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吉野さんは多才な人だった。筑波大学国際関係学類在学中に「ミス日本」に選出された。また、社交(競技)ダンスのプロとしてデビューした。
瞬く間に日本のトッププロとなり、活動の場を英国に移した。英国では「ブラックプールダンスフェスティバル」にも出場し、活躍する。
当時、日本テレビで放映された「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」の「芸能人社交ダンス部」のコーチも務めた「人気者」だった。その後、2002年に現役を引退し、後進の指導に従事する。
前途洋々に見えたその時・・・
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いくつかの病院を経由し、国立がんセンター中央病院で治療を受けることになった。
サルコーマは稀な癌だ。専門医はいない。患者は、どの病院を受診したらいいか分からない。吉野さんも、国立がんセンター(現国立がん研究センター)中央病院の専門医と知り合うまで、苦労したようだ。
彼女は闘病生活の傍ら、サルコーマの治療センターを作ろうと決心した。そして、2008年9月に、自らが代表を務める「日本に『サルコーマセンターを設立する会』」を立ち上げた。
吉野さんの活動は、私も知っていた。ただ、私は、彼女の活動を冷めた目で見ていた。なぜなら、彼女は美しく、あまりにも有名だからだ。周囲が放っておかない。
事実、彼女は、多くの学会やシンポジウムに呼ばれていた。この手のイベントの多くは中味がない。政府に「提言」して終わる場合が多い。
本気で「サルコーマセンター」を立ち上げるなら、中核となる医師と、その応援団が必要だ。私の知る限り、サルコーマに人生をかけようという医師はいない。
なぜなら、サルコーマは稀な癌だからだ。わが国の患者数は約3000人に過ぎない。ちなみに、毎年約100万人が癌を発症し、約40万人が亡くなる。サルコーマの専門医だけでは食べていけない。
この状況は病院経営者にとっても同じだ。サルコーマ専属の医師や看護師を配備し、専用の外来や病室を作れば、大赤字を出してしまう。これがサルコーマの患者が「見捨てられてきた(吉野さん談)」理由だ。
私が、吉野さんと初めてお会いしたのは、2009年3月の国立がんセンター(現国立がん研究センター)中央病院での講演会だった。名刺交換をして、軽く挨拶を交わして別れた。このとき、まさか7年にわたり、一緒に活動するとは予想しなかった。
ずば抜けた行動力の持ち主
彼女とじっくりと話し、ずば抜けた行動力があることが分かった。彼女の相談に乗り、こちらが対応策を提案すると、必ず「是非、お願いします。やらせてください」と返事が返ってきた。そして、「協力してくれそうな人は誰でもいいので紹介してください」と頼まれた。
大学時代に在籍した剣道部の先輩に国松孝次氏(元警察庁長官)がいる。彼は、「覚悟のない連中が何人集まっても、物事は進まない。たった1人でいい。本気でやる人がいれば、ことは半ばなったようなものだ」と繰り返し教えてくれた。
吉野さんは「本気」だった。私は、本気で「サルコーマセンター」を立ち上げようとする医師がいるとは思えなかったが、「吉野さんならやり遂げるかもしれない」と感じた。
私は数人の知人を紹介した。最初は、土屋了介・国立がんセンター中央病院院長(現神奈川県病院機構理事長)だった。
土屋氏は有名なので、改めてご説明する必要もないだろう。私は、2001~2005年に国立がんセンター中央病院に在籍した。それ以来、ご指導頂いている。
土屋氏は、吉野さんと会ったその場で、「サルコーマセンターを作りましょう。すぐに看板を作らせます。スタッフに共通のPHSを持たせて情報共有させましょう」と言った。これが、2009年9月の同院での「サルコーマ専用診療グループの立ち上げ」につながる。
8月2日の吉野さんのお通夜に土屋氏は参列し、弔辞の中で、この時の様子を紹介していた。
土屋氏の提案は、実によく練られている。この方法なら追加コストはかからない。院内での責任が明確化される。病院のホームページにも掲載されるので、患者は誰に相談すればいいか分かる。
医師にとってもやりやすい。院長肝煎りのプロジェクトのため、院内の調整がしやすいからだ。
官僚機構を動かしサルコーマセンター設立
これは、厚労官僚や事務方、医師が怠慢というわけではない。官僚機構とは、そういうものだ。土屋氏は、患者の要望を受けた形で既成事実を作り、官僚機構を動かした。
土屋氏は、当時から「大物院長」として有名だった。彼でなければ、この仕切りはできなかった。
当時、国立がんセンターは「がん難民を大量に生み出している」と批判されていた。患者視点に立った医療を提供し、ひいては病院の競争力をつけたい土屋氏にとって、吉野さんの存在は好都合だった。
土屋氏は2010年4月に国立がんセンターを退官する。当時の民主党政権下で国立がんセンターは独法化される。新理事長には山形大学から嘉山孝正氏が招聘され、組織改革が行われる。当時の民主党政権に嘉山氏を推薦したのは土屋氏だった。
その後、土屋氏はがん研有明病院の顧問(後に理事)に就任する。がん研は2012年7月に「サルコーマセンター」を立ち上げる。このときも吉野さんとの「共同作業」だ。
かくのごとく、「サルコーマセンター」立ち上げは極めて属人的だった。優秀な病院経営者と腹の据わった患者の二人三脚だった。
では、なぜ、吉野さんには、このような動きができたのだろうか。それは、彼女には「胆力」に加え、「知性」と「スキル」があったからだ。
彼女は仲間を作るのが上手かった。誰の懐にも飛び込むことができた。例えば、吉野さんと活動を始めた後の2010年3月18日に毎日新聞医療科学部の河内敏康記者を紹介した。
河内氏は2009年の高額療養費問題、2013年の降圧剤臨床研究不正をスクープした敏腕記者だ。誠実な人柄で、私は信頼している。
河内記者は、吉野さんと面談し、彼女の活動の意義を理解したようだ。2010年4月21日に「医療ナビ:肉腫(サルコーマ)骨や筋肉などにできるがん」という解説記事を書いてくれた。
周囲の人を巻き込む強力な磁力
JBpressを創業した川嶋諭氏も、吉野さんに協力した1人だ。川嶋氏に吉野さんのことを紹介したところ、彼女の活動の意義に賛同してくれた。2012年12月26日に『元ミス日本、ガンとの壮絶すぎる闘い』というインタビュー記事を配信してくれた。
さらに、彼女に寄稿欄を提供してくれた。亡くなるまでに5報の文章を寄稿し、吉野さんの主たる発信の舞台となった。
吉野さんに引き込まれていったのは、河内記者や川嶋編集長だけでない。何を隠そう、私も、その1人だ。
吉野さんとの共同作業は進み、2012年8月には、当時在籍していた東大医科研の私どもの研究室の一員として、松井彰彦・東大経済学研究科教授が主導する「社会的障害の経済理論・実証研究」に参加することとなった。4月に研究室が独立した際にも、ついてきてくれた。亡くなるまで、私どもの研究室の一員であった。
松井教授は、私が最も尊敬する教授の1人だ。彼も最期まで吉野さんを応援してくれた。この文章を書いたのは、通夜の席で、松井教授に勧められたことがきっかけだ。
かくのごとく、吉野さんは強力な「磁力」で周囲を巻き込んで行く。
彼女の「営業力」は、一朝一夕でついたものではない。競技ダンスのプロとして、スポンサー獲得に苦労したり、引退後はレッスンプロとして、生徒の指導に当たった経験が大きい。どうすれば、周囲に喜んで貰えるかを常に考えていた。
これは、医師や役人に、最も欠ける能力だ。どうしても「診てやっている」や「認めてやっている」のような「上から目線」で見る傾向があり、どれだけ立派なことを言っても、その主張は社会に訴求しにくい。彼女との共同作業を通じ、我々は多くのことを学んだ。
当然だろうが、彼女の発信力は絶大だった。ミス日本、競技ダンスプロ、「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」の「芸能人社交ダンス部」出演などを通じ、メディアに多くの知己がいた。
自分のかかる病院もあえて批判
例えば、2012年8月17日にがん研有明病院が「サルコーマセンター」を開設した際には、門田守人院長、松本誠一副院長と共に、彼女も記者会見に出席した。知人のマスコミ関係者に声がけし、彼らが記事やニュースにしやすいコメントを提供した。
彼女は、医者に対してお追従を言っていただけではない。時に苦言を呈することもあった。そして、それを社会に発信した。4月19日にJBpressで配信された記事では、抗がん剤の副作用で心不全になった際の、国立がん研究センター中央病院のシステムを批判した。
自分がかかっている病院を批判するのは勇気がいる。特に末期癌で、最期まで診てもらおうと思っている病院を公で批判した人は、私は、彼女以外に知らない。
ただ、国立がん研究センターのような官僚組織は、外部からの指摘があって初めて動く。吉野さんは、このことを知っていた。そして発言した。
国立がん研究センター中央病院のスタッフも立派だった。公で批判され、院内は大変だったろう。ただ、この批判を真摯に受け止め、最期まで吉野さんにベストの治療を提供した。医師と患者の間に、いい意味での緊張関係があったと思う。
吉野さんにとって「サルコーマセンター」は我が子のような存在だった。折に触れ、社会に情報提供した。
日経テレコンという新聞記事のデータベースがあるが、「吉野ゆりえ」と「サルコーマ」で検索すると45件の記事がヒットする。「国立がんセンター」と「サルコーマ」の記事が49件だ。ほとんどが吉野さん関連の記事だ。
「サルコーマセンター」設立は吉野さんなしではできなかった偉業だ。心から敬意を表したい。
自らのスキルを高め続けた生涯
神奈川県大磯町に星槎大学という通信制の大学がある。売りは共生科学部だ。
そのホームページには「分野を超えた横断性を重視し、科目ごとに分断された知識を与えるのではなく、共生の観点からそれぞれの科目の横断性を意識し、より豊かな社会の創造に貢献」することを目標に掲げている。その設立の主旨は、吉野さんの価値観と一致する。
吉野さんは、2013年4月に星槎大学修士課程に入学し、細田満和子教授の指導を受けた。そして、彼女のライフワークの1つであるブラインド・ダンスについての過去の活動をまとめ上げ、今年3月修士号を取得した。
私は、吉野さんが、闘病生活の合間をぬって、研究室で論文執筆に勤しむ姿を見てきた。彼女は、自分の予後を悟っていた。自らの生きた証を記録として残す作業に全力を注いでいたと思う。
彼女の学位論文は、かまくら春秋社が発行する『かまくら春秋』での彼女の連載も加えて、同社から『三六〇〇日の奇跡「がん」と闘う舞姫』として出版された。吉野さんの亡くなる前日に、刷り上がったばかりの本が彼女に届けられた。彼女の遺作となった。
人は夢を持ち、努力し続ける限り成長する。そして、当事者が本気で動けば、やがて仲間ができる。そして社会は変わる。まさに吉野さんの人生だ。ご冥福を祈りたい。
筆者:上 昌広
最終更新:8月8日(月)12時45分
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