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高齢者が流ちょうな英語を話す農村地帯にビックリ!日本各地の日系移民輩出地「アメリカ村」とは

日本各地には「アメリカ村」と呼ばれる地域がある。アメリカ村と言っても大阪の繁華街のことではなく、我が国から北米に渡った日系移民の多くを輩出したり、またはアメリカからこちらに戻った人たちが暮らしている地域のことだ。農村や離島といった日本の原風景にアメリカ文化が馴染んで土着化した光景がある

更新日: 2016年12月07日

gudachanさん

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明治元年のハワイ渡航から始まった北米の日系移民の歴史

北米における日系人の歴史は、明治元年のハワイへの契約移民に原点がある。したがって日系人人口はハワイが最も多い。1920年代にいたるまでたくさんの日本出身者がアメリカ合衆国やカナダに移り住んだが、その大半は西日本の出身だった

アメリカ国籍の日本移民(永住者も含む)およびその子孫。戦争花嫁や戦後移民も含まれるが,大半は第2次大戦前に移住した人々とその子孫である。 アメリカへの日本移民は,幕末の1866年(慶応2),海外渡航制限撤廃による出稼ぎ労働に始まった。集団的には1868年(明治1),当時まだ独立国であったハワイへの契約移民の一団が最初とされている(〈元年もの〉と呼ばれる)。一般に近代移民は,商品経済が農村に浸透することによって,農村共同体が破壊されるところに発生する。

移民船の回数が増えていくに従って、移民の出身県は多様化していきますが、それでも広島、山口、熊本、福岡など西日本の各県が多数を占めていました。

▼▼▼日系人排出地である西日本の各地にある「アメリカ村」

明治時代からの歴史が生きる”瀬戸内のハワイ”(山口県周防大島町)

アメリカ合衆国ハワイ州に渡った人が多い周防大島。その歴史を知る資料館は、建物自体も外観や一部の設備が和洋折衷の珍しいものだ

資料館がオープンしたのは平成十一年(一九九九)のこと。建物は和洋折衷の本瓦ぶき入母屋造りで、元々は明治時代に十六歳でサンフランシスコへ渡り、貿易業で成功を収めた故福元長右衛門氏が昭和三年(一九二八)に建てた家である。

「ハワイに行けば日に八十銭以上、日本の八倍稼げるらしい」そんな噂に加えて地元出身で山口県勧業課の日野恕助氏が郷里の苦境を思って勧誘に回ったこともあり、出稼ぎ希望者は相次いだ。その結果、明治十八年(一八八五)、第一回移民約九百五十人中最多の広島県出身者についで山口県出身者が多く、しかも全体の三分の一を大島郡出身者が占めたほどだった。さらに明治二十七年(一八九四)までの官約移民時代だけで、約三千九百人もの人たちが大島郡からハワイへ渡っていった。

島民にはハワイで生まれ、戦後になって親の故郷であるこの島に移り住んだ人もいる。高齢化のため存命の人は少なくなっているが、英語交じりの日本語を話し、アメリカ文化が自然と溶け込んでいる

町に住む九十六歳の中村一三郎さん、八十九歳のヒサヨさん夫妻もハワイ生まれの二世だ。一三郎さんはハワイの日本人学校の元校長。戦前戦後を通じて日本語教育に尽力し、 昭和四十六年(一九七一)、六十五歳で退職して両親の故郷大島町へ帰ってきた。昭和十六年(一九四一)十二月七日(現地時間)真珠湾攻撃の日、中村夫妻はハワイの自宅にいた。そしてその夜、日本人学校の校長という立場ゆえに拘束されて、やがてアメリカ本土へ。以後、中村夫妻の収容所生活は四年間にわたった。

「収容所時代は、つらいことがあったのではないですか」と藤田さんが尋ねると、「ノー、ノー、ノー。意外と自由でね。収容所で芝居の一座を作った人もいて、かつらも自分たちで作ったんだよ、ハッハッハッ。今振り返れば、いろいろと面白い体験だった。でも、戦争はいかん。早く戦争が終わって欲しい、それだけを願っていたよ」妻のヒサヨさんもいう。

近年周防大島ではハワイがらみの地域おこしに取り組んでいる。美しい海辺にはヤシの木が生え、役場の職員も夏場はアロハビズで働く。明治時代に生まれたハワイとの絆は今も健在だ

漁村に突然出現する洋風建築群(和歌山県旧三尾村)

和歌山美浜町三尾地区は、サケ漁のためカナダに渡った人が多い歴史がある。戻ってきた人たちは、北米と日本を融合させた暮らしをした

「アメリカ村カナダ移民資料館」を訪ねた。館長の西浜久計さん(84)が「三尾のアメリカ村は『アメリカ大陸』の意味。旧三尾村から大勢の村民がカナダに移り住んだことが由来です」と教えてくれた。

移民の一部はサケ漁で富を築いた後で故郷に戻り、洋風の邸宅を建て、洋服姿で暮らした。会話も英語混じり。父や兄がカナダ移民だった西浜さんも、「子供の頃、母が『朝食はブレッドにしようか』などと話していた」と振り返る。こうした様子を見た周辺の住民が、大正のころから同村を「アメリカ村」と呼ぶようになった。同村には現在も「アメリカ村」という名のバス停がある。一方、カナダに住む三尾出身者や子孫は、今では1万人を超えるという。

1973年にNHKが制作したドキュメントフィルムで三尾村(現 美浜町)についての映像資料を見てみると、そこには当時80歳(1973年の時点)の漁師のおじいさんが英語で日常を生活し、村のおばあさんはこの村で4つある雑貨屋のうちのひとつで「カフェとブレッド」と注文しコーヒーとパンを買っていました。驚く事に節分の豆を数えるのに「one,two,three,,,,,,」と数えてるの映像を見ると本当にここは日本なのか?(しかも1973年で、、、)とかなり衝撃をうけます。

地域はアメリカの影響を受けた洋風建築が立ち並ぶ。日本家屋とは異なる設計・デザインが随所にあるようだが、時代の経過と過疎により減少している

鉄筋コンクリート造や木造の洋風建築が幾つかでき、既存の家の雨戸にペンキが塗られるなど、当時の漁村には珍しい風景でした。写真は昭和八年頃に建築された民家で、当時としてはハイカラな洋風住宅です。建築は同集落の大工によるものですが、大工は海外移住経験がなく、洋風建築に関しては独学でした。

木造2階建で外壁は横羽目式板張り、ペンキ塗装仕上げですが、屋根は日本瓦。玄関にポーチをもちます。特徴は、日本の気候風土に適さない地下室があることです。採光と換気のための窓がベース(基檀)に設けられています。

玄関内部には靴脱ぎのための場がタイル貼りで設けられ、一段上がって板張りの玄関ホール。居室は和室と洋室が混在していますが、現在では一般的な生活様式である、食事には椅子とテーブル、トイレは腰掛式の便器、就寝にはベッドを用いる、椅子座の様式が導入されていました。

そのほか、日本各地に「アメリカ村」の歴史

集落風景は今時全国的に見ても希少な日本の街並みが広がる。年配の住民には二重国籍者がたくさんおり、流ちょうな英語を織り交ぜて話す

明治時代から琵琶湖の水害などを背景に、滋賀県の湖東地域住民がカナダへ出稼ぎに行った。1910年のカナダ在留県人は滋賀が1854人、県別で最多だったという。製材所や商店で働き、仕送りした。太平洋戦争で財産を没収され日系人収容所へ。滋賀へ引き揚げた人も、敗戦で貧しい日本からカナダへと「帰る」人もいた。

カナダ移住が多かった彦根市八坂(はっさか)町はかつて、英語混じりの「八坂言葉」が交わされ、近隣から「アメリカ村」と呼ばれた。仕送りで潤った面影を古いが豪勢な白壁の町並みにとどめる。カナダと二重国籍だという80代に、何人も出会う。

「戦争の時はまだ子どもで、ニューデンバーのキャンプ(収容所)におったな」。八坂町の若林喜芳さん(82)は「デンヴァー」と流ちょうに発音する。「日本は地図で見たら小さい国。戦争には負けるだろうと思っていたよ」

宮崎八重子さん(82)は若林さんとバンクーバーで同級生。「生まれた年はナインティーンサーティースリーだから。昭和でいうと何年かしら」。レシピを書きとめる時にも、salt sugerと手が動く。

日系人を多く輩出する広島県において、特に移民比率が多い集落として知られる。だが、他のアメリカ村のようなアメリカナイズされた特徴はあまりないようだ

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