リポート:福田和郎記者(社会部)
宮城県に住む70歳の女性、飯塚さん(仮名)です。
知らない間に受けた不妊手術のため、長年苦しんできました。
飯塚さん
「手術が本当に憎い。
自分の人生奪っている。
ここまで苦しみながらきた。」
16歳の時、住み込みで働いていた飯塚さん。
ある日、連れてこられたのが、この場所でした。
かつて、ここには県の小さな診療所がありました。
54年前、飯塚さんは何の説明もなしに、不妊手術を受けさせられたのです。
退院後、飯塚さんは両親の会話を聞いて、初めて自分が手術を受けたことを知りました。
飯塚さん
「(手術の説明は)何もなし、何も聞いていない。
子どもを産めなくされたと知った。
それから苦しみが始まった。
本当に戻れるなら戻してもらいたい。」
後に飯塚さんが入手した、手術の判定書です。
軽度の知的障害があることを理由に、「優生手術」と呼ばれる不妊手術が必要と明記されていました。
手術に同意したのは、飯塚さんの父親でした。
亡くなる直前、父親は飯塚さんに1通の手紙を残しました。
苦しい胸の内がつづられていました。
“やむなく印鑑押させられたのです。
優生保護法にしたがってやられたのです。”
終戦直後の日本。
戦地からの大量の引き揚げ者や、出産ブームによる「人口急増」が、大きな社会問題になっていました。
そうした中で生まれた「優生保護法」。
条文には「不良な子孫の出生を防止する」と明記されていました。
当時、親の障害や疾患がそのまま子どもに遺伝すると単純に考えられていたことが背景にありました。
優生保護法に詳しい、東京大学の市野川教授です。
当時は、障害者が劣っていると考える優生思想が強まり、法律にはその思想が色濃く反映されていたと言います。
東京大学 大学院 市野川容孝教授
「過剰人口問題、それに由来する貧困をどうやって防ぐかというところに、優性保護法の力点の1つがあったことは事実。
ただ、量を減らすと同時に人間の質を高める、質を上げる目的がこの法律にセットで入っていた。」
優生保護法のもと、本人の同意なく不妊手術を受けさせられた人は、半世紀で実に1万6,000人以上に上りました。
多くの関係者が口を閉ざす中、障害者に不妊手術を受けるよう判断した経験のある精神科医が取材に応じました。
のちに、手術に疑問を感じ声を上げましたが、周囲に賛同する意見はなかったといいます。
精神科医 岡田靖雄さん
「優生保護法のことは全然問題にならなかった。
昔の自分がしたことを合理化するみたいだが、その当時は何の疑いも持たないで、その人が(不妊手術の)対象だと考えた。」
昭和40年代に入ると、「障害がある子どもは不幸だ」として、全国の自治体で障害児の出生を予防しようとする運動も広がりました。
手術は、どのような調査や手続きを経て行われていたのか。
当時の記録がほとんど残っていない中、神奈川県の公文書館で新たな資料が見つかりました。
医師が書いた手術の申請書。
さらに家系図まで。
障害が遺伝していないか、つぶさに調べあげていました。
その中に、両親や兄弟の証言もありました。
さまざまな理由から手術を希望していました。
“本人が子どもの育児ができないため決心”。
“両親は病弱で、本人の将来を考え手術を希望”。
“一般社会の人にも迷惑がかかることを心配”。
周囲をおもんばかって同意したという家族もいました。
東京大学 大学院 市野川容孝教授
「障害がある人が子ども産んで育てられるのか、そういう環境が整っていないので、逆に不妊手術が本人のためだと考えられていた。
子どもを産んでも育てられないでしょうという周囲の善意があって、それがこの優生保護法をずっと存続させていた背景はある。」
16歳の時に強制的に不妊手術を受けさせられた飯塚さんです。
20代の時、結婚しましたが、その後離婚。
子どもができないことなどが原因でした。
「あの手術さえ受けなければ」。
50年たった今も、心身の不調に悩まされ続けています。
飯塚さん
「障害者だから何をしてもいいという権利はない。
誰かが訴えていかないかぎりは(差別は)なくならないと思う。
闇に葬られては困る。」
長年、人権問題を取材してきたルポライターの鎌田慧さんです。
優生保護法の根底にあった差別意識は、障害者殺傷事件やヘイトスピーチなど、さまざまな形で社会に色濃く残っていると感じています。
ルポライター 鎌田慧さん
「(優生保護法の)価値観はなかなか払拭(ふっしょく)していない。
その歴史はずっとつながっているから、差別的な意識をどう変えていくか。
障害者だけの差別ではなくて、少数で自分たちになじまないものを差別する。
それは恥ずかしいことだという意識をどう作るか。」