資料: 『朝鮮暴徒討伐誌』と義兵運動



 このページを追加しようと思い立った理由は、「義兵運動は単なる盗賊だった!日本人が知らない真実!ジャーン」というのを見たからです。

 まったくもう隅から隅まで一次史料で証明して回らないとどうしようもない位、妄想癖とウソツキが多すぎます。
 「日本人が知らない」「あなただけに教える」×××!なんてのはインチキ投資話で、信じる阿呆は身ぐるみ剥がされるだけと相場が決まっています。勉強の世界も同じで、コツコツ研究している人を出し抜いて「ネットde真実」にありつく方法などありません。
 本気でそんな事ができると思っている人は、いちど「うまい儲け話」にひっかかって痛い目に逢うとよろしいでしょう。

 結論から言えば、単なる山賊夜盗の類なら
(1) 限られた期間だけ急激かつ強力に盛り上がった説明がつかないし、
(2) わざわざ閣僚経験者のような大物をかつぐ必要もなかったし、
(3) 民衆に支持されたり、日本軍側が討伐のため村落ごと焼き払ったりした事も説明がつきません。

 「ボクの好きな日本(帝国)」を無理矢理弁護するための、いつものガセネタです。

 しかし、エビデンスを提示せず言いっぱなしではネトウヨ星のパラレルワールド・ファンタジーと見分けがつかないので、当時書かれた「朝鮮暴徒討伐誌」なる書物を見てみることにします。

 この本は、日本陸軍の朝鮮駐箚軍が義兵運動の鎮圧について書いたものです。
 弾圧側の本なので、弾圧者に都合の悪い事は書いていないか、都合よく脚色してあるものと疑ってかかるのが定石です。少なくとも、義兵を暴徒と呼んでいる事からもわかるように、弾圧側の視点で書かれています。
 が、ひっくり返して言えば、弾圧側に不利あるいは中立な情報は引き出せる、とも考えられます。日本帝国の陸軍が著した本ですから、「反日」などと言われる筋合いもありません

 まずは数字を見て、全体像をおおまかに掴んでみましょう。

 左のグラフは、義兵運動と日本側(日本統制下の韓国政府を含む)の衝突による死者数です。

 1906年、わずかに盛り上がった形跡がありますが、それ以外は1907年8月から急激に立ち上がり、1908年に激しさのピークを迎えている事が判ります。
 1907年8月といえば、韓国軍解散の命令が出た月です。
 そして、1910年に入るあたりでほぼ抑えられている事が判ります。

 義兵運動に山賊が全く混じっていなかったとは言いませんが、総じて単なる山賊夜盗の類であったと主張するなら、どうして韓国軍解散直後に始まるこの時期だけ極端に盛り上がったのか、なぜその直前までほとんど静かだったのか、つじつまの合う説明をしなくてはなりません。

 日本側と義兵側の死者数がほぼ1対100、義兵側がすさまじく多くの死者を出しています。
 これは、日本軍が新式の銃で武装し、日露戦争などで戦闘経験を積んでいたのに対し、義兵側は旧式の火縄銃が主力であり、戦力が劣勢であった事が理由です。

 次の2つのグラフは各々、日本側と義兵との衝突回数、衝突した義兵の人数を示しています。
 死者数に比べ元データの集計期間が短いですが、この期間だけ見れば全体が判る事は死者数グラフで確認できているので差し支えありません。

 衝突した義兵の人数を日本側が正確に数えられたとは思えませんが、メノコ勘定の集積と捉え「大体このへん」として傾向をつかむには良いでしょう。

 衝突回数そのものは、1909年中盤までごく緩やかな下降傾向しか示していません。
 が、衝突人数は1908年6月を境にほぼ半減しています。
 1回の衝突に係わる義兵の数が漸減している事の反映でもあります。
 1909年中盤以降は、1回の衝突につき平均20人程度の義兵を追い回していた勘定になります。

 義兵がほぼ鎮圧された1910年の中盤、日本は8月に韓国併合条約を結び、その1週間後に併合を実行してしまいました。


元データ (Excel) ダウンロード


政界の大物も指導者をしていた


 次に、どんな人物がどんな人達を率いていたのか、いくつか拾ってみます。
 中には元閣僚級の指導者が登場している例も複数あります。他、儒生や軍人など、とても山賊夜盗の小さなスケールではありません。
 出典は全て「朝鮮暴徒討伐誌」です。

P17
 暴徒の首魁閔宗植は、閔泳商の子にして前参判従二品の官位を有し、閔族中の旗頭なり。数年前より忠清南道定山郡天庄里(定山南方約二千米)に退隠せるも、依然中央および地方に対し声望を有せり
閔宗植は三十八年
(引用者註:1905年)11月締結せられたる日韓新協約に反対し、地方に義兵を起し、韓国全土を擾乱の…
P23
 暴徒の首魁崔益鉉は、曾て参政(内閣総理大臣相当)または京畿道観察使等の官歴を有し、儒生間に頗る名望ある老儒者にして数千の門弟を有す。明治三十八年日韓借款契約締結に当り大に反対論を唱へ、また排日に関する上奏を為し、京城に儒約所を設け…
P34
(引用者註:韓国軍解散命令が出た1907年8月1日)…解散式を実施し同時に賜金を受領して解散せるも、侍衛歩兵第一連隊第一大隊長参領朴昇煥は団体長召集の際、病と称して参集せず代理として故参中隊長を列席せしめたり…(中略)
… 一発の銃声は大隊長の自殺を告げ、同時に集合せし各中隊は期せずして動揺を起し、弾薬庫を破壊して弾薬を分配し…
P37  大隊長洪は八月二日(引用者註:1907年)軍部の電命により上京の途に上るや、特務正校閔肯鎬は不平の同志を扇動し、大隊長代理金徳済を脅迫して与党とし、全兵員挙げて暴徒たらしめ、銃器弾薬を分配し、地方無頼の徒を嘯集して武器を与え
P65
 閔宗植および崔益鉉の徒、前年忠清南道洪州、全羅南道南原等に蜂起し、閔および崔は縛につき処刑せられたるも、その遺類たる儒生白楽九、奇宇萬、高光詢など無智の頑民を誘惑扇動し、非職官吏を使嗾して匪徒五十余名を嘯集し…(中略)…
各鎮衛隊の解散となるや、全羅南道に於ける賊焔再燃し、頑迷不霊の儒生陰に民心を動揺せしめ、無産浮浪の徒これに付和雷同し、四十年
(引用者註:1907年)冬より四十一年および四十二年に亘り暴動最も猖獗を極めたり
P93  該地方(引用者註:咸鏡南道)人民は一進会員の専横を憤り、常に之と反目しつつありしが、安山面長は一進会員にして人民に断髪を迫り、市場税あるいは祝典費の幾分を徴収して私し、また一般人民を強迫して一進会に入会せしめんとする等、専恣到らざるなく、これに加えて該地人民は多く銃猟により生計を営みつつありしに
本年
(引用者註:1907年)九月発布の銃砲火薬類団束法により銃器を押収せらるるに対し、土民は一進会がその生業を奪うものなりと誤解し憤怒に堪えざりしが、
ここに甲山郡に車道善なるものあり、北青郡の太陽郁を与党とし、土民を扇動して『天、一進会徒を圧せんとするや、我をして義を安山に挙げしめ、会徒を殺戮し、以て国運を回復せしめん』と標榜し、遂に十一月十六日、先ず安山面長朱道翼を殺害し、以て暴動の発端となせり
P100  前年臨津江流域に出没せる暴徒の首魁は、江原道方面より侵入せる曹仁煥および積城出身の権俊、王会鐘、金溱默の徒に過ぎざりしが、本年(引用者註:1908年)に入り政界の失脚者・前参政許蔿を総首魁とし、朴宗漢、金秀民、金応斗、李寅栄および李殷賛の徒江原道あるいは黄海道より各その部下若干を率ひて相投合し臨津江流域一帯に出没

 日本陸軍は、これを概ね以下の4つに類型化していました。
P7 
 暴動の起因略々前述の如く之を約言すれば、即ち左の如し
一、 韓国軍隊の解散に際し不満を懐きて反乱を起こし、もしくは解散後恩賜金を費消し衣食に窮したる将校下士卒を主脳とし、之に付和雷同してその配下に集まれるもの
二、 地方に名望を有する儒生または両班にして、頑冥不霊、時勢の推移を知らずして新施政の方針を懌ばず、徒党を嘯集して起れるもの
三、 政治的野心を抱蔵し、万一を僥倖し他の擾乱に乗ぜるもの
四、 従来火賊と称し各地を横行し剽盗を事とせるものにして、時勢を利用し義兵と自称するもの
 以上の外、咸鏡南道甲山附近に於て一進会員の専横を憤り、相結で暴発せる一派あるも、須臾にして前第四項と択ふ所なきに至れり。
 その後、また意を決して自ら暴徒たるもの比較的少かりしも、騒擾の扇動上耶蘇教信徒の頗る有力なりしこと、および尚その背後には彼等の不平と事大思想とを利用し、甘言を以て之を操縦し、自家の勢力を拡張し、その利益を計れる宣教師の存在したるは実に蔽ふべからざる事実なりとす


略奪と日本当局が呼んだものの中身


 「朝鮮暴徒討伐誌」は義兵が略奪放火したと何回も述べていますが、読んでみるとどうも対象は日本人や官公庁だったようです。
 韓国人の一般民衆を襲撃したと特定して明示している記述は見当たりませんでした(見落としているかもしれませんが)。黄海道については義兵名目の盗賊主体と書いてあるくらいです。
 義兵運動の目的が日本支配の排除なら、個々の是非は別として、日本人襲撃は戦闘行為の一環として行われた事になり、単なる通常犯罪とは言えません。

 義兵が韓国地元の民衆から何かを受け取っているとする描写としては、次のような箇所があります。

P100
 許萬は排日に籍口して正義を標榜し、また軍律を規定し、劫奪暴戻を誡めたりといえども、その内情に至りては毫も従来の暴徒と異なるものなし。即ち、軍票を発行して物資の調弁を意の如くし、曰く票は某富豪に就き銭財と兌換せよと。若しその兌換を拒む者あらんか、他日報ゆるに戕害を以てするの状態なり

 ここに挙げられた例が「従来の暴徒(=義兵)と異なるものなし」であれば、軍票で買い上げるのが義兵の標準的な物資調達方法だった事になります。これは日本軍もよくやっていた事で、経済犯罪としての強盗略奪とは異なります。
 この軍票に代表される調達手段の運用は、義兵部隊により巧拙あったようで、同じ部隊でも人が変わると民衆に支持されたり、逆に失ったりした例が紹介されています。

P151  京畿、黄海、江原道地方に跨り最も声望高く、且つ永くその勢力を維持せし首魁李殷賛は江原道原州郡富興寺面の儒生にして天性怜悧かつ才気あり、常に正義を標榜して巧に民心を収攬せり…(中略)…
 糧食軍資金の如きも直接細民より要求することなく、各面洞長等に通告して一般より徴収せしめ、購入品に対する代金支払の如きも嘗てその期日を怠りしことなく、あるいは軍票類似の証票を発行して之を物資に代へ、後日必ず通貨と交換するが如き、努めて民心収攬に腐心したるため、頑迷なる土人は之を歓待し、討伐隊に対し彼等の行動を秘するのみならず、歩哨となり、暴徒所在地の周囲を警戒し、あるいは密偵となりて官憲の行動を通告する等、陰に多大の便宜を与えたり
 しかれども当時李と行動を共にせる尹仁淳および鄭容大はその性行を異にし、常に火賊的暴戻を恣にせるため、本年三月
李殷賛 龍山に於て縛につきてより以来、民心離背し、暴徒の勢威頓に衰へたり


義兵を村ごと処断した当局


 日本当局は、義兵の基盤が民衆にある事、少なくとも民衆と敵対するものではない事を認めていました。
 その証拠に、義兵をかくまうなどした場合はその村落単位で「厳重の処置」を下す、と布告しています。

P13
駐箚軍司令官は明治四十年(引用者註:1907年)九月、韓国民一般に対する告示を発し、
…(中略)… 匪徒にして帰順するものは敢てその罪を問はず之を拘拿し、あるいはその所在を密告するものには必ず重賞を与ふべく、
もし頑陋悟らず、あるいは匪徒に与みし、あるいは之を隠避せしめ、あるいは凶器を蔵匿する者に至りては、厳罰毫も仮す所なきのみならず、責を現犯の村邑に帰せしめ部落を挙げて厳重の処置に出づべきを暁諭せり

 実例も報告されています。義兵の出没した村落を、村落ごと焼き払ったと明示する記録があります。

P46
…二十三日(引用者註:1907年8月)午前五時堤川に達し、該村落に拠り抵抗せる若干の暴徒を撃攘し、その三十を殪(たお)し本隊に合す。由来、堤川は暴徒の根拠地にして全村挙て暴徒に与し、その北方高地には散兵壕を構築しあり。支隊長は将来の禍根を艾除するため村落の大部を焼夷す
P47
由来、驪州は閔后の出生地にして、その横死以来排日思想極めて盛なりしが、今回暴徒の蜂起するにあたり之に加担し弾薬糧食等を供給する傾向ありしを以て、在原州下林支隊長は沓谷大尉の率ゆる中隊(一小隊欠)を二十四日同地に派遣し、暴徒に与せし部落を焼夷せしむ
P63 (引用者註:1907年9月)時に安峡にありし暴徒約二百はその後鉄原を襲ひ、わが郵便事務員を惨殺せるの報に接し、二十四日鉄原に向ひ前進中、石橋西方に於て暴徒約百に遭遇しその十四を殪し、石橋村民の全部賊徒に与するを知り、該村落を焼夷す

 もし義兵が経済犯罪集団なら、無関係または被害者であるはずの一般村民まで一緒にしてまるごと攻撃するのは矛盾です。



 以上のような具合ですから、義兵は単なる山賊夜盗ではありませんでした。
 義兵運動が日本支配に対する抵抗闘争だったのは、以上の日本側記録を見ても明らかです。

 当たり前ですが、義兵は義兵だったのです。



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