今日はいろいろと動きがあった。そして中核派はやっぱ私を見捨てたっぽい。
中核派は、自分は真実と言いつつ、私が真実はコッチにあるのでは、と言ってもゼンゼン信じない。
それでじゃあ、自分らが真実なんてどうやって証明するねん?
そこの理屈がワカラン。
私は今日、書いていいと思うところまで書くけど、人と飲みに行って、そこでぶっちゃけ話をした。
そこでその人いわく、「中核派だけはやめといたら」ということやった。
どうして、というのではなくて、「中核派だけはやめといたら」になるねん。
そこに核心がある。
中核派は、自分らが真実を言っていると思って、盛んに街宣とかビラ配りをしとる。
真実を言えばいつか人々はわかってくれる、と思うとる。
けれども、人々は、「中核派だけはやめといたら」になるねん。
それでは、閉じた貝をこじあけるくらい難しくて、いっくら経っても理解なんてしてもらえん。
そうではなくて、自分から、相手のことを理解する。
そうやって信頼を得ることのほうが大事やねん。
今日呑みに行った人は、「自分も演劇を習っていたけれども、AKBの公演をおーにっちゃんはよく観ている。おーにっちゃんが言っているようなことを演じる立場の者が言われたらうれしいはず」
と言ってくれた。
だから、私はその確信を持ってAKBの公演その他の舞台、映画等々の感想を書いとる。
それを中核派はいっこも理解せん。
じゃあ、私が「前進」等々の文章の感想を書いたらええんやけど、ハッキリ書くと、「前進」等々の文章って全部論調が一緒でクソツマランねん。
論調なんて違っていてもよくて、だって資本主義に抗するわけやから、資本主義だって論調をある程度揃えてくるわけや。
それに抗するには自分らは論調がもっとちゃんとしとらなアカン、と思ってついつい論調が一緒の”金太郎飴”になってまうんやろけど、”金太郎飴”なんて1回見たときは興味を惹いても、2回目以降はなんも面白くないねん。
だから、論調が違って、内部でさえ喧々諤々、みたいなモノを出すほうが、コッチのほうに自由がある、と思って、ついつい引き寄せられるハズなんやけど、そんな発想がない。
たとえば、少し出すけど、本で読んだことには、JR東日本の宣伝で、踏切の安全を啓蒙するために、JR東日本内部でどうやって降りた踏切を守るか、渡らないか、を言っていくか、と考えとったらしい。
けれども、それではなかなか有効な宣伝ができんかった。
そこで電通に頼んだら、電通は、踏切には監視カメラがあって、それで踏切を超える場面の画像があるから、それを使えないか、と言われた、とあった。
自分らにはない発想やったと。
それで、一般の人々にめっちゃ印象を与えたと。
検索したら、コレかな。
https://www.youtube.com/watch?v=pKVeWfZP3v0
自分らが「こうやりたい」と思う方向を主張するのはカンタンやけど、それを”相手に”理解してもらうことは至難の業や。
”相手に”理解してもらうためには、全く逆をやったらどうなるか、を示すとかせなアカン。
なかなか示せんこともあるんやけどな。
だからこそ事実を示す証拠が重要で、私は証拠をいっぱい抱えとるんやけど、中核派はこの事実というモノを”マルクス主義”のタテマエのもとでけっこう軽視する。
”マルクス主義”ったって、マルクスが事実を積み上げたらそうなったモノなんやから、それを経文にしてまうよりも、
「自分が最初から事実を積み上げて、マルクス以上のところに到達したる!」
というような意思がなけりゃ、革命なんて到底達成できんぞ。
私はいつも言うとるけれども、学問ではなくて意志やねん。
意思がある者が毎日一歩一歩着実に進めば、マンネリ化したビラ配りなんかよりもよっぽど前進できる。
まあ私もこう言いながらセルフプロデュースしとるんやけど、中核派にとっても決してマズイことではないはずや。
だって私がホンマに相手にしとるのは日本政府やからや。
中核派は、日本政府を相手にしとるのか、JR東日本を相手にしとるのか、イマイチワカラン。
・・・まあ、イマイチワカランかってもええんやけど、そこで喧々諤々の議論ができんことがホンマの問題や。
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