その被害者の一人が永岡弘行氏(79)だった。永岡氏は実際にVXで殺されかけたが、何とか九死に一生を得た。長男をオウム真理教から脱退させることに成功した永岡氏は、その後他の家族を支援する活動を続けていたため、オウム真理教の標的になったようだ。1995年、自宅に向かっていた永岡氏に突然男が近づき、注射器で首の後ろ側にVXを吹き付けた。最初は何が起こったか分からなかったが、それから自宅に戻ると全身が熱くなり、胸を激痛が走ったという。その後、永岡氏は69日にわたり生死をさまよい、今も後遺症が残っているそうだ。
VXによって命を落としかけた永岡氏へのインタビューが25日付の読売新聞に掲載された。永岡氏は「金正男氏が突然意識を失った様子を見て、すぐVXだと思った。VXの製造は国による犯罪行為であり、北朝鮮はオウム真理教と同じようなものだ」と語った。麻原死刑囚と金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長は神のように君臨する独裁者という点では全く同じだ。違う点があるとすれば、そのスケールだろう。北朝鮮は世界第3位の化学兵器保有国で、しかも核兵器や大陸間弾道ミサイルまですでに手にしている。
金正男氏死亡のニュースが伝えられた日の夜、東京新聞の五味洋治・編集委員に電話で取材した。五味氏は金正男氏と7年にわたり150通以上の電子メールをやりとりし、実際に2回会ったという人物だ。金正男氏から非常に合理的な印象を受けたという五味氏は「金正男氏は海外で長く生活してきたため北朝鮮には基盤がない。しかし白頭血統を受け継いでいることから、もし北朝鮮に異変が生じれば、何らかの象徴的な役割を果たすと考えていた」と語る。白頭血統とは北朝鮮の故・金日成(キム・イルソン)主席の血統のことだ。しかし金正男氏がその役割を果たす可能性はもうなくなった。
金正恩氏は今回のテロでより大きな力を持ったのか、あるいは自らの運命を短くしたのかは分からない。あるいはもしかすると北朝鮮はVXを実際に使った経験を自信につなげたかもしれない。事件を受け、最近は北朝鮮がVXを使って韓米両国の空軍基地などに先制攻撃を仕掛ける可能性も指摘されている。南北による非対称の対峙(たいじ)は一層激しくなるばかりだ。