天皇、皇后両陛下 28日からベトナム・タイご訪問 残留元日本兵の家族「義に生きた父誇り」
天皇、皇后両陛下が28日から6泊7日の日程でベトナム、タイを訪問される。ベトナムでは先の大戦後も現地に残った「残留元日本兵」の家族と面会されることになっており、残留元日本兵の息子である仙台市青葉区の写真家、猪狩正男さん(60)はそれを心待ちにしている。2つの祖国の間で父の足跡と自らのルーツを追い求めてきた猪狩さんは、今回のご訪問を亡き父に報告し、日越友好が進むことを願っている。(伊藤弘一郎)
猪狩さんは2歳のとき、父の和正さん、ベトナム人の母とともに同国から帰国した。和正さんは現地でのことをあまり語らなかったが、テレビでベトナム戦争の映像が流れた際、戦車を指し「あの中に俺の生徒がいる」とつぶやいたことが記憶に残り続けていた。
帰国から20年余りが過ぎた昭和56年、肝硬変で入院した和正さんを見舞った際、猪狩さんは初めて父の足跡を聞いた。
■ベトミンに協力
和正さんは先の大戦で陸軍少尉、中尉として従軍し、フィリピンやインドネシアを転戦。ベトナムで終戦を迎えて間もなく、ベトナム独立同盟(ベトミン)から協力を求められた。「ベトナムにも新しい時代が来る。時代を切り開くのに自分の力をぶつけたい」。そう考え、求めに応じたという。
和正さんは士官学校の教官として、銃の扱いとともに、「源平の戦い」「川中島の戦い」など日本の合戦を例示しながら戦いの手法を教え、フランスとの第1次インドシナ戦争中、8期生まで兵士を育てた。各地に散った卒業生は後のベトナム戦争を戦った。歯科医免許を持っていたため、医学教育にも当たった。
和正さんが現地で結婚した後の1954年、残留元日本兵の帰国が許可された。だが、家族を伴うことは許されなかったため残留。帰国する同僚に、故郷の父への歌を託した。
《今さらに何をか言わん遅桜 故郷の風に散るぞうれしき》
「『今は何を言っても遅いが、故郷に戻りたい』という望郷の思いを歌にした。日本兵が協力していたことは当時は極秘。理由を書けば検閲にひっかかる。それでも、故郷を忘れていないということを伝えたかった」。和正さんはそう話したという。5年後に家族の同伴が認められて帰国した後は、和正さんがベトナムの地を踏むことはなかった。「病気が治ったら、また行きたい」。病床でそう話した和正さんは、間もなく亡くなった。
■「心震える喜び」
「父が生き、自分のルーツでもあるベトナムを撮りたい」。猪狩さんは写真家の道を進み、91年、ベトナムで個展を開いた。
ある日突然、ベトナム建国の父、ホー・チ・ミンの側近だった軍最高司令官、ボー・グエン・ザップ将軍が個展会場に現れた。「日本軍を(ベトミンに)入れたのは自分だ。ファンライ(和正さんのベトナム名)の息子に会いたかった」。将軍はそう言って写真を見て回った。3年後、ベトナムでの功績が認められ、和正さんに勲章が贈られた。
勲章以上に猪狩さんが誇りに思うのは、常に人のために尽くす父の人柄だった。和正さんは材料不足を補うため、現地の竹で作った入れ歯を考案。ベトナム国内で広まったことを和正さんの死後に知った。故郷の福島県三春町の竹で、和正さんがいろいろな竹細工を作っていた記憶と重なった。
帰国後、歯科医として働いた和正さんは「貧乏人から金は取れない」と無料で治療したこともある。猪狩さんは言う。「人との関わりを大切にする姿勢は変わらなかった。父の誇りでもあり、私の誇りでもあります」
両陛下がベトナムで残留元日本兵家族と面会されることを知り、猪狩さんは「心が震えるような喜び」を感じた。「父は時代と時代の流れに揺れながら決断し、国、イデオロギーを超えて懸命に生き抜いた。両陛下のご訪問には涙を流し、私以上に喜んでくれると確信しています」
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ベトナム残留元日本兵 1940年に当時フランス領だったベトナムに進駐した日本軍は45年3月、ベトナムを事実上、軍政下に置いた。だが、同年8月の敗戦により、多くの日本兵は日本へ帰国した。一方、一部は現地にとどまり、約600人がホー・チ・ミンらが率いるベトナム独立同盟(ベトミン)に参加。再統治を狙うフランスとの第1次インドシナ戦争に加わった。「ディエンビエンフーの戦い」で敗れたフランスは54年7月にジュネーブ協定を締結。元日本兵はその後、順次、日本に帰国したとされる。