ぼくはこれまで、愛想のいい人に対してずっと不信感を抱いていました。
なぜなら、そういう人は何を考えているかが全く分からないからです。
おそらく、この不信感は今後も変わることはないでしょう。
ぼくは、愛想のいい人、その中でも特に、中途半端に愛想のいい人が嫌いです。
偽の愛を振りまくことの残酷さ
人に愛想を振りまき、その姿勢を最後まで貫くことができれば、それは本当にすごい事だと思います。
ぼくは、本心で思ったことしか行動に表すことができないので、誰に対しても徹底的に愛想よくふるまえる人はとても感心させられます。
しかし、偽の愛を振りまいている中途半端な人には、全く魅力を感じません。
なぜなら、それは人としてものすごく薄っぺらい行為だと感じるからです。
人との衝突を避けて守るべきものを守ることができず、接する人によってコロコロ意見が変わるため、そういう人が発する言葉には全く力が宿りません。
特に、見てて痛いと感じるのが「上っ面だけ良くて発言と本心が一致せず、更にその本心が周囲にバレている人」です。
「また食事にでも誘ってください!」と言っていたのに、いざ誘うと露骨にノリが悪い人なんかがそうですね。
そういう一面を見ると、二度とその人と関わろうとは思わなくなります。
発言と本心を一致させないのは信じてくれる人を裏切る行為
人の顔色をうかがっただけの本心が伴わない言葉を発することは、信じてくれる人を裏切る行為です。
それは、相手に対して気を使っているように見えて、自分が傷つきたくないから優しい言葉を使っているだけにすぎません。
自分を信じてくれる人にこそ、きちんと本心を伝えるべきではないでしょうか?
真に相手のことを思うのであれば、上っ面だけで人と接するのはやめるべきです。
本心を伝えることで離れていくのであれば、それはそもそも付き合いを持つべき人ではなかったということでしょう。
そういう事態を避けるために、心にもないことを言って相手の好意を得ようとするのは、相手に対してとても失礼です。
本心が見えない人といる時間の無価値さ
ぼくは、人と話している中で本心を隠している気配を少しでも感じると、
- 「この人は本当にそう思っているんだろうか?」
- 「もしかして、心の中では全く思っていないことを口にしているんじゃないだろうか?」
と考えてしまいます。
そして、そう思わせる人と話すのはものすごく疲れます。
なぜなら、発言一つ一つに疑いを持つようになるから。
そういう感情を抱きながら過ごす時間には何の価値もないので、ぼくは本心が見えない人との関わりはすぐに断つことにしてます。
人の顔色をうかがうのは無意味
そもそも、人の顔色をうかがって愛想を振りまくことに意味はあるのでしょうか?
ぼくは、以下の2つの理由から、愛想を振りまくのは無意味な行為だと感じています。
1. 自分のことを嫌う人は必ず現れる
いくら人に好かれるように頑張ったところで、自分のことを嫌う人は必ず現れます。
世の中にはいろんな考えを持った人がいる以上、これは変えることのできない事実なのです。
たとえ一つのコミュニティーの中で人気者になれたとしても、そこから一歩外に出れば、その人気は無価値なものに変わります。
だったら、「人に好かれる」ということのために行動する意味はあるのでしょうか?
できるだけ自然体で人と接し、それでも居心地がいいと感じるコミュニティーに身を置いたほうが無駄な消耗は無くなると思いませんか?
2. 多くの人が賛同するのは平均的な意見でしかない
社会人になると、尖った意見よりも全員の賛同が得られる意見の方が評価される環境にさらされます。
そうすると、いつの間にか「何が正しいか?」ではなく「どれだけ多くの賛同を得られるか?」というところに焦点を置くようになるんです。
しかし、多くの人が賛同する意見は、その組織における平均値でしかありません。
組織全体のレベルが高ければそれでもいいのですが、そうでない場合は多くの賛同を得ることにメリットはありません。
大切なのは、何が正しいのかをしっかりと自分の頭で考え発言すること。
そして、それに対する反対意見を予測し、先回りして答えを用意しておくことです。
誰にでも思いつきそうな平均的な意見を量産することには、何の価値もありません。
以上の理由から、ぼくは人の顔色をうかがうのは無意味な行為だと考えています。
芯のある嫌われ者を大切にしたい
ぼくが大切にしたいのは、人に嫌われる覚悟を持ったうえで自分の意見を発信できる人です。
「意見を発する」とは、周囲の状況と自分の経験や価値観をすり合わせ、その過程で生まれた「確信をもって正しいと思えるもの」を相手に伝える行為のことです。
つまり、その条件を満たしていれば、人の顔色をうかがう必要はありません。
だからこそ、そういう姿勢が備わっている人を見ると「この人とは一生関わっていきたい」と思えるわけです。
だからぼくは、「芯のある嫌われ者」が大好きです。