉から足を踏み入れる。湿った様な臭いが籠っていた。不意に頭を擡げた懐かしさに、微かに胸が痛む。 壁際に置かれたベッドの下を探ろうと屈み込んだ時、床が軋む音が響いたーー俺のものでは無論、無い。ブローニングを握り直す。窓を蹴破って飛び出そうとする衝動を懸命に堪えた。囲まれているかも知れない。 相手からの死角になる、扉の陰へ移動するー…落ち着け。深呼吸するのと部屋の空気が動いたのが同時だった。 一気に躍り出て、人影の鼻先にブローニングを突付ける。 が、俺の顔前に銃口があった。 |
「 H i , Leon? 」 蒼い勝ち気な瞳が真っ直ぐに俺を捉えている。無造作に束ねた茶髪が陽に透けて光っていた。頬に浮かぶ薄いソバカスがチャーミングだ。本人は嫌がっていたが。 「ーー… H i ,Claire 」 間の抜けた返事をするのが精一杯だ。 クレア・レッドフィールド…クリスの妹だ。ラクーンでは行動を共にしていた。ベレッタを構えたまま、挑む様に睨んでいる。少し痩せて…随分大人びた。ーー赤いライダースーツが良く似合う。 「久しぶりだ…ー元気か?」 だが彼女は依然鋭い眼付きで、俺の頭の中を読もうとしている。構えたベレッタもそのままだ。 「ーーあなたが裏切ったの?」 溜め息を吐いてブローニングを下ろした。 「追われてるのは俺も同じだ」 どさ、とベッドの端に腰を下ろした。埃が舞い上がったが、どうでも良かった。そのまま仰向けに転がって、頭の下で腕を組む。煤けた天井を見上げた。 「ワシントンからずっとこの調子だ…ラクーンの生き残りが狙われてるって?」 「知らなかったの?」 尖った声が返って来た。ようやくベレッタをホルスターにしまう。だが俺を視る目付きはそのまま、俺を探っている。 「カンパニーは隠し事だらけさ。外の人間の方が良く見えてるだろう」 投げやりに言って、ジーンズのポケットを探っている自分に気付いた。又、持っている筈の無い煙草を探している。 実際、CIAは訳の分からない組織に思えた。諜報員の数なんて、管轄の人間にも良く分かってないんじゃないか?末端のタレコミ屋まで含めれば、それこそ星の数だ。一度「TOP SECRET」のスタンプが押されればそれで大統領にも知らされない事項の出来上がり、当のCIA長官さえ知らない作戦もそう珍しい事じゃ無い。 瞼を閉じると、強烈な睡魔に襲われたーークレアに接触出来た事で、張りつめた糸が切れかかっているらしい。 「ちょっと、レオン?こんな所で寝ないでよ!」 「…ああ」 くそ!息を吐いて勢い良く起き上がった。確かにこんな所でピクニックをしてる場合じゃない。持っていない事を承知しながら、尋ねてみた。 「…煙草、持ってないか?」 「止めたんじゃなかったの」 つれない返事が返って来た。 ほぼ3日ぶりの熱いシャワーが心地良かった。 鏡を覗いて、無精髭をあたる。改めて自分の顔を見ると、酷い有り様だった。これじゃホームレスの方がまだマシと言うものだ。 クレアの運転するドゥカティの尻に乗って運ばれた先は5マイル程離れた山荘だった。交渉の上手いヤツでも居るらしい…次々と『スポンサー』をひっぱってくるとは。が、感心してみせた俺に彼女はやっと白い歯を見せ、「オフシーズンだからね」とウインクを寄越した。無断借用と言う訳だ。 もうすぐクリスとも合流すると言う。3時間程寝かせてくれと断りを入れて、ソファへ横になった。 ーー色鮮やかな一夜を想い出していた。くちびるの感触がまだ、残っている様な気がしている。掌の中にあった、彼女の熱もー…。 俺の中で彼女はいつも、ただ静かに俺を見据えている。決して手の届かない永遠の女。けれど、もし…ー本当にもし、俺の横に並んで歩き始める事があったとしたら、俺は一体何を思うのだろう。 俺のものにはならない女。そう承知しているからこそ、こんなにも追い求めているのかも知れなかった。 |
その姿を消し始めた月を掠めて、星が駆けて行く。 ーーあの星はただ墜ちて行くだけなのだろうか。白み始めた空を見上げて、ぼんやり考えていた。 開け放した窓から続くウッドデッキへ出、手摺に凭れる。早朝の冷気が火照った体をひんやりと包み込んだ。 ぎし、と床を鳴らして足音が近付いて来る。振り向かずとも分かった。 「ーークリス、か…」 「久しぶりだ、な…どうしてた」 横に並んで、煙草を差し出てくる。一本引き抜いて咥えると、クリスが火を点けた。ライターには、S.T.A.R.Sのエンブレムが入っていた。使い込まれたジッポー…鈍い輝きを放っている。 クリスは自分も一本取り出すと、俺と同じ様に手摺に凭れた。 「せっせと仲間を募ってたがーー…あらかた潰されたよ」 「何がどうなってる」 片方の眉を上げて、俺を見返す。 「クレアはまだお前を疑ってるーーあれはお前が初恋だったからな、余計に思い込んでるんだろう」 「ー…気持ちは分からなくも無いが、濡衣だぜ」 紫煙を吐き出す。久しぶりの煙草は肺に堪える様な気がした。後半の台詞は聞かなかった事にする。 「ウェスカーが噛んでる…か」 呟くと、クリスの肩がぴくりと震えた。 俺はウェスカーには会った事が無い。だがクリスの執着も分かる様な気がした。心許していたチーフにその隊を潰されたのだ。…化け物の試験台として。尋常な殺され方では無かったと聞いている。俺の体験からしてもそれは確かだろう。 しばらく黙ったまま、二人で空を見ていた。 何にせよ、情報が少な過ぎる。これじゃ、逃げ回るだけだとしても手が足りない。ラクーンでは脱出が目的だった。道を阻むゾンビ共を排除すれば事足りたがーー…何故今頃になって生き残りを潰して回っているのか、しかも政府が?何の為に? 「バハマにバリーが居る筈だ」 唐突に、クリスが口を開いた。 B.B…バリー・バートン。懐かしい名前だ。暫く一緒に活動していた。バハマだって? 顔を上げた俺の眼を見返して、クリスは続けた。 「連絡は取れて無い…が、最後の交信ではそう言ってた。『スポンサー』探しさ。いいツテがあったらしいんだが…」 顔を顰める。…合流する気か?フロリダまで南下すれば船で行ける。が、その手段が問題だ。人込みに紛れるのは気が進まないが… 「何時までもこんな所でのんびりしてる訳にも行かない、か」 溜め息と一緒に呟いた俺に、クリスはただ肩を竦めてみせた。 「本当にあっちへ渡るだけだな?アンドロスへ着いた後の事ァ、俺ァ知らねえぜ」 『逃がし屋』のキムは諄い程念押しした。 名前からして、チャイナ系なのだろう。白シャツの襟元まできっちりボタンを止めているくせに、下はバミューダパンツにサンダルと言ういでたちだ。訛りの強い英語で機関銃の様に話す。 「小遣いにもならねぇ、バハマなんてよ。てめぇで泳いで渡れってんだ」 「何か言ったか」 クリスは煙草を咥えたまま熱心にベレッタの銃身を拭いていた。無表情に銃口をキムに向ける。 「オーライ、オーライ、その物騒なモノをしまってくれ。タマが縮んじまう」 両手を振って舵に向かう。 ノースカロライナを出てから、もう一週間経っていた。 貨車に忍んでフロリダまで移動するのは大した手間では無かったが、『逃がし屋』を捕まえるのに殊の外時間がかかった。犯罪者、多重債務者…金さえ積めばあらゆる手段を使って逃亡させる『逃がし屋』。旧知の人間がいない訳では無かったが、アシがつくのを恐れた。もっとも、このキムと言う男も信用は出来無い。 B.Bとはバハマに着いてから繋を付ける予定だ。通信は残らず傍受されていると考えて良い。合流するなら早い方が良い。B.Bがバハマにいないとなれば…その時はその時だ。 「見えたぜ。アンドロス島だ」 キムが指差す。目指すのは首都ナッソーだが、キムとの契約は手前のアンドロス島までだった。部外者にはなるべく目的地を教えたく無い。 バハマは初めてだ。キムの言葉に顔を上げた時、島を回り込んで巡視艇が向かって来るのが見えた。 |
「アンタら、一体何しでかしやがったんだ!」 泪混じりの声で叫びながら、キムは操舵に忙しい様だ。 背後の巡視艇から、水面を蹴散らして絶え間ない銃弾が追いかけて来ている。幸い応援の船が来る様子はまだ無い。時折船尾を掠める弾丸に怯える様に船は蛇行していた。 『沿岸警備隊なら鼻薬をたっぷり嗅がせてある』そう言ったキムの言葉が終わりきらないうちに、巡視艇からいきなり発砲してきた。ーー大した鼻薬だ。 「奴等、コースト・ガードなんかじゃ無い」 クリスが双眼鏡を投げて寄越した。腹這いになったままそれを覗く。 巡視艇には2人ー…しかしコースト・ガードの制服は着ていない。海軍のものでも無い…ごく普通のTシャツにジーンズーーひとりは派手なアロハシャツを羽織っていたーーで自動小銃を乱射している。ただし、このクソ暑いのに頭からすっぽりとマスクをしていた。 「何か武器は!」 エンジン音が邪魔だ。クリスはわざわざキムの耳元で怒鳴っている。 「派手な真似は止してくれ…商売あがったりだ」 「生き残れたら考えな!」 尚も言い募ろうとするキムに被せる様に声を荒げた。諦めたらしく、後ろ手に船底のキャビンを指差す。 「ロッカーにゲパード(対物ライフル)がー…」 「クレア!」 扉を叩いて呼んだ。その扉が開きかけた瞬間、 「RPG!避けろォ!」 クリスが叫んだ。振り返ると、巡視艇がすーっと下がって行くのが見えた。空を切ってこちらへ向かって来る黒い塊。船は急速に右旋回した。 甲板を掠めて、弾頭は海へ墜ちた。海面が盛り上がると同時に巨大な水柱が上がる。風に翻弄される木の葉の様に船が揺さぶられている。ゴッ、と鈍い音がしてコンソールが血に染まったかと思うと、キムの体が波に攫われて行った。 「キム!」 甲板へ飛び出しかけたクレアの腕を掴む。 「構うな!舵を頼む!」 不満気なクレアに構わず、入れ違いにキャビンへ潜り込んだ。慌ただしく作り付けのロッカーを開ける。ゲパードと、AKが無造作に突っ込まれていた。 キャビンから上半身だけ乗り出して、クリスにAKを放った。ゲパードを据える。 「距離を取れ!近過ぎる」 「無理よ!あっちの方が速いわ!」 悲鳴の様なクレアの声が響く。構わずに船首に向けて引金を絞った刹那、船は大きく左に傾いだ。 「 Damn!」 一発目、外れ!操縦室を狙って放った甲弾は船首のアンテナをへし折って消えた。排莢する。バシャッと飛び出してきた薬莢が甲板を跳ねて海へ落ちた。 ゲパードの照準が狂っている。ロッカーに投げ出されていたままだったんだ、仕方無い。 「回頭しろ!」 怒鳴っておいて、甲板へ飛び出した。ゲパードの銃架を欄干に引っ掛ける。そのまま足を突っ張った。向こうが速くても、こちらの方は小回りが利く…すれ違い様土手っ腹に穴を開けてやるつもりだった。すぐ横でクリスが屈んでAKを構えている。 肩を摩った銃弾に耳鳴りがした。その耳鳴りの中に、確かに響くーー力強いローター音。新手か? 絶望的な気分で顔を上げたが、目に飛び込んで来たのは巡視艇目がけて尾を引く塊だった。 終幕は呆気無かった。轟音と共に黒煙を上げ、業火に包まれて沈んで行く巡視艇ー…その炎を打ち破って現れたブラックホークの中に俺達は居る。 「あれだけ派手にドンパチやってりゃ誰にだって分かる」 レシーバーの中でB.Bの声が陽気に弾んでいる。俺はと言えば、気が抜けて何も喋る気が起きなかった。クレアも放心した様に海面を見つめている。 「随分と気前良い『スポンサー』だな?」 クリスの声はシニカルだ。…ポケットから取り出したずぶ濡れの煙草を見つめていると、B.Bがラッキーストライクを箱ごと投げて来た。 「まあな」 下手糞なウインクを寄越す。…両目瞑ってるぜ、B.B… 「気難しい爺さんだが、話は分かる。…秘書ってのがなんつーか、こう…」 「秘書?」 「ああ。エイダとか言ったかな。エキゾチックな美人で…」 はしゃぐB.Bの声がすぅっと遠ざかって行った。 |
島はスコールに見舞われている様だ。時折ざあっと激しい雨が窓を叩く。…街の喧噪も今はまだ、遠い。 「まあ、寛いでいてくれー…」B.Bはそう言って、慌ただしくまた何処かへ消えた。用意された部屋で、クリスはベッドの端に腰掛けてベレッタを分解している。 ソファに仰向けに転がって、煙草を吹かしながら考えていた。 B.Bにはエイダの方から接触して来たらしい。「良い話がある」ー…と。俺達にとってのか、エイダにとってのものかは計りかねた。『スポンサー』が絡む以上、俺達の行動にも制約があるかも知れない。だが、孤立無援よりはいくらかマシな筈だーー多分。当面は掌の上で踊ってやるより他無いのだろう。…それにしても、暑い。 「ー…あの女、知っているのか?」 空の弾倉を覗き込みながらぽつりとクリスが問いかけて来た。 「ーー…」 答えに窮した。知っていると言えば知っている。知らないと言えばーー彼女の事は何も知らない。 クリスは鼻でふっと笑って、ベレッタを構えてみせた。 「深入りはしない方が良い」 深入り?…もう遅い。大火傷してるさ。 苛立っていたーー全てに。運命に抗うと決めてラクーンを出たあの時から、歯車は絶えず廻り続けている。抗っているつもりが、翻弄されているのかも知れなかった。今更後戻りは出来無いーーするつもりも、無い。だが時々全て投げ捨て、逃げ出してしまいたくなるのも事実だ。いっそ劫火で焼き尽くされていた方が楽だったのかも知れない。 出会わない方が、良かった。烈しく彼女を追い求める一方で、醒めた自分が俺を見ている。訳の分からない焦燥感、持って行き場の無い憤り、劣情ー…。 堂々巡りを続けているのは、こんな風に時間を持て余して居るからだ。早く何もかも終わらせてしまいたかった。 室内には、空調の音だけが低く響いていた。 磨き込まれた大理石の床に、毛足の長い絨毯。高価なローズウッドを惜しみ無く使ったテーブル、皮張りのソファ…全く用が無いだろうに、暖炉まで設えてあった。『バハマ』など微塵も感じさせない、英国風の部屋。豪華だが温もりは無い。家主は相当な権威主義らしかった。…落ちぶれた領主に追従したところで仕方無いだろうに。 ソファから立ち上がって、テーブルの上の灰皿に煙草を押し付ける。傍の金のケースにはこれだけはバハマ産らしい葉巻きが詰め込まれていたが、喫う気にはならない。 「ご大層な事だ。…爺さんってのは一体何者だ?」 クリスは苛々と靴を鳴らした。無理も無い。『スポンサー』と対面するのに用意されたのは堅苦しいスーツだった。…服装に一体何の意味が?クレアも所在無い様子で、ベビーピンクのドレスの裾を弄っていた。 「そう尖るなって。言ったろ?気難しいんだよ」 そう言うB.Bも窮屈そうに襟元に指を突っ込んでいる。 B.Bには悪いが、自分の威厳を示す為だけに俺達にこんな格好をさせているのだとしたら、そんな『スポンサー』は願い下げだ。尻尾を振る番犬が欲しいなら他を当たって貰いたい。俺達が何の為に命を賭けてると思ってやがる?ブラックホーク1機じゃ足りないぜ。 尚も何か言い募ろうとクリスが口を開きかけた時、扉の向こうからキイキイと音を立てて何かが近付いて来るのが聞こえた。…『スポンサー』なのだろうか?誰かがごくりと唾を呑んだ。 「ーー…待たせた様だね、済まなかった」 『スポンサー』は、車椅子に乗って現れた。 麻のスーツを品良く着こなし、柔和な微笑を刻んでいる…だがその瞳は笑っていない。獲物との距離を測る鷹の眼だ。左目に金の鎖が付いたモノクル(方眼鏡)とは随分と古風な…この辺りが、厳格な権威主義の片鱗と言える。滑らかなキングス・イングリッシュ。 その横にひっそりと影の様にーー…エイダが寄り添っていた。目立たない為の配慮だろうか、地味なグレーのパンツスーツ。唇だけが紅かった。彼女の瞳はガラスの眼だ…周囲の景色を映してはいるが、何も視ていない。 ソファに座り込む。膝に肘をついて、顔を覆った。感情の無い彼女を見続ける事が辛かった。 |
膝の上で小刻みに震える手を握り絞めた。…クレアの気遣わし気な視線が煩わしい。 「合衆国政府は君達の口を封じておいて、ウェスカーと手を組む事を決めたらしい」 一息に言って、老人は顎をしゃくった。エイダが手慣れた様子で葉巻きを取り上げ、喫いつけて彼に手渡す。クリスの舌打ちが聞こえた。 「ー…何の為に?」 B.Bの語尾も震えている。ふむ、と頷いて老人は続けた。 「ま、その技術力を買って、と言うところだろうね。ラクーンのほとぼりも冷めた頃合いだ。正式に法人化して傘下に入れるー…内部から食い荒らされるのは目に見えていると言うのに、馬鹿な連中だ」 吐き捨てる様に言う。ーーだが、答えになって無いぜ、爺さん。 「技術力、と言ってもー…」 「単純だ。事の発端はエネルギー問題だよ、クリス君」 問いかけたクリスを一瞥して、老人はあからさまに厭な顔をした。口を挿まれるのを極端に嫌うーー尊大だな。常に人にかしずかれている特権階級にありがちなタイプだ。 「石油資源は後30年もしない内に枯渇するーー新たな資源が必要だ。しかも、早急に」 「メタンハイドレート、か」 呻いた。老人は満足気に頷いている。 『燃える氷』…メタンハイドレート。ガスハイドレート自体は1930年代に発見されている。具体的にメタンハイドレートの研究が進められ始めたのは1996年とまだ日が浅い。石油や石炭の燃焼時に比べて二酸化炭素の排出量が約半分、地球温暖化対策としても有効な次世代エネルギーとして注目を集めている。…が、その多くが海底数百mの深海にある為、低コストかつ大量に採取する事は困難だ。2〜3度温度が上昇しただけでメタンガスが溶け出す為に採取時のリスクも大きく、石油やガスの様な採掘方法が使えないーー現状ではまだ、実用化には程遠い。 「その技術をウェスカーが…アンブレラが持っている、とでも?」 「その様だな。例のウィルスを使って深海でも作業出来る『人間』を造る事も可能らしいと聞いたが」 一度言葉を切って、俺達を見回したーー芝居がかった所作だ。 「連中の真の望みは、ウィルスそのもの…BC兵器だよ。 他国に侵攻するとなると、手間も費用もかかる。大義無くしては国民の支持も得られまい。…イラクの二の舞いは避けたいと考えたんだろう」 ーー侵攻…!?思わず顔を上げた。喉がひりつくー… 「ロシアだよ」 言葉を無くした俺達ににやりと笑って見せながら、老人は繋ぐ。 「宣戦布告などする必要も無い。例のモノを使って食い潰す。誰も気付かん内に政権交代させるーー言う成りの傀儡政権にしておいて、植民地化する計画だ」 …ヤクーツク近郊で大規模な堆積層が発見されたと言う話は聞いている。アラスカやニイガタ沖の物とは比べものにならないと言う噂だ。だが、『侵攻』とは…。 「ーどうして、そんなこと…」 クレアは瞳一杯に泪を溜めていた。 反吐が出そうだ。ーー迷走する祖国。巨大な白頭鷲は何時から屍肉を啄むハイエナに成り下がったのだろう。為政者達はいったい、何色の夢を見ていると言うのか。 「…が、外交手段で何とか…」 「ロシアが素直に採掘許可を出すと思うかね?元々目の上のタンコブだ、消えて貰った方が良いんじゃ無いかね?」 暫く誰も口を利かなかった。 言うだけの事は言った、とばかりに老人はエイダを見上げたーーくるりと車椅子が踵を返す。 「ーーあんた一体何者だ?なんでそんな事知ってる?」 それが合図だったかの様に、それまで啜り泣くクレアの肩を抱いていたクリスが顔を上げた。 「ワシントンには友人が数多くいるーー無論クレムリンにもね」 顔だけ振り向いて老人は続けた。 「我々は世界の勢力図が書き換えられる事を望んでいない」 ーー我々、は。つまり爺さん独りの考えじゃ無い。『スポンサー』は団体様って事か。 「私の兵士達は優秀だが、経験不足でねーー君達には期待しているよ」 両眉を上げ、鷹揚に言ってのける。現れた時と同様に、キイキイと耳障りな音を残してーー老人は今度こそ扉の向こうへ消えた。 |
周囲の動きが慌ただしくなっていた。ブラックホークのタービンが甲高い音をたて、ひゅんひゅんとローターが空を切り始める。背後では、パイロットが律儀にチェックリストを読み上げていた。 「 I can't kill you 」 エイダの声が俺のなかで木霊している。 「生き残って。それだけが私の望みー…」 通り過ぎるだけのスコールと思っていたが、本格的な嵐だったらしい。雨は増々激しく降り募り、風が時折部屋を揺さぶっていた。窓から見えるエメラルドグリーンだった筈の海が、今は溟く荒れている。 「ー…くそっ!」 腹立ち紛れに、脱いだジャケットをベッドに叩き付けた。クリスは黙ってポケットに手を突っ込んだまま窓を見ている。 「ーーどこまでが真実だと思う?」 低い声で、誰にとも無く問いながら煙草を咥える。かちん、とジッポの音がやけに大きく響いた。 「さて、な…。最後の台詞は本音だと思うが」 ひとつ息を吐いて、クリスの差し出す煙草を取った。『我々は世界の勢力図が書き換えられる事を望んでいない』かー…。俺達の知らないところで、地球は廻っている…何時の世も。B.Bも面倒なカードを引いて来たものだ。 「援助するってんだ。せいぜい利用すりゃいい話だろ」 額に手を当て、俯いたままB.Bは面倒臭げに言った。あの爺さんが利用できるタマかよ。俺達を当て馬ぐらいにしか思っちゃいないぜ。 「まあ…どの道話に乗るしか手は無い、か…」 今更引き返せはしないーーそう、何処にも。 「クレア」 唐突にクリスは妹を振り返った。 「着替えて来いよ。ーー言っちゃ悪いが、似合わない」 クレアは一瞬膨れたが、素直に踵を返した。ー代わりにばたんと大きな音を立てて扉が閉まる。喉の奥でくっくっと笑いながら振り返ったクリスの瞳は優しい。 「ーー奴等とヤる事になるんだろうが、出来ればクレアはここに置いて行きたい」 「気持ちは分かるが、納得すると思うか?」 「お前から言って貰えばー…」 隣で笑いを噛み殺しているB.Bを横目で睨んだ。俺から言ったところで、あのお転婆娘は言う事を聞くまい。 「クリス、連れてけよ。置いてったところで追いかけて来るぜ。迷子になっちまったら困るだろ?」 B.Bが横から割って入った。迷子ーー確か絶海の孤島からSOSを受信したことがあっな…。クレアー…時に瞳の中に思慕の色を見付けてしまう事がある。だが俺にとっては、クリス同様可愛い妹にしか思えない。 いきなり背後の扉が開いた。てっきりクレアが戻ったものと思ったが、 「随分楽しそうな相談ね?」 ーーエイダの低い声がした。…黒いチャイナドレスの深いスリットから伸びた脚が眩しい。B.Bの軽い口笛が聞こえた。腰の辺りに刺繍された虹色の蝶が一際目をひく。 「…ノックも無しか」 自分でも驚く程硬い声しか出ない。綻んでいた胸に楔が打ち込まれた様な気がした。 「彼からの『採用試験』よ」 ずかずかと部屋に入ってクリスの胸に書類を押し付けるーー遠ざかっていた怒りがまた、頭を擡げて来た。エイダの所為じゃ無い、誰の所為でも無い。分かっている。だが俺は、ふわりと俺の横を通り過ぎようとした彼女の手首を掴んでいた。 「ー…エイダ」 クリスもB.Bも訝し気に俺を見ている…分かってる、だが止められ無い。 「ー…何のつもりだ。ウェスカーと組んでたんじゃ無かったのか」 声を、絞り出す。語尾が震えるのはどうしようも無い。裏切られるのを恐れてるー…裏切る?何を? 「レオン」 B.Bが首を振りながら近付いてきた。 「落ち着けよ、レオン。昔がどうでも、今はー…」 気を取られて緩んだ俺の掌から、エイダの手首がするりと抜けた。何事も無かった様に部屋を出て行く。深い袖ぐりからちら、と覗く弾痕が俺を誘っている。あの夜の…瑕。それを目にした瞬間、ふっと周囲から色が消えたー…扉の向こうへ静かに消えようとしている彼女の背中。…もう駄目だ。 「レオン!!」 クリスが呼んだが、どうでも良かった。 |
裏庭に続くバルコニーへ出ようとしたエイダの腕を捕まえた。この嵐の夜に散歩か?…それとも本当の飼い主に報告か。 「ーー借りは返したわ、レオン」 冷たく冴えた瞳が俺を捉えている。分かってる。そんな言葉を聞きたいんじゃ無いーーあの夜の、くちづけの意味が知りたいだけだ。 「…今度は何を企んでる?爺さんと組んで俺達を嵌める気か」 「お喋りな男は嫌われるわよ」 背を向けようとした彼女を強引に引き寄せるーー中途半端に開きかけた窓が風に煽られ、ばん!と音を立てて開いた。吹き込んでくる風雨に嬲られた黒髪が彼女の貌をーー隠す。 「私は、私の意思でしか動かないーー貴方には、関係無いわ」 ぐっと心臓を鷲掴みにされた様な胸の軋みーー…関係、無い!かあっと躯が熱くなる。彼女の頸を掴んで、乱暴に壁に押し付けた。瞳と瞳がぶつかる。 その瞳のなかを覗き込みながらーー唇を重ねた。烈しく…彼女を思い遣る余裕なんて無い。逃れようとするその唇を執拗に追った。彼女の脚を割って、剥き出しの太腿に触れる。 そこにベルトで固定されたナイフを探す彼女の手を上から押さえた。耳朶を噛んで、唇を首筋に降ろすーー彼女が甘い溜め息を吐いた。またくちづける。更に深く。 「ーー…ん…っ」 彼女の白い腕が俺の腰を引き寄せた。くちづけに応えながらーーが、微かにちゃき、と音がして俺の顎に銃口が突き付けられていた。スラックスの後ろに突っ込んだままにしていた俺のブローニング。銃口を通して伝わって来る、彼女の掌の震え…。 「…撃て、よ」 低く言った。銃身を掴んで彼女の掌ごと俺の胸に押し当てる。 「撃てって言ってるんだ!」 「 I can't kill you ! 」 俺の叫びに重なる様に彼女の悲鳴が響いた。…目尻に泪が溜まっている。綺麗な泪だった。 がちゃん、とブローニングが床に落ちた。束の間、俺の胸に顔を伏せてー…そしてまた、何事も無かった様に俺の横をすり抜けて嵐の中へ飛び込んで行く。 「生き残って。それだけが私の望みー…」 それでもすれ違い様、俺の耳に囁きを残してーー…。 「ーーはは、は…」 拳を壁に叩き付けて、そのまま壁に凭れた。乾いた笑い声が洩れる。 ーー俺達は、夜空に瞬き損ねた流星の様だ。 互いの引力に惹かれて巡り会ったものの、軌道には乗れずにぶつかり合った。寄り添う事など決して無い。ただ尾を引いて墜ちて行くだけの仮初めの星。 頬を濡らしたものが雨なのか、泪なのか分からないでいた。 |
公表して事を荒立てたく無い、と言うのが爺さんの言い分だった。合衆国そのものを揺るがして『勢力図』を書き換えたく無いと。ーーじゃあどうすれば良いってんだ。出来れば手っ取り早く行きたい。 『証拠』を押さえろと言うのが『採用試験』の内容だった。クリスがウェスカーに執着している様に、彼は俺達に固執している。俺達が生き延びている間は時間がある、と。時間稼ぎをしながら『仕事』をこなすーー色々と注文の多い爺さんだ。押さえた『証拠』はSVR(ロシア対外情報局/旧ソ連KGB)辺りにリークして、ロシアには恩を売り、合衆国にはその尻尾を踏んでおく気でいるのだろう。 BC兵器の生産工場候補として名が上がっているのは3箇所。ブラックホークは今、そのうち一番近いケミカル工場へ機首を向けていた。とは言え、このまま乗り付ける、と言う訳には行かない。こんな派手なヘリで市街地は抜けられない。レーダーを避けて沿岸を低空で移動し、適当な所で待機させる。 工場では、試験的な量産の準備が進んでいるらしかった。ウェスカーとの手打ちが済んだら、法人化を待たずに始めるつもりなんだろうーー設計者から入手したと言う図面を睨む。 工場を破壊するだけなら、このブラックホーク1機で事足りた。右のハードポイントにはミサイルランチャーをAGM(空対地ミサイル)4発入りでぶら下げて来ている。ー…『証拠』をどうやって持ち帰るか、が問題だった。 大体の情報が収まってるコンピュータは物理的に孤立している。どのネットワークにも繋がっていないそこへ潜り込むのは、どんな天才ハッカーにも無理だ。ましてや、お世辞にも詳しいとは言えない俺達がやるのではー…考えられない。3日ごとにバックアップを取っていると言う話だ。最新のモノは諦めて、そちらの方にしよう。 工場の崖下にある取水口から侵入して、配水管沿いに配電室まで10分、と言ったところか。ー…そこから更にコンピュータルームまで8分。辿り着いた所で主電源を落とすーー予備電源に切り替わるまで12秒。無論コンピュータ本体は別電源になっていて落ちる事は無いが、部屋のセキュリティは無防備になる。その間に別メディアのバックアップを頂くー…すんなり事が運べば、だが。 気掛かりはやはり警備状況だった。爺さんの書類ではデルタ・フォースの連中が警備員を装って数人配置されているらしい。それだけならまだしも、『量産準備中』の筈の化け物が放し飼いにされていたら…?考えたくも無い。 例によって煙草を咥えたまま、クリスは黙って窓外を見ていた。…爺さんの事は信用出来ない、と言うところで俺とクリスの意見は一致していた。B.Bは楽観的だが…彼にも多少の不信感はある様だ。 俺が配電室を押さえ、クリスがコンピュータルームに向かう。爺さんの『優秀な』兵隊も連れて行くが、やはりこいつ等も信用出来ない様に思えた。バックアップはこいつ等には持たせない。預けた挙げ句置き去りにされたんじゃ、目も当てられない。 爺さんがウェスカーと組んでる可能性は低いが、代わりに政府の連中とツルんでる事も考えられた。俺達をテロリストに仕立て挙げて始末するー…ありそうな話だ。 「生き残って」と彼女は言ったが、俺は却って捨鉢な気分になっていた。…ーどうにでもなれ。 黙ってクリスの手から煙草を失敬する。あれこれ考えてみても仕方無い。 ー…悪いな、エイダ。望みは叶わないかも知れないーーその時おまえはどうするだろう。何も変わりはしないか、な…。 唇の端に微笑が浮かんだ。18:00ジャスト。後20分もすれば到着だ。 ーー溟く沈み始めた水平線の向こうで、またひとつ、星が墜ちた。 巨大な竜が、咆哮と共に焔を噴いて道を阻む。…その背に乗る黒服の邪教徒を狙うが、意外な素早い動きで捉えきれない。 石柱の陰に身を潜めようと振り返った瞬間、竜を繋ぎ止めおく鎖が視界に入った。躊躇う事無く引金を絞る。 瞬間、最期の雄叫びをあげて崩れ落ちるその竜から、人影が滑り落ちて行くのが見えた。どうしても声をかけてやりたい衝動に突き動かされて、叫ぶ。 「たァすけてくださいィィィ!シャアしょうさァァァ!!」 …落ちて行く邪教徒が微笑んで、幽かに頷くのが見えた。 |
Amazing Grace ! How sweet the sound That saved a wretch like me ! I once was lost, but now I'm found, Was blind, but now I see. 大いなる恵みーー なんと甘美な響きだろう こんなちっぽけな私をも救ってくれた 彷徨い続けていた私も今では見い出されて 閉ざされていた瞳が今開かれる。 賛美歌第2篇167番 われをもすくいし ーー…最悪だ。茫然としていた。 街は全て灰色だった。眼下に広がる瓦礫の街。大気はまだ熱く、あちこちでちらちらと燃えている炎だけが鮮やかだ。漂う細かい塵が喉を刺した。辺り一面に籠る、蛋白質の焦げる厭な臭いが吐き気を誘う。べちゃ、と微かな音に振り向くと、熱線で折れ曲がった鉄の棒に刺さった手から、爛れた皮膚が剥けて落ちていくところだった。蹌踉けた足が頭蓋骨を踏んで湿った音を立てる。 白く背中だけを浮かび上がらせて、黒焦げになっている女。頸と頭が皮一枚だけで繋がったまま、瓦礫にぶら下がっている子供、顔が半分溶けている屍体は、何故か体半分顔と反対側の肉が溶けて白い骨を剥き出しにしていた。ーー屍体と解るものはまだ良い、只の肉の塊ー…表面が溶け、血と脂がねっとりと表面を覆っているそれが、あちこちに散乱している。 溢れる泪を瞼の裏で留めて、彼女を探していた。 踏み出そうとしたその震える足をー…誰かが弱々しく掴んだ。跳ね上がった心臓の痛みを堪えながら、振り返る。 地に伏せられた黒髪。俺の足を掴んでいるその腕はぱんぱんに腫れ上がっている。所々焼けて、水脹れが弾けている背中…肩甲骨の下に、そこだけ綺麗な銃痕。 「ーー…エイ、ダ…?」 「レオン…」 風に攫われそうな細い声が、俺を呼んだ。顔を上げる…。 だがその拍子に、溶けかかった右目がずるりと落ちた。ひゅうひゅうと声にならない息だけが喉から漏れている。俺に向かって差し伸ばした腕が、千切れたー…。 「ーーーっ…!!」 跳ね起きた。息が上がっている。ーー胃袋から込み上げて来るそれに、堪らずバスルームへ駆け込んで、吐いた。 ーー…なんて夢だ。だがそれが現実にならないと言う保証は無い。 『ウィルス』に侵された街を核で『消毒』するーー有効なのはラクーンで実証済みだ。ロシアもやるだろう。最も悪いパターンでは合衆国との全面戦争に突入する事も…。そこらを上手く捌くのは、爺さんーー恐らく、何らかのグループだろうがーーの手腕にかかっている。だが、『証拠』のディスクは未だ俺達が持っていた。 作り付けの小さな冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを呷る。脂汗が漸くひいていくー…肌寒さを覚えてTシャツを着た。腰のブローニングを確かめ、次いでーーバックパックを開けた。中には6枚のディスク。 ーー首尾良くバックアップディスクを手にしたまでは良かった。懸念していた化け物の姿は無くーー試験管に小さな幼生体らしきものはいたがーー、デルタフォースの連中も何とか蹴散らして、工場の外へは脱出した。だが、俺達を乗せて還る筈のブラックホークが、墜ちた。 何の弾みかは、解らない。ブラックホークはAGMを1発、工場に向けて撃ち込んだ後ーー唐突に墜ちた。機体そのもので工場へとどめを刺した、と言う訳だ。 「ーー『ブラックホーク・ダウン』って奴か」 クリスは、昔観た映画のタイトルを口にした。ー…笑えない冗談だった。 |
二手に別れて行動する事にした。 「後でな」 肩越しにひらひらと手を振るクリスとは反対方向へ足を踏み出しながらーー途方に暮れていた、と言うのが正直なところだ。ミロクもSIGも工場で使い果たした。手許にあるのはブローニングと予備弾倉がひとつきり。キャッシュも無く、どうやってナッソーまで戻る?バックパックのディスクは何の役にもーーああ、追っ手を呼びつける材料にはなる、か。 丸一日歩いて、寂れたモーテルを見つけた。 無論フロントには寄らず、空室の様子を探る。窓を叩き割ってーー何でも良い、何かかませば音はしないーー入るつもりだったが、呆れた事にどの空室にも鍵などかかっていない。もっとも、室内もそれに相応しい荒れようだったが。 少し横になって休もうと、汗まみれのTシャツを脱いで横になったところまでは、憶えている。ーーあっと言う間に熟睡してしまったらしかった。 ミネラルウォーターを飲み干して口を拭った時、車の音が近付いて来るのに気付いた。 ブラインドの隙間から表を窺うーーダークブルーのアキュラRL(ホンダ・レジェンド)。こんな田舎のモーテルに泊まる様な車じゃ無い。オーナーか?だとしたら随分と羽振りが良い。このモーテルの他にもっと良い稼ぎを持っているんだろう。 太り過ぎの男が、真っ直ぐフロントへ向かって行くのが見えた。エンジンがかかったままだーー空室の鍵といい、こうも開けっぴろげで無防備なのは土地柄なのだろうか。NYあたりでそんな事をした日には、30秒で無くなってる…だが、今の俺にとっては好都合だ。 静かにドアを出て、植え込みの陰伝いに道路へ下りた。通行人を装ってアキュラに近付くー…車のドアに手をかけた時、フロントのガラス扉越しに男と目が合った。 「 Hi 」 出来るだけ愛想良くにこやかに手を振って、そのまま乗り込んだ。何か喚きながら飛び出して来た男を尻目に、そのままアクセルを踏み込むーー数秒のホイルスピンの後、力強くアキュラが駆け出す。 バックミラーには、勢い良く転んだ男が映っていた。悪いな、少し借りるだけだ。ー…後で返すよ、あんたの住所が分かったらな。 マイアミは良く晴れていた。 車を降りて、少しそこらを歩いてみる気になったのはーー島を出た時から付いて廻っている、投げやりな気分のせいだろう。事実、どうでも良くなりつつあった。このまま戻らなかったとしてもー…何も変わらない様な気がして来る。クリスの持ってるディスクで充分じゃ無いか? パームツリーが潮風に揺られてざわざわと喋っていたーー客はビーチに繰り出しているんだろう、道沿いのコテージは静かだった。 ゆっくりと、歩く。 後ろから来たカップルが、足早に俺を追い越して行った。その先にはガーッと騒々しい音を立てて、子供達がローラースケートに興じている。人影はそのくらいだ。 不意に、背後からジョギング中のものらしい軽やかな足音が近付いて来た。 極くありふれたものの筈のその足音が少し緊張している様に思えてーー咄嗟に靴紐を直す振りをして、屈み込む。その頭上を、ひゅ、と鋭い音が通り過ぎた。 続いて振り下ろされたナイフをバックッパックで受け止める。そのまま押し返して、少し相手が蹌踉けた隙に、立ち上がった。 ランニングシャツとジョギングパンツ、ここでは良く見られる格好をした初老の男がそこに居た。日焼けし過ぎた赤ら顔、恰幅が良く人が好さそうな…ただし、右手にナイフーーコールドスチール、か。趣味は俺と似ている様だ。 男の目が少し哀し気に瞬いていた。 |
男は終始、無言だった。 ひゅ、ひゅっ、と鋭い風切り音だけが流れている。ブローニングは傍へ投げ出したバックパックに突っ込んだままだ。こんな観光地で、剥き出しのまま持ち歩く訳には行かない。 どうでも良いと思っていた筈なのに、躯は反射的にナイフを避け続けていた。頬を掠めたナイフが、躯の奥底で眠っていた本能を照らし出すーー生きたい…生き残りたい。 男のナイフが後ろへ下がった俺の脇腹を摩った。蹴り上げた右脚が、男の顔をまともに捉える。ぱっと鼻から鮮血が噴き出したが、男は動じない。にやりと笑って、唾を吐いた。 ーー…くそ!呪いの言葉を呟きながら男の胸元へ突っ込む。今度は肘で男の顎を狙ったが、躱された。逆に蹴りを食らって、吹き飛ぶ。体勢を整える間も無く、また振り下ろされたナイフー…横に転がりながら、躱す。そのまま脚を回して膝裏に叩き付けた。 男が蹌踉けた隙にその背後に立った。腕を男の太い頸に回して締め上げるー…男が血走った目で見上げている。ぎりぎりと締め付ける度、腕に確かに響いて来る脈動ー…。 「ーーっ!」 深々と、ナイフが腕に突き立てられていた。焼け付く様な痛みを堪え、頸に回した右腕を抱え込む様に、左腕も使って更に締め上げた。ーー…ここにも、生きたいと願う一個の命がある。だがそれを許す訳には行かない。 不意にー…「げふっ」と蛙が潰れた様な声を上げて、男が動かなくなった。頚椎をへし折ったと言う感覚は無い。ただ失神しただけの様だ。 力無い男の体を引き摺って、コテージの裏へ回り込んだ。 ブローニングを取り出すーーナイフは返り血が面倒だ。相変わらず騒々しいローラースケートの音が、一際大きくなったのを見計らって、男の頭をーー躊躇い無く、撃ち抜いた。びくっと一瞬痙攣した男の体を見下ろす。 数多の生命をーー今またこうしてひとつの命を奪っておいて、生き抜こうとしている自分が酷く罪深い存在に思えた。だが、抗い難い誘惑ー…遺伝子に刻まれた希いがどうしようも無く俺を突き動かしているーー生きたい! 右腕からナイフを引き抜いて、死体の傍へ膝を付いた。瞼の中が濡れているー…つん、と鼻の奥が熱くなった。そのまま、空を見上げるーー何処までも続く空は、これ以上無い程、蒼かった。 ーー…エイダ…。 終わったら、ーー何もかも全て終わったら、二人で少し歩こう。 こんなぎらぎらした真夏の太陽なんかじゃ無く、秋の優しい木漏れ日の下を、当たり前の恋人同士の様に手を繋いで、指を絡めて歩こう。 自己紹介からやり直してーーそうしたら、素直に言えるかも知れない。 これと言って宛てがあった訳じゃ無い。これからどうしたものか考えながらアキュラを走らせていた。 マイアミまで来たんだ、後は船、かー…。定期船に乗れば早いのだが、生憎文無しだ。サンバイザーに無造作に挟まれていた100ドル紙幣はアキュラと俺の燃料補給に使った。もう1セントだって残っちゃいない。血と汗にまみれたこのなりじゃ、観光客の群れに紛れ込んでも目立ち過ぎる。 後続の車に急かされて、メインストリートに入るー…右端の小さな土産物屋に目が止まった。『逃がし屋』キムが表向き営んでいた店…驚いた事に、店は開いていた。 ウインカーを上げて、車を寄せる。ショウウインドウの中の商品を見比べている振りをして、中を窺ったーーいた、キムだ。 商談なのか口説いているのか、ブロンドの美人について回っている。彼女が唯一の客だ。左足が跛をひいていた。今日はグリーンのアロハシャツに膝丈のジーンズ。ここからじゃ顔は見えない。 やがてブロンド美人がひらひらと手を振りながら出て来たのと入れ違いに、店へ入った。 |
「いらっしゃー…」 愛想良く声をあげかけたキムは、俺の顔を見るなり跛の足を引き摺って来た。そのままぐいぐいと体を押し付け、俺を店の外へ閉出そうする。 「ー…随分と手荒な歓迎ぶりだな?生きてて何よりだ」 「『仕事』ならお断りだぜ。辞めたんだ。大体どのツラ下げて俺の前に出れるってんだよ!」 死にかけたーー俺も、死んだと思っていたーーんだ、無理も無い。キムの顔には眉間から左の頬にかけて大きな引き攣れが出来ている。尚も言い募ろうとするキムを片手で押さえながら、後ろ手に扉の鍵をかけた。かちん、と鳴った音にキムは少し怯えた様に押し付けていた体を離した。 「随分と男前になった様じゃ無いか」 「アンタらのせいだろ!危うくスクリューで足まで持ってかれるとこだったんだぜ!」 …腕の悪い整形外科医の所為だろう。一歩踏み出すと、キムは一歩下がる。 「なんだよ、もうアンタらとは関わりたくねぇんだ。船は沈んじまうし、殺されかけるし、ロクな事が無ェ」 「ーー…サした(密告した)だろ?」 放って置けば何時までも喋っているだろうキムを制しながら、言った。量り売りしているらしいカウンター傍のナッツの山から、数粒摘んで口へ放り込む。キムは開き直った様に両手を挙げた。 「悪いかよ。でなけりゃこうして店なんかできねェ」 「そうだなー…だが、ひとつ貸しだ」 そっぽを向いて鼻を鳴らしたキムの心臓の辺りを人さし指で小突く。 「『仕事』じゃ無いんだ。ーー金を貸してくれないか」 「今なんてった?」 キムはそれこそ目玉が落ちるんじゃないかと思う程、目を剥いた。大袈裟に首を振りながら、カウンターの向こうへ回り込んで行く。 「200ドルでいい」 船賃には充分だ。キムの咥えた煙草を横から攫う。 「ー…こいつは驚きだ。俺が出すと思うのか?」 「やるよ」 後ろ手に店の前に横付けにしているアキュラを指差した。キムはカウンターの中から首を伸ばして、品定めしている様だ。 「上物じゃねェか…アレを売っ払っちまえばいい、何も200ドルぽっちでー」 「手間が惜しくてねー…時間も無い」 それでも俺を値踏みする様な目付きで見ていたが、キムはやっとレジから100ドル紙幣を2枚、抜き取った。 「ホラよ。…ああ、こいつはオマケだ。着替えときなー…血が、臭うぜ」 紙幣を差し出して、趣味の悪い赤地に白くハイビスカスを染め抜いたアロハシャツを放って来た。もっと他に無いのかと店内を見回したが、ハンガーに掛かっているのは何れも同じ様なものばかりだ。仕方無い、か。紙幣をポケットに突っ込みながら、ドアノブに手を掛けた。あまり機嫌の良く無さそうなキムを振り返る。 「ー…ナンバーは替えてあるが、色も塗り替えて置いた方が良いな」 「なんだよ、それ」 トランクに男の死体が詰まっている事は、言わなかった。 「レオーーン!」 大声で駆け寄って来たB.Bは俺を乱暴に抱きしめ、ばんばんと肩を叩いた。 「はっはァ!生きてたぜ!」 「生きてちゃ悪い様な言い草だな」 握手する。暖かい、少し湿った手ー…数日前に別れたばかりなのにもう何年も会っていなかった様な気がする。 「…随分ごゆっくりだったな」 「そっちが早過ぎだ」 クリスは近寄って、煙草を差し出して来た。実際、昨日の朝には着いていたと言う。どんな魔法を使ったのか聞きたいものだ。クレアは心無しか得意そうな顔をして、クリスに纏わり付いている。…視線を感じてバルコニーを見上げると、エイダが俺を見ていた。表情は逆光で見えないーーちゃんと戻って来たんだ、怒るなよ。 「で、ディスクの中身はー…」 「そっちの分を見てみない事にはまだ何とも言えないようだがー…微妙だな」 紫煙と一緒に言葉を吐き出し、空を仰いで…クリスはまた、眩しそうに顔を顰めた。 |
「上手く当たりを引き当てた様だね」 老人は機嫌良く笑って、ディスクをぱん、と指で弾いた。 青いシルクのネクタイを緩く絞め、ジャケットは着ていない。袖口の翡翠らしいカフスボタンが腕を動かす度に淡い照明を弾いていた。 「『彼等』に渡すには少々情報が多過ぎるかな。少し細工がいるだろうね」 「今度はその『彼等』が化け物を増産するんじゃ無いのか」 ソファに座って、腕組みをしたままクリスはーー俺達の懸念をストレートに口にした。 ディスクには、ウィルスや化け物共の組成データがそのまま入っている。一応の暗号化はされていたが、複雑なものでは無かったらしい。現にこうして俺達が確認している。 「無論このまま渡す気は無いー…ま、どの道今のロシアに生産に踏み切るだけの余力は無いだろうがね」 「あんた達はどうなんだ」 胸ポケットを探って、煙草を咥えた。くそ、ライターは何処だ? 「『コレ』を手に入れて一気に世界を握る気は無いのか」 クリスの放ったライターを掴む。火を点けて、またクリスに投げ返した。 「『我々は世界の勢力図が書き換えられる事を望んでいない』と、そう言った筈だよ、レオン君」 モノクルの奥の眼が細められたーー今まで気付かなかったが、反対側、右目はどうやら良く出来た義眼らしい。 「それが例え我々自身の手によるものであってもー…今のパワーバランスが崩れるのは好ましく無い。『世界を支配する』などと言うのは、偏狭な独裁者の夢見る事だ。競争無くして利益は出ない」 ー…成る程、これは本音と取って良いだろう。死の商人か何か知らないが、とにかく争い事を飯の種にしていることは確からしい。喰えない爺さんだ。ー…だが、その爺さんにブラ下がっている俺達もまたーー止そう、考えたところで仕方無い。 「ー…で、これから…」 どうする、と続けかけた俺の言葉を遮る様に、耳障りな音を立てて少しばかり乱暴に扉が開いた。老人が顔を顰める。 「もう少しエレガントな振る舞いを期待したいものだがね」 「ー…サンディエゴからペガサス(高速哨戒艇)が出港した様です」 エイダは無表情に言った。鮮やかな紫の、ミニのチャイナドレス。剥き出しの腕と腿にダガーが3本ずつ。珍しく肩から下げたホルスターにはグロッグが差し込まれている。 「…ペガサスー…SEAL(海軍特殊部隊)か!」 「…誰が呼んだのかしらね?」 エイダは意味ありげに俺を横目で見て、笑った。呼んだ…、俺が?心当たりがあるとすればキムだが…トランクの死体の礼だろうか。 だが本当にSEALなら厄介だ。デルタフォースの様な部隊とは違う。奴等はなんだかだ言っても所詮『軍隊』だが、SEALは『汚れ仕事』に慣れているーー公に出来無い作戦ばかりを担当してる連中だ。 「チーム4(米国本土担当)かな?」 「…『プシキャット』からの連絡ではDEVGRU(カウンターテロ部隊)6人か8人、となっていますが」 「ま、良い。そろそろ此処も引き払おうと思っていたところだ」 老人の言葉が合図だった様に、エイダは俺達に鍵束を放って寄越した。 「先に出るわ。後始末はお願いー…『道具』は奥の部屋よ。それと」 次いで、掌に収まる程の小さな通信機。ディスプレイには『STAND BY』の文字が点滅している。 「諸君、では失礼するよ。ー…また連絡する」 キイキイと音を立てて老人の車椅子が遠ざかって行く。 「また連絡する、だとよ」 B.Bが肩を竦めたーー爺さんは何時まで俺達を利用する気でいるんだろう?口振りからしてアンブレラが邪魔な事は確からしいが、とことん俺達に肩入れする気でもあるまい。 「ーーまず生き延びてから考えるさ」 クリスは鍵束を弾いてまた、新しい煙草を咥えた。 |
双眼鏡の中には、暗い海面を滑る様に奔るゾディアック(水上戦用ゴムボート)が居た。沖合に停泊中のペガサス後部から出て来たそれは、まっすぐに海岸線をーーその延長上にある岬に立つ屋敷を目指している様だ。 エイダは俺が連れて来た様な口振りだったが、それだけじゃ無いだろう。場所を特定しているところを見ると、以前から目をつけられていたに違い無い。後始末を俺達にさせる為の口実だったんじゃ無いか?ー…紫煙と一緒に苦笑が溢れた。 渡された鍵束を使って入った『奥の部屋』はコンピュータルームだった。なんだか良く分からないがデカいハードが2つ、モニターが5つ。俺達が持ち帰ったディスクの他にも様々な解析をしたんだろう。そして、モニターが並べられている巨大なデスクの足元に、信管が突っ込まれたC4(爆薬)の束ー…。信管から延びた導線の先には小さなコントローラーらしい黒い箱。グリーンの『STAND BY』の文字ーー掌の中の通信機にも同じ文字が点滅している。 孤島での幕切れを思い出していた。つくづく『爆破』の好きな女だーー今回はスイッチを押されていないだけマシだが。 「これだけあればココを吹き飛ばすには充分だろうがー…」 クリスはごそごそと部屋中を確かめて回っている。鍵をひとつ使ってロッカーを開けると、俺とB.BにはTAR21とその予備弾倉を2つずつ、クレアにはキャリコを、そして自分はAKを取った。無造作に箱に詰められていた手榴弾を弄びながらー… 「どうする?」 煙草を咥えた。デスクの上に置いてあった航空券は6枚。アリゾナ行きとサウスダコタ行きがある。俺は黙ってアリゾナ行きを取った。 「決まりだな」 B.Bが笑って、サウスダコタ行きの航空券を、破った。 クレアとクリスは先に行かせたーーケミカル工場へ向かった際に置いてけぼりを喰ったクレアは、どうしてもクリスと一緒でなければ先へは行かないと言い張ったのだ。言い争うその時間が惜しかった。SEALの到着は、もうすぐの筈ーー後はタイミングを見て屋敷の『後始末』をするだけだ。大して人手は要らない。 むしろ先発の2人の方が荷が重いだろう。行き先はアリゾナと決めたが、飛行機には乗らない。此処を突き止めたぐらいだ、空港には手が回っている。定期船も同様だーー俺達だけの『船』を確保しておかなければならない。骨の折れる仕事だ。 「来た」 火の点いていない煙草ーー煙草の火と言うのは、案外目立つーーを咥えたまま、B.Bがぽつりと呟いた。 再び双眼鏡を覗く。黒ずくめの男達が、屋敷の門を身軽に飛び越えて行くところだった。総勢6人。定石通り2人1組で、互いを援護するように前後して進んで行く。流石に速い。瞬く間にそれぞれ玄関、バルコニー、裏口へ取り付いて居た。 屋敷の幾つかの照明はわざと落とさないでおいた。音量を絞って、ラジオもつけっぱなしだ。人の気配が無い事を悟られては不味い。 男達が屋敷に吸い込まれて行くのを眺めながらー…掌の通信機を握りしめた。指でボタンを探す。やけに重く感じられるーー男達の命を握っている気がしていた。『仕事』で生命を落とす事など覚悟の上だろうか。それとも理不尽に奪われる事を恨むだろうか。ピーッと小さな電子音と共に表示が『EXECUTION』の赤文字に変わった。ひと呼吸おいて…ーー爆発音。 爆風が誰かの首を巻き込んで噴き出した。更に火柱が自動小銃を握ったままの腕を乗せてあがる。双眼鏡の中を覗いていつか見た夢をーー悪夢を想い出していた。 B.Bがジープのエンジンをかけた。更に続く爆発から逃げる様にアクセルを踏み込む。その横で、俺は尚も見つめ続けていたーー男達を呑み込んで荒れ狂うその炎をー…。 何があっても、どんなモノを背負い込んでも、生き残ると決めた。それがどんなに罪深くともーー…決して赦されざる事だとしても。 'Twas grace that taught my heart to fear, And grace my fears relieved; How precious did that grace appear, The hour I first believed! 私に畏れる事を教えてくれた神の恵み ーーそれを信じた時に初めて、恐怖を和らげてくれた なんと素晴らしい奇蹟だろう! |
雨が降っている。 雨は嫌いじゃないノー少なくとも、雪よりはマシだ。雪は全ての音を呑み込んでしまう。音の無い、静か過ぎる雪の夜は、嫌応無くあの夜を思い出させる。ーー精神まで静かに蝕まれてしまいそうだ。 厄介な事に、未だ癒えない古傷には忘れ難い想い出も混ざっている。 しなやかな彼女の腕、細い腰ーノ冷たいくちびる。 俺のなかに染み付いた、幻。モノクロの悪夢のなかで、そこだけ色鮮やかに切り取られている。 低い声が俺を呼ぶ。頬を撫でる指の感触に、跳ね起きる事さえあった。 忘れたい、忘れたくないーー相反する感情の狭間で、対アンブレラの地下活動を展開した事もある。その中で聞こえて来た彼女の噂ノノ堪らず笑い出していた。どうやら時間が止まっていたのは俺だけだったらしい。結果アンブレラは瓦解したが、俺はーノ凍った時計の針を無理矢理進めた挙げ句が政府の犬だ。 ベッドに仰向けに転がったまま、『令嬢』の写真を眺めていた。 現大統領の評判は、概ね良い。オープンで、フランクでーノだが、『お守』をする人間にとっては迷惑な話ではあった。気まぐれに街へ繰り出す、予定も全て公開。家族の情報まで垂れ流しだ。 ーーノ気が重い。 今度の仕事は大統領令嬢の警護だった。2年間の英国留学ーノ令嬢を英国に送りつけたら、向こうのSSに仕事を引き継ぐ。それだけの話だ。 だが、どうにも気が進まない。こんなに落ち着かない気分なのは、どうしたと言うのだろう。 写真を投げ出して、溜め息を吐いた。 雨は降り続いている。 ベッドから降りて、窓から外を見上げた時不意にーー携帯が、鳴った。 |