前の記事が今までにないほど読まれていて、更新1日でこのブログをほぼ平日毎日更新を始めて3カ月分合計と同じくらいのアクセスになっています。(怖くてエゴサーチしてないけど炎上してるんですか?)
お読みいただきありがとうございます。
いくつか反応もいただいています。
- 「批評がなくても『アイマス』は続いているのでは?」
- 「『アイドルマスター ミリオンライブ!』や『アイドルマスター sideM』がなぜオミットされているのか?」
- 「反復されている物語は何か?」
というご質問があったので前の記事を受けて、この質問をベースに書きます。ご質問ありがとうございます。あまり色々なご意見には反応しすぎず色々自分が好きでみなさんに読まれるものをやっていこうと思っていますが、この視点で書きたかったので今回は反応してみました。
(だーっと書いたらまた長くなりました)
反復されているのは「プロデューサーと二人三脚でトップアイドルを目指す」物語
まず、僕が「批評がないので先細りになるのでは」と危惧しているのは、「765プロ」と言っても『ミリオンライブ!』登場より前からの「765(13人)」の「同じ物語の反復による縮小再生産」です。『ミリオンライブ!』や『アイドルマスター sideM』について語っていないというより「765(13人)」について書きました。
反復されているのは、前の記事でも書いていますが「アイドル事務所に所属する駆け出しのアイドルがプレイヤーの分身であるプロデューサーと二人三脚でトップアイドルを目指す」物語です。このメインのストーリーラインはどの作品においても共通であろうと思います。しかし、『アイマス2』以降の作品はパラレルワールドになっていて、僕らは春香たちをプロデュースしてトップアイドルにしたのに、作品が新しくなると、またイチから同じことをやらなくてはいけない。登場人物が出てくる作品なのに、僕らは彼女たちのプロデューサーであったはずなのに、僕らはまた記憶をなくして出会い直したかのように同じような物語をなぞる。細かいエピソードが増えたとしても、その反復が行われる限り、飽きる人が出てくるのは避けられないようにも思えます。
「同じ物語の反復による縮小再生産」はシリーズ全体に影響する可能性がある
『アイマス』ということばが、「876」『デレマス』『ミリマス』『Mマス』も含むのか、それとも据え置き中心のアーケード〜『プラチナスターズ』の「765(13人)」の作品だけを含むのかがわかりにくかったかもしれません。僕が指しているのは後者です。
ただ、後半『デレマス』についても触れているように、「765(13人)」の作品における「同じ物語の反復による縮小再生産」が他のシリーズにも影響する可能性はあるとは思っています。それは13人の物語の問題もそうですし「数を増やす」点でのバリエーションの勝負になっている気がするからです。数、というのは大きく言って「事務所の数」「作品数」「アイドルの人数」です。確かにアイドルの数を増やせばファン数の拡大にはつながります。事実、CD売上やソーシャルゲーム(『デレマス』『デレステ』『ミリオンライブ!』『sideM』等)のダウンロード数および売上は伸びていて、だからこそそれぞれ存続できているのでしょう。
『アイマス』ファン数に比べて据え置き機向けゲームの売上本数は多いのか
一方で、「4Gamers」や「電撃オンライン」での記事によれば、据え置きゲーム機向け「765(13人)」の作品の初週売上は、10万本程度です。いわゆる「箱版」が10万本、『ワンフォーオール』が10万6千本、『プラチナスターズ』が7万1千本。
http://www.itmedia.co.jp/games/articles/0801/18/news109.html
http://dengekionline.com/elem/000/001/336/1336075/
対象のゲーム機の普及台数とプレイヤーの人口等の状況も踏まえる必要はありますが、「事務所の数」等でシリーズ全体のファンの接点数を増やしたにしては、「765(13人)」の作品群の売上は大きく変わってはいないように思います。もともと「箱版」のころから、DLCやCD、またはライヴなど、顧客数よりは顧客単価と購入頻度、クロスセルの数を高めるビジネスモデルが『アイマス』の特徴かと思うので、据え置き機向け作品の初週売上本数が増えていなくても成功、と言えるのかもしれません。
だから、「765(13人)」作品の売上本数がものすごく伸びていなかったとしても、いいかもしれない。ただ、「765(13人)」と『ミリオンライブ!』のアイドルたちのライヴが年々会場を大きくしているということで言えばファン(P)数も増えてきているのでしょう。ただ、それにしては中心に置かれる物語、据え置き機向け作品の売上本数が少ないのでは、と思っています(もちろん、累計売上本数で語るべきところもあるかもしれませんが、個人的には一年間で100万本以上売り上げてほしいぐらいなんですよね)。
アイドルの数を増やすことだけが物語のバリエーションなのか
先ほどのビジネスモデルを続けるならいいでしょうが、購入者が同じ顔ぶれだとしたら、やはり未来は先細りなのではないでしょうか。色んな人に買ってもらっていった方がバンダイナムコゲームスをはじめとしたIP、ディベロッパー、パブリッシャーのビジネスとしてもいいはずです。
「批評がなくとも2011年あたりから5年以上続いてるのでは?」と言えば確かにそうで、結果としては、作品を出し続けてバリエーションを増やしたことで存続はできている。
ただ、僕は未来の話をしています。今はこれでもいいかもしれない。ただ、これから『アイマス』が続いていくために、アイドルの数(もしくは事務所の数)を増やす方法で、同じ物語の枠組みを反復することでは先細りだろう、という問題意識があります。
『ミリオンライブ!』や『sideM』という事務所とアイドルの人数バリエーションは確かにもたせられているかもしれません。『sideM』については男性アイドルという切り口も加えられていますね。僕は、そのことはいいことだと思います。新しい765プロや315プロのアイドルたち、キャラクター性、エピソード。エピソード(物語)こそがキャラクターの魅力を引き出すというのは、前の記事でも触れた僕の考えかたです。しかし「アイドル事務所に所属する駆け出しのアイドルがプレイヤーの分身であるプロデューサーと二人三脚でトップアイドルを目指す」という大きな枠組みは変わらない。
そのアイドルについての「新しい語り口での物語」が欲しいのでは
僕らが望んでいるのってアイドルの人数が増えることなんでしょうか。色んなアイドルが出てきて、他のアイドルのファンが、他のアイドルのそれぞれの良さも知ってどんどんアイドルのファンが増えていくのは悪いことではなさそうです。アイドルの人数が増えるのもいいけど、でも僕らが求めているのって、そのアイドルについての「新しい語り口での物語」なんじゃないかと思うのです。
僕はまず「765(13人)」たちの作品が存続して欲しいと思っていて、そのためには「同じ物語の反復」ではまずい、と思うのです。ただ、同じようなストーリーラインになるのは、前の記事でも書いたようにアイドルを扱う作品の宿命かもしれません。
作品内では映らないプロデューサーの姿
じゃあどういうバリエーションがあるべきか。これはジャストアイデアで『デレマス』からの派生ですけど、向井拓海を中心にスピンオフ的に描かれた漫画『アイドルマスター シンデレラガールズ WILD WIND GIRL』のように、例えばプロデューサーを特徴的な人物に変えて姿を見せること。
これには抵抗感があるPは多いと思いますが。『アイマス』のゲームのなかではプロデューサーの姿は映ることはありません。だからこそ僕らは没入感と、自分がプロデューサーであるかのような錯覚を得られる。もちろんフィードバック・ループのなかで僕らプレイヤーもプロデューサーであることに変わりはないはずですが、作品内のプロデューサーは僕らではない。「765(13人)」のアニメ1話と同じように、一人称視点のカメラが置かれていて、その前にセリフのウインドウや字幕が浮かんでいるような、傍観者的な立場。これが『アイマス』の良さだと思う人もいるでしょうし、『デレマス』や他の作品にしてもこれはシリーズの伝統になっています。色んな選択肢も出てくるから、プロデューサーという「彼」がいることは確かなのでしょう。他のスタッフや観客も影(シルエット)で描かれることが多いですよね。アイドルたちやライバル、小鳥さんのような「美少女」たちは、くっきりと描かれる。
さやわかさんの『文学の読み方』にもあるように、語り手は作者自身であるはずもないし、文字で現実が描けるわけではない。だから、僕らは文学にしてもゲームにしても現実のようなものを作品には求めていない。でも、作品を受容して感じる感情はリアルだと思います。そして、僕はそれをもたらすのは文体、語り口の面白さ、感情を巻き起こすナラティヴだと思っています。
このナラティヴに工夫がないと、作品としては面白くない。
「批評のなさ」は「文体のなさ」につながっているかもしれない
でも、結局のところ「同じ物語の反復による縮小再生産」の原因のひとつは、この「主観・視点の弱さ」もしくはその「視点のバリエーションの少なさ」だと思います。『デレステ』などではアイドルのコミュごとにプロデューサーの口調や態度が違うので、それぞれプロデューサーは別の人物なのかな……とも思うのですが、『アイマス』シリーズ全体を通してプロデューサーの視点は結構淡白だと思っています。淡白さは置いておいても、僕らはアイドルたちの同じような物語の反復を経験しているのですが、主観に置かれる視点、プロデューサーの人格があまり変わらない、面白くないと作品としても面白くないと思うんじゃないでしょうか(例証は枚挙に暇がないですが)。
視点とは、小説で言うところの一人称の語り手。もしくはTPS的に三人称視点で言うなら、その文体と、あとは話を転がしたり受け身であっても成長して問題を解決したりする主人公の存在。『アイマス』はいったい誰が主人公なんでしょう。春香や卯月や未来たちでしょうか。ただ、『アイマス』がアイドルをプロデュースする物語であれば主体はプロデューサーなのではないでしょうか。もちろん美少女ゲームのように、主人公自身の姿が映らなくても感動はできる。ただ、主人公が成長したりコミットしたりすることでヒロインの問題解決や欠落回復につながることがなければ、面白くはない(おおざっぱに言ってます)。
『アイマス』作品で、色んなプロデューサー像が描けているのかどうか、僕は正直わかりません。ただ、語り手や主人公らしき人が、いつも同じような人のように僕は思うことが多いです。「765(13人)」の作品の多くにおいて。
「批評のなさ」とは、言いかえればプロデューサーの姿が映らない「主観・主体のなさ」なのかもしれません。もしくは「文体のなさ」。
リニアな物語で人を惹きつけ、ノンリニアな物語で愛着を持たせる
#7「『アイマス』(765)と『デレマス』(346)の違い」で書いたように、「765(13人)」は「リニア・終わりのある物語」で、「346」は「ノンリニア・終わりのない物語」だと思っています。
僕が『アイマス』シリーズに入ったきっかけは「765(13人)」(「箱版」から始めたので当時は11人からでしたけど)のリニアな物語からです。また、一度『デレマス』をやったものの「物語のなさ」で離脱した僕がまた復帰したのは、『デレマス』のアニメ、つまりリニアな終わりのある物語があったからでした。リニアで惹きつけ、ノンリニアなソーシャルゲーム、CDなどで日常で接点を反復することでファンの、アイドルへの愛着を高めるというのも『アイマス』の受容形態の特徴かと思います。『デレマス』の新規性はそのノンリニアな「非物語性」がソーシャルネットワークなどの受容形態、ライフスタイルにハマったからだと思っています。
受容者が作品にコミットメントしていかないと、本質的な作品の更新や拡大にはつながらない
「765(13人)」に関しても、『ミリオンライブ!』というノンリニアなソーシャルゲームに場所を移す……というより接点を増やしたのも、これ以上据え置き機向けのリニアな物語のバリエーションを作るのも難しくなったから、という一面もあるかと思います。765の後輩アイドルたちが加わってコミュニケーションが増えることで、「765(13人)」のエピソードも増えたと思います。そうやって場所を移していくことで存続できるなら、それは問題ないでしょうし、実際、『アイマス』が10年以上続いているのだし、まともな批評がなくてもこのままいけるのでは……という考えもアリかもしれません。
ただ、受容者が作品にコミットメントしていかないと、本質的な作品の更新や拡大にはつながらないと思うのです。『ミリオンライブ!』でアイドルが増えたり事務所の設定が更新されたりしたことは僕はいいことだと思います。#4「星野源曰く『アイマスは嘘を嘘でなくしていく』」や他の記事でも何度も書いたように、『アイマス』の特長は公式とファンのフィードバック・ループによってアイドルが更新されていくことです。フィードバック・ループはホメオスタシス(恒常性)でもあって、つまりそれは生きているようなものです。生き続けるためには新しさや驚きが必要、それは大きく言うと視点・視座の新しさ以外にないかと思います。
作品の驚き、新規性の多くはナラティヴ(語り口)の違いにあるのでは
僕は、作品の驚き、新規性の多くはナラティヴ(語り口)の違いにあると思っています。例えが良いかはわかりませんが、例えば『ひぐらしのなく頃に』が反響を生んだのって、同じような出来事があったとしても圭一視点で語るか、魅音やレナの視点で語るかという語り口の違いを出したことで全く違う作品が生まれたことにもあるように思います。
またはハリソン・フォードの『逃亡者』に対して、トミー・リー・ジョーンズの『追跡者』があるとか。これらはスピンオフとして同じ事件や時系列の主人公と視点・解釈を変えたということですけど、続編・ナンバリングタイトルに関しても同じことが言えると思うのです。
『アイマス』は物語の類型にはがっちりあてはまる
ジョゼフ・キャンベル、エミール・プロップ、シド・フィールドなど物語作法や脚本術の手本を書いた人たちの影響は未だにハリウッドを始めそこから派生した多くの小説・アニメ・ゲームにもあり、『アイマス』も例外ではありません。大塚英志さんの『ストーリーメーカー』にあるように、ざっくり言うと物語の多くは大きくわけて2つのタイプしかない。成長物語(欠落を回復する物語)か、行って帰る物語(日常から非日常に入りまた日常に戻る)物語です。これらは重なることもあります。
『アイマス』もこの物語の類型には当てはまる部分もあります。他ならぬ成長物語ですからね。古今東西のあらゆる物語がその枠組みから抜けられないなら『アイマス』が同じようなストーリーを反復してもいいじゃないか、と思われるかもしれません。しかし、この類型の分類が正しいかは別問題としても、『アイマス』以外にも作品や現象が日々生まれ続けているのは、同じストーリーラインを反復するというよりも、そこへのカウンター(反発)、あるいはその中でのナラティヴの新規性が試みられているからだと思うのです。
ナラティヴを更新しないと作品は広がっていかない
僕は、『アイマス』、とくに「765(13人)」の物語にそういうナラティヴの進化の試みという姿勢をあまり感じていません。パラレルワールドになるだけで、トップアイドルを目指すという話は同じなので。間にさしはさまれる事件が変わったとしても、そのナラティヴが変わらないと新しい=面白いとは、少なくとも僕は思えないです。
そして、出来事が同じだったとしても、感じる主体(語り手や主人公)あるいはアイドルたちが何を感じたのか、どう変化したのか、それをアクションで示すことができれば、ナラティヴは更新されたと言えると思うのです。僕は、たぶんその語り口の新しさや物語構造の新規性がなくただアイドルの数が飽和していったとしたら、それは『アイマス』にとっては幸福な結果をもたらさないと思っています。
またものすごい長文になってしまいました。僕のいうことが正しいかどうかだけが問題ではなく、こういう議論が巻き起こったり、疑問がたちあがったりすること、批評が『アイマス』を更新していくことが重要だと思います。
多くの物語の典型に近い構造のなかでも、ソーシャルでの非物語などで独自のフィードバック・ループの仕組みを作って成長はしている『アイマス』は、世界的に見ても面白い現象だと思います。だから、どんどん広がっていってほしいし、作品の評価も多面的にされて更新されていって欲しいと思っています。つまり、クロスセルや事務所・アイドル数だけでなく『アイマス』そのものの「ナラティヴ」がもっと多くの人に「読まれる」べきだと思っています。
読んでくださってありがとうございます。
