私の座右の銘:虎穴に入らずんば虎子を得ず だからAKB劇場にも行っている。中核派の中にも勘違いしとるのがおるやろ。
きっと、私について、AKBなんか観に行って、労働運動に真剣に取り組まずに軟弱なヤツだ、と思うとる人間が大勢おると思う。
けど違うぞ。
私から見たら中核派のヤツらのほうがよっぽど軟弱や。
だって、敵とバトルすることなく、安全なところでビラ配りして満足しとる。
だからそんな姿勢を付け込まれて、ガサ入れとかされてまうねん。
私は違う。
敵とバトルするためにガンガン出向く。
だからインターネット上にガンガン書けるし、敵の巣窟であるAKB劇場にだって堂々と行くし、裁判だってどんな判決を出されようが平気でやってのけたし、公安が来たって負けてない。
その前に刑事OBのOJSから、仙台の帰りに監視され続けて、最後サイフをスられたこともあるけど、それでもAKB劇場に通うのをやめてない。
どうしてAKBを観に行くかというと、それは娯楽というよりも、少女の労働があるわけや。動労とか比べもんにならんほど、めっちゃ不合理な労働や。
その労働があって、それでもどうやって仲良くやっていくか、ということを考えるのは、これは教育の問題にもなる。
そしてそういうのを私がブログに記載して、自分なりに解決策を提示して、メンバーに向かって成長の方向性を示せたら、どんな労働運動よりも強いモノになるやろ。
いや、労働運動は会えるからいいのであって、大西のは会えないだろうという反論もあるだろう。
けれども、現実の労働運動は、会えるからこそ、ストライキ一辺倒とか、上意下達とか、戦略・戦術ともにつまらないものになっとるし、なによりも組合員の本心を聞くことをおざなりにしとる。
私は、会えないからこそ、本心を聞くことをものすごく大切にするし、そこで言葉で表現できない観察眼が目についてきた。
そして”言葉で表現できない観察眼”は本来、機械化される前に労働者が持っていたモノであり、それこそが労働者が持っていた”誇り”なんちゃうんか?
ならばそんな労働者が持っていた”誇り”を認識し直す闘いというのはあるはずで、それはストライキ一辺倒とか、上意下達とか、ではゼッタイに理解できんもんやねん。
私が見とる労働運動は、だから、”言葉で表現できない観察眼”というモノの存在自体を信じてない。
なのに機械化には反対しとるねん。
機械化の問題点はナニかちゃんと説明もできてないのに、なんでもかんでも反対反対ならば、それは日本共産党と同じやろが。
なんでそんなカンタンなことが理解できんねん?
しかし、私はまた、”言葉で表現できない観察眼”というものを、言葉で表現できなければ、その存在自体を説明できんし、AKBのメンバーに対しても説明できんから、本来一般人は表現しないようなことも、言葉にして表現しとる。
けど、それはまた、教育者の姿勢でもあるわなあ。
教育者は、子供が欲求を言葉で表現しないから、自分は動かないなんてのはない。
子供が表現できずとも、この子はどういうことを考えて、自分はどういうふうにこの子から、言葉で表現できない欲求を引き出して、この子が最も理想と思う大人に成長させられるか、本来はそこにいちばん興味があるはずやねん。
だから教育者は本来”言葉で表現できない観察眼”を備えておくべきやねん。
まあ中核派の教育者も、私が見る限り、”言葉で表現できない観察眼”を備えとるヒトはいないよ。
このヒトは生徒に対して、自分の観念を押し付けてきた、最低の教育者で、私がもし生徒やったらコイツにはきっと反対しとった、と思うことがある。
だいたい中核派ってまだまだ内部で矛盾ばかり抱えていて、たとえば”新自由主義”なんていうけど、中核派だって”新自由主義”にまみれとるのが実態やねん。
だって、マルクス主義の概念で一見正しそうな見方はするけれども、具体的になんか問題が出てきたら、「それは血済主義だ」とか「それは戦線主義だ」とか「それは産別主義だ」とか言ってお互いに否定する。
そうやって、”〇〇主義”なんて新しい言葉をじゃんじゃん作り出して、敵に対して適用して、だからオマエの考え方はダメ、なんて主張を、中央が平気でやっとる。
それって、中央が、”新自由主義”そのまんまを利用しとるんやないか。
だって、自分らは過渡的な状態として”プロレタリア独裁”を主張していながら、”独裁主義”ではないと言うとるんやろ?
じゃあ、仮に現場で一時的に、手段として、血済とか戦線とか産別とかと思われる闘いを繰り広げていようが、それを”主義”として断定して排除するというのは、中央がゼッタイにやってはならないことやろ?
逆に、中央がそれをやってしまえば、自分らは独裁主義を主張しとると認めとるという、デッドロックが生じてまうわなあ。
そんな不整合にハッとして、相手の言い分をちゃんと聞く姿勢を持たずに、相手を糾弾するとすると、それはもう”新自由主義”そのまんまやわなあ。
大勢寄り集まっているにもかかわらず、なんでそんなカンタンなことが理解できんのか、フシギで仕方がない。
だから、私から見たら、中核派はまだまだ「アーアアー」とか言うとる、未開の原住民やねん。 (いやそれはターザンであって、原住民であるインディアンとは違う、というツッコミを入れられる人間もあんまおらんやろ。まあみんなも、コレをターザンの意思にして励むように。←それを言うなら他山の石)
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