今年100週年を迎えたロシア革命、ご存知のようにロシア革命は二月革命と十月革命という2つの革命をからなっています。まず二月革命でロマノフ朝が倒され、十月革命でレーニン率いるボリシェヴィキが権力を握るわけです。
 世界史の教科書などでは、この二月革命から十月革命の間、政権を担っていた臨時政府(ケレンスキー内閣)については「倒された存在」としてしか書かれていませんが、当然ながら、臨時政府はなんとか政権を運営し、政情を安定させようと努力したわけです。
 そんな臨時政府の立場からロシア革命を辿り直してみせたのがこの本。最近の歴史の本はさまざまなアクターを登場させることが多いですが、あえて臨時政府というアクターに絞って、ロシア革命の展開と、「無理ゲー」とも言える当時のロシアの政治情勢のなかで悪戦苦闘した政治家たちの姿を描いています。

 目次は以下の通り。
第1章 一〇〇年前のロシア
第2章 二月革命―街頭が語り始めた
第3章 戦争と革命
第4章 連立政府の挑戦
第5章 連邦制の夢
第6章 ペトログラードの暑い夏
第7章 コルニーロフの陰謀?
第8章 ギロチンの予感
第9章 十月革命

 「後進国のロシアでなぜ社会主義革命が成功したのか?」
 これは長年問われてきた問ですが、この本を読むといくつかの前提条件が見えてきます。
 まず、ロシアでは政府の抑圧が強かったため、有産層の政党よりも、「はじめに地下活動をおこなう勇気と大胆さをもった社会主義者が、非合法で政党をつく」りました(5-6p)。
 欧米流の教育を受けた自由主義者もいましたが、その数は圧倒的に少なく、農民や労働者といった民衆の力を借りずに政府をひっくり返すことは不可能でした。
 一方、長年、抑圧されてきた民衆にとって「現在ある秩序はこつこつ修正していくべきものというよりは、いつか、夢のような真実の瞬間に、一挙の転覆されるべきものであった」(16p)のです。

 そんな中で、第一次世界大戦が始まります。ロシアも総動員体制を敷きましたが、1915年の半ばにロシア軍は総崩れとなり「大退却」が始まります。そして、農村から大量の兵士が動員され、「独自の公正観念をもつ農民が、武器をもたされて、前線や都市に大量移動させられた」(17-18p)のです。

 1917年2月23日(ロシア暦)、ペトログラードの街頭で女工たちが「パンを!」と要求したことから二月革命は始まります。
 街頭に繰り出す人は次々と増えていきましたが、皇帝ニコライ2世は大本営の置かれていたベラルーシのモギリョフにあり、事の深刻さを把握することはありませんでした。 
 ペトログラードにいたロシア議会ドゥーマの議長ロジャンコは皇帝に対処を求めましたが、2月27には兵士の反乱も始まり、事態は切迫します。
 ここでドゥーマは自ら権力を掌握する道は選ばず、臨時委員会を設立する道を選びました。一方、ペトログラードの道を埋め尽くした群衆らは労働者と兵士の代議員評議会、メンシェヴィキの指導によりソヴィエトをつくり出します。

 ソヴィエトからは兵士の自由を求める声が強まり、兵士委員会による将校の解任なども行われました。この戦時下における、兵士の自由・解放と軍紀の維持の問題はこのあともずっと続いていきます。

 当初、臨時委員会はニコライ2世を退位させて12歳の皇太子に譲位し、皇帝の弟のミハイル大公を摂政に立てようとしましたが(33p)、事態の急転の中でこの案では事態を収拾できなくなり、共和制への移行と、臨時政府が全権力を引き継ぐことが決まります。この時、ミハイル大公の声明を書いたのが作家・ナボコフと同名の父で法学者のナボコフでした(40p)。

 臨時政府の中心となったのはカデットと呼ばれる政党を中心とした自由主義者たちでした。基本的にカデットなどの自由主義者が臨時政府に、社会主義者たちはソヴィエトによって事態を動かそうとしましたが、そんな中でケレンスキーは個人の資格で臨時政府の司法大臣となります。
 臨時政府の首班はリヴォフ公ですが、内閣の顔となったのは外務大臣のミリュコーフです(43p)。
 
 臨時政府はソヴィエトとの協議によって、成立にあたって8項目の活動方針を掲げましたが、その中には「革命に参加した部隊を武装解除せず、ペトログラードから動かさぬこと」という厄介な条項も含まれていました(48p)。
 また、ケレンスキーによって政治犯が釈放され、シベリアに流刑されていたボリシェヴィキの面々も釈放されていくことになります。
 臨時政府とソヴィエトの対立はありましたが、全体としては「社会全体が専制の崩壊を喜んで、幸福な一体感を味わっていた」(53p)という状況でした。

 しかし、臨時政府とソヴィエトでその姿勢が大きく違ったのが戦争に対する態度です。ソヴィエトが「無併合、無賠償、民族自決」の原則を打ち出したのに対して、外相のミリュコーフは英仏との協調のため、戦争の継続は必要との立場でした。
 当時の情勢からするとミリュコーフの考えももっともなものでしたが、政治の場は街頭にも溢れ出しており、「「街頭の政治」とは噂、とりわけ陰謀に関する噂が人の心を捉える政治」であり、「「敵」を探す政治」でもありました(69p)。
 ミリュコーフは帝国主義的な「ブルジョワ大臣」とされ、結局、5月2日に辞意を表明することになります。

 それを受けて、5月7日、ケレンスキーだけでなくメンシェヴィキのツェレテリエスエル党首のチェルノフなど社会主義勢力のリーダーがずらりと入閣した連立政府が発足します。
 しかし、この連立政府には議会がないという欠点がありました。一応、ドゥーマは完全に解散しておらず存在感を示そうとした時期もありましたが、ソヴィエトはこれに猛反発し、廃止提案を可決させます。
 一方で、憲法制定議会の準備は遅々として進みませんでした。
 
 ロシアの社会ではこれまで家父長的な原理が社会を覆っており、軍を始めとする秩序はそれに支えられていました。
 しかし、革命はこの家父長的原理を破壊しました。兵士を突き動かすのは「死地に赴きたくない、故郷に帰りたい、地主地の分割に参加したいという、極めて真っ当な要求のみ」(93p)だったのです。
 
 こうした動きに対して、カデットは「市民になれ」と訴え、他人の財産や権利を尊重するように求めました。メンシェヴィキやエスエルも民衆の反乱に寄り添いつつも、このカデットの呼びかけを否定したわけではありませんでした。
 そんな中で、民衆の反乱を全肯定してみせたのがレーニンの「四月テーゼ」でした。彼は混乱を恐れず、一気に社会主義革命まで突き進もとしたのです。

 多民族との自治や連邦制をめぐる協議でも臨時政府は杓子定規な対応に終始し、ウクライナとの交渉をきっかけカデットの大臣たちは連立を離脱します。
 7月になるとペトログラードの街頭はボリシェヴィキに指導された反政府デモで埋め尽くされますが、レーニンがドイツのスパイだという説が流れたこともあり、臨時政府が再び主導権を取り戻します。トロツキーやカーメネフは獄に繋がれ、レーニンは地下に潜伏しました。
 ボリシェヴィキはその勢いを失いましたが、この好機を臨時政府は活かすことができませんでした。
 メンシェヴィキとエスエルはブルジョワジー勢力との連立を模索し、政党としてのボリシェヴィキの活動を禁止しませんでした(134p)。
 ケレンスキーが首相に就任し、彼のカリスマに頼ることで自体の打開が目指されましたが、第二次連立政府も社会主義者と自由主義者のバランスを重視した構成になりました。

 この時、注目を集めたのが軍人のコルニーロフの存在でした。軍紀を回復し、6月攻勢で勝利を得た彼は7月には軍の最高司令官に就任します。コルニーロフのもと、戦闘地域では銃殺に寄る死刑が復活しました。
 ケレンスキーとコルニーロフは、首都ペトログラードを軍事総督府という特別な地域にし、戒厳令を敷くというプランで合意します(のちにケレンスキーはこれをコルニーロフの「陰謀」だとします(158ー160p))。 
 しかし、ケレンスキーとコルニーロフの間の仲介役をリヴォフが買ってでたことから、この計画は迷走します。余計な仲介で疑心暗鬼になったケレンスキーはコルニーロフを解任。ケレンスキーは臨時政府内で孤立します。 
 このケレンスキーの窮地を救ったのがソヴィエトで、ソヴィエトの動きによってコルニーロフは拘束されますが、それはボリシェヴィキの復活も意味していました。

 この後、事態は十月革命へとなだれ込んでいくわけですが、この時の状況について著者はナボコフの次のような言葉を引いています。
 ナボコフは『レーチ』紙上でこう書いた。代議機関や憲法のない共和国などというものは明確な国家形態であるはずがない。ここにあるのは「われらの動乱時代の大いなるフェティシズム、つまり言葉のフェティシズムである。われわれは言葉に捕らわれている。どれだけの言葉があることか!」(177p)

 9月25日、第3次連立政府が成立しますが、同じ日にペトログラード・ソヴィエトではボリシェヴィキが過半数を掌握。トロツキーが議長となります(189p)。
 そして十月革命で、ボリシェヴィキは軍事クーデタのような形で権力を掌握するのです。

 この臨時政府の挫折とボリシェヴィキの成功について、著者は「おわりに」で次のようにまとめています。
 臨時政府が状況を収拾するためには、(1)早期に戦争を終結する、(2)暴力によって徹底的に民衆の要求を抑え込む、のどちらしかなかった。前者を選ぶには臨時政府はあまりに西欧諸国と深く結びつき、その政治・社会制度に強く惹かれていた。後者を選ぶには臨時政府はあまりに柔和であった。(228ー229p)

 一方、ボリシェヴィキは「西欧諸国の政府との関係を断ち切ってもよいと考えるほどに、彼らは新しい世界秩序の接近を確信して」ましたし「いざ政権を獲得してからは、躊躇なく民衆に銃口を向けることができるだけの苛酷さをもっていた」のです(229p)。

 このように、この本はロシア革命をたどると同時に、極限状態での強圧的な権力の必要性やそれを生み出すことの難しさなど、さまざまなことを教えてくれます。
 政治とは本来、多くの人々の意見を調整することがその大きな役割ですが、革命の嵐が吹き荒れる状況の中では、自らの意見を強硬に貫き通す勢力が政治を支配することもあるのです。
 ロシア革命だけではなく、革命というものの本質を改めて考えさせる本と言えるでしょう。


ロシア革命――破局の8か月 (岩波新書)
池田 嘉郎
4004316375