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バレンタインデー、徒然書きます 
2017/02/14 Tue. 06:50
ソローが『森の生活』の冒頭部分でこんなことを言っている。
つまり、一人称で書くぞ、自分のことを書くぞ、文句あるか、と宣言しているわけである。
一人称で書くということは、私のこと、私に起こったこと、私が思ったこと、私の好き嫌い、私の感情、そういうことを書くということである。
大学の研究室にいると、基本的に「一人称」というのは認められない。僕個人がこうしたとか、僕個人がこう思ったとか、そういう個別的なことは、だからどうしたと言われて終わりである。事実ならば再現性が、思考ならば論理性が、要求される。「私は・・・と思う」という文章は書けないのである。
僕も大学院にいた頃は、自然と頭がそういうふうに改造されていって、一人称はいけないことだと思っていたし、自分が何かの拍子で「これが好き」と言った瞬間、「自分がそれを好きかどうかなんて相手にとってはどうでもいいよな」と思って恥ずかしくなった。
たまに書籍を読んだりすると、その一人称の多さに憤慨したものである。たとえば「私は・・・が反吐が出るほど大嫌いである!」と書かれているのを読んだだけで、その著者からは「甘え」のようなものを感じ取った。だって、その著者が好きか嫌いかなんて知ったこっちゃないから。好きか嫌いかというのは、生活するうえで、家族的な距離にある人間と行動を理屈抜きで一致させて一緒に生きてゆくためのものであって、逆に筆者と読者のような遠い距離にある人間間で使うようなものではないはずである。
事実として、一般書籍というのは、好悪感情とか、共感とか、筆者の熱量とか、目的や価値観や方向性の一致とか、そういうもので成り立っている部分がある。一言でいえば、大なり小なり「心の繋がり」に頼っているのである。
一方、論文というのは、基本的に著者と読者の心は切れている。というか、切れていなければならない。心が切れていても伝わることしか真実ではないとされている。査読(論文が学術雑誌に載るかどうかの審査)は原則ブラインド、つまりそれを誰が書いたかわからない状態で為される。もちろん、書き手の熱意がどんなに伝わってきても、あるいは書き手の生き方にどんなに賛同したとしても、そういう共感は点数にはならない。
どうしてこんなことを突然書いているのか。最近永井均の一連の著作を読んでいて、永井は「私」つまり「一人称」について論じていて「たくさんの意識がある中でこの一つだけがなぜか自分のもので、これって不思議だよね」と言うのだが、まあこれが不思議かどうかは意見が分かれるとして、「不思議だよね」と他人に同意を求めた時点で、「自分にとっても不思議」「他人にとっても不思議」ということで自分と他人の間で一人称の等質性を前提としているので、その「私」の異質性ないしは唯一性の不思議さが崩れてしまうという、そんな議論を繰り返している。それで、考えてみると全学問領域の中で「私」を扱うことが許されているのは哲学だけだと、そんなことを思ったのである。私が。
さて本日はバレンタインデー。「僕はこういう食べ物が好きなんだよね」「私はこんな暮らしが好きだわ」そういう会話が始まったら、互いの好き嫌いを了解して一緒に生きてゆく準備が始まっているということである。「バナナが嫌い」と言っている彼女に「なぜバナナが嫌いなのか」と問い詰めてはならない。理屈抜きで「バナナが嫌い」という前提のもとに行動しなければならない。家族的な距離というのは、一人称を使っていい距離なのだから。
物を書くのは、畢竟、一人称である。
つまり、一人称で書くぞ、自分のことを書くぞ、文句あるか、と宣言しているわけである。
一人称で書くということは、私のこと、私に起こったこと、私が思ったこと、私の好き嫌い、私の感情、そういうことを書くということである。
大学の研究室にいると、基本的に「一人称」というのは認められない。僕個人がこうしたとか、僕個人がこう思ったとか、そういう個別的なことは、だからどうしたと言われて終わりである。事実ならば再現性が、思考ならば論理性が、要求される。「私は・・・と思う」という文章は書けないのである。
僕も大学院にいた頃は、自然と頭がそういうふうに改造されていって、一人称はいけないことだと思っていたし、自分が何かの拍子で「これが好き」と言った瞬間、「自分がそれを好きかどうかなんて相手にとってはどうでもいいよな」と思って恥ずかしくなった。
たまに書籍を読んだりすると、その一人称の多さに憤慨したものである。たとえば「私は・・・が反吐が出るほど大嫌いである!」と書かれているのを読んだだけで、その著者からは「甘え」のようなものを感じ取った。だって、その著者が好きか嫌いかなんて知ったこっちゃないから。好きか嫌いかというのは、生活するうえで、家族的な距離にある人間と行動を理屈抜きで一致させて一緒に生きてゆくためのものであって、逆に筆者と読者のような遠い距離にある人間間で使うようなものではないはずである。
事実として、一般書籍というのは、好悪感情とか、共感とか、筆者の熱量とか、目的や価値観や方向性の一致とか、そういうもので成り立っている部分がある。一言でいえば、大なり小なり「心の繋がり」に頼っているのである。
一方、論文というのは、基本的に著者と読者の心は切れている。というか、切れていなければならない。心が切れていても伝わることしか真実ではないとされている。査読(論文が学術雑誌に載るかどうかの審査)は原則ブラインド、つまりそれを誰が書いたかわからない状態で為される。もちろん、書き手の熱意がどんなに伝わってきても、あるいは書き手の生き方にどんなに賛同したとしても、そういう共感は点数にはならない。
どうしてこんなことを突然書いているのか。最近永井均の一連の著作を読んでいて、永井は「私」つまり「一人称」について論じていて「たくさんの意識がある中でこの一つだけがなぜか自分のもので、これって不思議だよね」と言うのだが、まあこれが不思議かどうかは意見が分かれるとして、「不思議だよね」と他人に同意を求めた時点で、「自分にとっても不思議」「他人にとっても不思議」ということで自分と他人の間で一人称の等質性を前提としているので、その「私」の異質性ないしは唯一性の不思議さが崩れてしまうという、そんな議論を繰り返している。それで、考えてみると全学問領域の中で「私」を扱うことが許されているのは哲学だけだと、そんなことを思ったのである。私が。
さて本日はバレンタインデー。「僕はこういう食べ物が好きなんだよね」「私はこんな暮らしが好きだわ」そういう会話が始まったら、互いの好き嫌いを了解して一緒に生きてゆく準備が始まっているということである。「バナナが嫌い」と言っている彼女に「なぜバナナが嫌いなのか」と問い詰めてはならない。理屈抜きで「バナナが嫌い」という前提のもとに行動しなければならない。家族的な距離というのは、一人称を使っていい距離なのだから。
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