「氷上のアクトレス」――人は彼女をそう称す。その表現力は、スケートへのひたむきな愛情と努力によって培われてきた。トップスケーターが次に挑戦した「ヌード」という表現。その真意を聞いた。
――暮れていく空。やがて夜の帳が下り、白く輝く大きな月が浮かぶ。68年ぶりといわれる超巨大スーパームーンが現われた昨年11月。満月の光に照らされながら、フィギュアスケーター・村主章枝は、美しい肢体をのびやかに躍らせた。
背景にかかる曲は、ベートーベンの「月光」。発売される初のヌード写真集『月光』(アンディ・チャオ撮影)には、そのドラマチックな一部始終が収められている。
撮影は昨年の11月、三宅島で行いました。気温は東京都心より暖かいくらいだったんですが、何せ、着ているものが薄かったり、そもそもなかったりだったので(笑)。撮影は、寒さとの戦いでしたね。
おまけに、初日に雨が降ってしまって……。私すごく雨女なんです。「ここまできて、満月が見られなかったら、私のせいだ」と心配しましたが、2日目は無事に晴れてホッとしました。
撮影時は、実際に音楽を流しながら踊りました。下が砂利で、海からの風を受けるということもあり、ポーズをとるのは氷の上よりかなり大変。それでも、大自然の中、肌から感じるものは競技場でのそれとはまったく違っていて、すごくいい「気」のようなものが受けとれたと思います。
――村主にとって「月光」は、特別な曲である。'02年、ソルトレイクシティ冬季五輪のフリースケーティングで、彼女は「月光」のメロディーに乗せて情感あふれる演技を披露し、見事、5位に入賞。のちに「氷上の女優(アクトレス)」と評される村主の表現力が、開花した瞬間だった。
メロディーに深みがある……プログラムで滑る曲の候補として「月光」を最初に聴いたときの印象は、そんな感じでした。
そしてちょうどその頃、アメリカで9・11(アメリカ同時多発テロ)が起こったんです。世界が激しく動揺する中で、おこがましいようですが、暗闇を照らすひと筋の月の光のように、私の作品が誰かの救いになればと……。
実際、オリンピックで滑っているときは、「こう演じよう」という意識はなく、気持ちのままに身体が動いていた。社会情勢と自分自身が結びつき、かつてないほど思いを込めて滑ることができました。
その演技に対して多くの方から共感を寄せていただき、自分の人生の中でも「月光」は大きな意味を持つことになった。ですから、初めての写真集を作るにあたり、この曲をモチーフにしようというアイデアは自然と浮かび上がりました。
「月光」を本物の月の光の下で踊れる機会が訪れたこと、そしてそれを美しい写真にして残せたことに、すごく感謝しています。
――父の仕事の関係で幼少時をアラスカで過ごした村主は、6歳でスケートを始め、10代前半から頭角を現した。全日本選手権を5度制覇し、ソルトレイクシティに続く'06年のトリノ大会では、金メダルの荒川静香に次いで4位に入賞。世界選手権の日本代表選手には、実に9度選ばれている。
25~26歳で引退するのが通例の中、村主の競技生活は33歳まで続いた。が、栄光の日々の陰には、人知れぬ苦闘があった。
フィギュアスケートは一見華やかな世界ですが、イメージとは裏腹に、競技生活を続けていくのはとても大変なことです。
いい演技をするのと同時に、選手にとっての課題は、活動の資金を確保すること。実は、フィギュアスケートは、宣伝広告の面ではすごく難しいスポーツなんです。
ゴルフやテニスのように、選手の衣装にスポンサー名を入れることができないし、競技時間も女子のショートプログラムは2分50秒、フリーは4分10秒と、ごく短い。
企業はそのあたりをシビアに判断します。そうすると、広告費はリンクの看板のほうに使われてしまう。今、これだけ人気になりましたが、実際のところ、スポンサーからの支援でやっていけるスケーターは、日本でも上位の3~4人だけでしょう。
私自身にも、その課題は常について回りました。とくに競技生活の終盤、思うように成績が残せなくなってからは、資金がいつ途絶えるか、その修羅場を、何度も首の皮一枚で乗り切ってきました。
'10年には、スポンサーが見つからなければ引退するしかない事態に追い込まれましたが、そのことを記者会見で話したら、会見後に複数の企業が名乗りを上げてくださいました。あのときは「正直に話してみるものだなぁ」と思いましたね(笑)。