遺構は飛鳥時代最大級の方墳 強大な権力者埋葬か

おととし奈良県明日香村で見つかった大規模な石敷きの遺構は、飛鳥時代の巨大な古墳の一部だったことが奈良県立橿原考古学研究所の調査で確認されました。この時代としては最大級の四角い形をした古墳と見られ、専門家は強大な権力を持った人物が埋葬されたと見ています。
古墳と確認されたのは、おととし奈良県明日香村の養護学校の敷地で見つかった飛鳥時代、7世紀中頃の大規模な石敷きの遺構で、当時から古墳の堀だった可能性が指摘されていました。

県立橿原考古学研究所が遺構から60メートル余り南の場所で発掘調査を行ったところ、大きな石を埋め込んでいた痕跡が合わせて5か所で見つかったということです。研究所は、石の並び方などから古墳の石室につながる通路の壁だったと見て、石敷きも含めて古墳であることが確認されたとして「小山田古墳」と名付けました。

古墳は、付近の地形などから一辺がおよそ70メートルの四角い形をした「方墳」と見られ、飛鳥時代の方墳としては全国でも最大級だということです。同じ明日香村の方墳で、蘇我馬子の墓という説がある石舞台古墳は一辺が50メートル余りで、今回はこれを上回っています。

小山田古墳に埋葬された人物としては、専門家の間では、天智天皇の父親、舒明天皇や、馬子の息子の蘇我蝦夷などが挙げられ、今後の調査が注目されます。現地説明会の予定はないということです。

被葬者は舒明天皇? 蘇我蝦夷?

小山田古墳に葬られた人物について、専門家は、7世紀中頃の飛鳥時代に強大な権力を持っていた天皇や豪族の名前を挙げています。その1人が中大兄皇子、のちの天智天皇の父親で、西暦641年に亡くなったとされる舒明天皇です。東京学芸大学の木下正史名誉教授は、「舒明天皇は当時飛鳥にあった寺の規模をはるかに超えた百済大寺をつくるなど、強大な権力を持っていた。当時、最大級の古墳だけに、葬られたのは舒明天皇の可能性がある」と話しています。

一方、この時代、絶大な権力を誇った豪族で西暦645年の「大化の改新」で自害したとされる蘇我蝦夷が葬られたと見る専門家もいます。大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長は、「今回の古墳は蘇我氏の邸宅があった本拠地、『甘樫丘』のすぐ近くにあり、当時の勢力を考えても蘇我蝦夷の墓ではないか。そもそも蘇我氏に反発していた舒明天皇の墓がこの地域に作られたとは考えにくい」と話しています。

調査担当者「相当な権力者」

調査を担当した橿原考古学研究所の鈴木一議主任研究員は「飛鳥時代になるとそれまでの前方後円墳のような巨大な古墳はつくられなくなる。その時期にこれだけ巨大な古墳をつくったことを考えると、葬られた人物は当時の相当な権力者であることが裏付けられる」と話しています。