『アイマス』に批評を。これからも存続してほしいから。

数年前はこんなにハマると思わなかったんですが、『アイドルマスター』(『アイマス』)の一連の作品や現象に僕は命を救われたところがあるので、非常に感謝しているのです。『アイマス』には終わることなくずっと続いて欲しい。ただそのためには、批評が必要なんだと思っています。そして、現状は『アイマス』についての批評はあまり盛り上がっていない感があって、僕は少し危機感を持っています。

(「炎上しそうだなー」と思いながら慎重に書いてたら10,000字を超えてしまいました。長いです。しかしアイマスへの愛情ゆえなので許してください)

 

批評のないコンテンツは続かない

こないだの音楽ジャーナリストの宇野惟正さんと柴那典さんの『ヒットの崩壊』をめぐるトークイベントで、柴さんが中森明夫さんのことばを引用されていました。

”柴 これはたしか中森明夫さんがおっしゃっていたんですが、批評の有無はそのジャンルの未来を左右するんです。批評が存在しないと、その場かぎりの熱狂は生まれても、個対個の消費で終わってしまう。マッピングされない。アーカイブされない。10年後に点と点がつながらないんです。だから、宇野さんのされている「ジャッジ」はまさに批評の仕事だと思います。”

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50856?page=2

「批評のないコンテンツは続かない」ということなんですね。消費されていっていつの間にか消えてしまう。マクルーハンによれば「中身」を意味することばでありながらもそれ自体が「メディア」である「コンテンツ」ということばがそもそも作品と商品の間にあるようなポップな現象にフィットしていない感があります。さらに、それを「消費」するというのも違和感がある。そのことばの意味からすれば「消費」とは「使ってなくす(消す)」ことなので。どんどん二次創作的に曖昧に社会のすきまに浸透する「現象」は「受容する」もしくは「解釈する」と表現するほうが適している気がします。

少し話がそれましたが……批評がない現象は続かないということについて。これは僕も確かにそうだと思います。

こと『アイマス』については、そういう小うるさい批評がないから好き、という人も多いと思います。僕も確かに、『アイマス』のファンである「プロデューサー(P)」のかたたちが『アイマス』という現象に対して非常に肯定的であるところに惹かれた節があります。否定的な受容が(2011年くらいには)少なく思えたこの現象を、僕は知りたいと思ったのでした。

 

新陳代謝がなくなると死ぬ

僕みたいに、もともと映画や文学への興味が強かった人間は「アイマスP」のなかでは門外漢の部類だと思うのですが、そういう僕でも『アイマス』にハマっていって、それが自分でも面白かったんですよね。なんとなくPの人たちと接しているうちに、そういう批評をしようとするタイプってPのなかではあんまり好かれないのかな……と感じるようになりました。でも批評がないと、新陳代謝がない身体一緒で、あるいは流れない川と一緒で、淀んでしまうと思うんです。

 

僕が『島村卯月こそ最初で最後のアイドル』をやろうと思った理由

僕が『島村卯月こそ最初で最後のアイドル』をやろうと思ったのも「『アイマス』には批評がない」という問題意識と、しまむー(島村卯月)になぜここまで自分がハマったのか知りたかったからです。『アイマス』『デレマス』には現象としての新規性があるように感じた。ただ『島村卯月こそ最初で最後のアイドル』は厳密に言うと批評ではありません。『アイマス』を好きでもない人にも興味をもってもらえるように、その魅力や良い・悪いをロジカルに語ることで外部化していかないといけないんです、本当は。それが僕が考える批評ですが、僕がやっていることは好きな作品の深掘りです。ただ、僕がこの連載でやりたかったのは、大塚英志さんの『物語消費論』の現代版。大塚さんのこの本では『ビックリマン』を例に物語の(今で言う)ノンリニアな消費について語られていました。その後2000年代に東浩紀さんの『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』、さやわかさんの『キャラの思考法』により、物語からキャラクターの消費を語る流れができました。僕は、80年代における『ビックリマン』を凌駕するくらい『アイマス』が物語とキャラクターの消費(受容)の新しい形態を生み出していると感じたので、『島村卯月こそ最初で最後のアイドル』を書き始めました。

 

なぜ『アイマス論』がないのか

『アイマス』に批評がないわけではない、ということは理解しています。評論系の同人誌でも『アイマス』は考察の対象にはなっています。あるいは雑誌『ユリイカ』の「アイドルアニメ特集」でも『ラブライブ!』や『アイカツ!』などと比較して分析されてもいました。ただ、そういう2次元アイドルの文脈で比較される際に、現象の発端として『アイマス』が語られることはあっても、『アイマス』単体で本が書かれることってほとんどないように思うのです。あったとしても販促の一環、ムックなどのファンブックが出される程度。これって不思議だと思いませんか? 知り合いのP曰く「『アイマス』はマイナーのなかの超メジャー」ということで、マンガ・アニメ・ゲームに興味がない人は知ることはないかもしれませんが、『アイマス』市場は成長を続けていて、オリコンチャートでは関連楽曲のCDが(ライヴの申し込み権つきもあるとはいえ)売上上位5位に何度も入り、ソーシャルゲーム『アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ』についてはダウンロード数は1500万を超える。数字だけ見れば充分に影響力はありそうですし、実際日本のカルチャー・キャラクタービジネス、物語受容の変化においても歴史的に意味のある現象だと僕は思っています。にもかかわらず、『アイマス』論のような批評がない。

 

「アイマスに興味のない人におすすめしなくていい」は違う

なぜ『アイマス』をめぐる批評が盛り上がらないのか。それは、多くのPたちの、現象(作品)への参加と受容態度の問題。これに尽きると思います。

先日「アイマスに興味のない人にこそおすすめしたいアイマス曲10」というエントリーを書いたところ、Twitter上で「アイマスに興味のない人に別におすすめしなくていいのでは」というつぶやきを見ました。僕はすごく残念な気持ちになりました。僕のタイトルづけが悪かったのかもしれませんし、その人のつぶやきの真意もはっきりとはわかりません。ただ、僕は素晴らしいものは知らない人にも知ってほしい、閉じたコミュニティのなかで「消費」されていくのがもったいない、どんどん新しいファンが広がって「受容」されていくべきだ、と思ったからその記事を書いたのです。

僕は自分の雑多な興味を軸に、遠くにいる人と人をつなげたいと思っています。それこそがmtguireを立ち上げた理由で、存在意義です。だから、まだ『アイマス』に出会えていなくて興味が持てていない人たちと『アイマス』という現象をつなげることで新しい化学反応を生み出したかった。しかし、僕の意図はうまくその人には伝わらなかったようです。あるいは、伝わったとしてもその人にとってはどうでもいいことだった。

 

真の理解者とはNOもはっきり言える、ご新規にも優しい人では?

ただ、こういうムラ社会のような態度だと、水は淀むだけです。腐ってしまいます。作品は受け手がいて初めて生きる。そうやって新しい人の意見を取り入れて、新陳代謝していかないと、立ち行かなくなることは明白です。「周りにYESマンだけを置いている人」がいたとして、その人をみなさんは肯定的に受け止められるでしょうか。僕はそうは思いません。その人のことを真剣に考えて、勇気を出して欠点があるなら直すよう指摘してくれる人が、必要だと思うのです。良いところも悪いところも、全部わかっている、そしてそれを誰かに言語化して伝えられる、そのレベルまでいって初めて理解者と言えるのではないでしょうか。それはつまり批評ができるか・できないかということです。

 

縮小再生産を続ける「765」の物語の行き詰まり

僕は批評家でもないですし、冷静を装いながらかなりロマンチストで感覚的な言動をとりがちなので、正直批評には向いていないと思います。でもそんな僕でも、批評めいたものをしなければならないのではという危機感を『アイマス』に対して現在は抱いています。

その危機感は、僕が『アイマス』に興味を抱くきっかけであった、いわゆる「765プロ」のアイドルたちの作品群に対してです。

2005年、アーケードゲームからスタートした『アイドルマスター』はその後xbox360、ニンテンドーDS、フィーチャーフォン、PS3、スマートフォン、PS4……と色々な端末で遊べるように作品を展開して人気を博していきました。作品中のアイドルを演じる声優たちの人気、彼女たちのライヴパフォーマンスやキャラクター性もゲーム同様に受容され、ニコニコ動画や同人誌等での二次創作によってファンたちによってキャラクターが更新され、それが公式にフィードバックされていく……という受容理論の理想のような作品の拡張がされていきました。これこそが『アイマス』の特徴・特長であり、僕が『物語消費論』のオルタナティヴを書きたいと思った動機につながる側面です。

しかし、こうして書くと一見順調には見えますが、『アイマス』はいま存続するかしないかを迫られている局面にある、と僕は考えています。それは、「765プロ」を舞台とする『アイマス』は、同じストーリーをくり返すことに終始しているからです。据え置き機対象のゲームだけでも『アイドルマスター』『アイドルマスター2』『アイドルマスター ワンフォーオール』『アイドルマスター プラチナスターズ』などがありますが、これらはほとんどパラレルワールドのストーリーです。しかし「アイドル事務所に所属する駆け出しのアイドルがプレイヤーの分身であるプロデューサーと二人三脚でトップアイドルを目指す」という筋書きはこれらの作品ではほぼ変わらない。アイドルをテーマにした作品の宿命かもしれません。しかし、13人のアイドルに対して同じストーリーラインを何度も反復することは正直に言って芸がないと思います。ユーザーが飽きてしまって、次の作品が売れないという事態になりかねない。

これはゲームを開発しているバンダイナムコゲームスの制作チームの問題かもしれません。しかし、『アイマス』がファンによってもつくられるのであれば、僕はそれはファン・受容者による批評が機能していないからではないかと思うのです。

 

大多数のPはストーリーを求めていないわけではないはず

「『アイマス』はストーリーはどうでもいい、楽曲が良くて音楽・リズムゲームとして楽しめればいい」「キャラクターが可愛くて自分が萌えられればいい」という反論もあるかもしれません。それはそれで受容のありかたとしては何も間違ってはいないでしょう。確かに楽曲の良さやキャラクターの可愛らしさはアイドルをテーマにした作品には肝要な部分です。しかし、それは作品に占める部分の1つでしかない。やはり、他の部分に軋みが出てくれば、どんなに精巧に作られたとされるものでも空中分解しかねない。だから、こういった物語の縮小再生産に未来がないことを、公式に伝えるような言説があるべきです。 

僕は大多数のPはストーリーを求めていないわけではないと思っています。それは、いわゆる「9・18事件」のPたちの反応に表れています。

 

「9・18事件」とは何だったのか

「9・18事件」とは、『アイドルマスター2』の作品詳細について東京ゲームショウで発表された内容が、当時のPにとってはショッキングで、開発チームへの不信感を抱くPも生んだものだったというものです。その内容とは、xbox360版『アイドルマスター』までは「プロデュース」できた水瀬伊織、三浦あずさ、双海亜美がプロデュースできない「竜宮小町」というライバルユニットになったこと、男性アイドルである「ジュピター」の登場が決まったことです。秋月律子も、同僚のプロデューサーという立場になり、他のアイドルのような扱いではなくなりました。竜宮小町それぞれのアイドルを新しくプロデュースしたかったPたちの落胆はなかなかのものだったようです。それは僕が同じ立場でも辛いだろうな、と思います。

男性アイドルユニットのジュピターに関して言えば、下世話な言い方をすると「アイドルを寝取られる」感覚があった故の反感のようです。

 

仄めかされる『アイマス』における疑似恋愛

もともと『アイドルマスター』は「プロデューサー」であるプレイヤーとアイドルの一対一の関係性、その結びつきが強くなっていくほど、定量的にはゲーム内時間と現実でゲームに投入する時間が長いほど愛着が湧き、絆が深まったような感覚になる。そして絆が強くなった頃に、トップアイドルに近づいている……現実とゲームのリンクがあるゲーム、という側面がありました。『プリンセスメーカー』のような「育成シミュレーションゲーム」でありながらも『ときめきメモリアル』端を を発するような(18禁も含む)美少女ゲームのストーリーテリングやUI設計を参考にしている部分があるため、プロデューサー(プレイヤー)とアイドルの疑似恋愛要素も『アイマス』にはあります。実際、多くのアイドルはプロデューサーへの好意を隠さず伝えてきます。仕事上のパートナーとしての信頼感だけでなく、恋愛対象としての好意です。手塩にかけた血の繋がらない「娘」との(擬似とはいいつつも、ほとんどゲーム内では本物の)恋愛。これが、『アイマス』にプレイヤーが魅了される理由の1つだと思われます。

これは『島村卯月こそ最初で最後のアイドルである』にも小松左京『藪の花』を引きつつ書きました)。

それゆえに、ジュピターのような男性アイドルの登場は、恋愛対象を奪われるかのような思いを一部のPたちに抱かせることになり、反感を生んだ。もちろん奪われるかどうかなんて、自分に自身があればいいはずですが、ゲーム内に恋敵がいたら、なんとも立ち向かいようがないわけですもんね。それは確かに辛いかもしれない。

 

結局軟着陸した『アイマス2』

結果として、そのPたちの明らかな拒否感を受けてか、それは定かではありませんが……発売された『アイマス2』のなかではジュピターはそれほど女性アイドルたちとは絡むシーンはありませんでした。僕もプレイしましたが、所属する「961プロ」の社長に踊らされているだけで実際は素直な好青年、という印象でした。

一方の問題、竜宮小町となってプロデュースできなくなった伊織たちは、ストーリー上も一瞬だけライバルっぽく立ちはだかるものの、終盤にはあまり目立たない存在になっていました。だから、ライバルとして強く意識する存在にはなっていませんでした。また、「ステージフォーユー!」というゲームの機能の一部やエクストラシナリオでは竜宮小町の3人のエピソードやステージを見ることができます。

そういう意味では、当初の反感の大きさに比べれば軟着陸した、とも言えるのかもしれません。しかし、竜宮小町の3人について言えば、ライバルならしっかりと役割を強めて欲しかった、エクストラでエピソードを見せるぐらいなら、最初からプロデュースさせて欲しかったというPの意見はもっともかもしれません。

 

意外性や驚きのない、予測可能なものにはすぐ飽きてしまう

『アイマス2』以降、『アイマス3』というナンバリングタイトルが出ずに『2』以降のパラレル設定になっているのは、僕はこのときの苦い経験があるのではと開発チームの気持ちを推し量ってしまいます。本当は、彼らはナンバリングタイトルを作るのだから、今までの『アイマス』にない要素を取り入れたいと思ったのではないでしょうか。思い入れのあるアイドルがライバルになる、また今まで登場しなかった男性アイドルの追加……という意外性。しかし、それは一部の『といいながらも反響としては多くの)Pには受け入られなかった。「客のほうを向いていない」ように思われてしまったのかもしれません。

しかし、「客のほうを向いてものを作る」ことが本当に正しいのでしょうか? そうやって作られたものは、自分を一瞬満足はさせるかもしれませんが、意外性や驚きのない、予測可能なものですぐ飽きてしまうものではないでしょうか?

開発チームがファンに対して意外性を持たせようと思ったとしたら、それはファンを喜ばせたい、ひいては利益につなげたいというサービス精神とプロ根性なように思います。それはけして批判されるようなものでもないのではないでしょうか。

 

キャラクターや楽曲の魅力はストーリーが生み出している

ちょっと長くなってしまいましたが、先ほど僕はこう書きました。

“恐らく大多数のPはストーリーを求めていないわけではないと思うのです。それは、いわゆる「9・18事件」のPたちの反応に表れています”

つまり、寝取られる恐れがあるとかないとか、それも含め、Pたちは『アイマス』にストーリーを求めていたのだと思うのです。「キャラ萌え」なら、外見だけ可愛ければいい。良い楽曲だけ聴きたいなら、極端な話キャラクターをCDのジャケットに描くか、PVにキャラクターのアニメーションを入れるかすればいいのではないでしょうか。「アイドルをプロデュースするゲーム」である必要はない。

『アイマス』の魅力とは、つまるところアイドルの魅力だと思うのです。そしてそれは単に外見的に可愛いだけではない。天海春香のようにドジだけど実直でいつも人のことを考えられるアイドル。不器用で気持ちを話すことは不得手だけれど、仕事に向かうことや人づきあいには健気に取り組む如月千早のようなアイドル。他にもいろんなアイドルがいて、僕はそれぞれに魅力があると思います。個人的な感情でいえば、僕は『アイマス』のアイドルはみんな好きです。それは、一人ひとりの良さがあるから。

その良さというのは、キャラクター性を際立たせるエピソードにこそあるのではないでしょうか。つまり、どんなに可愛くて良い歌を歌ったって、ストーリーによってそのアイドルのことを知ることが、プロデュースしていって感情移入できなければ、あまり感動できないのではないかと思うのです。『アイマス』という作品のファンにはならない。つまり、ほとんどのPは、『アイマス』にとってストーリーが重要であることを認めているのではないですか。

だからこそ、プロデューサーとしての自分とアイドルとのストーリーに不安要素が介入することに我慢ならなかった。それが「9・18事件」なのではないですか。

 

「良い・悪い」をきちんと言える人がいることの重要性

長くなりました。だから、『アイマス』にとってストーリーは重要なのです。それ故に、同じようなストーリーラインを反復していくことは、『アイマス』という現象を疲弊させ縮小させることにつながりかねない、僕はそういう危機感を持っているのです。つまらないストーリーに、魅力的なアイドルが存在しうるでしょうか。この問題の原因と解決策、その両方が批評にあると、僕は思うのです。

竜宮小町やジュピターの「事件」のころ、『アイマス』についての批評が機能していれば、もしかしたらパラレルワールドの量産は避けられたかもしれません。

「なんで男キャラを出したらダメなのか」「伊織たちがプロデュースできないことにどんな意味があるのか」冷静な物言いを、当時まだ『アイマス』にハマっていなかった僕には発見できませんでした。だから、『アイマス』に興味を持てなかった。「ジュピターが登場することはアイドルゲームに新しい風を吹き込む」「竜宮小町がプロデュースできないことで、むしろ彼女たちの魅力を外部から発見した」そういう肯定的な批評、意見は僕は目にしたことがありません。 

そういう批評は実際にはあったのかもしれません。が、声が大きな人たちの声でかき消されていた可能性もあります。僕は『アイマス』のファン、Pたちにはそういう消費者、いちファンであることにとどまろうとする人が多い気がします。つまり、発信者からアウトプットされた過去を見ることにとどまっている。過去を受容するのはいいのですが、鋭い意見を言って、それによって未来を作ろうとする人が少ないように思うのです。もちろんみんながみんなそうである必要はないと思います。でも、そういう「良い/悪い」をきちんと言える人がいないのは、良いこととは思えない。

 

批評があれば、ストーリーの行き詰まりはなかったのではないか

“その人のことを真剣に考えて、勇気を出して欠点があるなら直すよう指摘してくれる人が、必要だと思うのです。良いところも悪いところも、全部わかっている、そしてそれを誰かに言語化して伝えられる、そのレベルまでいって初めて理解者と言えるのではないでしょうか。それはつまり批評ができるか・できないかということです”

僕はこう書きました。何度も書いたとおり『アイマス』は、発信者と受容者のフィードバック・ループのなかで、中心にいるアイドルたちがどんどん更新されて生きていく、稀有なホメオスタシスを作っています。でも、それだけに、僕たちが良さ・悪さをきちんと公式に伝えられなければ、うまくそのホメオスタシスは機能しない。そうすれば作品はどんどん縮小再生産されていく、つまりどんどん面白くなくなっていく。

「いまでもファンが作品づくりに貢献できているではないか」という向きもあるかもしれません。しかし、もしそうであれば僕は「765」のストーリーの行き詰まりは起こっていない気がします。

 

『アイマス』を思うなら、ちゃんと言うべきことを言うべき

そうしたときに、本当は新しい視点や違う分野の知見を持つ受容者を引き入れて冷静な意見をもらうべきなのです。そのために、もっと異分野の人にも『アイマス』を知ってもらったほうがいい。

どういう批評をするべきか、それは僕が提案するようなものでもないと思います。僕はキャラクター・物語の受容形態の最前線の現象として『アイマス』をとらえ言語化したい。その過程で「良い・悪い」ははっきり言いたい。でもそれは僕のアプローチです。みなさんそれぞれ言いたいことを言えばいい。

誰もが、自分が本当は何を求めているかを知るべきなのです。言うは易し、行うは難しですけどね。でも自分が考えていることって、案外人に話したり誰かに向けて書いたりしているうちにわかるものだと思います。誰かに『アイマス』の良さを伝えたい、そのためにはどうすればいいか。まずはそのためには対象の良いところも悪いところもわかること。そしてちゃんと相手に伝えること。そして議論が生まれること。「なぜ良いのか」「なぜ悪いのか」それを問えなければ、真の評価がされているとは言えないように思えます。確かに現状の売上では、インパクトのある数字があるかもしれない。でも、ブランドを作るのは常に受容者です。ブランドを押し付けられて受け手は納得はしない。「こうありたい」と決めて何かになれることは少ない。「あなたはこうですよ」と伝えられて、「あ、自分は他の人の目にはこう映っているのか。ここは大事にしてこう。ここはちゃんと直そう」と思えるかどうか。作品も人も一緒だと思います。本心をうまく伝えられるか、それだけなんじゃないでしょうか。

 

門戸を開き、積極的な受容態度で未来を作ろう

開発チームの「新しい『アイマス』を作りたい」という思いが『アイドルマスターシンデレラガールズ』なのか『アイドルマスターsideM』なのかはわかりません。確かに、『アイドルマスターシンデレラガールズ アニメファンブック』には、清水プロデューサーが『デレマス』開発時にこう語った、とされる部分がありました。

“「従来のアイマスとはまったく別のものをつくる。これまで概念を壊してもいい……くらいのものを作ってもいい、というお話でした」(原文ママ)”

据え置き型ゲーム機を中心に展開してきた「765」の『アイマス』は、終わりのあるリニアな物語を持つゆえの感情移入の強さという特長と裏腹に、批評なき受容のなかで物語の縮小再生産に至ってしまった。

ブツ切れのノンリニアな物語が前提の『デレマス』はスマホ、ソーシャルゲームやSNSのようなノンリニアなコミュニケーションスタイルにマッチしたのか、受容者は多くなっているように思います。とはいえ、こちらも終わりがないだけに余計、受容者の細やかな批評がなければいつ縮小するかわかりません。

僕は『アイマス』という現象を愛すればこそ、この現象についての批評がもっと盛り上がることを期待します。常に僕らを驚かせて、感動させてくれる『アイマス』をまだまだ見たい。そして、その作品づくりに真摯な受容者の姿勢で関わりたい。

長くなってしまいましたが、僕はそういう思いでいます。僕よりも愛情が深いPのみなさんは大勢いるでしょう。難しいことを考えず、積極的な受容を広げましょう。新しい人を招き入れ、良いことも悪いことも空気を読みすぎずに言いましょう。そうでなければ、『アイマス』に未来はないと思います。

よろしくお願いします。