小沢健二の新曲がよくなかった。どうしてなのか考えた。
小沢健二は2017年2月22日に新曲「流動体について」を発売した。19年ぶりのシングルだ。
でもよくなかった。どうしてだろう。
そもそも小沢健二の「よさ」とは何なのか。考えよう。
小沢健二の活動はいくつかの時代に分けられる。
だいたいこんなことを歌っている
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青春が終わるなあ。意味なんてないだろうさ。ゼロを目指そう。
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犬時代(「天気読み」~)
いや意味はある。本当のことがあるはずだ。
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王子様時代(「愛し愛されて生きるのさ」~)
意味や本当のこととは愛だ。そして分かりあうことだ。
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冷めた時代(「大人になれば」~)
別れの後にも人生は続くなあ。王子様やめたい。
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日本の外の時代(「春にして君を想う」~)
……(性愛やグローバル資本主義経済批判を言ったりする)
一番人気だったのは3の王子様時代だと思うし、一番いいのもその時代だと思う。曲は引用というかパクリが多くてそりゃいいに決まっているので、問題は歌詞だろう。
王子様時代あたりの歌詞の特徴はこうだ。僕たちにもその情景がイメージできるくらい具体的な描写を2,3個並べて、そのあとに抽象的な表現だったりメッセージを置く。
たとえば
夕方に簡単に雨が上がったその後で
お茶でも飲みに行こうなんて電話をかけて
駅からの道を行く 君の住む部屋へと急ぐ
いつだって可笑しいほど誰もが誰か 愛し愛されて生きるのさ
それだけがただ僕らを悩める時にも 未来の世界へ連れてく「愛し愛されて生きるのさ」
この歌詞の前半が具体部、後半が抽象部だ。具体部では僕たちにそのシーンが想像できる描写が続く。僕たちの日常と同じレベルの話だ。
後半が抽象部だ。前半での具体的なシーンを抽象すると何が言えるのか、何によって前半の具体的なシーンが発生するのかその原因が歌ってあったり、もしくは「こういう気持ちでやればいいんじゃないか」というメッセージが歌われる。この部分はだいたい繰り返される。
この歌詞では恋愛のワンシーンが語られ、それが「愛し愛されて生きている」という抽象的なまとめに使われている。そして「愛し愛されて生きている」ということが僕たちを未来に進ませる(だから愛し愛されて生きていこう! いくしかない!)というメッセージが語られる。
他にも
プラダの靴が欲しいの そんな君の願いを叶えるため
マフラーを巻いて 街へ出て
恥ずかしいながらもウキウキ通りを行ったり来たり
喜びを他の誰かと分かりあう!
それだけがこの世の中を熱くする!
降りしきる 雪の中 肝心かなめの夜はまだ
クラクション鳴らして車が走ってく「痛快ウキウキ通り」
こんどは具体部→抽象部→具体部になっているけれど、具体と抽象を交互にしながら歌詞が流れていくのがわかると思う。
そして小沢健二のすごいところは、この具体部が想像できるくらい具体的なところと、それと抽象部との接続がちょうどいいところだ。
青い空が輝く太陽と海の間
”オッケーよ”なんて強がりばかりの君を見ているよ
サクソフォーンの響く教会通りの坂降りながら美しさ oh baby ポケットの中で魔法をかけて
心から oh baby 優しさだけが溢れてくるね
くだらないことばっかみんな喋りあい
嫌になるほど続く教会通りの坂降りて行く
日なたで眠る猫が 背中丸めて並ぶよ
”オッケーよ”なんて強がりばかりを僕も言いながら
本当は思ってる 心にいつか安らぐ時は来るか?と美しさ oh baby ポケットの中で魔法をかけて
心から oh baby 優しさだけが溢れてくるね
くだらないことばっかみんな喋りあい
嫌になるほど誰かを知ることはもう二度と無い気がしてる左へカーブを曲がると光る海が見えてくる
僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも「さよならなんて云えないよ」
具体的な描写があるところ、つまり具体部はどれもすらすらイメージできると思う。 突っかかるところもなくその情景が想像できるはずだ。
そして具体部と抽象部との接続もちょうどいい。抽象的な言葉は、出るたびにそのときの意味が具体部を通じて少し理解できる。そして歌が進むうちに大きな意味が少しづつ理解できてくる。
たとえば「ポケットの中で魔法をかけるって?」と少し引っかかるけれど、具体部を通して最初は「美しくて魔法的なんだろうなあ」と軽く理解できて、歌が進むとたくさん例示される具体例を文脈として「日常の美しさが密かにかけられた魔法なんだろう」と読めてくる。
最大の抽象部の「僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも」も、日常の美しい瞬間がそれまで具体例としていくつも並べてあるので、それらを肯定しているのだと理解できて、意味が心に入ってくる。
この抽象的な言葉だけをポッと出しても説得力がないし、具体例だけでは何が言いたいのかわからない。具体部は抽象部と接続されないといけないし、抽象部は具体部と接続されないといけない。この時期の小沢健二はこの具体部と抽象部との接続という部分でちょうどいいバランスを保っている。
ということで小沢健二の歌詞のよいところは3つある。
- 具体部と抽象部が交互する歌詞構成
- 具体部がイメージできるくらい具体的
- 具体部と抽象部との接続がちょうどいい
このことがタモリのような感想を引き出す。
タモリ: でもね、よく考えられた作品だよね。あのね、まぁいろいろ優れてるんだけども、俺が一番驚いたのは鹿児島で車でできた作品で『道を行くと、向こうに海が見えて、きれいな風景がある』。そこまでは普通の人は書くんだけれども。それが『永遠に続くと思う』というところがね,それ凄いよ。凄いことなんだよ、あれ。
小沢: ホンっト、ありがとうございます。良かったなぁ、ちゃんと…。ボクは何かね、聴いてて、何ていうのかな……。たとえば、今お昼休みで、『笑っていいとも』で“ウキウキウォッチングしてる”ところと、何ていうか、“人生の秘密”とは、“生命の神秘”とか、“永遠”とか、そういうのがピュッとつながるような曲が書きたいんですよね。それで、だから…。んー。
タモリ: だからまさにあのフレーズがそうなんだよね。あれで随分…、やっぱり考えさせられたよ。
小沢: ありがとうございます。
タモリ: あれはつまり“生命の最大の肯定”ですね。
「あれは生命の最大の肯定」タモリが絶賛した小沢健二 - てれびのスキマ
具体や日常や一瞬から抽象や普遍や永遠を引き出す、という形として歌詞の形式がアウトプットされる、というのが分かると思う。
これは別にタモリや小沢健二がはじめて言ったことではない。みんなが言ってきたことだ。たとえば詩人ボードレールが「現代性(モデルニテ)」の議論でこういうことを言っている。
そのようにして、彼は行く、走る、そして探す。何を探しているのだろうか?間違いなくこの人物は、つまり私が描いてきたような、活発な想像力を授けられ、常に人間たちという大きな砂漠を横切って旅を続ける孤独者は、単なる遊歩者よりも高尚な目的を持っている。その場の状況次第の束の間の快楽とは異なる、より全般的な目的を持っている。彼が探しているその何かを「現代性」と呼ぶことをお許し願いたい。というのも、問題となっている観念を表現するのに、これ以上に相応しい言葉が存在しないのである。彼にとって重要なのは、流行の中から、流行が歴史性のうちに持ちうる詩的なものを取り出すこと、移り変わり行くものの中から、永遠を引き出すことなのである。
小沢健二の歌詞の魅力が具体や日常や一瞬から抽象や普遍や永遠を引き出すところにあること、そしてそれは
- 具体部と抽象部が交互する歌詞構成
- 具体部がイメージできるくらい具体的
- 具体部と抽象部との接続がちょうどいい
という歌詞の形式として現れているというのが分かったと思う。
特に小沢健二の最大の名曲「天使たちのシーン」でこれらは顕著なので時間があるなら聞いてみてほしい。10分以上ある。
さて、この観点からいって新曲はどうだっただろうか。
新曲「流動体について」の歌詞は以下だ。
羽田沖 街の灯が揺れる
東京に着くことが告げられると
甘美な曲が流れ
僕たちは しばし窓の外を見る
ここが具体部だ。羽田空港に帰ってくるシーンだというのは想像できるけれど、まとまりはじめたイメージが「甘美な曲」という曖昧な言葉でサッと消え去ってしまう。甘美な曲とは何なのか? ここでは曖昧な言葉ではなくて具体例を出すべきだと思う。それは「ノルウェイの森」だとか「ポーギーとベス」「いとしのエリー」でも、「ラブリー」でさえよかったかもしれない。
もしも、間違いに気がつくことがなかったのなら?
並行する世界の僕は
どこらへんで暮らしてるのかな
広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど神の手の中にあるのなら
その時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらい
抽象部。ここで歌詞の飲み込みやすさがガクッと下がる。抽象部は抽象的な言葉を吐くのだから、具体部との連続をスムーズにしてスッと理解できるようにしないといけない。けれど、羽田に着く飛行機から窓の外を見ることから、「過去のありえた選択とその将来についての想像」へと繋がるのはきれいな連続ではない。3回くらい読み返せばわかるけれど、曲の速度にはとうてい追いつかない。そして「神の手~」からの歌詞はほとんどどこにも接続していない。そのせいで歌を聞いているだけだとハテナが頭で回っている間に歌詞が通り過ぎてしまう。
雨あがり 高速を降りる
港区の日曜の夜は静か
君の部屋の下通る
映画的 詩的に 感情が振り子を振るもしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?
並行する世界の毎日
子どもたちも違う子たちか?
ほの甘いカルピスの味が不思議を問いかける
具体部。どうやら昔に付き合っていた人の部屋の近くを通っているのだろうとはイメージできるのだけれど、「映画的 詩的」は抽象的すぎて、ここでもまとまりかけていたイメージが消え去ってしまう。映画的とはなにか、詩的とはなにか、それを具体例で開いて理解できるようにするのが詩人の役割だと思う。イメージがまごついている間に歌は次に進んでいってしまう。
抽象部。やっと「過去のありえた選択とその将来についての想像」についての接続が見えてくるけれど、「カルピスの味」がほとんど完全に浮いている。ギリギリ「子供たち」と連続しているとは言えるかもしれないけれど、圧縮率が高すぎて考えないと分からない。
だけど意思は言葉を変え
言葉は都市を変えて行く
躍動する流動体 数学的 美的に 炸裂する蜃気楼
彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届くそれが夜の芝生の上に舞い降りる時に
誓いは消えかけてはないか?
深い愛を抱けているか?
ほの甘いカルピスの味が 現状を問いかける
ここはほとんど最悪だ。これまでの具体部にも、抽象部にも連続していない。駅前でがなり立てる筋の悪い政治運動みたいに僕たちの日常と切り離されている。「だけど意思は言葉を変え 言葉は都市を変えて行く」これまでに具体例がないので何を言ってるのかわからない。マザー・テレサの名言のヘタクソなコラージュだ。「躍動する流動体」なにか分からない。「流動体について」というタイトルなのだし、僕たちの日常の具体的なシーンを積み重ねることで流動体のイメージができるようにしないと誰にも伝わらない。「数学的 美的に」それがどういうことなのか教えてほしい。「蜃気楼」これが何なのかわからない。イメージできない。小沢健二の過去の歌の歌詞にも蜃気楼が出てくるものがあるけれど、やっぱりわからない。ここはすべてが浮いていて抽象的なことしか言ってない。抽象的な言葉が力を持つのは具体的なものと結びついたときだけだ。そして小沢健二は具体例なものを教えてくれない。だからこれらの言葉に力はない。
そして意思は言葉を変え
言葉は都市を変えて行く
躍動する流動体 文学的 素敵に 炸裂する蜃気楼それが夜の芝生の上に舞い降りる時に
無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない
人気のない路地に確かな約束が見えるよ
「無限の海」も具体例が与えられていないから全くイメージができない。「人気の無い路地に確かな約束が見えるよ」約束は普通、目には見えない。約束を暗喩するような歌詞がここまでに出ていない。なにもわからない。
神の手の中にあるのなら
その時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう無限の海は広く深く
でもそれほどの怖さはない
宇宙の中で良いことを決意する時に
アジテーションでしかない。街中や、僕たちの生活のなかで良い事を決意する瞬間や具体的なシーンをいくつか挙げていないと、ここで納得はやってこない。そして納得はやってこなかった。
具体例を与えない抽象的な言葉でも力が生まれるときがあって、それは時代と社会が具体例を勝手に与えてくれる場合だ。でも小沢健二の新曲にはそれもない。ほんの少し、子どもが生まれたおじさん・おばさんにはあるかもしれないけれど。
まとめると小沢健二の新曲はこうなる
- 具体部と抽象部が交互する歌詞構成→△
- 具体部がイメージできるくらい具体的→×
- 具体部と抽象部との接続がちょうどいい→××
そのせいで「具体や日常や一瞬から抽象や普遍や永遠を引き出す」という小沢健二の魅力がほとんどゼロになっていることが分かる。じっさい、歌詞の構成を見るだけじゃなくて聴いててもそうだ。抽象的な言葉が突然やってきて、上滑りして通り過ぎていくだけ。その原因はこうだったわけだ。
考えてみたけれどやっぱり小沢健二の新曲はよくなかった。抽象的な言葉が地面に着かずに踊っている、まるで若い人ががんばってはじめて詩を書いたみたいな歌詞だ。でもおじさんにしか書けない「あの時こうしておけばよかったかもなあ」という内容の歌詞なので、そのへんのアンバランスさは面白いかもしれない。
人が才能を無くす瞬間はいくつかある。27歳。30歳。結婚。子どもが生まれる。すべてを通り越した人々。小沢健二さん、がんばってくれ!!!!!!