「死ぬ権利」は必要なのか――尊厳死法制化の是非を問う


前々から、僕は「死ぬ権利」が必要だと思っている。
当然、あるべきだ。

どうして生きることが義務でなければならないのか?
そう言った「生きる価値」だとか「幸せになるために生まれた」とか、そんな薄甘いヒューマニズムを、僕は物心ついた時から、まったく信じていない。

誰も、生まれたくて生まれてきた者はいない。
天国かどこかで、生まれる前に天使の恰好をした自分が、「生まれたいです!」と手を挙げて生まれてきた訳ではない。
それを「生まれてきたことに感謝しろ!」「生んでくれた親に感謝しろ!」というのは、「真・善・美」で語った通り、単に社会を維持するために必要な風習であり、詭弁であり、理論的には何の根拠もない。
むしろ障害を持って生まれてきたリ、紛争地帯や貧困地帯で生まれてきた子供達に、「それでも生きていかなきゃいけないんだよ!」「幸せにならなきゃいけないんだよ!」と強弁する勇気は、僕にはない。
何より、根拠がない。

「生きろ」「生きねば」って宮﨑さんも繰り返してたけど、それくらい自分に言い聞かせないと、生きる意味を見つけられないんでしょうな。
僕はそう捉えている。


別に、それでも幸せだと感じられている人は生きればいい。しかし不幸だと感じている人には、絶望を抱えて生きている人には、「死ぬ権利」があるべきだ。
「安楽死」はあるべきだ。

死にたいと思った時はいつでも楽に死ねる、でもせっかく生まれてきたんだから、頑張ってみよう。
それくらいの気楽さが、今後の人類には必要なのではないだろうか。


人間に価値があり、人生に価値がある。そんなヒューマニズムは、思想的にもポストモダンあたりでとっくに形骸化し、破綻している。
その破綻にそろそろメスを入れなければならないのが、21世紀の大きな課題であろう。