ちきりんさんも見誤る学校教育がダメなほんとうの理由。
ちきりんさんが学校教育がダメな理由と、「学校には価値がある」という主張が無意味なわけという論考で、学校教育の生産性の低さに警鐘を鳴らしています。
私の主張は「学校での学びは、学びの生産性が他の選択肢に比べてとても低い。だから無理して行く必要はない」というものです。価値がゼロより上だと言われても、それだけで無条件に自分の時間やお金を投入したいとは思えません。
そのとおりなのです。では、なぜみんながみんな学校に行くのか。それは「生産性を低くしても耐えられる能力を身につけるため」なのです。
学校教育の目的とは何でしょうか。
教育基本法の第1条(教育の目的)によると、
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
とのことです。
文科省の人や教委の人はどう思っているかわかりませんが、「人格の完成」をじっさいの教育現場レベルで読み解けば、「どんなに生産性が低かろうが間違った道筋だろうが、みんなが不快に思わないように波風たてないようにがまんできる」能力を身につけることです。このように「前ならえ」とかアクティブラーニングの発言における空気に読み合いとか、わかり切った授業でも姿勢を正して聞くとか、時間いっぱいやらなければいけない掃除活動とか枚挙にいとまがありません。
これでは、生産性の向上なんて夢です。
北見昌朗さんは、中小企業を残業させるのは「役所」と「大手」だという論考で、日本の低生産性の原因を身もふたもなく展開されています。大企業は下請を叩けば利益が出るため、生産性を向上する必要性を感じていません。ただ、この底流にはこのような学校教育があると思います。「男の子が青で女の子はピンクが好き」というのは社会的に刷り込まれているとよく言われますが、「低い生産性に甘んじろ」と学校教育では9年間も刷り込みます。
池田信夫さんの高校無償化は子供を食い物にする「教育ポピュリズム」や八幡和郎さんの親の経済力で教育に格差があると悪いのか? といった議論の流れからも、わたしはそもそも教育に期待をしすぎているのではないかとつねづね思っています。けれども、この「人格」に関しては、日本の労働生産性の足を確実に引っ張っていると思います。これは学力の低下うんぬんよりはるかに大きな弊害だと思いますが、見えにくいのであまり指摘されていません。
文科省の人が、現場とちがう「人格」を想定していて、一日もはやくそのちがいに気づいてくれることを祈ってやみません。ちきりんさんは、学校の教え方の「効率が悪い」とおっしゃっていますが、そもそも学校は「効率を悪くする」のが目的なのです。
中沢 良平(元小学校教諭)
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