2月26日(米現地時間)に行われたアカデミー賞の発表・授賞式の、水面下に流れる主テーマは「反トランプ」と言っていいものだった。司会者に始まって、誰もが、直接言及しないもののトランプ大統領に一矢報いる意志を仄めかせる趣向を凝らす。これが今年のハリウッドの流行なのだろう。
賞の行方にもそれは現れていた。黒人の貧困層のゲイという、マイノリティの中のマイノリティをテーマにした「ムーンライト」が作品賞を獲ったことも、白人至上主義的傾向が強くマイノリティの権利に鈍感なトランプとその支持層への意趣返しのように見えるが、それだけではない。
中東・アフリカ7カ国入国拒否がもたらす「不在」が隠れたテーマ
外国語映画賞はイランのアスガル・ファルハーディー監督の「セールスマン」が受賞。ファルハーディー監督は2012年にも「別離」で外国語映画賞を受賞しており、国際的な名声を定着させた最有力の監督であり、受賞そのものは全く意外ではない。しかしトランプ大統領が就任直後に打ち出した、イランを含む中東・アフリカ7カ国からの入国拒否の政策に抗議して、渡航・出席を拒否したことが事前に話題になっており、政治的な意味づけが前面に出ることになった。
7カ国市民の入国拒否の大統領令の執行を司法により差し止められた後も、現場の審査官のしばしば判断基準の定かでない裁量・判断・心象により、イスラーム教や中東に関係したとみなされた人物に異様に厳しい審査が行われる事件が複数報じられており、ファルハーディー監督が授賞式に出席するために米入国を試みれば、入国審査の担当者の当たりどころが悪ければ、ビザがありながら入国を拒否される、あるいは長期間拘留されるといったスキャンダルにもなりかねなかった。米国の中東への影響力は、こういった現場から掘り崩されていきそうである。
ファルハーディー監督は、作品が受賞したが監督がその場に「いない・いられない」こと、すなわち「不在という事実」によって、一層存在感を示したと言える。また、そのような演出がなされていたと言ってもいい。
短編ドキュメンタリー賞はシリアの反体制派掌握地域でアサド政権の空爆を受けた市民の救援を行う団体を扱った「ホワイト・ヘルメット」が受賞した。トランプ大統領は選挙戦中から、極端に親ロシア的姿勢を見せており、ロシアが支援するアサド政権を容認して反体制派を見捨てることが予想されており、実際に支援も止まっているとされる。これに対して、ハリウッドの反体制派支援の心情的な反対の姿勢が、反体制派側の救援・医療団体を描くドキュメンタリーへの賞の授与によって表明されたものと認識されていくだろう。
ハーリド・ハティーブやラーイド・サーレハといった映画に関与したホワイト・ヘルメットの成員が、米国の国務省からビザを得ていながら授賞式への出席を取りやめることが事前に大きく報じられていた。両人の出席取りやめは、米国土安全保障省による入国拒否の判断を一因としているが、直接トランプの7カ国入国拒否政策を原因としているかどうかは不明である。しかしこれも当事者が「出席不能」であることが、暗黙のうちにトランプ批判として読み込まれ解釈されていく。
アハマディー教はイスラーム教か
また、助演男優賞は「ムーンライト」に出演したマーハシャラ・アリー(Mahershala Ali)が受賞した。アリーはキリスト教徒として生まれた米国の黒人で、改宗してイスラーム教徒となったことが知られている。ただし詳細を見ると、(映画作品と演技の評価とは全く別に)政治・宗教的には複雑な問題を含んでいる。
英語圏ではアリーが「イスラーム教徒」の最初のアカデミー俳優となったと報じられているのだが、アリーが米国で属している教団名を示せば、イスラーム諸国では物議をかもすだろう。すでにパキスタンでは「イスラーム教徒が受賞した」とツイートした外交官が批判を受けて削除に追い込まれている。なぜならばアリーが入信したのがアハマディー教で、これは欧米では有力なものの、イスラーム教を多数派とする国の多くでは背教的な異端として認識されているからだ。アハマディー教は19世紀インドに、英国の植民地支配下で生まれた宗教であり、当事者は自らを「ムスリム」であると定義するものの、イスラーム世界の多数派はこれを認めていない。一般の認識では背教者(それは死罪の適用を原則とする)と認定するかどうかのすれすれといっていい。それは教団創始者のグラーム・ムハンマド・アハマドを救世主として信仰し、実態上は預言者ムハンマドを超える存在として崇めているからである。
アハマディー教が欧米で受け入れられやすいのは、端的に言えば、アハマディー教が欧米の価値規範に合わせてイスラーム教の基本的な規範を改変しているからである。宗教間の平等・和合、平和主義といった、極端に「害のない」教義が、「真のイスラーム」として欧米で受け入れられる要因となっている。イギリスの植民地支配下で、イスラーム教を極端に英国の支配的規範と近代思想に寄せて再解釈し、イスラーム教の教義からどうしても再解釈できない部分については、新たに出てきた救世主の思想で上書きしてしまう。それによって諸宗教を折衷し近代思想を取り込んだ宗教が誕生した。しかし欧米の植民地主義が極めて強かった短い期間と、限られた場所を除いては、アハマディー教と同様の新宗教はイスラーム圏では生まれていない。布教はもっぱら非イスラーム圏で行われている。
英語圏の報道では、あたかも一部の強硬派によってのみアハマディー教が異端とされているかのように記述されるのが常だが、より正確にはアハマディー教は「イスラーム教を多数派とする国では、国民の多数によって異端と認識され、政府の政策によっても権利を制限されている」といったところだろう。布教は圧倒的多数のイスラーム教国で容認されておらず、各国で携行が必須のIDカードの必須項目の宗教欄に記載が認められないことが通常である(なお、イスラエルのハイファにアハマディー教の巨大な寺院がある)。
イスラーム世界と欧米の価値規範が極めて異なっているために、イスラーム世界の圧倒的少数派が欧米ではイスラーム世界を代表するかのような立場になることは、しばしば生じる。
武力によるジハードや、征服した異教徒の取り扱い、異教徒・異教に対するイスラーム教の優越性といった、イスラーム教の本来の教義のうち、近代の状況下では異教徒からの批判を招きやすいが原典テキストに組み込まれているがゆえに変更することが困難な部分について、アハマディー教は、新たな、預言者に等しい救世主が実際に出てきたと信じることで、それを新たな規範の典拠として、大幅に近代世界に適応した教義を提示することができる。極端にキリスト教やユダヤ教と融和的な協議を打ち出すことで、少なくとも欧米の文脈では「正しいイスラーム教」と認識されるがゆえに、欧米社会でのアハマディー教への印象は極めて良い。
それに対してイスラーム諸国ではムハンマドを最後の預言者とする「絶対の真理」から踏み外した非合理的で理解不能な異端として、あるいは欧米の支配に阿って正しい道を捨てた「裏切り者」として、圧倒的多数から忌避される。
筆者は宗教間の調和や「寛容」を推進する主体としての使命を自負するハリウッドの盛り上がりに水を差すつもりはない。それは善意からくるものだと思う。しかし客観的には、アハマディー教を無自覚に「イスラーム教」と認定してそれを包摂する米側の、自らの寛容性を寿ぐ姿勢は、気づかずに「正しいイスラーム教は背教者のイスラーム教だ」と言っているにも等しい。この価値観の断絶を超える道を誰もまだ発見してはいない。そう気づかされた瞬間に、ハリウッドの華やかな宴が急速に空疎なものに見えてくる。