昨日、相変わらずのブログ訪問をしていたら、このような記事に出会った。
ttp://www.dashchan8318.link/entry/2017/02/11/023120
少々批判めいたことを書くつもりなので、本人への言及は飛ばさないようにしている。
URLの先頭にhを付け足して読みに行ってください。
向こうはこんなの読んでも気分が悪いだけだろうしね。まあ目に入ってしまったならしょうがない、他人への批判を書くからには相応の受け止めをするつもりだ。
タイトルが「ぼくが人と話しながらスマホを平気でいじる理由」的なのだった。
ところで皆さんはどう思います?
自分が一生懸命話してるときに相手がスマホを出し、いじりだしたら。
という問題提起はつまり、コイツ(私のこと)はスマホいじる相手とはあまりソリが合わないんだろうな、と察してほしい。
ええ実際。
結構腹が立ちます。
なんで?と聞かれても答えられないのが難しいところだが、今回はなんとか言語化してみようと思う。
※以下「結局はケースバイケースに過ぎない」ということを承知で読んでほしい。元記事で言葉足らずだと思ったものは、私が勝手に解釈を加えている。全ての例において私の意見がこうであるというわけではないので、悪しからず。
これを失礼だと思う人も思わない人も世の中にはたくさんいる、そんなことは私だってわかっている。ただ、私という生き物は、感じたことをコトバにせずにいられないのだ。どうか許してほしい。
ちなみに。
腹が立つからやるな!
というわけではない。
法律に触れでもしない限り、やるのは自由なのだ。
だから、私は会話スマホラーたちにリアルで出会っても何も言わない。ただヘソで茶を沸かしながら、何も感じていないふりをするだけである。リアルの知り合いがいないネットでは好き勝手書けるというだけの話。
では、さっさと見ていこう。
論理の破綻?
まあ面白いのが、前置きの段階ですでに論理が破綻していることなのだが。
人が本当に尊敬している相手には、その人なりの真面目さを貫きます。
その真面目さも、相手への興味があればこそ。
それを感じられない相手の前ではぼくだって暇です。
なので、暇な相手の前では平気でスマホをいじります。
3行目まではわかる。共感できる。
だが、4行目だよ。4行目。一体何が起こった。「なので」からが訳わからん。
暇な相手ならば失礼だとわかっててもスマホいじってええんか……。
これ、暇な相手ならば時計をチラチラみてもいいとか、暇な相手ならば鼻くそほじっていい、タバコの煙を顔にかけていいってなっちゃうよな。要するに述語が入れ替わるだけで。
繋がってないんだよなぁ。
そこを知りたかった読み手としてはちょっとがっくりだった。
この後、結局この破綻は解明されないまま、なぜ彼がスマホをいじり倒すのかの説明にしか行数が割かれておらず残念でした。
まあ、揚げ足取りはこのぐらいにして、私の論理を説明する。
以下、「会話中という前提」で話を進めることにする。
なぜなら、彼が暗にそう述べているからだ。
上で述べた通り、ぼくは暇な相手の前では平気でスマホをいじります。
しかし、本気で話を聞きたいを思った相手の前でもスマホは手に持ってるんですよね。
「話を聞きたいと思った相手」というのはつまり、会話をしようとしている、またはしている人のことだからだ。
また、「暇な相手の前」と、相手を一応は会話の相手として見ているからだ。
なぜ腹が立つのか?
一つ考えられるのは、「目の前にいる人間との対話よりも、画面の向こうの相手もしくは自分自身のことを優先させていると感じてしまう」ということ。
本来は目の前の相手(私)と話す場面なのに、それを無視して向こうに入り浸っている、と錯覚してしまうのではないか。こう考えた。
誰しも無視されることは嫌だ。後日詳しく話すが、人間は言葉を手に入れるずっとずっと前に、お母さんとの対話の方法を身につけているのである。もちろん比喩的な意味だけど。
そんな人間が、無視を嫌わないわけがない。
無視されることをなんとも思わない人もいるかもしれない。が、それは慣れてしまったからであり、最初は嫌だったに違いない。無視のいじめを受けた人が言うのだから間違いない(笑)
そしてもう一つは「『アナタはツマラナイ人間だ』と暗に言われているようである」ということ。
私の被害妄想だろうか……?会話中に時計をチラチラ見てる人がいたらかなりショックだし、それと同じようなものだ。
手持ちぶさたなのが眼に見えてわかってしまう。
この二つをまとめる。
私にとって、会話におけるスマホいじりというのは
- 無視されたと感じてしまう
- 否定されたと感じてしまう
のだ。相手に気がなかったとしても、そう受け取ってしまう。
何も感じない人はいるだろうが、少なくとも良い感情になりはしないだろう。
これを直接いうよりは、「失礼だ!!」の一言にまとめたほうが簡潔だから、スマホいじり=失礼 みたいな風潮になったのだろう。
ここから。
少々難しくなるが、ここから言葉の話につなげる。
人を無視するとはどういうことなのか、考えてみる。
果たして物理的に無視することだけが無視なのだろうか?
言葉とは
そもそも言葉とは何だろう。その答えはこうだ。
『客観的に観測することのできるカタチを持ち、社会的に認められた一定の意味をもつもの』
平たく言えば『話す、書くなどの他人との意思疎通の手段』が言葉ということになる。
ではなぜ人間は言葉を手に入れたのだろう。
相手と考えを共有するためである。
人間が他の動物に比べ、はるかに複雑で高度な共通言語を使いこなし、社会的になったおかげで食物連鎖の頂点に立てた、というのは周知の事実であろう。言葉が生まれたのは相手と考えを共有し、生き残るためだった、と考えられる。
そしてこれがそのまま会話の定義にもなりうる。辞書をひくと、『複数の人が話すこと』とあるが、じゃあなぜ話すのかに着目すると、やっぱりこうなってしまう。
日常のどんなとりとめのない会話であってもこの定義は当てはまる。
試しに、一切自分の考えを入れない会話をやってみてほしい。あ、シリトリは駄目よ。
たぶん無理だと思うよ。こんなになっちゃうもん。↓
A「明日の天気予報の確率は70%だと、気象庁が発表した」
B「雨が降るならば、私は傘を持っていく。君は持っていくか?」
A「持っていくか、持っていかないかのどちらかだ」
B「それは論理的に真の文章だ」
A「そうだ」
ま、持っていくか?って聞いてる時点で意見を聞いてるわけだからこれもまた違うんだけど。ギブアップ。
会話に必要な条件
会話が成り立つためにはある条件が必要になる。
それが「コードが共有されていること」そして「相手に対話の意志があること」。
コードの話は後日する。
「相手に対話の意志があるか」。寝てる人とか石とかに話しかけても、会話は当然続かない。なぜなら彼らには対話の意志がないからだ。あ、対話ってのは、会話を続けることね。相手の言葉に応じて、言葉を返すってこと。
じゃあ、スマホをいじる人には、対話の意志があるだろうか。
私は「あまりない」と思う。
個人が相手の話に耳を傾けるかどうかは「本人が必要としているから」に他なりません。
それはぼくも、この記事を読んでくださっている方とて同じことです。
そうやってどんな情報でも無駄と判断されたものは聞くだけ退屈なはず。
彼は、話がつまらない人には「耳を傾けない」と言っている。
聴くという行為は実に特殊だ。見るとか嗅ぐとか触るとか味わうという行為は、相手に強制させることができる。嫌でも感覚は入ってくるからである。
だが、聴くは違う。
相手に耳で聞かせることはできるが、聴かせることは強制できない。聴くという行為が主体的だからだ。あくまで意志がないと心には入らない。
(漠然と耳に入ってくるのが聞く、意識して耳に入れるのが聴く)
彼は言葉を耳に入れようとしていない。心で聴いていない。
言葉を耳に入れようとしない=相手の考えを共有しないということだ。
会話を続けることが対話であり、対話は相手の考えの共有のために行われている、という定義によれば、彼らには対話の意志がない。
無視を言い換えるとこうなる。対話の意志がないととられても、しょうがないのである。何も無視というのは物理的な無視だけではない、心の無視もあるということだ。
「対話の意志がないこと」自体は自由
ここからが大事なので耳をかっぽじってよくお聞きいただきたい。失礼、お聴きいただきたい。
実は対話の意志の有無は自由だ。
私は意思がないことを批判しているのではない。
むしろ、退屈な話に頑張って耳傾けろという方がどうかしている。退屈な話を聴いちゃいられないのはわかる。とってもわかる。深く共感できる。
態度としてそれを示すとは
だが、それとこれとは別だと思う。
意思のなさはとりあえず棚に上げるにして、それを露骨に態度として示すことのまずさよ。
記事中での最も大きな誤解は「敬意を持っていない相手になら失礼であっていい」という考えだと思う。
失礼と言う言葉は、「相手に無礼な行為」と言う意味が一般的。
つまり、相手を敬わなかったり、尊敬しなかったりと言う意味。
子供が相手を馬鹿にしたら怒られるのはこれが理由です。
しかし、そもそもよく考えてみれば。
尊敬や敬意って、相手を「すごいな」と感じたから生まれる想いや行為のはず。
興味すらない相手に失礼であってはならないなんて、無理。
まとめ:自分の気持ちに素直なうちは失礼ではない
ぼくは自分のあり方を損なわなければ失礼でも何でもないと考えてます。
そもそも人間関係は好き嫌いそのもの。自分が無理して付き合っている人と居ても楽しくないように、その関係が長続きするのはまず無理です。
ならばこそ、はじめから長続きしないと分かってる相手に敬意なんて必要ないです。
特に、あなたのあり方を否定するような相手にはね。
文章の最初と最後で言いたいことが真逆になってる(最初は「失礼であってはならないなんて無理」と書きながら、「自分の在り方を損なわなければ失礼ではない」とまとめてる)のは面白いのだが、ちと無視。
レッテル貼りで申しわけないが「敬意を払っていない相手には敬語を使う必要がない」とか言い出しそうな感じの意見だなぁと思ってしまった。
形式的な敬意もある
それは違うと思うんだ。
敬意ってのは形式的なものでもあるんだよ、きっと。
例えば、年賀状に「たまには飲みに行きましょう!」「ますますのご健康を云々」って書いたりする。
これが本心かと聞かれれば、まあ50%ぐらいは本心かもしれないけど、じっさい
「こいつとだけは死んでも飲みにはいきたくないわ」「こいつの健康とか誰が祈るかよバーカ」なんて相手もいるはずだ。過去に一人だけいたのは内緒だ。
でもそんな相手に全員が「早くお別れしたいね」とか「もう会いたくないですね☆」なんて書いてたら、互いにギクシャクするに決まっている。
だからオトナは本音を押し殺して、上辺の言葉のやり取りをする。便利な時候のあいさつとかで行を埋める。
本音を言いたいところを抑えて、あくまで形式的にでも敬意を払ってるかのように振る舞う。
ほとんどは本音じゃないことなんて気が付いてる。「コイツホントは俺のこと殺したくてたまらんのだろうな」なんて考えながら読む人もいるだろうか。でも、その本音もやはり言わない。言った瞬間に関係が切れることがわかってるから。
無数のカタチにならない熱い本音とカタチになった冷たい建前を載せて、今日も世の中は動く。それは……まるで、本当は凸凹しているのに、丸いですよ?なんて顔をしている地球のようだ。
確かに「尊敬できない人に敬意を払えなんて無理言うな」はわかる。死ぬほど。
でも、だからといって敬意を払わない姿を他人に惜しげもなく見せて、自慢げでさえいるのはどうかと思う。
話がつまらないならつまらないで、全力で聴いている振りをして、会話が止まったら「忙しいので!すみません!」と言って帰るほうがマシじゃなかろうか。お前の話なんて聴いてねえよってノリを全面に出すほどのことだろうか。
個人的には、そういう本音丸出しの生き方は、結局敵を作ることになって、合理的じゃないと思うのだが。
その他ツッコミ入れときます。
「人前で携帯をいじるのは失礼」
その概念、もう取り払われても良いと思うんですよね。
取り払われないのは不快に思う人が多いからだろう。
「人前で鼻をほじるのは失礼」
その概念、もう取り払われて云々言ってたらなにいってだこいつってなる、よね?
ならばこそ、はじめから長続きしないと分かってる相手に敬意なんて必要ないです。
特に、あなたのあり方を否定するような相手にはね。
察するに「すごく失礼」と言ってくる相手のことだろう。自分の意見を述べただけで否定とは……(まあ「失礼だからやめろ」なら一理あるが)
それなら、相手の話も聴かずにスマホいじってるほうがよっぽど否定だと思うんですが。
結局、失礼とは何か、と考えたとき、それは
「形式的礼儀を破ってしまっていること」だと思うんだ。
誰にでも、されると嫌に思うこととか、腹が立っちゃうことがあるわけで。
そこをうまく隠せるように、形式的礼儀ってものがあるんだろう。
もちろん、礼儀には本来の尊敬とかいう意味もあるが「私はあなたの敵じゃないよ!」って意思表示に使われる方がよっぽど多い。
みんな、本音を上手く隠しながら生きてると思うんだけど、一部型破りな人もいる。
その人たちは残念ながら「失礼」と評価されてしまう。だが行為じたいが良いとか悪いとかじゃない。みんなが行為をどう評価するか、だけだ。
人の価値観はそれぞれだけど、それが社会全体の価値観に合わなければ、ビシビシ点数引かれていってしまう。
ラーメンをズズズとすするのが、日本では認められてるのに対し、ヨーロッパじゃ認められてない、ようなもん。ただの価値観。
もしこれから価値観が変わって「人前でスマホをいじることが失礼?なんでだよ(笑)」というときが来るかもしれない。その時には堂々といじればいい。
結局失礼なんてのも、時代だとか国によって大きく変わるものでしかないんだから。
ただ、今の世の中で、失礼だと知りながらスマホいじいじするのは、人間関係にもあまり良い影響は及ぼさないんじゃないかなぁ?と思った次第であった。