人身事故の多いことで有名な東京・新小岩駅にホームドアが設置されるそうです。
僕は以前近くに住んでいたので、事故が起こる度に遅延のニュースを耳にしていました。
事故ではなく自殺ですね。
やっとかという感じですが、今まで設置しなかったのはなぜでしょう。
と言っても「お金」以外の理由はないでしょう。
人がこれからも飛び込むだろうけど、お金がかかるからやらないと言っていたのです。
企業は人の命もコスト計算することがあるそうです。
大学生の頃友人が授業で習ったと教えてくれたのですが、欠陥のある工業製品で事故が起き人が死んだとします。
その設計を正すよりも慰謝料を払う方がコストが低い場合はそのまま販売し続けるという考えがあるとのことでした。
僕はその話を聞いても納得できずにずっと心に残っていました。
なので、ホームドアを設置しない鉄道会社にもそのような考えがあったのだろうかと疑ってしまうのです。
もし飛び込んだとしても遺族に損害請求をすればその処理分は取り返せるのでしょう。
ホームドアを設置するとなると自分のお金ですからね。
そうやってコスト計算をした上で今まで設置していなかったのではないでしょうか。
でもそれは短期的な企業のコストであって社会的コストという視点が欠けているようにも感じられます。
別の問題としてホームドアを設置したら解決するのだろうか?という疑問もあります。
これは僕には全く見当もつきません。
駅で死ななくても別の場所で死ぬだけかもしれません。
ですがその場の機会を封じることでその後も生き続けるかもしれません。
心身共に追い詰められている人は、決定的に「死にたい」とは考えておらず単に「楽になりたい」とふと思い飛び込んでしまうことがあるのだとか。
線路に吸い込まれるような感覚なのだそうです。
なのでその一瞬を抑えればなんとか生きていくという可能性もあります。
でも苦しんだまま生きるとなるとどこかで歪みが生じてしまうでしょう。
だからその苦しみを取り除くような社会も一緒に目指さなくてはいけないと思います。
それにはまず、人身事故が起きると「迷惑にならないところで死んで欲しい」と言ってしまう考えを改めることから始めるべきかもしれません。