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朝鮮語抑圧と日本語強要 |
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日本帝国の植民地統治は朝鮮語の使用を禁じた、と言われる問題について、改めて確かめてみます。日本人がむしろハングルを広めたとする言説については、識字率について検証した頁も併せてご覧ください。まとめ① 時代によって濃淡があるが、日本語を押しつけて朝鮮語を抑圧したのは事実。特に強権的になったのは1930年代後半から② 学校については、統治末期に法令で日本語使用を強制=朝鮮語を使用させないよう義務づけた ③ 1942年から、朝鮮語の段階的禁止と言える日本語常用運動が社会運動の形で全朝鮮に展開。地域・組織により濃淡があった |
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長い記事ですので、特定部分だけ読みたい方は下記のリンクからどうぞ。 学校での朝鮮語 民間の識字運動と、総督府の対応 日本語常用運動 「朝鮮語禁止はなかった」説に2行で反論 学校での朝鮮語★初等学校に対する総督府令 まずは法令から、初等学校に対して日本語に関しどのような要求をしていたかを見てみます。以下は朝鮮学校令の下位法令として初等学校を規制していた総督府令です。太字下線は引用者
1930年代後半からヒートアップを始めて、'38年には日本語で授業しろと言い、'41年には「醇正なる国語」を生徒に日常生活でも使わせるようにしろと命じています。もし仮に朝鮮語の授業をするとしても、朝鮮の人達に日本語で朝鮮語を教える構図になったという事です。 同様の文言は1943年3月27日制定の中学校規程と高等女学校規程、実業学校規程にも「国語の使用を正確にしその応用を自在ならしめ、醇正なる国語生活に徹せしむべし」(第1条第8号。実業学校規程は第9号)と入れられています。 学校においては、生徒に日常生活も日本語で送らせる=生徒に朝鮮語を一切使わせないよう法令で要求する所までいった事が判ります。禁止は一切なかった、というデマはここで明確に否定されます。朝鮮語の使用を日常生活の一切において禁止することなく学生を「醇正なる国語生活に徹せしむ」事は論理的に不可能だからです。実効性があろうとなかろうと、法令上はそういう事になります。 ただし動きが法令上に見えてくるのが1938年からである事には注意が必要です。強制そのものを否定したい人が出してくるエビデンスは、往々にして圧力が緩かった時期のものを流用しているからです。 ★総督府令が定める 標準授業時間 右グラフの通りです。 左が日本語、右が朝鮮語。 1941年の日本語は第1,2学年に修身を含みます。 朝鮮語は1938年度に随意科目となり、1940年度には総督府の教科書指定もなくなり、1941年度には条文にこそ随意科目にできるとの文言が残っているものの標準授業時間の定めはなくなりました。 教科書頒布数のデータが1938年以降分も手に入れば、どれくらい朝鮮語の授業が生き残っていたのか(あるいは壊滅したか)はっきり出来るのですが、1936年分までしか見つけられていません。教科書の指定が見当たらない一方で、「国民学校の教科用図書は朝鮮総督及文部省に於て著作権を有するものたるべし」(国民学校規程第54条。小学校規程にも同様の条文あり)とあるのだから、朝鮮語の授業は1940年には事実上できなくなったと考えるのが合理的でしょう。 ★1910年代から始まっていた朝鮮語疎外 ここで、普通学校の修身の教科書をちら見してみましょう。
いえ、中身の話をする前に、もっと重大な事がわかります。朝鮮の学童たちに、日本語の教科書で授業をしていたという事です。 1911年時点の修身の教科書は、1学年から4学年まで(当時の普通学校は4年制)全て朝鮮語の教科書でした。しかし、1913年に上の教科書に代わっています。 さすがに無理だとわかったのか、三一運動がこたえたのか、1922年からは第1巻だけ後半の文章の部分が朝鮮語併記になっています(本の大半が絵ですが)。 1929年3月、光州学生事件の少し前に、総督府の警務局が「朝鮮に於ける同盟休校の考察」という資料を残しています。この中で、当時盛んだった学生ストすなわち「同盟休校が現教育制度に対する反抗を目標として起こる様になった原因」につき、この資料より2年前の東亜日報に掲載された論説を「力あったことは謂うまでもない」として翻訳転載しています。これを抜粋し、当時の状況を見てみます。下線引用者
1938年以降の状況は社会全体と関わってくるので、まとめて後述します。 民間の識字運動と、総督府当局の反応1919年の三一運動を経て、総督府も強権政治への反省と文化政治への転換が図られた1920年代、教育を普及して民力を上げようとする実力養成運動が民間から起こってきます。この流れの中で1921年には朝鮮語学会の前身である朝鮮語研究会ができ、また1929年、朝鮮日報が生活改新運動を始め、1931年には東亜日報も「ブ・ナロード運動」を始めます(右絵はそのポスター)。どちらも学生が休暇で帰郷する際に識字教育のボランティアを勤めるよう呼びかけており、朝鮮日報が用意した教科書「ハングル原本」の配布数は1931年30万部にのぼりました。東亜日報が活動禁止までの4年間に配布したテキストは210万部にのぼります(川瀬俊治、2005年)。 こうした動きを総督府サイドは、根底に独立志向がある民族運動と見ていました。 『…ここに朝鮮人の独立運動に一転機を画し、…先づ実力を養成して他日の基礎を確立せねばならないと為す傾向を生ずるに至った。』 『上述の如く一般の大勢は実力養成運動に転向し、それがためには『教育の振興』と『産業の発達』を図らねばならぬとし、急激に向学熱が勃興した。…一般の向学熱は凄まじい勢を以て全半島に波及し、…又急激なる民族主義者は官公立の学校に在学するを潔しとせず、私設学術講習所とか、改良書堂とかの名を以て所謂文盲退治運動を起こし、また一面天道教、諺文新聞社、その他の社会団体に於ても此の思潮に統合し、短期文学普及会、通信教育会等を起こし、内地帰来学生等も郷党開発の為と称して、年々この種運動に奔走するもの少からざるに至った。諺文紙東亜日報社は此の傾向を見て、昭和六年以来民衆の啓蒙を目標として所謂ブナロウド運動を企てたが、昭和七年の如き参加学校三四校、参加学生二、七二四名の多数に達し、殆ど全鮮を遍歴して民族的教化宣伝運動に当った。』 (朝鮮総督府警務局「高等警察報第1号」1933年、P4-5 下線は引用者) 学生が活動を担っていた事、独立機運に連なる可能性に神経を尖らせた総督府は、東亜日報の朝鮮語講習会に対して計233回の中止・禁止を加えるなど弾圧を続け、1935年にはついにこれらの活動自体を禁止して、識字向上を妨げてしまいます(川瀬、同上)。 1938年の国家総動員法施行に応じて、朝鮮総督を総裁とする国民精神総動員朝鮮連盟(後に国民総力朝鮮連盟と改称)を設立し、道・郡から末端の町区に至るまで行政組織と表裏を合わせた形で組織を展開し、末端の住民も愛国班(日本内地の隣組に相当)に組み込み、朝鮮の全国民を組織(国民総力朝鮮聯盟規約第3条)します。 そればかりか「会社、銀行、工場、鉱山、大商店、その他あらゆる団体は夫々職域に依る聯盟を結成し、いずれも所在府邑面聯盟に隷属すると共に団体内上下の系統を保て夫々職域奉公…」(朝鮮総督府「朝鮮の国民総力運動」1943年、P85)という具合に、全朝鮮人民を家庭・社会環境両面で朝鮮総督を頂点とするもう一つのサル山ピラミッドの中に取り込んでしまいます。 かくして人民をもれなく組織化したうえで、宮城(皇居)遥拝やら「皇国臣民の誓詞」の斉唱やらをやらせるのですが、その中に日本語普及の活動もありました。 背景には、日本語が通じないと徴兵その他の動員に差し支えるという事情がありました。朝鮮総督府施政年報も1940年版になって「国語普及の現状は稍解し得るもの普通会話に差支なきものを合せて漸く総人口に対し一割四分程度にして、統治精神の周知、時局の正当なる認識その他施設上支障を来すこと尠なからざる」と言い出しています。 この頃には、日本語使用に公然と疑問を呈して起訴・拘留されることもあったと言われています(井上薫「日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策 :徴兵制度導入に至るまでの日本語常用・全解運動への動員」1997年、P138)。その一方、総督府当局者の状況認識は次のような按配でした。
上二者とも引用元は熊谷明泰『賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動』、下線は引用者
日本語を段階的に強要、やり方を現場に競わせた国語常用運動(1942年~)1942年5月6日、国民総力運動指導委員会は「国語普及運動要綱」を次の通り決定します(出典:朝鮮総督府「朝鮮の国民総力運動」1943年、P123以下)。少し長くなりますが全文を載せます。下線、太字は引用者。
この要綱から、次の点が読み取れます。 (1) この運動は、全朝鮮人が生活の全シーンにおいて常に日本語を用いる=朝鮮語を使わない状態を最終目標に置いていた (2) 日本語を理解できない人には理解できるよう学ばせ、理解する人には常用させる、という二段構えであった (3) むきだしの法令を前面に立てて強制したのではなく、社会的な誘導・強制が主力であった つまり、「まず全解、次に常用」という二段構えの普及策であり、朝鮮語を即日全面禁止した訳ではないが、最終的に朝鮮語を潰そうとしたと言われても仕方がないという事です。 朝鮮総督府学務局編輯課長・島田牛稚の発言を見てみましょう。運動の動機が1944年から朝鮮にも施行予定の徴兵制がらみだった事もわかります。
総督府の各局長・関係課長は、総督府内の国民総力運動連絡委員会のメンバーで、国民総力朝鮮聯盟の事務局と直接つながっていた(「朝鮮の国民総力運動」P87の組織図参照)ので、上記発言は運動主体だった聯盟と整合の取れたものであった筈です。 そして更に、この要綱を実施するため具体的に何をするのか、道(地方行政組織の一番大きな単位)から下位の地方行政期間に尋ね、回答を出させています。様々な回答があり、国語常用運動は地域ごとに異なる多様な方法で行われた事がわかります。更に、新聞が各地の方策を紹介することで、実施方法の情報も交換されていました。 その多様な具体的内容を蒐集紹介している論文に、『日本統治期の台湾・朝鮮における「国語」教育(下)』として収録されている熊谷明泰『朝鮮総督府による「一日一語運動」の構想と展開過程』(2006年)があります。当時の新聞記事を集めた91ページにおよぶ資料集がついています。エビデンスを確認したい人はそちらをご覧いただくことにして、ここでは具体策の骨子を拾い上げてご紹介するに留めます。以下、特記のない引用は、上記の論文が引用元です。 差別待遇は既に運動要綱で謳われている案ですが、兵糧攻めは一番直接に暴力的な方策と言えるでしょう。 「一家挙げて常用する家庭に対しては優先的に統制物資を配給し、尚なお且かつ、一部夫役を免除する等、特典を与へること」(慶尚北道星州郡) 「国語常用家庭には各種配給品の優先を認むると同時に、各種労務者雇傭、或は賃金等に就ても優遇の方法を講じ」(江原道江陵郡) 「一般民の物資配給の際の用語は必ず国語たるべく、故に朝鮮語を使用する者に対しては、配給をなさゞること」(京畿道富川郡) この施策の死活度は配給品の中身やさじ加減内容によるでしょうが、日本語を話さねば配給してやらないというのは明確に強制です。 ★ 相互監視で日本語を使わせた学校 生徒に100%日本語を使わせろと言われた学校はどうしたか。日本本土でも「方言札」というのがありましたが、以下のような事例が報告されています(『賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動』P61)。 *朝鮮語を使った者を記録しておき、使用3回で停学 *朝鮮語を使った生徒を見つけたら、その名前を目安箱に投函させる *朝鮮語を話した生徒に罰札を下げさせる。その生徒は、他の違反者を見つけたら、その違反者に自分の札を渡すことができる 特に最後の方法は生徒相互を敵対関係に置いて意に沿うよう仕向けるもので、陰湿と言えます。 学校での強制は更に、家庭への強制にも援用されます。 ★ 子供を使った家庭への強制:一日一語運動 一日一語運動は運動要綱にも載っている方針ですが、学校で生徒に一日あたり日本語を一語教え、帰宅後家族にそれを教えさせ、成果を学校に報告させる方策が採られました。 「国語常用もまず家庭から」(江原道元山府) 「一日一語普及主義展開=各国民学校3年以上の児童を通じ、毎朝会の際、校長より一語を指示し、児童はその一語を家族の者に授けられたる父母兄妹などをしてカード書かしめたる上、翌日之を学校に持参、教師の査閲を受けしめつつあり。特に霞城公立国民学校の如きは、既に相当の成績を受けしめつつあり」(京畿道金浦郡) 「生徒児童をして一日一語宛家族に教へしむ。一週一回程度、右結果を調査し、復習せしむる為、生徒児童の母を学校に集合せしむ」(慶尚北道尚州郡) 「学校生徒児童に対しては、国語常用の習性を涵養するため、学校内外を問はず朝鮮語の使用を禁止し、之を通じて各家庭に必行事項として「一日一語」主義の徹底を期し、その普及を図ること」(咸鏡北道明川郡) 「児童には”一日一語指導帳”を与へて両親や兄姉の国語修得状況を記載、本格的の国語常用生活に突入させる」(朝日新聞南鮮版1942年7月23日記事、『一日一語 / ”国語のおけいこ” / 慶尚道で三千部配布』) こういう事例が冒頭に挙げた熊谷論文に山盛りに載っています。立場を交換のうえ我が身を置いて想像してみましょう。自分の子供が韓国語の単語を1日1つ親に覚えさせ、家でも韓国語で会話してるかどうか子供が学校に報告する事になっていて、報告次第では先生が家に乗り込んでくる…という事態。このような家庭内への干渉はフラストレーションの極めて高いものである事が容易に想像できるのではないでしょうか。 ★ 職場、地域社会から日本語講座に送り込む 上述の通り、全朝鮮人が「国民総力朝鮮聯盟」に組織されており、少なくとも建前上、居住地域の愛国班に入れられていました。よって、愛国班の上部組織である地方行政単位の聯盟支部に指揮されていたことになります。 「官公署、学校各種団体職員、ならびに学校児童に対し、その長より毎日国語一句宛の課題を示し、翌日迄に必ず家族全員に習得せしむる様指導すると共に、家庭に於ても可及的国語常用に努むること」(慶尚北道青松郡) 「(愛国班の)毎日の朝会には各家庭の責任者(又は代表者)を集め、一日一語の指導をなす」(慶尚北道慶州郡) 「全然未解者家庭に於ては、一人以上必ず講習会の国語修得を受けしむること」(江原道旌善郡) という具合に、日本語を理解しない人をすくい上げて「全解」に引きずり上げる装置も用意されていました。総督府と聯盟は要綱制定に先立つ5月2日、『朝鮮全土3,100校の国民学校内に「国語講習会」を設置し、これをベースにして「国語常用」運動を捲き起すことを協議している』(『賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動』P59)。「全解」になれば次に常用を命じられる段取りなのは、冒頭に見た通りです。 ★ 加入戦術 突然日本語にしろと言われても、能力に個人差はあるし学習の進度差もあるしで、一律にできる訳がありません。 時のNHK、ではなくて朝鮮放送協会長の甘庶という人物が、1942年5月23日の日本語紙「釜山日報」上の座談会で、こんな発言をしています。(太字は引用者) 「今日国語の判らない者が八十五%、約二千万人あります。所で、聴取者は二十七万人あります。一軒の家で五人平均の家族と見ますと、四百五十万人(ママ)の者がラジオを聞いて居るものと思はなければなりません。その四百五十万人(ママ)のものに世の中の出来事を知らせてやらなければなりません。国語では判らないのですから、そうしてこれは一人に説明するのではなく、一般大衆、殊に一番わからない者を標準にしてやるのであります。 こうして現在の日本の状態といふものを知らせて、我々は皇国臣民であるといふことを認識させる。そのために、朝鮮語によって八十五%の人達の知識を昂めて行く。そういふ意味で、第二放送といふものは大切なものであります」 というわけで、NHK、じゃない朝鮮放送協会の第二ラジオ放送は朝鮮語のまま終戦まで続き、総督府御用紙の朝鮮語新聞「毎日新報」も終戦直後まで朝鮮語のまま発刊され続けます。 時たま「朝鮮語禁止はなかった」という主張の証拠と称して「ソ連と交戦中」の朝鮮語紙面の画像が出回っているのは、この御用紙の1945年8月13日付1面ですが、朝鮮語発刊物が残っていた理由はこの甘庶発言の通りで、日本語を解さない人を積み残したままいきなり全廃すると情宣活動に差し支えるから残っていただけです。施策は段階的禁止だったので、朝鮮語刊行物が残っていても禁止否定の反証にはなりません。 それはともかく、甘庶氏の発言は24日夕刊(ややこしいですが、23日発行)の紙面に続きます。 要は、朝鮮語のつもりでラジオを聴いていても、自然と日本語が頭の中に入ってきてしまうという寸法です。 上述の御用紙メイル・シンポ(毎日新報)も、国語常用運動が始まってから日本語が段々増えてゆき、紙面が2ページに削減される1944年7月24日の直前は最終ページ(4面)の半分が右画像のように日本語になっていました。 この新聞のように朝鮮語と日本語がはっきり分かれていればまだいいのですが、NHK(じゃなくて…)の会長は日本語を朝鮮語の中に入れたと言っています。どんなバンソン(放送)だったのかは聴いてみないとわかりませんが、ピジン・イングリッシュならぬピビン(混ぜ)・コリアンが勝手に創造されていたように取れます。余談ですがピビン-の後にパッ(飯)をつなげるとピビンパッ、いわゆるビビンバ。 ピビン・バンソンをメイル(毎日)聴いていると、自分のボキャブラリーが無意識の内にイルボン(日本)化していくって、ちょっとノムシムハダ… というか、言語破壊でないか? ★ 罰金、退学、逮捕 あと少しですので、今しばらくご辛抱ください。 罰金と退学については事例だけ示します。 『執務時間中に於て同僚間国語を使用せざる者に対しては相当多額の過怠金を徴する等申合に依る制裁の方法を採るは国語の絶対的使用を励行せしむる上に有効なるべしと認む』(咸鏡北道清津府) 『官公署、学校、金融組合等に於ては職務の内外を問はず必ず国語を常用するやう各種聯盟に於て之を申合せ違反者に対しては違約金、失言料を徴し又は其の他の制裁を加ふる等夫々の長に於て適当なる手段方法を講ずること』(黄海道松禾郡) (以上2件の引用元は『賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動』P75)
『中学校時代について……私立と公立にはちがいがあった。私立では秘かに朝鮮語を使い合った。罰札などもなかった。公立では「国語常用」が厳しく、上級生が使わないから、と学校当局に訴え、上級生が大量に退学処分されたこともあった。その学年の人が、同窓会会員に少ないこともあって慙愧にたえない』(引用元の原典は梁永厚「韓国の「日本語世代」-訪韓・聞き取り調査レポート-」関西大学人権問題研究室室報 第30号、2002年)
逮捕の事例で有名なのは朝鮮語学会事件です。朝鮮語辞典を編纂していた学者・先生のグループ33名が治安維持法違反で逮捕され、判決前の獄死2名、有罪判決10名を数えました。 「民族運動の一形態としての語文運動は、…最も深慮遠謀を含む民族独立運動の漸進形態なり」で始まる予審終結決定書は、朝鮮語の普及向上を図る動機の根源は独立希求だとする1933年の高等警察報第1号の見解を受け継ぎ、朝鮮語研究そのものが反体制だと断じるものでした。 これらの強圧的日本語普及策の効果ですが、第86回帝国議会に総督府が出した1944年末の説明資料によれば、「日本語を解する朝鮮人」の割合は 1940年末15.57%、1941年末16.61%、1942年末19.94%、1943年末22.15%と推移しました。数字の伸びの鈍さは、これだけ強制してもあまり効果がなかったのか、戦時動員で授業がおろそかになったからなのか、はたまた日本語のできるようになった人が片端から朝鮮の外へ強制連行や徴兵・徴用動員された為なのか、私にはわかりません。 日本語使用(=朝鮮語不使用)の強制度は、濃淡まちまちだったと思われる上に事例を多数引用させて戴いた熊谷明泰『朝鮮総督府による「一日一語運動」の構想と展開過程』を読んでいると、過激なものから手抜き感の漂うものまで千差万別です。 よって、被害を蒙る側の朝鮮の人達の体験もまた、千差万別だったのではないかと推測されます。人によっては末代まで祟る深い恨みを呼ぶ仕打ちを受けたでしょうし、人によってはやる気のない地元当局のお陰でたいしてイヤな目にも逢わず済んだかもしれません。 よって、台風や地震の体験談と同じく、被害に逢わなかった、ごく軽かった人の証言だけ集める事も可能かもしれません。が、それで歴史を洗浄できる訳ではありません。 そして、いずれにせよ朝鮮総督府がこのような災害を起こした事、すなわち全朝鮮に及ぼす日本語強制=朝鮮語抑圧の仕掛けを作り、生活のあらゆる面で圧力をかけた事実は明らかであるし、その責任もまた明らかであるものと考えます。 「朝鮮語禁止はなかった」説に2行で反論ここまで全部お読みいただいた方にはもうおわかりの事と思いますが、時間のない方のために上述の記事をまとめて、珍説をばっさり切っておきます。2行に収まっていないのもありますがご容赦を。 ★一般論 →①「禁止があった」=強制したのは総督府側の文書で証明された歴然たる事実。「全面禁止でなかった」事をいくら証明しても空振り。 →②総督府の政策は時期によって大幅に異なるので、エビデンスは各々の時期にしか使えない。時期のずれたエビデンスは全部没。朝鮮語への弾圧が最も強かったのは1940年代で、この時期の弾圧・抑圧を全否定できる反証を示さねば「禁止はなかった」の証明にならない。 ★「朝鮮語の授業をやった」説 →①授業があった時期もコマ数にして日本語授業の半分以下。②1938年以降は必修科目から外れ、1940年以降はほぼ消滅状態。③1938年以降は、授業に用いる言語は日本語と指定されてしまった④就学率20%以下を長年放置しておいて、学校で普及させたは大法螺 ★「教科書が朝鮮語だった」説 →1912年頃までの話。1922年~1937年も、修身で見れば1年生用に朝鮮語が併記されただけ、2年生用以上は日本語 ★日本人が初めて朝鮮語辞典を作った説 →総督府が出した朝・日辞典を朝鮮語国語辞典と勘違いしていると思われる。そうでないと主張するなら実物画像を提示すべし。初の本格的朝鮮語国語辞典は1947年出版の「朝鮮語大辞典」。詳しくは別ページで ★日本がハングル綴字法を制定して広めてどうのこうの説 →①ハングルが19世紀まで全く使われずお蔵入りしていたというのは大嘘、文献多数が残っている。漢字交じり文も15世紀にはあった。②綴字法を総督府が出したのは統治者が総督府だったから版元になっただけ、しかも初版二版は実情と合わず実効薄かった。こんなのヨロコンデ自慢してどうするの。1930年版の内容を支えたのは朝鮮語学会。詳しくは別ページで ★総督府は1940年代も朝鮮語を奨励していた説 →下記の『余談』の通り、統治上の必要から総督府の日本人役人に対して学習を奨励していただけ。抑圧の対象者である朝鮮人公務員や一般市民に学習や使用を奨励した確証を示さねば、抑圧を否定反証した事にならない ★1940年代の朝鮮語ポスターや新聞が出されている →①「一番わからない者」向けに残っていただけで、段階的禁止政策の反証にならない。②特に創氏改名呼びかけのポスターは日・朝併記であり、日本語普及運動が行われていた事を逆に証明している。日本仮名とハングル、どちらがメインで大きく書かれてる? とりあえずこんな所でしょうか。論拠は、上に縷々述べました。 【余談】 1938年以降も総督府が公然と朝鮮語学習を奨励し、試験までやっていた部門があります。 それは総督府自身、つまり日本人公務員です。 「朝鮮における内地人官吏にして朝鮮語を解するは、啻に各種施設の実行上必要のみならず、また内鮮一体の強化を図る上においても緊要なるは言を俟たざる所にして、警察取締・産業奨励・租税徴収等においてややもすれば人民の誤解を招く虞ありしが如きはその局にあたる者が朝鮮語に通ぜざるに基因するところ多きに鑑み…」(朝鮮総督府施政年報、1941年) というのがその理由です。要は、日本語が通じない実態はいかんともしがたいので役人が否応なく朝鮮語を覚えるしかないという事です。 もちろん、対象は「内地人」の公務員のみで、かつ奨励されたのは学習であって使用ではありません。ここを混同して、総督府は最後まで朝鮮語の使用を奨励していたと頑張っている言説を見かけますが、朝鮮人民に対して奨励していた訳ではないので全然的外れです。無理筋はいさぎよく捨てて、風呂入ってうまい飯食って寝ることを強く推奨します。 データで見る植民地朝鮮史』トップへ 植民地期の年表を見る ツイート |