羅山の若い頃には、まだ宋学(儒学の一派)を講ずる者はいませんでした。
羅山は18歳のときに、この朱氏の宋学を読んで感動し、仲間を集めてその注釈を講じはじめました。
このことを知った清原博士という人が、徳川家康に、
「最近、林羅山という者が、
京の町で新たな儒学(宋学)を説いているという。
昔から勅許がなければ、
新書を講じてはいけないしきたりである。
いわんや、市井の者が儒学の新説を講ずるなど
生意気で、おこがましい」
と評しました。
家康はこの言をしりぞけ、むしろ、
「それをやり遂げようとしている羅山という若者こそ
見どころのある男だ」
と、それからいくばくもなくして、羅山を城に招き、講義をさせました。
家康は羅山を顧問にし、後に羅山は幕府官学の開祖と呼ばれるようになります。
羅山23歳のときのことです。
ちなみにこの後、林羅山は、方広寺鐘銘事件で、京都南禅寺の禅僧文英清韓の書いた「国家安康、君臣豊楽」が徳川家を呪詛するものとして、秀頼を叩く口実を見出し、また、徳川幕府の土台作りに深く関わるとともに、江戸の上野不忍池に忍岡聖堂という学問所を開設し、この学問所が後に神田の昌平坂に移されて、江戸の昌平坂学問所となりました。
いまも、そこには湯島聖堂が遺されています。
さて、寛永年間のとき、井伊侯が羅山に問うたことがあります。
「人は漢の高祖の時代の猛将・樊噲(はんかい)の勇気を称えます。
けれど勇気なら私も負けていません。」
羅山は次のように答えました。
「樊噲(はんかい)が称えられているのは、
戦に強かったとか、武勇に優れていたからではありません。
相手が高祖であっても、堂々と諫言を行ったからです。
これは実に大勇者でなければできないことです。
その身を矢や投石にさらし、
敵をしりぞけ、首を斬り、
旗下の急を脱することも、もちろん勇ですが、
それは鎧武者を連ねて指揮を執る者ならば、
誰もが行うことです。
それだけでは、君はその将の言うことを聞きません。
外に向けての攻撃ではなく、
自らの内側から省(かえり)みる心がなければ、
人は、その者の言うことは聞かないものです。」
これを聞いた井伊侯は、
「まことにその通りです。
私はまだまだ樊噲(はんかい)に遠く及びません」
羅山の思想は、儒学の中の宋学(朱子学)を本としながら、日本古来の神道とこれを結びつけた点にあるといわれています。
たとえば「三種の神器」を儒学の「智・仁・勇」の「三徳の象徴」として理解したりするなど、儒学と神道を関連付けることで、日本的価値観のもとに、儒学を学ぶというものです。
もっといえば、死んだ後に極楽浄土に行くことを願うのではなく、いま生きているこの世の中を、王道楽土にしていくことこそが必要であり、そのために、礼節があり、法があり、敬神があるとしたところに特徴があります。
渡来物をただありがたがっていてもダメだということです。
日本には日本の歴史伝統文化があり、その中で消化して受け入れ、学ぶのでなければ意味がないといことです。
では、何のために学ぶのかといえば、羅山は、人は天理を受けて生まれてくるのだから、もともとの本性は、善だというのです。
ところが世の中の情欲、つまりそれは金銭欲だとか、名誉欲だとか、性欲だとか、それ自体は、決して悪いものではないけれど、そこに押し流されれば、欲望の虜になり、悪徳となる。
だから、学問によって、真理を学び、極め、修養によってそれらの欲を取り去る。
それが学ぶことの意義である、というのです。
都で、23歳の若造の羅山が新しい学派を立てて教えているのは生意気だと、羅山を排斥しようとした人がいました。
その言いぐさが、
「新しい学派を建てるには勅許が必要だ」と。
そんなことがいつ決まったのでしょうか。
それこそちゃんちゃらおかしいというべきものです。
そもそも何のために学ぶのかといえば、真理を極めて欲望の虜から開放される修養を積むためです。
言い換えれば、それは自らの御魂がこの世に生まれ出てきた本義に立ち返ることです。
それぞれが、そうして真理を極めようと真剣に努力していくことが大事なのです。
その内容も見ずに、生意気だと決めつけるほうが、生意気なのです。
その意味で、羅山は極めて現実主義です。
その現実主義であることが、二度と戦国の世に戻らないために、強力な幕藩体制を築こうとした家康の信念と一致し、羅山は家康・秀忠・家光・家綱と四代の将軍に仕え、明暦3(1657 )年、75歳でこの世を去りました。
ちなみに林羅山の名前が「羅山」であることから、羅山の学問は、秀吉の朝鮮出兵の際に我が国に流入した朝鮮朱子学であり、羅山の号も朝鮮の『延平問答』に由来するなどと、アホな解説をしている者がいます。
「羅」という漢字は、鳥を捕える網を意味します。
要するに、山で鳥を捕えるのです。
姓も林です。
林にしても、森にしても、山で鳥を捕まえるのは、至難の技です。
けれどあえて、その困難に挑戦していこうとする、それが、林羅山という名前に込められた意味です。
ちょうせんはちょうせんでも、朝鮮ではなく、挑戦のための名前なのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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当時、学問を行うのは事実上(仏教)僧侶だけだったので、既存の宗派と異なる教えを論ずるならば、新たな宗派を作ろうとしていると見做されるのは致し方のないところではないでしょうか? そして新たに立宗するには勅許が必要だと考える人もいたのでしょう。
蘇我氏や聖徳太子の代に仏教が入ってきたとされますが、奈良時代にはさらに篤く仏教が保護されました。仏僧は課役や税が免除されたため、勝手に僧を名乗る私度僧が増加しています。
それもあって朝廷は大陸から高僧・鑑真和上を呼び、東大寺などに戒壇を築いて授戒を行なうようにしました。戒壇の建立には勅許が必要とされ、私度僧は律令にある戸婚律や僧尼令で禁止されることになります。
平安時代になると延暦寺に勅許が降て大乗戒壇が建立されると、奈良時代の南都系戒壇は勢力を失っていきますが、それでも鎌倉時代初期に奈良・興福寺は新しく興った専修念仏に対して勅許も得ずに新宗を立てていると非難し、その禁止を朝廷に上奏しています。
鎌倉仏教はある意味で勝手に成立して独自の得度・授戒を行うようになりますし、浄土真宗は無戒ですから受戒もありませんが、僧階の昇補や高僧への賜号、紫衣着用などについては依然として勅許や綸旨が必要とされました。
羅山以降、時代が下ると儒学が儒学として認識され、蘭学が登場し、それらに影響されて国学が成立するころには学問と仏教は別物と認識されますが、江戸時代最初期にはまだ同一視されていたのではないかと思います。
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