岡左内はもう自分の人生は、あの日蒲生家で死んだときに完結したものだと思っている。
死んだ人間がいつまでもうろついていては、生きているものの迷惑にしかならない。
まして岡左内という人物はあくまでも記憶の存在であり、今まさに生きていかなければならないのはバルド・コルネリアスという一人の少年である以上、黙って再び眠りにつくのが筋であると左内は考えていた。
その後自分の記憶がこの世界とは違う世界であることや、もう一人の記憶である岡雅晴が自分の子孫であるらしいこと。そして自分たちがバルドという少年の人生にとって、結局は異分子であることに納得した左内は、バルドの意識の深層で深い眠りについたのである。
そしてバルドの人生の終わりまで、眠り続ける覚悟だった。
しかし左内という人物はどうしようもなく戦が好きな戦人でもある。
もちろん金が好きで金を蓄えることで名を成した部分もあるが、金、すなわち戦に対する備えであるということを忘れたことはない。
たとえいかなる強豪であろうとも、自らの武は決してひけはとらないという自負、槍働きによって人生を切り開いてきたという圧倒的な自信は、左内にこのまま戦場の片隅で果てることを許さなかった。
(今日だけは特別に働いちゃる)
いかなる運命のいたずらか、こうして再び戦に巡り合えたことを喜ぶとしよう。
左内は犬歯をむき出しに凶悪な笑みを浮かべた。
それは戦場で獲物を狩る肉食獣にのみ許された狂気の笑みであった。
「………あれを食らって立ち上がるのか」
トーラスの全力の一撃を食らって生きているというだけでも驚きなのに、再び戦意を持って立ち上がったバルドにトーラスは感嘆にも似た思いを感じた。
「坊っちゃま!私に構わず逃げてください!」
「無理すなや!バルド」
お世辞にもバルドの状態は本調子とは言えない。
右手は骨が折れて皮膚を突き破っている有様だし、吹き飛ばされたときに額が切れたのか、バルドの美しい銀髪が血に染まって、顎の先まで血が滴っている。
むしろ何故立っていられるのか不思議なくらいだ。
『戦はええのう。若えの』
左内は笑った。
最後に自分が戦場に立ったのは、福島で伊達政宗と戦ったときだったろうか。
あの傾き者と直接槍を交えることが出来たのは左内も生涯の誇りとするところである。
人間的に欠点の多い人物だったが、独眼竜と呼ばれるだけ長所も多い人物だった。
敗勢の軍にあって、己の武で強きものに抗う。
まさに戦人の本懐とするところだ。
『来や』
そう言うと左内はトーラスに向かって悠然と手招きをするのだった。
トーラスの理性は殺すにしろ、無視するにしろ少年に余力など残されていないと告げている。しかし本能の部分がしきりと警鐘を鳴らしていた。
今さらナイフしか持っていないあの少年がトーラスを倒せるとは思わないが、何か一矢報いる手段が残っているのかもしれなかった。
おそらく、手招いているのは接近するのもつらいほど体力を消耗しているからであろう。
このまま無視して故国への帰途につくという選択もあるが、これほどの命賭けの挑発を前にして何の返礼も施さないのはトーラスの騎士の誇りが許さなかった。
「………名を聞いておこうか」
『岡左内定俊』
「オカ、か。覚えておこう」
そしてトーラスはセイルーンとセリーナの意識を奪った。
さすがに二人を抱えたまま戦闘するわけにはいかないからである。
首筋を優しく撫でられただけのように見えるが、二人はたちまち頸動脈を圧迫されて何が起こったのかわからぬままに意識を失ったのだった。
「行くぞ」
トーラスは抜剣して走り出す。
あるいは先刻の石礫のような手妻を使われるかもしれないが、所詮手妻は手妻にすぎない。裏を返すならば正攻法では敵わないことを告白しているようなものとも言える。
そんな小手先の手妻に敗れるほどトーラスの武は安くはない。
対する左内は微動をだにしていなかった。
まともに身体能力を競えば勝負にならないほどトーラスが上である。
勝負になるとすれば、左内が圧倒的に勝る戦場経験とそこで培われた戦場技術以外にはありえなかった。
だからこそ、その勝負の時が訪れるまで、左内はトーラスの攻撃に耐えきらなければならなかった。
キン!
ナイフの刃を滑らせてかろうじてトーラスの斬撃をそらす。
そして間髪いれずに胴をめがけて薙ぎ払われる剣を、今度は後ろに回転することで避けた。
(まるで先ほどとは別人のようだ………)
つい先刻とはまるで違う洗練された動きを見せる左内にトーラスは戸惑いを禁じ得ない。
たったひとつの戦いが、戦士を一瞬で成長させるということは確かにあるが、戦うスタイルが完全に変わってしまうことなど聞いた事がない。
先ほどのバルドは言ってみれば考えすぎの典型であった。
味方が助けにくるまでどうして粘ろう、とか逃亡を阻止するために怪我を負わせなくてならない、とか、人質をどうやって救出すようとか、頭で考えすぎるために肉体の反応速度を低下させてしまっていた。
優秀だが武技がまだ成熟していない若者にありがちな悪癖だった。
ところが今の少年はどうだ。
もちろん頭では冷静に思考をめぐらせているであろうに、流れるようなナイフ捌きはあくまでも最速で理にかなっている。
右腕が使えぬハンデをものともせずトーラスの猛攻をしのぎきっているのが証拠であった。
もし彼が万全で剣をとっていたならば果してどうなっていたことか。
(――――だが勝負の結果は変わらん)
いかに見事な防戦を見せたとしても、左内がじり貧であるという事実に変わりはないのである。
得物のリーチ、膂力、スタミナそのすべてが大きくトーラスが上回っている以上この攻防がいつか左内の致命傷という形で決着するのは決まっていた。
(おもいで(気持ちいい)のう………)
一瞬の判断の間違いが即死に繋がるギリギリの戦闘にあって、左内は逆に心の檻が解放されてくのを感じていた。
起きあがることもできない老醜をさらし、全財産を処分して死んだときには何も後悔などないと思っていた。
太平の世を迎えた蒲生家に老兵の居場所はないことはわかっていた。
戦国の生き残りは、辻を追われる犬のように平和な街角から消えていく運命なのだ。
なるほど平和は尊い。
民からすれば徴兵と略奪の恐怖から逃れることが出来るなら、戦などないにこしたことはないのだろう。
しかし、戦のみが培うことのできる友情と忠誠、太平では感じることのできない生きていることの充足感があったのではなかったか。
そしてそれこそが戦人の作法ではなかったか。
『とっくり(たっぷり)楽しもや、わけもん(若者)』
そうだ。太平に生きるものにはわかるまい。
戦とは――――生きるとは――――死ぬこととは楽しきことぞ。
いつしかトーラスは自分が笑っていることに気づいた。
いつ以来だろう。これほどの昂揚、ほかの何にも例えがたい充実感を感じるのは。
初めての騎士の任官のときだったか。あるいは初めて戦場で敵を倒したときのことであったろうか。
剣を合わせてからずっと少年が楽しそうに笑っていることにトーラスは気づいていた。
おそらく彼も自分と一緒なのだ。
この命ギリギリのやりとりが何ともいえず楽しくてならない。
このまま永遠に戦い続けていられたらいいと思うほどに。
「こんなに戦いが楽しいと思ったのは初めてですよ――――勝ってしまうのが惜しいほどにね」
だがどんな楽しい時にも終焉は訪れる。
左内はナイフばかりか、折れた右腕の手甲まで使って必死に防戦に努めたが、遂に体勢が崩れた。身体を避けることもできない。軌道を逸らすことも出来ない不可避の斬撃が、左内の命を狩り取ろうと迫る。
しかし刃を横に寝かせたその水平の斬撃こそ、左内が待っていた瞬間であることをトーラスは知らなかった。
『波打ち』
いかに身体強化で速度があがっても、膂力が強くなっても、直接の武器である剣までは強化することはできない。
戦国期の武将には武器破壊もまた戦場で必要な武技のひとつであった。
左内はナイフを捨て、もっとも耐久力の低い剣の側面に、90度に近い角度で身体強化された平手を打ち込んだのである。
パキリと乾いた音を立ててトーラスの肉厚の太いかと思われた剣は根本からへし折られた。
「何っっ!」
剣同士を打ち合って折れることはあっても、素手で剣を折られるとは思ってもみなかったトーラスは根本から折れて武器として用をなさなくなった剣を前に迷った。
騎士としての修行はそのほとんどが槍と剣と鎧の使い方に費やされる。決して戦えないわけではないが、やはり徒手空拳は専門外と言わざるを得ない。
剣というアドバンテージなしに果して少年に勝つことが出来るか、トーラスは思わず自分を疑ってしまっていた。
『甘え』
左内はトーラスのために一瞬の戸惑いを惜しんだ。
戦人たるもの、武器なくして戦う手段は常に用意しておくか、ないならば迷うことなく逃げることを選択しなくてはならなかった。
折れた剣の先を素手で握りこんだ左内は、指から血が溢れるのをものともせず、満身の力で刃をトーラスの喉元に突きあげる。
ナイフを捨てたことで左内の武器から警戒をはずしていたトーラスは一瞬反応が遅れた。
そして頸動脈を断ち切られたトーラスの首筋から噴水のように血しぶきがあがった。
(そうか、彼は最初からこれを……武器を破壊する機会とそれによる動揺を待っていたのか……)
それを自分は武器のアドバンテージを信じるあまりに油断していた。
まさか敵の武器を利用しようとは―――――。
「み……見事だ。少年」
『やはり戦はええのう………』
左内の言葉を理解したわけではないが、トーラスはその思いを確かに感じ取って莞爾と笑った。
「…………楽しい、時間であった………」
『ワエもや』
糸の切れた人形のようにトーラスは大きな音をたてて大地に沈んだ。
同時に、ちぎれかかった指や骨折した右腕から、脳天までしびれるような激痛が、まるで今までの分を取り返すかの勢いで左内を襲った。
(こりゃいかん。あとはわけもんにお任せや)
実に楽しい死合いであった。
大きな満足感とともに、左内はバルドの意識の深層へと再び身を沈ませていった。
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