ワークショップってなんだろ
ワークショップという言葉は、語義としてはそもそも「作業場」とか「工房」というような意味しかないにもかかわらず、 その意味でこの単語を用いる人は日本にはほとんどいないだろう。
(かつて、留学生の子が「ワークショップ」という言葉の意味がわからず辞書を引いて納得していて、その時には当然、語義として「作業場」「工房」と書かれていて、あわててゼミ内で「ワークショップ」という言葉の意味について散々議論するはめになった。いい思い出である。)
とかとか
などを見ればわかる通り、日本語で作業場とか工房とか言わずカタカナで「ワークショップ」という時は、そこに集まった人と共通の題材を設定して何か作業的なことをする、というような事柄を指している。
まずは、あまり厳密ではないけれど、思い当たる「ワークショップ」と呼ばれるものの特徴をいくつか挙げてみよう。
- 複数人でやる。一人ではやらない。後述の「成果物」は一人でも作れるものであったりするけれど、その場合はワークショップとは呼ばれない。
- リーダー、ファシリテーター、指導係、などと呼ばれる、題材と作業を提案する(または、提案した)特定の人がいる。この人物は、作業の専門家ではあるが、題材の専門家ではないことがある。(たとえば〈A市の町づくり〉というワークショップが設定されたとして、この人物は町づくりの専門家ではあるがA市の専門家であるとは限らない)
- 作業をする。いわゆる講義のように参加者が講師の話を一方的に聞くのではなく、参加者は題材に対してなんらかの働きかけをする。(アイデアを出したり、書いたり、描いたり、作ったり、歌ったり踊ったり動いたりする)
- なんらかの成果が出る。ワークショップをやる前にはなかったもの(アイデア集、企画書、作品と呼びうるもの)が明示的に確認できる。
- 場所や時間が限定的である。人は集まるが、その場所は閉鎖的であり、参加資格は制限されていないことが多いが、公共的なものではない。時間も、複数回設定されたり日をまたいだりすることはあるが、この時間からこの時間まで、という設定がされていて、永続性は前提されない。
こんなもん、かな?
ワークショップにおける〈成果〉と〈意義〉
ワークショップは、その作業の種類が、演劇、音楽、美術、ダンス、ディスカッション、町づくりなど、本当に多岐にわたっている。現在では成果物と期待する意義や効果に齟齬があることも少なくない。
この、「成果物と意義に齟齬がある」というのは、それでも、比較的最近のことであるような気がする。少なくとも80年代位まで(「ワークショップ」が上記のような意味合いを持ちだしたのは、もう少し前である。戦後直後1940年台後半には、協働作業的な学びの場の設定としてすでに「ワークショップ」という語が使われている)は、ワークショップの場で生成される成果物が、たとえ専門的な視点から見て唯一無二であったり最先端であったりはしなくても、そこに参与した人々にとって有益(単純に面白かったり、日々の暮らしに直接的に還元されたり、学習内容が整理された形で提示されたり)なものになることが目指されていた。しかし、子どもや素人の創造性が徐々に着目されるようになり、そのような人々のための「ワークショップ」が増えていくにつれて、特に子どもに対してそのような場が設定されるようになると、そこには成果物以外に子どもたちにとってなんらかの「教育的意義」があるのではないか、という議論がされるようになった。
80年代の後半、いくつかの地域の美術館は、地域の人々の美術活動との接点で、子どもや素人の作品の美術的価値を発見していった。アウトサイダー・アートといったところだろうか、これは今では障害のある人の美術、ととらえられることもあるが、アウトサイダー・アートとは、すなわちアート界のアウトサイダーつまり専門教育を受けていない人のアート、という意味である。子どもの原始性に芸術的価値を見出したそのような美術館は、この頃、子どもに対して美術制作の機会を提供し、それも、美術教育としてではなく、子どもの原始性をより魅力的な形で引き出すことのできるような試み、を目指していたのではないか。そのため、そもそも美術畑の人間では決してない、たとえば如月小春のような演劇の専門家が小学生とともに仮面劇を作る、という試みが80年台後半に世田谷美術館でなされている。
演劇が地域の人々、つまり、専門の俳優ではない人々に対して、演劇の社会的応用、つまり、非専門家を巻き込むことによる社会変革を目指すものとしてワークショップの場を設定・提供するようになったのも、日本では80年代のことで、ブレヒトの教育劇やアウグスト・ボアールの南米での作業に比べても決して遅くない。
この頃、「ワークショップ」の場が求めていたのは、あくまでもそこでの成果物だったのではないだろうか。上述の世田谷美術館は、それでも、「子どもたちに忘れられない夏休みを」という依頼の仕方を如月にしたようである。しかし、これは子ども相手のワークショップを渋る如月に対するある種の方便である。証拠に、この時書かれた世田谷美術館の紀要には、当時の世田谷美術館の学芸員によるこの試みの意図が書かれており、そこには子どもの原始的な芸術性に対する期待が書かれている。もちろん「忘れられない夏休み」を過ごせるような遊戯性が、子どもの原始的な芸術性に直結すると考えられているのではあるが。
〈意義〉を明示できることのほうが大事?
しかし、(これはあくまでも予想だが)バブルの崩壊とともにこのような直接利益を生まない芸術活動について、もしこれを継続しようとするのであれば、そこにどのような意義があるのかを、主催者側は明示しなければならなくなった。ここでの意義とは、成果のよくわからない「芸術性」や「地域の文化」ではなく、「子どもの発達、成長」という教育的意義に結びつけられる必要があった。「教育的意義」は、学習指導要領や中教審の答申などに、はっきりとした教育目標を見つけることができ、美術や演劇のワークショップの持っている「雑駁さ」は、言ってみれば、その雑駁さ故に、どのような教育目標にでもある程度対応することができた。今で言えば、演劇は協働作業なのでコミュニケーション能力が高まります、というように。
このような、〈事前に設定可能な教育目標〉と、それを達成するための方法・手段としての〈ワークショップ〉は、ワークショップという形式が持っていた少なくともその場に居合わせた人々にとっては特異な成果物の価値を貶めたように思う。つまり、みんなでやってみれば、想定していなかった成果が出せるかもしれない、という期待でもって始められた「ワークショップ」は、いつのまにか事前に設定可能な目標を達成するための方法になってしまい、やがてワークショップという営みそれ自体の評価が、その目標が達成されたかどうかでしかなされなくなっているのではないか、ということである。
ワークショップは、安全でも適切でもない。……ことがある。
このような態度の問題点は、このワークショップの形式が持っている「協働作業ゆえのコントロール不能さ」を隠蔽しているのではないか、という点にある。この隠蔽の手段は、それまでの1対多数の講義形式がもっていた権力の隠蔽の手段とも結びつき、より悪質に、巧妙になる。本来ならば、ワークショップという形式は、この「協働作業ゆえのコントロール不能さ」に創造性を見出し、現状を打開するエネルギーを期待していたはずである。しかし、それが「事前に設定可能な(教育)目標」と結びつくとき、指導者は、事前に設定した題材や手段が、参加者に対して適切に機能し、目標に向かっているかどうかに注力することになる。それでも、実際には、協働作業ゆえのコントロール不能さは払拭しきれないので、そこでは往々にして、誰も事前に想定していなかった何か、が発生しうるのであるが、その場の評価軸として「事前に設定した目標」が重ねあわせられる時、そこで発生した「誰も事前に想定していなかった何か」は無視される。この「誰も事前に想定していなかった何か」は、参加者の題材に対する個別の働きかけによって生成されるのであるが、これが無視されるということは、参加者の題材に対する個別の働きかけを無化するということである。ワークショップという場を設定するということは、参加者に対して個別の働きかけを要求することと同義であるにもかかわらず、その働きかけによって生成された成果を指導者の立場で無化するということは、参加者に対する抑圧以外の何物でもない。
「ワークショップ」という言葉を使うにせよ、そうでないにせよ、このような抑圧的な態度を取らないためには、また、指導者の、往々にして無意識的な、抑圧的態度を暴くためには、そこに関わるひとり一人が、その場に参与したことそのもの、そしてその場で生成されたものについて、考え、その都度価値づける必要がある。ワークショップは、時と場所を設定し、題材を設定し、共に作業する。限定された場所に限定的な時間を設定して複数人があつまり、作業する、ということが、これまで多くの、さまざまな社会的脅威を呼んできたことわたしたちは忘れてはならない。ただ、それまでに経験したことのない体験(触ったことのない楽器に触れた、とか、みんなで音を出せた、とか、かっこいい振付を教えてもらった、とか)が出来た、というだけで終わってしまう程度のものなら、それは実は、ワークショップである必要はない。大抵の場合、他にもっといい、安全な方法がある。
そのような、ワークショップであったことによる価値、を評価するためには、「協働作業ゆえのコントロール不能さ」がどのように機能したのかを冷静に判断する必要がある。そのために必要なのは、指導者が用意した題材と手段がいかなるものなのかを明確にすること、そして、その場に対する参加者ひとり一人の持っている事前の期待や前提がいかなるものなのかを尊重すること、そのような個別の前提と、用意された題材・手段が、集団の中でどのように関係付けられ、機能したのかを、暫定的なものであるにせよ、意味付ける必要がある。しかしそれをしてしまうと、「事前に設定した目標」との乖離もまた明確になる。それでもワークショップをやるのか。なぜワークショップでなければならないのか。それをあいまいにしたままで、ワークショップなんてやってはならない。
……やばい、書きすぎた。具体例がないと、ちょっとね。話があいまいになるね。
ちょっと、あとで直すかもしれないけど。いいやとりあえずこのままで。