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2015.01.08 Thursday

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    2014.11.22 Saturday

    ステンドグラスを見に行く  新島 襄から洗礼を受けた信徒の手によって創立された日本初のキリスト教会(群馬県安中市)

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      安中藩士だった新島 襄(1843−1890年)は、元治元(1864)年、21歳の時に国禁を犯して渡米し、8年間ボストンで教育を受けました。

      高校に当たるフィリップス・アカデミー在学中に洗礼を受けてクリスチャンになり、さらにキリスト教の宣教師として帰国することを考え、神学校で神学を学びました。


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      明治7(1874)年に10年に及んだ海外での生活を終え、帰国します。横浜に帰着するとともに最初に故郷の上州安中へ向かいます。


      3週間の滞在中に藩校と菩提寺の竜昌寺を会場にキリスト教に関する講演会を行います。

      その集会で30人(男性16人、女性14人)の求道者がでて、日曜ごとに聖書研究会が開かれます。


      同11(1878)年になって30人は新島から洗礼を受け、現在の日本基督教団安中教会を設立します。


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      群馬県では最初のキリスト教会であり、また日本人の手によって創立された最初のキリスト教会にもなります。

      この30人の一人に、湯浅治郎(1850−1932年)がいます。

      天保3(
      1832)年から中山道沿いの安中宿で醤油醸造の有田屋に生まれた湯浅は、蔭に日に布教活動や日本でのキリスト教主義大学の設立に奔走する新島 襄を支えます。


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      湯浅治郎は福澤諭吉の著書から教育の重要性を読み取り、明治5(1872)年に私費で安中に図書館「便覧舎」を開設して全国で初の図書館事業を行いました。


      湯浅は洗礼を受けた後の明治13(1880)年に群馬県会議員となり廃娼運動に取り組み出し、その後県会議長に就き他県に先駆けて公娼制度を廃止しています。


      新島の同志社や義弟・徳冨蘇峰(1863−1957年)が設立した出版社の民友社を経済的に支援するなどしています。



              Dsc_0081                                                                                                                            新島の死後にも財政的に窮地に陥っていた同志社大学を維持するために多額の寄付を行いますが、決して目立たぬように湯浅の痕跡が残らぬようにしたといいます。


      歴代の牧師の中で第5代牧師(1897〜1935)を務めた柏木義円(ぎえん、1860−1938)は、湯浅とともに廃娼運動を繰り広げる一方で日露戦争が開戦すると反戦、非戦を主張します。


      現在の安中教会堂は大正8(1919)年に新島襄召天30周年記念として建てられた大谷石造のロマネスク会堂です。外壁は石造のパッドレス(控え壁)を付けています。



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      やはり大谷石を使った多角鐘塔があり荘厳な雰囲気を出しています。

      湯浅は教会堂を新築するに当たっても、秘かに私財を投じて建築に漕ぎつけています。


                    

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      教会堂の設計は敬虔なクリスチャンで知られる古橋柳太郎(1882−1961年)で、東京の設計事務所から安中まで汽車に揺られながら何度も足を運んだといいます。


        

      Dsc_0096      (教会堂の中に新島襄の肖像画が掲げられています。これは湯浅治郎の長男で画家の湯浅一郎〔1869−1931年〕が描いたものです。湯浅一郎は大正3=1914年にニ科会の創立に参画しています)



      祭壇上にアーチ状の天井を配するなど斬新なデザインを採り入れています。


      また基礎部に太い松の木40本を組み合わせて使用しているそうです。これによって耐震性が確保されていて、平成23(2011)年の東日本大震災で安中市も大きく揺れたのですが、教会堂はまったく無傷だったといいます。



      Dsc_0063   (新島襄の両親は廃藩置県の後、江戸表から帰郷して1876年までここで暮したといいます。襄は1874年にアメリカから帰国してここで両親と再開します)



      小川三知(1867−1928年)にステンドグラスの制作依頼したのは誰なのか、湯浅治郎か、柏木義円なのか、あるいは古橋柳太郎か分かりませんが、三知もこの教会堂のステンドグラスを制作するに当たりキリスト教について勉強したようです。



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      復活を象徴する白百合の花を背景に8個の宝石を散りばめた十字架を浮かび上がらせ、ダビデの紋章、ハンマーと鍬などを配したデザインに表れているといるといいます。                    

       


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      また、小川三知は教会堂の建築予算が逼迫していたことを知り、旅館ではなく教会堂内に泊まり込んでステンドグラスの制作に当たったといいます。


      食事賄いも満足ではなく、時には
      昼食がサツマイモ一本の時もあったそうです。


       

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      日本のステンドグラス史研究家で小川三知に関する様々な資料を持っている田辺千代さんによると、三知のデザイン帖には安中教会のために描かれたスケッチが2例遺されていたそうです。



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