ジャズは1917年に初めてレコード化され、レコード録音の目覚ましい技術革新と歩みをともにしながら、時代に即してその様式を変えていった音楽である。皮肉なことであるが、即興演奏に大きな魅力を持つジャズは、複製芸術であるレコードによって世界的に広がった。レコードの歴史とジャズは切っても切れない関係にあるといってもよいだろう。
日本初の「ジャヅバンド」のレコードは1921年、陸軍戸山学校軍楽隊によって録音された。しかしそれは今日の一般概念からすると、ジャズから遠くかけ離れた音楽であった。ジャズらしいジャズが日本で録音されたのは1925年以降のことで、奇術師の松旭斎天勝一座の専属だったカーロス・C・ショウ・ジャズバンドや、上海から招かれたカールトン・ジャズバンドなど外国の楽団による。同時期、日本人楽団の大阪松竹座管弦団も盛んにジャズを録音したが、リズム感や音程に難がある録音が多く、まだジャズの重要な要素であるスウィングも獲得していない。では、日本のジャズが戦前期、どのように成長したかを辿ってみよう。
(レーベル等の画像は毛利氏の提供による)
日本における初期のジャズ演奏の姿をとどめている録音である。コスモポリタン・ノベルティー・オーケストラは1924年、神田の地主・石井善一郎(1896-1978)によって結成された十一名編成のジャズバンドで、石井(サックス、指揮)と石井家の子息たち、慶応・早稲田などの大学生から成っていた。「ティティナー」は、アメリカで大ヒットしたInternational Novelty Orchestra (Victor 19586, 1925年2月5日録音)のレコードをベースとした編曲である。少女合唱を含め、コスモポリタン・ノベルティー・オーケストラの特色がよく出ている。この楽団は1937年頃まで活動していた。1928年2月15日録音。同年4月新譜。
日本のジャズのパイオニアは井田一郎(1894〜1972)であった。井田は大正期から関西でジャズ活動をしていたが、1928年に自分のバンドを率いて東京に進出し、ジャズ・ブームを巻き起こした。同年ビクター専属となってからは、日本ビクター・ジャズバンドの名で数多くのレコードを録音した。1928年9月13日に録音された「アラビアの唄」はビクターでの初録音で、同年11月新譜。二村の歌唱とともに溌剌とした演奏だ。「れきおん」では同時期にニッポノホンでリリースされた二村定一・天野喜久代(歌)、レッド・ブリュー・クラブ・オーケストラの「アラビヤの唄」(1928年5月新譜)も聴くことができる。
ビクター「アラビアの唄 Sing me a song of Araby」
ニッポノホン「アラビヤの唄」
大正期から昭和初期は大学の学生バンドが盛んな時代であった。なかでも人気を博したのが慶応大学のレッド・ブリュー・クラブ・オーケストラと法政大学のラッカンサン・ジャズバンドである。リーダーの作間毅は作詞、編曲、ドラム、ヴォーカルをこなす才人で、「大学生活」では日本のジャズソングでは珍しく英語歌唱を行なっている。学生バンドの若々しさ、プレイする楽しさが伝わるテイクである。1928年9月14日録音、1930年4月新譜。
1933年、アメリカから上海経由で来日した黒人歌手のミッヂ・ウィリアムス(1915-1952)が赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」に出演し、本物のジャズヴォーカルを聞かせたことは日本ジャズ史上、特筆すべき一大事件であった。ミッヂは滞日中、コロムビア・ジャズバンドの伴奏で5面録音している。南里文雄(トランペット)やミッヂに同行したロジャー・セギュア(ピアノ)を加えた編成の「ダイナ」はよくスウィングしており、ミッヂの歌唱を引き立てている。ミッヂ・ウィリアムスはアメリカに帰国してからジャズシンガーとして頭角を現し、ラジオ放送やレコードで活躍した。1934年2月21日録音。同年5月新譜。
戦前、ジャズのフィーリングを身につけた歌手はごく限られていた。そうして、その多くはアメリカ西海岸から来日した日系歌手たちであった。宮川はるみ(1914-1992)は1934年に来日し、ショーやラジオ放送で活躍した。彼女の魅力はハスキーヴォイスと都会的なスウィング感であった。彼女が特にアレンジャーに服部良一を指名して録音されたのが、「唄へ唄へ」である。隙のない服部アレンジをコロムビア・ジャズバンドは完璧に演奏している。日本のジャズが、演奏技術面ではアメリカの楽団と比較してもさほど見劣りしない水準に達していることが、この録音から窺える。1937年7月16日録音。1938年1月新譜。
ディック・ミネ(1908-1991)は日本語の歌詞を英語風に発音することで、ユニークなジャズヴォーカルを確立した。彼はたゆまざるジャズ独習を積んだが、その片鱗がヴォーカルだけでなく作詞やアレンジにも現れている。南里文雄のトランペットやミネのスティールギターが入る「スイートジェニーリー」は三根徳一=ディック・ミネのアレンジである。1935年5月新譜。
→『スイートジェニーリー Sweet Jennie Lee』を聴く
※右は「テイチクレコード新譜目録(1935年4月)」表紙
写真はディック・ミネ
スウィング時代を迎えた日本のジャズは、優秀なプレイヤーによって支えられた。ジャズメンの多くはダンスホールやアトラクションでの演奏を通して、ジャズ奏法に習熟した。トランペットの古田弘はもともと阪神間のダンスホールで演奏していたがその後上京。1936年に日本ビクター・ジャズ・オーケストラに加わった。ジャズトランペットのソロ録音は戦前では珍しく、この古田弘の他には南里文雄、伊藤恒久の録音が残された程度である。1939年3月25日録音。同年9月新譜。
杉井幸一(1906-42)は戦前から戦中にかけて活躍した最も個性的なアレンジャーで、「サロン・ミュージック」と銘打って通俗な歌曲や民謡を数多くスウィング化した。「荒城の月」は瀧廉太郎の原曲を急速テンポのストンプに編曲した名アレンジである。トランペット(橘川正)による主旋律の提示、テナーサックス(松平信一)のアドリブ、「証城寺の狸囃子」を引用した間奏のクラリネット、とソロが引き立つアレンジはスリリングな展開と迫力にあふれている。1941年1月新譜。
JOAK(現・NHK東京中央放送局)は1935年から短波の国際放送を開始した。時局の緊迫につれてプロパガンダの性質を強めていった国際放送は、聴取数を増やすために質の高いクラシック音楽やジャズを多用した。ニユウーオーダーリズムオーケストラは国際放送用に編成されたビッグバンドで、コロムビア・オーケストラをベースに一流プレイヤーを集めたといわれる。その名は新体制(New Order)に由来する。日本放送協会がコロムビアに委託して制作された放送用録音が4曲現存する。「草津節」はカウント・ベイシー楽団風のブルースに編曲されている。メカニックなリズムに乗ってクラリネットとアルトサックスがブラス陣と応酬する。後半はウォーキングベースに移り、ピアノを交えてクライマックスに達する。演奏面でもフィーリング面でも戦前期の頂点といえる録音だ。 1941年2月録音。
〔参考文献〕
(音楽評論家・毛利 眞人・もうり まさと)