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【政界徒然草】明治~平成の元号秘話 くじ引きで決まった元号 東京日日新聞の大誤報「光文事件」とは

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【政界徒然草】
明治~平成の元号秘話 くじ引きで決まった元号 東京日日新聞の大誤報「光文事件」とは

新元号「平成」を発表する小渕恵三官房長官=首相官邸、昭和64年01月07日 新元号「平成」を発表する小渕恵三官房長官=首相官邸、昭和64年01月07日

 明治期に伊藤博文らによって「皇室典範」などが制定されると、天皇の「終身在位」や天皇の在位期間に応じて元号を変える「一元一世」が確立し、改元手続きも法的に整備された。これらの元号関連の法規定が初めて適用されたのが「大正」だった。

 明治45(1912)年、明治天皇が病気で昏睡状態となったことを受け、新元号作りが進められた。学者らが考案した数多くの候補から「大正」「天興」「興化」の3案に絞り込まれると、最終的に天皇の諮問機関である枢密院が「大正」を選択。大正天皇の勅定(ちょくじょう)によって同年7月30日に改元された。

 大正から昭和への改元では、世紀の大誤報で世を騒がせた「光文事件」が起きる。

 大正15(1926)年12月25日未明、大正天皇の崩御直後に毎日新聞の前身である東京日日新聞は、他紙に先駆けて「新元号は光文」と号外で報じた。

 大正天皇は病弱だったため、大正10年から皇太子の裕仁親王(昭和天皇)が摂政についていた。大正天皇は葉山御用邸(神奈川県葉山町)で療養していたが病状は好転せず、次第に天皇の動向をめぐって新聞各紙の取材合戦が過熱。中でも新元号は誰もが狙っていた特ダネだった。

 そんな中で新元号報道がされたため、事実であれば大スクープだった。だが、政府が発表した新元号は「昭和」。スクープが一転、歴史に名を残す大誤報となってしまったのだ。

 この誤報をめぐっては、新元号が政府の公式発表より前に報道されたため、「光文」が急遽、「昭和」に差し替えられたという説もあれば、単なる誤報だという説もある。

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