蹴球探訪
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【スポーツ】帝京高監督・前田三夫「私と高校野球」(3) 厳しい指導の裏に自らの苦悩2017年3月1日 紙面から
球児としての甲子園経験がない、大学では万年補欠だった。そんな、帝京高校・前田三夫監督が語る高校野球には味がある。「高校野球は1人でできるものではない」という考えが徹底しているのだ。そのまなざしは、エリート同様、いや、むしろ、補欠、へたな選手に向けられる方が熱い。自らの体験から生まれた高校野球哲学である。(スポーツジャーナリスト・満園文博) ◆高校は千葉の準決勝が最高「高校球児として、僕は甲子園に行っていない。木更津中央(現木更津総合)3年の夏、千葉の準決勝に進んだが、成東に1−3で負けた。それが最高の成績だった。その年(1967・昭和42年)の甲子園では同じ千葉の習志野が初優勝した。千葉県のレベルが高かった年だった。甲子園に出られていたらと思うと悔しかったよね」 × 木更津中央で、野球少年前田三夫はレギュラーの三塁手だった。甲子園を目指して鍛錬の日々を続けたという。当時は、県予選を経て、南関東大会で甲子園切符を争う仕組みだった。南関東大会を前にストップをかけたのは成東だった。当時、その成東で二塁手として光を放っていたのが、中村勝広である。後に、早稲田大学、阪神タイガースで二塁手として鳴らした大物である。 しかし、前田と中村にはくしき縁があった。実は、ともに1949(昭和24)年6月6日、同じ日の生まれだった。中村は将来を嘱望され、早大主将−阪神監督のエリートコースを歩いた。方や前田は、泥くさく野球の道を歩くことになる。 しかし、ここに前田の描く「野球の道」の原点が隠されていた。 中村は惜しくも、2015年9月、66歳の若さで病気のために帰らぬ人となっている。 × 「それなら、大学で活躍してやろうと帝京大学に進んだ。ところが、レギュラーになれず、万年補欠。1度も公式戦に出たことがなかった。へたくそだったなあ。それでも、野球が好きだった。いつかはレギュラーをとってやろうと一生懸命やっていた。自分から野球を取ったら何も残らないと思って頑張った。そのうち、4年生になると、監督が声を掛けてきた。『おまえ、三塁コーチャーをやれ。そこがおまえのポジションだ』と。うれしかったなあ。公式戦のグラウンドに立てる。一生懸命やっていたら誰かが見てくれていると思ったね」 「野球は、うまいヤツもいれば、僕みたいにへたなヤツもいる。だけど、うまいヤツにだけ光を当てるのはよくない。へたなヤツだって一生懸命やっていることを忘れてはいけない。うまいヤツは、活躍の場を社会人やプロに求めればいい。一方で、へたなヤツにも人生はある。中には、将来、好きな野球を子供たちに教えたいと思っている人間だっているんだ。僕も、子供たちと甲子園を目指して、こうして野球を続けている。へたでもいい、苦労したら、その分、指導者として生きてくるものなんだ。だから、補欠や控え、二軍クラスにも夢を、というのが僕の考えだ」 × 甲子園に出場経験はなく、大学のレギュラーにもなれなかった人だから、話す言葉には説得力がある。厳しい指導には定評があるが、その裏には、自らが味わった苦労の日々が横たわっていて、部員への目配せは人一倍強い。 × 「ベンチ入りが20人の場合でも、18人の場合でも、私は必ず2つを外して選手を選ぶ。1つは一塁コーチャー、もう1つは三塁コーチャーのために用意する。一生懸命頑張っている子に『おまえのレギュラーポジションはここだ。奪われないように頑張れよ』と言って背番号を渡すことにしている。指導者は、うまい選手だけを作るのが仕事ではない。子どもたちに夢を持たせるのも仕事だと思っている。補欠や、試合に出られない子は、常に上を見ている。レギュラー選手のいいところを見ている。そして自身の苦しさも味わっている。そんな子たちの夢や希望を奪ってはいけない」 × 近年、プロの世界とアマチュアの壁が低く、薄くなって、アマ資格を回復、高校野球の現場にも、どんどんプロ経験者が入って来るようになった。このことを歓迎する空気は色濃い。しかし、前田は、歓迎しつつも、別の思いも吐露した。それは、野球を愛する少年たちの心情をおもんばかったものである。 × 「確かに、プレーを職業とした人たちが教えるとなると、野球の技術はアップするかもしれない。優秀な選手にとって、それはいいことだろう。しかし、その陰で、へたな高校球児の存在は、ますます薄くならないかと、僕は危惧している。下手でもいいから、将来、指導者を目指したり、野球の楽しさを伝えたいと思っている彼らの野球を閉ざしてはいけない。野球はエリートだけのものではない。誤解してもらっては困るから言うが、アマ球界に復帰してくる人の中には、教育者として立派な人もいるのは知っている」 × 今年のセンバツは、3月19日に開幕、愛媛の帝京第五が48年ぶりに甲子園の土を踏む。指揮を執るのは、前田監督が帝京で教えた小林昭則監督(49)である。1985年センバツの準優勝投手。筑波大学を経て、ドラフト2位でロッテ入りした元プロ選手。退団後は、02年から10年まで帝京の教諭のかたわら、前田監督の下でコーチを務めた。「小林は賢い生徒だった。どんな監督になったか、楽しみだ。見てみたいねえ」と、顔をほころばせた。 自ら率いる帝京は、2011年夏を最後に甲子園から遠ざかっている。インタビューの最後に前田監督は「まあ、見ていてよ」と、笑った。笑顔の裏に見えたのは、夏への熱い思いだった。 ◆「うまい選手だけでは勝てない」の言葉で思いを強くした 東海大相模を率いた原貢さん前田監督は、前回の蔦文也さん(元池田高監督・故人)もそうだったが、監督の先達たちに教えを乞うことがあった。東海大相模を率いた名将、原貢さん(故人)に教わったある話も鮮明に覚えているという。 原さんは、まだ若かった前田監督に「勝ちたいか」と、前置きして続けたという。「武道の本を読みなさい。アメリカの野球と日本の野球は違う。日本の野球には、文化として、武道の精神が流れている。(アメリカ野球のように)技術的なものだけで選手を判断してはいけない。特に、日本の高校野球は、人々を感動させるものでなければならない。それは、監督や選手の野球に取り組む一生懸命な姿勢から生まれるものなんだ」。 高校野球は、技術や表だけを強くしてもダメだというのである。「うまい選手だけでは勝てない、支える補欠や仲間がいなければ勝てない」とも言われたという。この考えは、苦労人、前田も同じだった。「野球は1人でできるスポーツではない」の思いを強くしたある日の原さんとの会話だった。 <前田三夫(まえだ・みつお)> 1949(昭和24)年6月6日、千葉県袖ケ浦市生まれの67歳。木更津中央高(現木更津総合高)から帝京大学。高校時代は三塁手として、3年の夏に千葉大会準決勝進出も敗退、甲子園出場はなし。大学時代は公式戦のレギュラー経験なく、サードコーチャー。帝京高職員を経て社会科教員。現同校評議員。監督として甲子園通算53勝23敗。 PR情報
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