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残業100時間超の社畜からフリーランスへの転身ストーリー

フリーランス挑戦記 プログラミングのメモ ビジネス知識 日常のメモ

フリーランスエンジニアのよしです。

 

私の出生の秘密から血みどろの小学生時代まで、ありとあらゆることを赤裸々に語りたいと思います。

 

さらに僕がフリーランスになった方法まで書いていきます!

 

ではどうぞ!

 

可哀想な幼少期

東京都で生まれてすぐ腎臓に病気を持っていた・・・らしい。そのせいで生まれてから1年近く、ずっと病院で生活をしていた。
 
最速で病院のエキスパートになった。
 
無事回復して、頭脳のエキスパートになるため、私立の幼稚園に入った。(正確には親に無理やり入れられただけだが)
 
中学〜大学まである学校だったため、教材がしっかりしており、英語の英才教育を受けることができた。
 
そして20年経過した今、外国人に英語で道を案内することができない。
 

血みどろの小学生

小学生では公立にはいった。好奇心旺盛であるため、目に入ったものはとにかくなんでも挑戦した。
・卓球
・野球
・水泳
・縄跳び
…などなど
 
ちなみにポケモンは赤派でリザードンが好きでした。
 
小学4年生でクラブ活動が始まり、好奇心がおさまらず手話クラブに手を出したが、唯一の男子部員ということで副部長に選抜される。でも手話には想定していた面白さはなかったので1年間我慢してやめた。
 
あとで気付いたことだが、手を動かすのが好きなのはどうやらゲームだけだった。若気の至りですね。
 
小学生時代は鼻血が出やすく、週一ぐらいで出ていた。鼻血のおかげで面白いキャラで目立てると思っていたが、現実は甘くなかった。
 
上には上がいて、いつも目立つところで鼻血を出すエンターテイメント鼻血二ストがいた。
彼は授業中やみんながいるところで出血していた。
 
出血量は彼より優っていたが、人気と認知度は彼に負けてしまった。そんな血みどろの小学生時代を過ごした。
 
 

大人になった中学時代

中学時代も好奇心は爆発しており、中学生で卓球部とサッカー部を兼部、さらにブレイクダンスを友達と独学でやっていた。
 
このころは毎日が楽しくて、友達と夜中に話していたり遊んでいたりしたが、やたらポリスメン達に補導されていた。
 
悪いことは何もしていないが、二日に1度は補導されていた。きっと先輩の人相が悪かったせいに違いない。
 
中学1年生の時には父親の借金・暴力が原因で両親が離婚した。借金についてはよく分からなかったが、暴力は僕自身も受けており、非常に怖い思いをした。
 
普段から父親の機嫌を損ねないように話をしたり、騒いだりしないようにしていた。
 
結果的に離婚してよかったと思う。離婚したあとの生活は前よりも明るいものだった。
 
母子家庭になったことから、高校をでたら就職しようと思い、就職しやすい高校を目指した。
 
 

真面目に遊んだ高校時代

一番目に入りたかった、就職に有利な高等専門学校には入れず、二番目に入りたかった工業高校の電気科に入った。
 
電気科では電気回路や電気の法律等について学んだ。
 
小学生の頃から物作りがすきだったので、一度実技を始めると夢中になって止まらなくなるタイプでした。その影響からか、いつのまにか電気のことも夢中になっていて、実技テストではいつも一番だった。
 
高校生では2年生になってから軽音部に入った。しかし時すでに遅し。軽音部の人はすでにバンドを組んでいたため、一緒にバンドを組む仲間はいなかった。
 
最悪一人で文化祭に出れるよう、ボーカル・ギター・ドラム・キーボードを頑張ったけど、音楽未経験者の友達を軽音部に誘って、なんとかバンドを結成した。「俺もやればできるなぁ」と初めて自分を褒めた。
 
そして、結成したバンドでその年の文化祭でライブをやった時、他校から遊びに来ている女の子達が黄色い声援を送ってくれた。そしてその時僕は確信した。「明日から俺の時代だわ、明日から俺はモテまくる」と感じた。
 
次の日から彼女ができる準備は万端だったが、1年間何も変わることはなかった。やはり現実は厳しかった。
 
高校3年生になってから就職活動を始めた。集団面談だったが、周りの高校生はガチガチに緊張していた。でも俺はあまり緊張せず、それどころか面接中はアルバイトのシフトについて考えていた。
 
にも関わらず、アルバイトが決まるようにスムーズに入社が決まってしまった。
 
中学生の時に決めていた、高校卒業したら就職するという事が叶い、とても嬉しかったし、家族も喜んでくれた。
 
 

問題多数の社会人

IT系の会社に就職した。18歳にして社会人デビュー。
 
大学に行っている人からしたら早いと思うかもしれないが、
周りの友達は高校卒号して就職している人がほとんどだったので、
特に心配や不安はなかった。
 
普通の入社研修はゆったりとしたものだと思うかもしれないが、うちの会社は違い、軍隊みたいな内容で泊まり込みの研修だった。
 
毎日6時起き、6時半に朝礼、ラジオ体操、スピーチ、報告書、挨拶声出し等を朝から晩までやらされた。
 
ただやらされるだけだったらまだ良いものの、全力でやるだけでは良い訳ではなく、一つミスをすれば最初からという地獄の日々だった。
 
僕自身、何十回もやり直しさせられて、肉体・精神ともにボロボロになった。そして最終的になんでここにいるんだろうと思うまでに追い詰められた。
 
もう2度とやりたく無いと思ったが、数年後にその研修の指導者となった。研修生のみんな、ごめんよ。
 
入社後、3ヶ月の研修期間は八王子で過ごしたが、八王子で働いている先輩方が忙しすぎて相手をしてくれず、3ヶ月間、資格勉強と雑談で終わった。
 
研修期間が終わった後、僕ともう一人だけ昭島の事業所に配属になり、製品の出荷前設定やテスト等のサービスを行う部署で切磋琢磨していた。
 
配属されてから3ヶ月後、上司にわがままを言って現地に出張して作業をする少数メンバーに入り、スーパーコンピューターの環境を作るような仕事にも関わっていた。
 
入社して2年目に大きな作業ミスを行なったことから、品川に異動されられた。多くの経験を積んで、楽しく仕事をしていた時だったため、新しい場所への異動は不安が大きかった。異動先では当時最先端であった技術のサポートを行なっている部署で、今までやってきた事が一切使えず、新人の時と同じく勉強に忙しい日々だった。資格を取得するのに1年以上かかり苦労したが、やっとスタートラインに立てた事が嬉しく、楽しさを見出していた。
 
ただ、実際に業務に参加してみると、毎日朝から終電まで働く忙しさだった。しかもこれが改善せず、平日は疲労困憊、土日に体力を回復させるの繰り返しで辛かった。
 
ストレス解消の一つとして、普通自動二輪の免許を取得してバイクを乗り始めた。乗り始めた最初の頃は楽しく、ストレス解消には向いていると思った。
 
クレーム対応をしたある日、いつもよりもストレスを強く感じたので夜に友達を呼び、いつものルートを走った。慣れた道だったが、速度を出しすぎた事が原因で単独事故を起こした。
 
友達が交通整理をしてくれたのは助かったが、誰も救急車を呼んでくれず、「まずは俺を助けろよ」と思った。まさか自分で電話するとは思わなかった。
 
1ヶ月弱、利き手がまともに使えない事により会社を休み、少しずつ仕事に復帰していった。ただ、利き手がしばらく使えなかったのと、ストレス発散方法が1つなくなった以外、事故する前とは変わらず、ストレスを溜める日々に戻った。
 
また、1ヶ月間、怪我で会社を休んだ事による収入への影響は大きく、1月分の収入がほぼゼロ。毎週2回の診察・治療・リハビリを行なっていた為、出費は重なる一方という辛さを感じた。
 
将来を考えた時、病気に掛かりやすくなる、掛かった時の期間が長くなるという事を想像したら、このままの収入では良くないと考え、年収を上げる事を考えた。
 
先を見る為、入社15年近くになる先輩の給与明細を無理って見せてもらったところ、自分との収入は大きく違わず、今の会社を続けても未来はないと絶望した。
 
そこで、何かをしないといけないと考え、お金を稼ぐ方法について学び始めたところ、フリーランスで活動することによる収入アップを1つとした。
 
ただ、事故・怪我で働けなくなると収入はゼロになってしまうことは変わらない為、“複数の収入源を作る事”に考えつき、ブログを始めることに至った。
 
今は少し夢をみて、"働く”という事をしないでも生活できるノマドの生活を目指して活動中。
 
 
 

簡略プロフィール

名前:よし
身長:176cm
体重:71kg
性格:好奇心旺盛
趣味:スポーツ、料理(調理)、スイーツ(食べる)
好きな食べ物:甘いもの、野菜
嫌いなもの:ガムをくちゃくちゃする人
やりたいこと:世界遺産めぐり