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虚業教団
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
大川青年との最初の出会い |
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一九八九年(平成元年)の夏、私はロンドンに滞在していた。そこから東京の幸福の科 学本部事務局宛に、一通の封書を出した。封書には、〈幸福の科学〉への別れの挨拶とも
いえる私の辞表が入っていた。
この別れに、淋しさがなかったと言えば嘘になる。 自分は〈幸福の科学〉を創りあげた一人である、という自負があった。人生を懸け、と もに歩んできた三年半。時間としては短いかもしれない。しかし命懸けでのめり込んでき た日々は、私には長く、重いものだ。 それまで私は自動車販売会社を経営していた。同業者からも羨ましがられたほど順調だ った会社を人に譲り、自社ビルは売却した。妻子とも気まずく別れることになった。主 宰・大川隆法に強制されるかたちで、″神託結婚″もした。それでもまだ、人生を懸けたと 言うにしては、三年半は短過ぎるだろうか。
そのような会との別れは私の胸を締めつけた。
しかし一方では、晴々とした気分だった。
ロンドンの空は、連日爽やかに晴れ渡った。お世話になったイギリス在住のTさんによ ると、ロンドンでこんなに快晴が続く年は非常に珍しいという。抜けるようなその青空に 似た清々しさを、私は一人噛みしめていた。 これからは一人で充分だ。一人で修行を重ねていこう″ 軽やかな陽射しを浴びながら、私はロンドンの街を、公園を歩きまわった。その心をさ
まざまな思いが心をよぎる。
″幸福の科学は、ほんとうに幸福を科学したのだろうか。会員は幸せになれただろうか″ ″職場や家庭で、彼らは真に素晴らしき人になり得ているのだろうか″ ″確かに愛の理論はあった。だが、愛の実践はともなっていたか……″
″会員を集めることに走り、最初の志を忘れてきたのではあるまいか″
東京にいたときも、繰り返し浮かんできた問いである。 一カ月の休暇を無理やりもらってイギリスへ渡ってきたのは、三年半の激務でボロボロ になった体の治療が目的だった。それは、遠く離れて会を見つめなおすいい口実になった。 遠くに立ち、胸にわだかまるいくつもの間いに答えを出したかったのである。 一目置きに治療を受けに通った。そのあい間にハイドパークの公園へ出かけるのが、い つしか私の楽しみになっていた。陽射しに暖められた柔らかな芝生に体を横たえ、胸一杯 に新鮮な空気を吸う。ちょうど日本の初夏のようで、あちこちに陽炎が踊っていた。 会で重責を背負っているときは、何かに憑かれたように、いつも忙しく動きまわってい た。自然とゆっくり接することもなかった。会の方針や自分のかかわり方についても、落 ちついて考えるヒマもなかった。しかし、こうして遠くから眺めてみると、大川隆法とい う人物や〈幸福の科学〉が次第に見えてきた。 絶対と信じ切っていたものが、今は陽炎のように揺らいでいた。 私の辞表に大川先生は何を思うだろうか″ そんな思いも幾度となくわいてきた。
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