田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)
アニメ『この世界の片隅に』は、間違いなく昨年公開された映画の中で傑出した作品のひとつであった。すでに同作品については、アニメそして原作の双方について鋭利な論評が公表されている。
マンガ批評家の紙屋高雪による論説「『この世界の片隅に』は「反戦マンガ」か」(『ユリイカ』2016年11月号)は、こうの史代の原作を反戦マンガの系譜に位置づけ、「空襲で失われるものは何か」を物質・精神的な面で描き、その喪失と再生を物語ったとする。また評論家の藤津亮太は「アニメ史の中の『この世界の片隅に』」(同)で、広島、呉双方の歴史的背景や風景の詳細な描写が本作だけの孤立したものではなく、日本アニメの積み重ねの中で実現したこと、そしてこのドキュメント的な描写ゆえに、観客が現実(リアル)と物語(虚構)とを自在に行き来する想像力を可能にしていると指摘している。両評論をよむことで、『この世界の片隅に』が日本の文化史の“片隅”で、きちんと居場所を見出した、それゆえに魅力的な作品だということが理解できるだろう。
日本のマンガとアニメの歴史を文化的遺産として継承し、その蓄積が重層的に背景にあることで、アニメ『この世界の片隅に』が強靱な作品世界を構築し、また多くの観客を魅了したことは、重要な点だ。この作品の舞台は、戦前から終戦直後までの広島と呉である。
広島は原爆で壊滅し、また軍事施設が集中していた呉は猛烈な戦略爆撃機の空襲で同じく壊滅的打撃をうけた。この双方の戦災の街で暮らしているひとりの少女すずが、本作の主人公である。この主人公の主観から当時の人々の生活、交流が描かれているが、大きな特徴がある。それはすずの周辺世界(環境世界)と、すずの主観とが切り離すことが難しいほど一体化していることである。
アニメでも原作でも当時の街並みや暮らしぶりが非常にリアルに描かれているが、それが精緻であればあるほど、すずの主観的世界と不可分に結びつき、現実と空想が境目なく混じりあう。例えば、昭和20年3月の呉空襲のはじまりは、すずの視点からは、見晴らしのいい高台からみた絵具をぶちまけたような色彩鮮やかなパノラマとして描写されている。丘の向こうから一斉に展開していく米軍の戦闘機群は、まるでどんどん空中に広がる花火のように華やかだ。それは平和な時代に、すずが広島の海を描いたときに、その波頭をうさぎの群れとして想像したことと同じである。
この現実と空想の錯綜、主観と環境世界の混在は、すずの生命力の根源でもあり、また宿命の由来でもある。幼い頃に、広島市内で体験した「ひとさらい」のエピソードはその典型である。「ひとさらい」の籠の中で出会った少年との脱走劇は、まさにどこまでが現実で空想なのかわからない。だがのちにこの少年が成人してから、すずを妻として求め迎えることがひとつの宿命かのように描かれている。
現実の「ひとさらい」は、それこそこの少女と少年の生活そのものを根こそぎ奪うものだったろう。だが、この「ひとさらい」の鬼(?)は、恐怖と同時にやはりどこか別な世界への出口を示しているかのようだ。